コンテンツへスキップ →

N.Mu Event Context 投稿

【告知】「忘年にあらがう2024 -おれたちの年間生活報告会-」を開催します

年末なのでいかにも年末っぽい会合を開催します。

今年も年の瀬に突入し、これから社会的・文化的な出来事に関する一年の統括を試みるコンテンツが各種メディアから続々と発表されることでしょう。その一方でわたしたちひとりひとりの生活にも一年のうちにさまざまな出来事があり、そこには統括しうる何らかがあるはずです。
しかし、個人が経験した散り散りの出来事がまとめられるような機会はあまりなく、他人と話し合う場はおそらくもっとありません。それゆえ散り散りの出来事は連関を見出されることもなくただ個別の事象としてとどまるのがふつうのことだとおもいます。というよりも個別の事象を強引にまとめあげようとする行為はむしろ不自然なことかもしれませんが、その不自然が創りだす奇妙な一貫性や関連性には、無視してしまうにはもったいないおもしろさもあるのではないでしょうか。
そこで「2024年」という単位をきっかけに個人的な関心に基づいた個人的な体験を語り、聴き、話し合う場を設けてみる次第です。というと仰々しいですが、なんかいい感じにお話ができればとおもいます。いい感じにお話ししたい方々はぜひご参加ください。

──と記してみたはいいものも、内容がなんだかよくわからないのでAIにわかりやすくしてもらいました。
以下をご参照のうえ、ぜひご参加いただけると幸いです。


開催概要

「忘年会」の賑わいの陰で、1年をただ流してしまうのではなく、自分自身の「記憶」をしっかりと振り返り、語り合う場をつくりたい。そんな思いからこのイベントを開催します。
参加者一人ひとりが2024年の出来事や考えたことを振り返り、それぞれの「アーカイブ」を共有します。他の誰でもない「自分自身」を振り返る時間を通じて、思考を深め、互いにその豊かさを知る時間を過ごしましょう。

このイベントでは、流行の話題やその場しのぎの話題ではなく、話し手が自身の1年をじっくりと語り、聴き手がそれに耳を傾ける空間を大切にします。これまでにどんな出来事があり、どんな考えを持ったのか。語ることで、聴くことで、2024年の最後に少し特別な体験を共有してみませんか。

イベント詳細

  • 日時: 2024年12月28日(土)16:30~19:30(入室開始:16:15)
    ※延長の可能性もあるかも。
  • 場所: 府中市内レンタルスペース(京王線府中駅から徒歩10分以内)
    ※詳細は申込者に後日お知らせします。
  • 参加費: 500円+カンパ歓迎(スペース代ほかに充てさせていただきます。)
  • 定員: 8名

参加方法

事前申し込み制です。以下のGoogleフォームからお申し込みください:
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScHx5gk0geWzoVu22_NS4DitfWTJzIPNbMO3fkjF63vFA_8Kw/viewform?usp=sf_link

※主催者(武藤)に直接DM等していただいても結構です。その場合は申込フォーム記載の同意事項に同意いただいたものとして対応いたします。

発表方法

  • 所要時間の目安はひとりあたり30分を想定しています。希望があれば延ばします。
  • 一方的に発表するのではなく、随時聴き手がコメントを挟んだり質問を入れたりしながら進めるので30分のネタをつくりこむ必要はありません。
  • 発表形式は自由です(スライド、写真、レジュメなどのご用意を推奨しますが口頭のみでも可です。気楽にご参加を。)
  • 投影が必要な場合、HDMI対応のモニターを利用可能です。PCの持ち込みも可能ですが、事前にデータを送付いただければ主催者のPCでの対応も可能です。
  • 主催者のPCから投影したい資料や画像がある場合は、事前にデータのご提出をお願いします。

発表内容例

  • 月ごとの出来事を振り返りながら紹介
    1年間の生活を順を追って振り返り、トピックを整理。
  • ランキング形式での振り返り
    印象深い出来事をベスト3やトップ10で発表。
  • 写真を使った旅行記や思い出の共有
    旅行先での出来事や写真をもとに、その背景やエピソードを語る。
  • 今年の労働事情と苦労話
    職場や仕事で直面した課題、困難を振り返り、経験を共有。
  • 今年挑戦してみたこと
    新たに試みたことや挑戦した分野、そこで得た成長や気づきを語る。
  • 創作や成果物の紹介
    制作・創作した作品や新たに取り組んだプロジェクトを披露。
  • SNSでの投稿をセルフ解説
    自分が今年SNSに投稿した内容を取り上げ、その背景や意図を語る。
  • 印象に残った対話や出来事
    忘れられない会話や面白い人物との出会い、そこで起きた出来事を語る。
  • 今年楽しんだものや熱中したものの紹介
    感情に豊かさを与えてくれたアイテム、習慣、本や映画などを語る。
  • 今年考え続けたテーマやアイデア
    1年を通じて自分の中で温めてきた思考やテーマを深掘り。
  • 今年を象徴するキーワードや1枚の写真
    自分にとって2024年を象徴する言葉や画像を選び、それに基づいて語る。
  • 「何もなかった」という1年を考察
    何も起こらなかった理由や、それが意味するものを掘り下げて発表。
  • 自由形式の提案
    ご自身の関心に基づいた内容であれば、独自の形式・内容で発表していただいて構いません。
  • 簡単な自己紹介
    発表の冒頭で、自己紹介をお願いします。

イベントの趣旨

この報告会では、以下のような価値を提供することを目指しています:

  • 自分自身の一年を振り返る機会
  • まとまった時間を使って、深い思考を引き出す場
  • 他者の人生や考えにじっくり耳を傾け、理解を深める時間

フォーマルな形式の中にも、カジュアルで温かい語り合いの雰囲気を大切にします。

参加者一人ひとりが語る「2024年のアーカイブ」は、この場にしかない特別な体験となります。
ぜひあなたの1年の物語を共有しに来てください!

コメントする

日記241007

 きのう朝から映画を観に行ったが上映開始直後から強い眠気に襲われて、動きの多い映像でもなかったからなおさら眠く、けっきょく半分以上の時間を眠ってしまったような気がする。ぐっすり眠ったはずだが映画終了後もすっきりせず、電車移動の時間でまたすこし寝て、おなかがすいてラーメンを食べるなどはさんでみては、帰宅してからもずっと横になっていた。
 どうしてからだを横にするとこうも心身がらくになるのか。課金制でもよいから気軽に横になれるスポットが街のあちらこちらにあるだけで、日々の疲労感も外出前の億劫さも軽減できるはずであろうにお昼寝で一儲けしようという企業家はどうもいないらしい。べつに横になることで公序良俗を乱すということもあるまい。どうにか公共の場でごろごろできる街づくりが進まないものか。
 それはさておきどうも頭はおもいしからだもだるいとおもっていたが、今朝起床したときもやはりだるい。ルーティンの二度寝をしても特に変わらず、通勤電車ではいつものように本を読む気すらおきず立ちながら新宿まで目をつむる。頭がしゃっきりしないまま勤務を開始して、ときおり眠気に屈しながらも業務をこなし、休憩時間は沼にしずんでいくみたいな昼寝をしては、どうにか退勤したあとの帰りの電車でまた沼にしずむ。なんとなく風邪の初期症状めいた気配も漂っている。なんにせよ寝不足はよくない。養命酒を飲んでさっさと寝る。

コメントする

日記241003

 平日の疲労が尋常でない。朝から晩まで労働への従事を強いられているのだからつかれるのもとうぜんなのであろうが、労働だとか労働に時間を割かれることによる睡眠不足とかを疑う以前にまともな食事をとれていないことのほうが影響が大きいのではという気もしてくる。
 平日の食事はほとんどルーチン化している。朝はベースブレッドをひとつとサプリメントをいくつか、昼はベースブレッドをひとつ、夜はコンビニでグミとラーメンとかうどんとかの主食の類いを買って食べ、寝るまえにサプリメントをいくつか摂取する。ベースブレッドは約250kcal、グミはものにもよるがひと袋100~300kcal、ラーメンとかうどんとかは500~800kcal、その他なにかつまんだとして200kcalくらい多めに見積もって、合計1800kcal。農林水産省は成人男性は1日2200kcalていどの摂取を推奨しており、いざ計算してみると推奨値比で少ないにしては少ないが、とりたててさわぐほど少ないわけでもなさそうではある。そもそもひとより痩身なのだから推奨値よりも少ないくらいがおそらくはちょうどよく、なんなら妥当という見方もできそうなくらいである。
 摂取カロリーに圧倒的な不足がみられるはずだとの思惑がびみょうに外れて途方に暮れかけているのだが、ではどうしてこんなに慢性的に日々ぐったりするというのだろう。ふと総務から健康診断を早く受けろと催促の通知がきていたことがおもいだされる。診断せずとも不健康であることは自明なのであり、仮に健康と診断されようものならそれはそれで困るというか、これが健康と呼ばれるのなら健康であるという状態にはいっさいの有益性はないと断言したくもなる。あるいは不健康であったとしてもひとは不健康者に対して健康を強制してくるのであり、不健康でありながらも生活を送るための技術を提供するでもなければ支援をするでもない。所詮管理する側の連中はひとを労働力としか見なしていないのであり、個別の労働資源に標準を逸されては管理統制の効率悪化を招きかねずこまるのであって、雇われの身であるわたしは不健康である自由をつねにおびやかされている。ひとを不健康に陥れる環境に囲っていながら健康であれとはなにごとかという話である。
 いくら御託をならべてもからだのだるさはなんら解消されない。だるいときにはぐっすりねむるのがもっともなのだと決まっている。養命酒を飲んでさっさと寝る。

コメントする

日記241002

 愛の言葉は書かれた瞬間に書き手の手を離れ、言葉自体の運命に委ねられる。受け取られることなくだれのこころにも響かずに消え去ることもあれば、予期せぬだれかのもとに流れ着き、おもいもよらない仕方でだれかの胸を打つこともある。その愛の言葉が宛てられた受け手に届いたとしても、書き手が意図したままの感情を伝えられることは稀だろう。しかしだからといってラブレターが無力だというわけでもない。
 おそらく多くの場合にはラブレターは愛を伝えることを目的として書かれるが、その言葉が意図どおりに受け手に届くとはかぎらない。むしろラブレターの言葉は書き手と受け手のあいだに横たわる不確実性と誤解の可能性を孕んだ曖昧な場をつくりだす。その場において愛は固定された概念としてではなく、読み手の解釈と心の状態によって、あるときは強烈な感情として、またあるときはささやかな響きとして立ちあらわれる。たとえおなじ言葉を使っていたとしても、愛がその文字列のなかに潜んでいるかどうかは読み手の状態に左右される。
 愛が発見される瞬間は意図的に生み出せるものではない。むしろそれは、偶然に、あるいは予期せぬタイミングで、受け手のもとに不意に訪れるものだ。たとえば、書かれてから何年も経ちある出来事をきっかけに突然その手紙を読み返すとき、過去には何の響きももたらさなかった言葉が現在の読み手に強く訴えかけることがある。このとき愛は書かれた瞬間に生成されたのではなく再読という行為を通して新たに発見され現前する。ラブレターが愛を伝えるかどうかはけっしてその手紙が書かれた当初の意図や状況には依存しない。愛はつねに読み手に対して開かれた可能性としてそこにあり、その姿を変えながら現れ、あるいは消えていく。

 愛の伝達の不可能性。言葉は書き手の感情そのものを他者にそのまま届けることはできず、伝達を試みる瞬間にその不可能性を露呈してしまう。だからといって愛の言葉が無意味だと結論づけることもできない。伝達の不可能性を認識したうえで書かれたラブレターであるからこそ、読み手がそこに愛を発見したとき偶然にもたらされた奇跡のような体験として記憶にのこることだろう。書き手が意図した愛がそのまま伝わったのではなく、むしろ言葉が不確かに響き、時には誤解されるその過程を経たからこそ、その言葉が最終的に愛として受けとられる瞬間が訪れる。
 ラブレターの言葉は書かれた瞬間に書き手の手を離れ独自の運命を歩みだす。愛は伝えられるものでも理解されるものでもなく、受け手によってその言葉の向こうに発見される。書かれた言葉を手がかりとして、受け手がそれを感じとり、自らの心の中に愛を創り出すプロセス――それこそが愛の発見の瞬間なのだろう。ラブレターは愛の発見を生み出す媒介物にすぎず、ラブレターが持つ本当の力とは、不確実さゆえに受け手が偶然にもそこに愛を見出す可能性を秘めているところにある。言葉が受け手の心をどのように揺さぶりどのような感情を生じさせるかは、書き手の手を離れた瞬間からすべて受け手の内なる心の風景に委ねられることになる。伝えられないからこそ愛は書かれる。伝わらないからこそラブレターは書きつづけられる。愛はその行為のなかでだれかに発見されるのを待っている。

ラブレターについて語らう茶話会を開催します

日時:2024年10月19日(土)15時30分から18時00分まで
場所:府中市内貸し会議室(京王線府中駅から徒歩1分)
参加費:500円
定員:8名
お申し込み:Googleフォーム

1件のコメント

日記241001

 原則的に言語活動は複製によって営まれる。日本語話者が発する言葉はたいがい五十音に文節可能であり、それら一音一音が連なって構成する各ユニットはたいがい広辞苑に載っている。知らない単語が混じった分は少なくとも字面だけでは基本的に理解が困難なのであり、会話はたがいが理解できる言葉――たがいが知っている言葉――によって営まれる必要がある。あくまで原則的には。
 「あなたを愛してる」とわたしは発言することができ、あるいは紙面に書くことができる。キーボードやタッチパネルを介してディスプレイに表示させることも可能である。しかし愛するあなたに「あなたを愛してる」と声または文字で伝えたとしても、それはかならずしもあなたに愛を伝えることに結実しない。あなたを愛してる――現にいまわたしがあなたの目に触れるようにそう記述したところで、あなたがそこに私からの愛を感じないように。
 言葉は複製される。わたしはかつてだれかが「あなたを愛してる」と発言することで愛を伝えたであろうことを頼りに、かつてのだれかの愛の表現を模倣するかたちで「あなたを愛してる」と言うことができる。同様に、わたしはわたしが愛しているひとに対して行う愛の表現を模倣するかたちで、愛していないひとに向けて「あなたを愛してる」と発言することができる。あるいはわたしでないだれかはわたしが愛するひとに向けて「あなたを愛してる」と発言することができる。そして言うまでもなく、わたしでないだれかはわたしが愛していないひとに向けて「あなたを愛してる」と日々世界のどこかしらで伝えていることであろう。
 たったひとりのわたしからたったひとりのあなたに向けて発されたはずの「あなたを愛してる」というフレーズは無限に複製されつづけ、無限に複製されつづけている「あなたを愛してる」というフレーズのおかげでわたしにはあなたに愛を伝える可能性を与えられているはずなのだが、それゆえにわたしはわたしにとってただひとつしかないはずの愛をあなたに伝えられずにいる。

ラブレターについて語らう茶話会を開催します

日時:2024年10月19日(土)15時30分から18時00分まで
場所:府中市内貸し会議室(京王線府中駅から徒歩1分)
参加費:500円
定員:8名
お申し込み:Googleフォーム

1件のコメント

日記240930

 ここ2ヶ月くらいで近所にまいばすけっとが新設され、長らく改装工事中だったマクドナルドはついに再オープンした。両者に今日はじめて訪れた。リニューアルしたマクドナルドは店舗は縮小されてドライブスルーを主に据えたような印象だった。テイクアウトで利用したため店舗の内側をじっくり観察したわけではないが、以前は客席も広く高校生や家族連れがよく居座っており、かくいうわたしも仕事帰りやたまの休日に本を読んだりPCを持ち込んで原稿を書いたりして長居したものだったが、そうした過ごしかたへの許容は縮小しているようだった。まいばすけっとはビールが安かった。助かる。
 9月は出身地である秋田県を二度訪れた。秋田駅の改札を出ると秋田犬の大きなオブジェクトが待ちかまえていて、これも何度か目にしていまや見慣れた光景ではあるが、じぶんが秋田に住んでいるころにはなかったはずだ。生まれてから20年ほど過ごした土地ではあるが、幼いころからひきこもり気質でまともに外出した経験も少なく、馴染みのエリアや通い慣れた店もない。時間の経過で記憶もあいまいになっており、もとからこうであったような気がしてこなくもない。

 かねてから帰省なんてしたところでその地ですることもなければさして会うひともなく交通費だけがやけにかかって無駄なだけではないかとかんがえており、現に去年仙台出張のついでに立ち寄るまでは5年ほど訪れる機会はなかったのだが、なぜここへきてひと月に二度も訪れるようになっているかといえば、ひとえにわたし自身に近年芽生えた舞踏への関心ゆえである。かの著名な舞踏家である土方巽は秋田県秋田市出身であり、土方の舞踏と東北性はたびたび関連づけられながら論じられてもいる。この土方を被写体に秋田県羽後町田代を主な舞台に写真家の細江英行が撮影した写真集『鎌鼬』に関連する展示を行う鎌鼬美術館が田代にあり、一度は訪ねてみたいとおもっていたところ、調べてみるとこの9月の毎週末に土方巽(および土方と同じく秋田出身の舞踏家である石井漠)の名を冠した舞踏のイベントが鎌鼬美術館も含めた秋田県の各地で行われるという。舞踏という表現を知ろうとする以上は論文や写真や映像だけ眺めていても仕方がなく、現役の舞踏家の公演もみられるというのであればいい機会になるだろうとおもい、短期間に二度も帰省(にみせかけた観光)を行うに至る。
 一昨日に行った羽後町は秋田市からそれなりに離れていて、田代は峠のうえにあり、さくっといける土地ではなく、むろんこれまでも訪れたことはない。二週間まえに秋田に訪れた際は三種町で行われたイベントに参加したが、こちらは田代ほど遠くはないがやはり意識的に訪れた経験はないようにおもう。生まれ育った土地を離れてからそう短くない時間が経過して知らない文化にふれる経験を重ねるなかで関心の対象が変わらなければこれからも訪れることはなかったであろうこれらの地域はわたしが生まれ育った土地とおなじ名称をあたえられていて、知っている街の知らない光景に出会ったようなおもいをした。そこでは秋田の名のもとで何十年も暮らしているひとびとがいて、わたしがそのひとたちと出会い声を交わすには一度外様の人間になる必要があったということにみょうな感慨すらおぼえてしまう。
 あるていどは知っているはずの秋田市内でも、わたしが上京したころにできたという古書店で常連客のひとらと本や小説の話をしたり、10年くらいツイッターでつながっていた秋田市在住のフォロワーとはじめて顔を合わせておたがいの好きな音楽の話をしたり、そのフォロワーと古書店で知り合ったスナックのオーナーのお店に行ってまた音楽の話をしたり、あるいは別の日には、あきた文学資料館なる施設で名誉館長から文学や政治の話を聴いたり、こうした小説や音楽といった文化芸術をきっかけにおこなわれるひとびととの交流に十代のころはただあこがれるだけであったが、いまそれがしぜんとできる状況になっていることにすなおにおどろいた。
 他方でかつて交流があっていまだに付き合いのあるひとはごくごく少数に限られてきている。 えてしてひとはいろんなひとと出会っては、それが最後だとおもわぬうちに多くの人との最後の出会いを終わらせているのであり、そのことじたいにさして感傷もないのだが、わたしが知っている街に知らない光景をみたり知らないひとと出会ったりしているように、わたしがかつて知っていたひとたちもここにいながらにして知らない街を暮らし知らないひとと過ごしているのだとおもうと、どこかすがすがしさを感じたりもする。

コメントする

【告知】「ラブレターについて語らう茶話会」を開催します

参加申込みはこちらから

2024年10月19日に「ラブレターについて語らう茶話会」を開催します。なぜラブレター?と思うかもしれません。わたしはおもいます。わたし自身のラブレターに対する関心が高まっているからこうした場を準備しているのですが、どうしてラブレターに惹かれているのかわかっていません。しかしわかっていないからこそいろんなひとを交えてお話しする機会をつくりたいとおもった次第です。
愛を書こうとすること、愛を書いて伝えようとすること、書かれた愛を受け取ること、書かれた愛を受け取ってしまうこと、あるいは他人に宛てられた愛を誤って受け取ってしまうこと……テキストに重きがおかれた二者関係においてどのようなコミュニケーションが生成されるのか。もしくはそのような二者関係がいまどのような状況におかれているのか。そんなぼんやりとしたあれやこれやを念頭におきつつ「ラブレター」から連想したことを話し合いながら、ほがらかとお茶をすする会になればよいなとおもいます。

趣旨:
いろんなひとで集まって「ラブレター」をテーマ・きっかけに雑談をする場です。ラブレターにまつわる体験、ラブレターについて考えていること、「ラブレター」から連想すること、「ラブレター」を扱った文化作品等々、言葉をつないであちらこちらに話題を展開させながらラブレターについての思索・見解を深めましょう!

日時:
2024年10月19日(土)
15時30分から18時00分まで(入室開始は15時00分から)

場所:
府中市内貸し会議室
(京王線府中駅から徒歩1分 ※申込者にのみ詳細をお伝えいたします。)

参加費:
500円
(スペース代に充てさせていただきます。)

定員:
8名
(どうにか4〜6名くらい集まってほしい!あなたのご参加をお待ちしてます!)

お申し込み:
Googleフォームからご登録ください。

当日タイムスケジュール(予定):
15:30 アイスブレイク(なんかしら用意します)
15:45 イントロダクション(急にラブレターについて話そうぜとってもむずかしそうなので導入の仕組みをなんかしら用意します)
15:55 ディスカッション開始(みんなでいい感じに話します)
18:00 ディスカッション終了→お片づけ
18:30 完全撤収
19:00 懇親会(参加は任意。適当な居酒屋に流れ込みます)

その他:

  • 会場は飲食可なのでお茶とかお茶菓子とか用意します。持ち込み歓迎。ただしアルコールは厳禁です。
  • お申し込みに際していただいた個人情報は本会の実施に際してのみ利用いたします。
  • メールアドレスや本名の申請に抵抗がある方はSNSのDM等から参加希望をお知らせください。
  • 本会で発された言動は、今後「ラブレター研究会(仮)」の活動において何らかの参考にされる可能性があります。
  • 茶話会終了後に近くの居酒屋で懇親会をやりたいのでお時間ある方はなにとぞ。

主催:
ラブレター研究会(仮) 担当:武藤
※お問い合わせは以下のいずれかからお願いします。
mail: azuki7.08あっとgmail.com
twitter
instagram

【追記:なんとなくブレスト】
日記241001
日記241002
宣伝ツイート

最新の投稿

2 Comments

日記240806

枯れたからだはなにを書けるか。欲もない。訴えもない。声すらもたない。しかしながら記述したとたんに立ち現れるこの目線に感じる不気味な距離。これはいったいだれだ。まいにち会うしらないひと。どこかを見ている。振り払う。まだ見ている。異物が血管を伝う。死んでいる空間だけをここに。

コメントする

日記240804

スーパーに向かう途中、ロイヤルホストの駐車場でカラスが死んでいるのを見かけた。野菜をたくさん買う。ゴーヤとズッキーニとオクラ。切った野菜と醤油と料理酒とおろしにんにくをビニール袋に入れて10分くらい置く。汁気をしぼってから片栗粉をまぶしてごま油で揚げる。食べていると油の感じが気になって、途中から衣をはがして食べた。のこった油は新聞紙に吸わせてすてる。

コメントする

からだの輪郭──孤独な散歩者の行く末

どうしようと思ったときには心はいつもどうしようもなく
足りないということはかつて満ち足りていたものがあったという証左にほかならないのだが
いつも不在だけがその人の輪郭をかたどるように
いま私が手にしているものなど何もない

映画『おとぎ話みたい』(山戸結希監督)から筆者による書き起こし

 かつて本をつくりました。『孤独な散歩者たちの夢想』と名づけました。本のつくりかたなんてわからなかったのでツイッターを介して協力を募りました。なんとなく見知ったひとやネット上でのみ存在を把握しているほぼ見知らぬひとなどがあつまり、ろくに本など読まずに20代そこそこまで過ごしてきた人間のひょんな思いつきによる制作物にしてはなかなかおもしろいのではと思えるものができあがりました。むろん、その成果はわたしの力によるものではなく、制作に協力してくれたデザイナーや参加してくれた寄稿者の方々のおかげであることは言うまでもありません。

 この『孤独な散歩者たちの夢想』という本のあとがきでわたしはつぎのように書きました。

 瞬間的でしかありえない私が有する偶然を足がかりに、何度となく私(たち)を部分的に死へと置き去りにする。切断された形跡が何重にも交差する地平で、同時に映写された複数のイメージに足を踏み入れる、多重化した主体を形成していく。そうした営みを成熟させていく場所を、技術を、策略を、方法論を、まだ持ちえていない段階において、まず取り組むべきだったこととして本誌を位置づけたい。
 本という物体によって顕在化した理念性。外在化した私。世界に現れたこの新たな結節点に働きかけ(られ)ながら、わたしたちはネットワークをさらに拡充していくことができるはず。根拠なきわずかな希望を頼りに、制作の過程に生じたいくつもの連関を、制作物が引き継ぐ連関の広がりを、いつまでもどこまでも願いつづけてみようと思う。そして、脈々と拡張するその過程に、重厚な厚みを維持したままのわたしを埋め込む手立てを、しばしの間、もがきながら探ってみることにしよう。

むぅむぅ「あとがき」(『孤独な散歩者たちの夢想』)

 恥を忍びながらに威勢よくじたばたしてみたところまではよかったけれど、宣言したとおりにその後ももがきつづけているかと問われるならば苦笑いを浮かべるのがせいいっぱい。いや正直に述べれば、この3年近くはなんとなくの生活に馴化して、波風が立たないように身のまわりだけは平凡に均しながら日々をひっそりやりすごしてきたように思います。
 それもひとつの生き方でしょう。けれど、本棚に目をやると時折くだんの本が目について、ついつい手にとり卒業アルバムをめくるみたいな気分で読みふけってしまうのです。するとそこには上記のような威勢のよい死体が転がっているものですから、死の積みかさねを放棄したみずからの生がみっともなさをともなってぐわんと立ちあらわれてきては、均したはずの生活にまた波を立てられてしまうようなそわそわ感が全身を走りまわります。
 そわそわをふりはらうかのように、このときのわたしはどこに向かって何を意気込んでいたのだろうと考えてみたりもします。
 たとえばそんなに意気込んでいたのならまた本をつくろうとすることだってできたはずです。じっさい『孤独な散歩者たちの夢想』はわたしが企画した2作目の本で、本のつくりかたなんてわからないと泣きごとをいえる季節はもう過ぎた。けれどさてつぎはどんな本をつくろうかとはならなかった。むしろ当時のわたしは、たとえこれをこのままつづけたとしてもみずからの満足には到達できないだろうとすら考えていたはずです。

 みょうにカッコをつけて無意味に観念的に書かれたあとがきですが、上記の引用文はひとことでいえば、あるていどまとまった量の文章を読み書きすることはおしゃべりをすることとは異なる性質のコミュニケーションとなるはずだ、と要約が可能です。そしてそのあるていどまとまった量の文章の交換によるコミュニケーションは世界から消えかかっている、少なくともじぶんのまわりにはない、このままではわたしがおもしろくないではないか!と主張したかったわけです。この主張があとがきという場面で記されていることは、こうしたわたしの欲望は当時の制作過程では満たされることがなく、また刊行後も満たされることはないだろうと予感していた点をあきらかにしています。
 冒頭で記した制作経緯のとおり、この本の制作はほとんど見知らぬひとたちが突発的にあつまって行われた営みです。しかも文を読み書きする行為は基本的にはひとりで行うものですから、各自の作業は各自の範囲でのみ行われ、本としてまとめられるある段階でのみ集合し、本がそれぞれの手元に渡ったその瞬間に集団は解散され各自は散り散りになっていく。いっときのお祭りをたのしみたいだけだったらそれでも満足していたことでしょう。平凡なまいにちのちょっとした刺激として、ストレスフルな労働環境からの逃避先としてこの遊びをとらえるのであればじゅうぶんに効果を発揮していたことでしょう。ただ、お祭りを立ち上げていっときの盛りあがりを生んだとしても、携わったひとたちの生活それじたいが変わることはありません。元来はお祭りも町内で準備をする営みが日々の労働とはべつの層をなして生活に食い込んでいたのかもしれませんが、いまとなっては非日常に身をさらしては手軽に興奮や快楽を得るための装置としての側面ばかりを強調するのがものの例えとしての「お祭り的」というものです。

 おしゃべりをすることとあるていどまとまった量の文章を読み書きすることとではコミュニケーションの性質が異なるはずだと直観したおおきな理由は、時間性のちがいという単純なものによります。一方でおしゃべりはその場で成されてその場で消える、他方で読み書きは行為に時間がかかるし書いたものものこりつづける。ではお祭りはどうでしょう。地元のひとたちにとって地元のお祭りは毎年つづくものであり1年にいちどの本番に向けた準備の営みは持続的ですが、お祭りを求めて外からやってくるお客さんはそのお祭りをその場かぎりのたのしみとして消費してはまたもとの日常にもどっていきます。むろん、外からやってくるお客さんがいなければお祭りはつづきませんが、わたしが複数名との本づくりを通じて試みたかったのはみょうちくりんだけど持続的なお祭り運営であって、労働とはべつのかたちで生活に横たわる制作の営みだったのでした。

 結論として、孤独な散歩者たちはその孤独な道中でさほど交差をしなかった、といえるでしょう。それゆえ孤独であるのだから、書名の時点で答えは出ていたわけですが。

 わたしはみずからの本の制作における意図と実態の乖離の原因のひとつとして自身の文字への過大評価という点を考えています。音声中心主義への抵抗としてエクリチュールの思想を掲げるのもけっこうですが、文字に偏ろうとするがあまり文字と音声の共犯関係を無視してしまってはただの逆張りにしかなりません。つまりほとんどSNSから生じた原動力だけで行われた制作の営みとその成果物にはひとのからだが欠如していたのではないか。ここに大きな反省があるのです。
 そこでわたしは今年2023年に入ってから「文字は文字である以前にまず声であり、声はからだから発されるものである」ということを意識し、文字とからだを密着させられないかと試行錯誤するようになりました。また、2022年の夏ごろから体調がしゃっきりしない日が続いてどうにもならず2022年末に職を辞したということもあり、文字をつかって停滞したからだを再駆動させられないかということも思案していました。
 いまだに続けているこの試行錯誤のなかで特に時間を割いているのが詩の朗読やラップの練習です。エドガー・A・ポーやパウル・ツェラン、萩原朔太郎や田村隆一など本棚にあった著名な詩人の詩集をてきとうに手にとって同じ詩を連日音読しました。また不可思議/wonderboyというラッパーが好きだったのでそのひとのラップをまいにち真似しました。さいしょは言い淀みのあった音読が、繰り返し繰り返し読み上げるなかで声の力点の置きどころがわかるようになり、言葉に口がついていけるようになり、2週間もすればすっかり暗記してしまいページを見ずとも一編の詩を朗読できるようになる。書かれた文字を読み上げるだけの行為から、ピアノを弾けるようになったり100メートル走のベストタイムをとつじょ大幅に更新したりといった例にみられる意識してもできなかった行為が無意識にできるようになっていく過程と近しいものを感じました。ピアノは高価だし置く場所もない、置けたとて近所迷惑になるから鳴らせない、じゃあ走る練習でもしようかと外へ出ても全力ダッシュが許される場所といったらみぢかには市営の陸上競技場くらいしかない。こうした環境の制約がわたしのからだをちぢませる。わたしのからだを硬直させる。わたしのからだに限界をあたえる。だけど文字はそこらじゅうに散らばっていて、わたしは文字を手繰ってからだに働きかけることができる。ちぢまったからだをまた押し拡げることができる。詩の朗読やラップの練習を経てその実感をつよくしたいま、文字はひとを自由にするのでは、とそんなことすら思えてきます。

 他人が書いたテキストをわたしの声が再生する。はじめのころは発声行為に異和を覚える。それでも再生を繰り返すうちにわたしのからだがテキストになじんでいき、いつのまにかテキストの輪郭にわたしのからだはおさまってしまう。言葉がまず声であり声がからだから発されるものであるとするならば、それが文字であろうと声であろうと誰かと言葉を交わすことはからだを交わすことでもあり、じゅうぶんな肉体接触のあとではからだの変化は避けられない。
 たとえばわたしはさきの本に載せた「孤独な散歩者たちの夢想 序説」という文章でつぎのように書いています。

あなたはあなたの境界を見失い、いくつもの文字列に取り込まれ、あなたでない誰かと一時的な同化を果たしたのちに、あなたへ回帰する。

むぅむぅ「孤独な散歩者たちの夢想 序説」

 ひとはみずからのからだを単位として他者との境界をつくる。けれどわたしたちのからだは周囲から独立した自由なものとしてあるのではなく環境からの働きかけに押し出されるように言動や振る舞いを選択する。であるからこそワンルームのアパートではピアノを弾くなんてことはできない。同様にひととひとのコミュニケーションは周囲の環境をも含めたわたしたちの働きかけあいのなかで生じる。それ以前の積み上げを抱えるわたしとまた異なる積み上げを抱えるあなたが互いを押し合いへし合いすることで抱えている積み上げの構成が組みかえられる。あなたとの同期以前と以後とではわたしの姿がわずかなりとも変わってしまう。それが言葉を交わすということである。
 この意味で、ひとは未完の草稿のようなものだと思います。他のテキストを参照しながら書かれたあるテキストは、何名ものひとに読まれ、それぞれ異なる解釈をされ、そのさまざまな解釈は新たに紙面に書き込まれる。新たな書き込みによってすでに書かれていたテキストの文脈は変わり、意味合いは変わり、書き直すことになる。その過程で参照テキストは増える。書きなおしを経たテキストはまた誰かに読まれる。この終わらない書きなおしの過程がひとが関わるということであり、ひとが生きるということなのではないか。

 さて、10月28日に行う予定の集会「からだの輪郭を引きなおす──生きること、模倣すること」では上記したような制作行為(ひいてはコミュニケーション)のありようについて検討していく予定です。また検討のための素材として、今年から取り組みはじめた詩の朗読やラップの練習を中心にわたし自身の経歴を題材としてみていきます。
 第一部ではおおげさな自己紹介という導入を経て、足場となりそうな理論の模索として東浩紀『訂正可能性の哲学』を出発点にウィトゲンシュタインやハンナ・アーレントが提唱した概念を確認します。また表現の分野からアントナン・アルトーを参照して手がかりをさぐります。
 第二部ではわたしの関心から山戸結希、吉増剛造、円城塔といったジャンルもバラバラの作家を取り上げて各作家や作品の性質を実例として挙げながら制作の方法論になりえそうな要素を抽出します。
 さいごにこの数ヶ月にわたる詩の朗読やラップの練習を経た実感をお話しします。
 これらのプレゼンのまえにはプレパフォーマンスとしてじっさいにラップの上演を行う予定です。

 基本的にはわたしがいつか誰かに話したかったけど話す機会もなければ誰も興味をもたなそうだしそもそもじぶんのなかでの詰めもあまいからとずっと胸のうちで抱えていたことをわたしが思うがままに話す場となります。上記した固有名詞もたんに好みから選ばれているだけでまったく脈略がなく、なんの歴史も背負っていません。もしかすると全編通しておおげさな自己紹介の域を超えることもないでしょう。けれどひとが全力で自己紹介をしたらきっとおもしろいはず、というむじゃきな期待を頼りにいろいろ準備に励んでいます。
 あるいはこれは、けっきょくひとりで抱えていても議論は進展しないし新たな回路も開かれないし、というか頭もわるくてろくに学もなければ複雑なことなんてとうてい考えられないわたしでは手にあまることは目に見えているのだからともに考えてくれるひとを頼りたい!という助けを求める叫びのようなものなのかもしれません。
 いずれにせよ、こういう機会があってもよいとおもえるかたや、こういう機会をおもしろがってくれるかたは、ぜひぜひお気軽にご参加いただけますとうれしいかぎりです。困ったことにひとが集まらないと開催できません。どうぞよろしくお願いいたします。

【タイトル】
からだの輪郭を引きなおす──生きること、模倣すること

【開催日】
10月28日(土)14:30〜17:00(終演時刻は予定。開場は14:00から)

【会場】
ジェリージャムスタジオ
東京都府中市美好町3-10-42
JR南武線/京王線 分倍河原駅から徒歩4分

【料金】
入場時に資料代として500円をお支払いいただきます。
※プレパフォーマンスのみご観覧の場合は無料です。

【進行予定】
14:00 開場
14:30 プレパフォーマンス
15:00 休憩
15:10 本編開演:プレゼンテーション
16:10 ディスカッション
17:00 終演

【申込方法】
以下のフォームからご申請いただくか、またはSNSのDMにて参加希望の旨をご連絡ください。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSf6iLd00lpiU8LUxiNFFZ7sK2H_oOVE_ofJhxVw3Bx2pOmisg/viewform?usp=sf_link
※プレパフォーマンスのみ観覧希望の場合はその旨をお知らせください。

コメントは受け付けていません