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N.Mu Event Context 投稿

日記210706

 前日に一時まで起きていた。いつもは十二時に寝ている。睡眠時間が少なかったせいで自律神経が乱れているのか、声が出ない。声を発する場面がさほどないから声が出なくても問題はないのだが、声を出す動作に強いストレスを感じるからたまの発声機会がしんどい。労働の休憩時間に十分だけ寝たら、短時間のわりにずいぶん深く眠った感覚があった。十六時過ぎにはからだに力が入らず、脱力感をどうにかやり過ごしながら、ぼおっとしていた。どうせろくな業務がないから、ぼおっといても特段の問題はない。身体異常が問題にならない環境がいちばん問題を抱えている気がする。

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日記210705

 水分を摂りすぎているのか、トイレに行く回数が多い。朝にコーヒーとプロテインを飲む、通勤時に500mlのペットボトル二本の飲料を買う、それを勤務中に飲む、勤務中には一杯のコーヒーをもらえる、帰宅して勤務中に飲み残した飲料と冷蔵庫に作りおきされたお茶を飲む、寝る前にプロテインを飲む。求められる水分量がわからないから、これが多いのか少ないのかもわからないのだけど、しばらく前はもっと少なかったから、少なくとも相対的には多いはずではある。なんとなく水分を循環させるとからだにいいかなと思って、意識的に水を飲もうとしていた時期があり、それ以降、水分摂取量を多少気にするようになった。からだにいいとか悪いとかは正直どうでもいいのだが、摂取したものが排出されていく様子が体感として感じられるのは悪いものではない。

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日記210704

 朝から嘔吐。どうやら昨晩に飲みすぎたようで、タコをつまみながら二合瓶の日本酒を飲んでいたまではよかったが、その後通話をしながらウイスキーを飲んだ記憶があり、朝になって机上に置かれたウイスキーの瓶を見ると中身が思っていたよりも減っていて驚いた。頭痛と胃のムカつきが続く。何度か吐くがなかなかすっきりしない。吐き気と吐瀉と水分補給と睡眠を何度か繰り返し、胃のムカつきが鎮まるくらいにしっかりと吐いたときにはもう午前を過ぎようとしている。大量の水分を吐き出したから、その分大量に水分を摂取したつもりだったが、なんとなく水分が不足しているような感覚が夜まで残っている。自宅前の自動販売機でアクエリアスを買う。スパークリングのアクエリアスが並んでいて、懐かしさを感じた。疲れる一日だった。というかここのところずっと疲れている。しばらく休みたい。べつにしばらく休んだっていいはずなのにしばらく休めないと思い込んでしまっているのは、規律や雇用契約を内面化しすぎだろうか。

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日記210703

 ドトールで読書をしていると、近くの席に大きなリュックを背負った老人が座った。老人はリュックを下ろすと、カウンターからセルフサービスの水を持ってきて、無料の求人誌を読み始める。ドリンクの注文はしていないようだった。注文なしに店を利用することは原則許容されることではないはずだが、おそらくあまり仕事もなくお金もないその老人のような状況のひとがこっそりと席を借りて安堵を得ることがなんとなく見過ごされるグレーな部分はいいなと思う。ルールやマナーに忠実に、生真面目に振る舞おうとすると、グレーな部分で生活をするひとらは排除される。人間や人間の暮らしは多様であり、ひとは生き続けることでその在り方を更新するから、一旦引かれたある平等さはどこかで生きづらさを生んでしまう。だからある問題を制度の改変で解決しようとするだとか、あるひとの人格や暮らしを制度上認めさせるだとか、そうした公的な承認はひとびとの権利を守る上でかならずしも必要ではなく、私的な範囲で守られているものを守り通すという手段も一方ではあるのだろうと思う。公的なものがどうであれ自分らの場所は自分らで守る、という気概も馬鹿にできないのではないか。

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日記210702

 昨日から雨が続いている。外に出ると蒸し風呂のようで不快だった。雨対策にマウンテンパーカを着用していたこともあり、その内側に湿気がこもってなお不快だ。退勤後、自宅へ向かう電車のなか、空いた座席に座ったらすぐに眠ってしまった。電車で座るといつもすぐに眠ってしまうから、もはや条件反射のような気がする。しばらく眠り、目を覚ます。目を覚ますと座席と密着した脚が汗と湿度でベタベタして、かゆみもあり、かといって脚を動かして空気に触れさせることもできず、そのどうしようもなさに苛々した。降車駅まではまだ一〇分以上あった。再び眠って誤魔化せないかと思ったが、もう眠れなかった。疲れている。

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日記210701

 朝から背中がいたい。勤務中はデスクに座っているのもつらかった。思い返せば、にぎにぎすると柔らかくて気持ちがいい玉みたいなのをにぎったまま寝たのがよくなかったのだろうか。にぎにぎを握って眠ると睡眠中のからだの力みが抜けて睡眠の質が向上する感覚がある。しかし睡眠中に両手で何かを握っているという状態は、何も握らないときと比べてとうぜん筋肉の使い方に変化があるだろうし、普段は睡眠中に負荷がかかっていないだろう部位を動かしていたのかもしれない。睡眠時のからだの使い方をなるべく疲労のでない状態に近づけるのはむずかしい。

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日記210630

 客の立場になるとすかさず態度が乱暴になるひとをみて、いやなやつだとたいへん不快に思ったが、サービスの提供者-受領者という関係においてしか相手に対して優位になれない──優位劣位という言い方が適切でなければ余裕がないと言い換えてもよい──から、いざそういう場面になったときに振る舞い方がわからず横柄な、横暴な、傲慢な、乱暴なコミュニケーションをとってしまうということもあるのかもしれないとも思った。ただ、そう思ったから同情するなんてことはなく、その不快なひとは勤務先のひとであり、連日顔を合わせなければいけないのだからただたんに不快である。乱暴なコミュニケーションは日頃からのことでありほんとうに不快。昨日も今日も明日も不快でほんとうに気分が悪い。知性もなければ倫理観も欠如していてほんとうに関わりたくない。と、とにかく不快だから基本的には無視している。ろくに働けないひとだから無視し続けていても業務的にも何ひとつ問題はなく、不快感と嫌悪感が増幅してしまう分だけまともに相手にする方が問題がある。これ以上不快感が増すと直接批判してしまいそうだから無視することは妥当なはずだ。こうして不満を書くことすら不快であるのだが、声で愚痴を吐く先もないから仕方なく書いている。いくら無視しようと近くに存在しているから不快感は募るばかりで、こうして他人に対し不快だなんだと思うことは無礼だと捉える向きもあるのかもしれないが、もちろんどんなひとであろうと自由に振る舞い自由に暮らしてよいのだから他人の自由や公共の福祉を侵さないかぎりにおいて勝手にやってくれてよい一方で、同様に誰かを不快に思うこともまた個人の自由だ。我慢の限界に至るまで徹底的に無視したい。こうして周囲から相手にされない(どころか知らぬ間に憤らせる)ような状況が長らく続いているのだとすれば、やはり客になったときに店員にイキるという形でそいつの不甲斐なさが現れてしまうことは十分にありうるように思う。

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日記210629

 疲れがとれない。できれば外に出ずひとと会わず一週間ばかり自宅にこもっていたいところだが、雇用契約を結んでいる以上そうもいかない。外に出るだけひとと会うだけで筋肉が強張って極度に疲れてしまうこのからだは生存するのにあまりに向いていない。そばにいて安心できるひと、というのはなかなかいない。知らない誰かが書いた本を読むときはこんなにも安心するというのに。安心先を増やしたくて、にぎにぎすると柔らかくて気持ちがいい玉みたいなのを買った。二個買ったから両手でにぎにぎしている。からだの力みが吸い取られていくような感覚がある。両手でにぎにぎしているあいだはMacやiPhoneの操作もできないから、無駄にネットを眺めてだらけて過ごしてしまうことの予防にもなるだろうか。まいにち日中に強烈な眠気に襲われるから、きょうから眠気の記録をつけることにした。きょうは十六時前から十七時まで眠かった。たぶん眠っていた。眠くなるときはいつも首周辺と下腹部周辺が熱くなるが、検索してもそうした状態の変化にまつわる記事は見当たらない。眠気と体温の上昇に苛まれている。眠っているだけで済む労働と思えば楽ではあるが、給料は発生しなくていいから横になりたい。

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日記210628

 朝起きた段階ですでにからだがだるく、ここ数日はどうも疲れがとれない。インスタントラーメンばかり食べているこの頃を省みて、食事で何か変わるだろうかと思い、夜は豚肉とピーマンを炒めて食べた。久しぶりにピーマンを食べた。緑色の野菜はだいたいおいしい。肉と野菜を食べながら、タコとか貝とかを食べたいなあと思う。いつも使っているスーパーには海鮮ものがあまり置いていないから、魚介を食べたいと思ってもすぐに食べられない。海鮮ものは値段も高いから、食べたいと思ってすぐに買えるようでも困るのだが、ここまで食べたさが持続していると多少は奮発してもいい気がする。近くにある、普段は行かない方のスーパーはたしか海鮮も豊富だった。前に行ったときは、ほっき貝とか売っていたはずだ。そのときも食べたいなと思ったが、捌くのが面倒だなと思ってやめたように記憶している。貝も魚もじぶんで捌いたことがない。海鮮系のお店が近くにあるのがいちばんうれしいのだけど。

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日記210627

 うとうとしながら小説を読んでいると、小説内の情景をいくらか反映しつつも文章として描写されてはいない光景があたまのなかに投影されることがあり、その勝手に想起した光景が書かれた内容であると思い違えたまま読み終えてしまうこともある。ふと眠気が晴れたときに思い違いに気づいたとしても、どのページから夢を見ていたのかもうわからない。読み直すのが面倒で、本を閉じてしまう。幻想に囚われていた感覚だけが残る。夢を見る装置として小説を読む。そこには一切の批評性はないが、まあたまには心地よさに飲まれてしまうのもいいだろう。たまにでは済まないから困っているのだが。

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