労働後に神保町の古本屋に行く。出勤先が御茶ノ水だったから歩いて向かった。澤口書店に入り、店内近くの棚を少し眺めて、思ったよりも本を買うことになるかもしれないと察し、一度退店してコンビニでお金を下ろす。数ヶ月前に訪れたときに迷って買わなかった本がまだあった。Amazonだと三〇〇〇円くらいするが、ここだと九〇〇円で売られている。定価は一七〇〇円と書かれている。店内をうろついていると、若いひとのすがたが目立つように思った。それもいかにも文系青年という感じではなく、見た目が洗練されていたり肌の露出が多かったりする。本を求めるひとは属性にかかわらずたくさんいるのだと、書店に行くと気付かされる。Amazonでばかり買い物をしていたらたぶん気づかない。四冊の本をレジで渡し、四九〇〇円を支払う。土曜日だからか帰りの電車は空いている。端の座席に腰を下ろして小説を読む。電車が進んでもやはりひとの乗り入れはあまりない。十八時前の外はまだ明るく、時間が引き延ばされているような空気が心地よい。次はつつじヶ丘とアナウンスが聞こえる。いつの間にか寝ていたようだった。
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勤務先のトイレでいつもどおりに排泄をしていて、トイレットペーパーの位置や洗浄レバーが右側にあることに気づき、これは右利きの多さに由来した設計なのだろうかと考えた。右利きが多いからと右利きのひとが使いやすい環境を設計することは一見合理的であるが、ではそのとき合理性を損ねる要因とされる左利きのひとの権利はどうなるのか。右利きに都合のよい環境で一生を過ごさなくてはならない左利きのひとが、せめてもの思いで私的空間を左利きに都合のよいように整備したところで、結局公共空間は軒並み右利き優位であることは変わらない。ひとの手なしに自然に成形した空間のように、個人や大衆の都合や利便性を前提せずに環境が構築されるのであれば、右利きの多さに由来する群れの行動原理の結果として何らかの変形こそするであろうが、そのような無意識の振る舞いを反映した現れも含めてあるがままに顕現するだけである。しかし、人工的な空間はひとの意図が介入する。個人や大衆の心理をあらかじめ想定したうえで、なるべく多くのひとたちにとって障壁のない空間をつくろうとする。繰り返すが、多くのひとたちにとって障壁の少ない環境は、そこに該当しない少ない──とはいえ数としてはけっして少なくない──ひとたちにとって障壁となる場合がある。あるいは、障壁となっていることに気づかない場合などが。公共空間が人為的な場所である以上、あるひとにとっての不都合はどうしても生じてしまう。それでもなお、だから公共空間なんてものはない方がよい、とはならない。いまのところはなっていない。公共的なるものは社会やひとびとにとって必要であると、おそらく多くのひとが疑いようもなく考えている。人為的な空間ゆえに生じる人為的な格差を目の前にして、なおだ。
もし左利きの者たちが連帯して声を上げでもすれば、左右どちらの手でも公平に持ちやすいはさみが開発されるかもしれない。駅の自動改札機は左右兼用になるかもしれない。いや実際、これら含めて利き手に対するユニバーサルデザインが施された例はいくつかあるようで、しかしそれは逆説的に、右利き優位社会を左利きで生きることが不利であることを示してもいる。その希少さが優位に働く場合もあるが、一般に生活を送る上では、社会は左利きに苦労を与える。そしてむろんのこと、そのひとが左利きであることは、そのひとの意思のあずかり知らぬ事象であり、そのひとには一切の責任はない。
自然由来の人体と人工由来の社会とを遮る障壁は、いかにして乗り越えが可能なのだろうか。効率や合理性、わかりやすさやコストの少なさ、楽であることや負荷が少ないことを社会が安易に求めると、それは大衆にとって、つまり多数派にとっての利点として働くのだとすれば、そして多数派にとっての有益性がひとの固有性をある一点に収斂させてしまうのだとすれば、人間の多数性や多様な社会の形成を帰結先とした場合には少なくとも、先に列挙した項目に対抗する要素を総じたものとしての複雑さや理解しがたさを果敢に受け入れていくことが求められるはずだ。私にとってわからないものこそを喜び、私にとって共感を抱かせるものこそに疑いの目を向ける。そのための指標をいくつも持ち、絶えず更新する。たとえば文化芸術がひとにもたらす喜びや美しさは、そういったことだったりしないだろうか。
ゲーム配信をしてみたが、ゲームをプレイしながらしゃべるのがこんなに難しいとは思わなかった。操作に追われるようなゲームではないにもかかわらず、シーンのいちいちにコメントやつっこみを入れることの面倒や気の利いた一言の思いつかなさ、話しているうちにゲームのストーリーが進んでしまうこととの折り合いなどに頭が追いつかず、出てきた台詞を読み上げるだけで精一杯だった。ふだんから発声機会がさほどないから声を出すこともままならず、中盤からは嗄れた声でしゃべりつづけた。これは回数を重ねれば何かの訓練にもなる気はするが、それ以上に何にもならない気もする。しかしただひとりでゲームをするとすぐに飽きてやめてしまうから、ひと目につくところでゲームをやるということ自体でなんらかの効果が生まれているようにも思う。たとえばこの日記だって公開しているからこそ継続しているわけだし。あと、単純に声を出すのは脳が活性化していい感じがある。少し前に始めた音読もやってみると気持ちがよくて、こちらも意外と続いている。
コメントする五輪会場で酒を販売するとかしないとかの騒ぎを見て、いつの間に開催自体がおおむね了解されたのだろうと思う。それに、飲食店での酒類提供を制限しながら五輪では可とはなにごとかと反発したくなる気持ちもわかるが、禁止に動かすのではなく自由に酒が飲めるような元の状況へといかに回復させるかという議論をした方がよくないか、などとこっちの議論に釣られてしまうことが既に誤りだ。それはそれとして、たばこと同様にアルコールを忌み嫌うひとは少なくなく、生理的な嫌悪と健康問題と公衆衛生を組み合わせれば民意は容易に動くし、そのうち飲酒は低俗な人間がすることだとかそういう空気もできあがりそうではある。想定しうるひとつの仮説に過ぎない話ではあるが、こちら側に進むのは勘弁してほしい。ひとはそんなに清廉潔白ではないし、清廉潔白になんかきっとこれからもなれやしない。
コメントする 昼食にファミリーマートで買ったぶりの照り焼きのおにぎりを食べたらおいしかった。コンビニのおにぎりにしては高価だったが、味に満足したから出費はあまり気にならない。ぶりとかさばとかほっけとかかつおとか、魚を自宅で調理することもなければ魚を扱う店にもなかなか行かないからさほど食べる機会がないそれらも、可能であれば毎日のように食べたっていいくらいだ。おいしいからと毎日食べたらさすがに食費が気になりそうではあるのだが。
おとといにプロテインを買って、朝と夜に飲んでいる。小学生の頃に一度、中学生の頃に一度、成人してから一度、それぞれ長続きこそしなかったがプロテインを飲んでいたことがある。ひさしぶりに飲んで、かつてに比べて格段に飲みやすくなっていることに驚いた。粉の溶けにくさや独特の匂いなど、おいしいというにはすこし無理があるがからだのために飲むもの、という印象があったが、いま飲んでいるものはふつうにおいしい。これだったら無理なく続けられそうな気もする。
台所に目を向けると、生ごみが溜まる三角コーナー周辺をコバエが飛んでいる。以前、ウェザーニュースで、コバエ対策の記事が出ていて、番組でも紹介されていた。そのときにニコ生で、共存に舵を切る、とコメントを書き込んだら、共存すなw、と知らない誰かが反応していて、関わりあっているのかいないのかよくわからないけどでも確かに影響を与えあっているニコ生の空間はいいなと思った。
YouTube Liveのチャットをニコニコ生放送のように画面上を右から左へと流す方法があるようだったから、調べながらいろいろいじってみたがうまくできなかった。どうやらWindowsでないと設定できないらしい。調べたり設定したりをしているうちに寝る時間が迫っていて、さっさとシャワーを浴びる。何も成果はなくとも適当に調べて試して頭を悩ませて……と作業することはそれだけでたのしい。与えられたものにそのまま乗っかるのではなく、やってみたいとかおもしろそうとか思ったことを、ネット上の知恵や技術を探って頼って時に騙されながら試行を重ねていく姿勢でひとが関与する。インターネットはいつまでもそんな場所であってほしかった。
コメントするリズムを乱さずに長い文章を書くことは難しい。少なくともじぶんにとっては。たとえば同じ単語を繰り返し、繰り返し、繰り返し用いることで簡単な音韻はつくれるが、その安直な手法が使えるのは短い文だけだ。単調なリズムを長々と刻み続けられるほどひとの気は長くない。だから、一万字程度の文章があるならば、それをいくつかのパートに切り分けて、文字数や全体における割合を把握しながら文の流れをつくるといったことが必要になるだろう。短距離走とマラソンとではむろん走り方もレースの組み立てもまったく異なるのだなんてことはいまさら言うまでもなく、いまこうして書かれている文章のように、思いついたことから順番に書き連ねるだけの無策が通用する場面は多くない。だがもし工夫なしに書いてしまったのであれば、読み返したときに生じた読みの突っかかりを逐一チェックしてみたらどうだろう。チェックに基づいてあとから書き直してどうにかなる保証はないが、見通しを持たずに書いてしまった以上は、あとからどうにか立て直すほかにできることはない。で、現に見通しを持たずに書いてしまっている身としてはかなり億劫な心持ちであり、今月中にひと段落はさせておきたかったのだが、もしかしたらそれも難しいかもしれない。すべては夜にカフェが開いていないのがいけない。
コメントする鶏肉を買って親子丼をつくった。二人前と書かれたレシピ通りの量でつくったそれを一度の食事で食べ切ったら満腹感でつらい。めずらしく量を食べたからここぞとばかりに筋トレ。量を食べなくても筋トレは続けなければ意味がない。そういえば賞与が入ったからプロテインを買うくらいの余裕がある。買ってみようか。からだを太くしたい。大谷翔平さんを見ていると、結局からだは大きい方がいいのだろうと思う。高校の頃の部活動で、練習メニューがウェイトトレーニングの日はサボっていた。みんなが平気で持ち上げる重さのバーベルを持ち上げることすらできないのが情けなくていやだった。それでも当時は五六キロくらいはあった。高三の夏以降、部活動が終了して運動する機会が減った同級生たちの顔が軒並み丸くなり、体重が増えたと嘆いているなか、同様に運動する機会を失ったじぶんは筋力の低下に応じて体重が減っていた。努力しなければ標準体重にすら届かない。手軽に筋力を鍛えられるように、いっそ自前のバーベルがほしい。
コメントする賞与面談。近々正社員として雇用できれば、と話が出る。そちらの心づもりを後日確認させてほしいとのことだった。じぶんの暮らしを続けるために世に迎合しながら労働に従事することと、世の中をひっくり返す、とまでは言わないが、どうにか社会が変わらないだろうかと学び、考え、運動を志すこととをどう折衷すればよいのだろう。もしくは周囲のひとたちは、どう折り合いをつけていまの日々を送っているのだろう。後者に関して具体的に何ができるのか、何をできるのかの見当を定めることからきわめて困難である一方で、前者に関しては与えられた(生活や人生における)タスクを着々とこなすだけでよく、懸命に過ごす日々は他人との関与から保守性を生じさせる(たとえば家族がいるひとなら、自らの人生は家族の人生でもあり、他者との関与が希薄な者と比べて無茶な言動・活動に身を投じづらくはなるだろう)。時間の経過で自然と手懐けられてしまう仕組みである以上、あえてその仕組みのなかでは困窮する立場に身を留めておく方がじぶんには向いているようにも思うが、無謀な反抗心もそれはそれでおそらく何をももたらさない。そしてこうした意識を生じさせているのは反抗心なんて立派なものではなく、根本的な気質が天の邪鬼なだけだ。
コメントするビルの敷地を清掃しているおじさんがたぶん通りすがりのおばさんに怒鳴られている。雰囲気から察するに、おそらく言いがかりであるように思われるが、雰囲気だなんて勝手な絵空事を難癖のように当て込んでは一蹴する通行人の言うことなんか微塵も信じるべきでない。書いたことを悔いろ。読まれることの恥を知れ。あらゆる人間に批判的に対峙し、その最たる対象にみずからを置け。たとえ指を失っても書くことを止めない覚悟がないのなら食って寝て老いるだけの生活に身を慎んだほうがいい。頭痛にでも苦しんでいれば幸福だろう。また今日も文を書く真似事ですか、はやくやめたほうがいいですよ、くだらないから。小綺麗に切り貼りした貧しい人生の愚劣な描写を実存を支柱に屹立させようという卑しい魂胆は早急に唾棄する以外に取り扱いようがない。でなければ、日記の残酷さに拮抗する身体状態をかろうじてでも維持してみせたらどうだ。
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