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N.Mu Event Context 投稿

日記210528

 昨晩に焼いた鶏胸肉を食パンにのせて食べたらおいしかった。曇っていたからハロが出ているかもと思って太陽に向けて写真を撮ったらうっすらとハロが写っている。電車で前に座っていたひとが降りて、入れ替わりで座ると、両隣の男のひとが大柄だったものだから、じぶんの一.五倍以上はあろうかという二人に挟まれていくらなんでも狭い。せめて脚を閉じてくれないだろうかとも思うが、大きいから脚を閉じるのにも一苦労要するのかもしれない。うとうとしてきたから本とまぶたをとじる。乗換駅間近で目を覚ますと、右隣のひととひざがわずかに触れていて、生温かさが気持ちわるい。暗い空を見上げても雲の形は見えない。冷蔵庫に入ったたまごが残り一個だったことを思い出してスーパーに寄る。いつもは昼頃に見かけることが多い印象の店員がレジの対応をしている。あすもあさっても労働だけど、土日の勤務は電車が空いている分だけ比較的負担が少ない。左肩がだるく、ぐるぐる回したり、指でごりごり押してほぐしたりすると、かえってだるさが増す。福岡ソフトバンクホークスはバレンティンが二本のホームラン。緊急事態宣言のことを、もう政府しか話題にしていない。ウェザーニュースライブではキャスターがあすは肉の日(二十九日)ですねと笑っている。つられて笑う。きょう発売の現代詩手帖はいつ買いに行けるだろうか、近所の書店には置いていないから新宿まで行かないといけない。七月堂では来月に高塚謙太郎『量』を特集としたフェアが組まれるらしい、はじまったら行ってみよう、『量』はまだ二割くらいしか読めていない、読めていない本がたくさんあり、本を買うお金はまったくなく、それでも新たに本を買ってしまってあーあと嘆きながら前に買った本を手にとって横には返却期限のすぎた図書館の本が置かれている、脱力したくて横になったら眠気、眠ってしまうまえに湯に浸かりに。

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日記210527

 早起きしようと思ったが眠気がひどく、きょうは労働もないからいいやと思って二度寝をする。ひとを刃物で刺したり刺されそうになって逃げ回ったりする夢を見た。書きかけの小説を進めようと思ってエディタを開くが続きが書けず、参考にならないかと近くにあった小説をぱらぱら読んでいたらまた眠くなってきたから横になったらぐっすり眠ってしまった。目を覚ますと朝から降っていた雨が止んでいたから、切れかけの消耗品を買いに外へ出る。スーパーに寄ったら鶏胸肉が安かった。薄暗い曇り空の下をあちこち歩いて帰宅する。ずっと眠っていたせいもあって一日の終わりを感じるのがはやい。鶏胸肉を弱火で焼くとこんがりといい香り。梅酒を飲みながら小松理虔『新復興論 増補版』を読む。オリジナル版からの第三部までは、抽象的な部分は東浩紀やゲンロンなどの思想や理念に依拠しながら書かれた実践的エッセイという様相だったが、書き下ろしである第四部は小松理虔による論考としての存在感が増していて、しかしその論考はけっして独立して現れているわけではなく、第三部までの記述から読み取れる数々の体験や様々なひとびととの関わりなどを経由したうえで立ち上がっている主張という印象があり、新著ではなく「増補版」として刊行されたことの意味や意義も強く感じられた。生活を営むうえでは、思想家でなくとも思想は必要であり、批評家でなくとも批評性は必要であり、専門家ではないながらにしかし専門家でないからこそのふまじめさをもって人文知に触れながらたのしむように現実をほぐしていくという、一市民としてあって然るべきであるにもかかわらずきっとほとんど共有されていない態度を、いかに整え、いかに保持するのかというひとつの回答が、「増補版」という構造にもあらわれているようにも思う。制作行為の主たる要素を制作の結果ではなく制作の過程に見ようとするのならば、「増補版」のような形式で一度書き上げた本を省みながらそこに追記していくという制作の手法はむろんありうる。商業的にはありえない、というか損にしかならないと思われることでも、制作という営みにおいてはふさわしい場合もある。こうした判断をおろそかにしてはいけないような気がするし、ここがおろそかになってしまうときは労働/消費を中心にしかものを考えられなくなってしまうときなのだろうと思う。そして、そこに批評性はない。ウェザーニュースライブを見続けているせいでろくに本を読んでいないから、一冊の本の最後までたどり着いたのはひさしぶりな気がする。労働に出るくらいの頻度で本を読む習慣や体力があればよいのだが。

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日記210526

 朝のウェザーニュースライブでハロが見えると言っていたから出勤の途中で空の写真を撮る。ハロは天気が下り坂の予兆らしい。きょうの夜は皆既月食が見えるとしばらく話題になっていて、ウェザーニュースでも皆既月食特番を組まれていたのだが、十九時半ころに空を見上げたら曇っていて月は見えない。帰宅して特番を見ると、全国的に曇っているらしく、番組は却って異様な盛り上がりが起こっていた。そうめんを食べる。週末に労働がある代わりにあすはない。腑抜けた気分でだらだら過ごす。だらだらしながら食べるピノがおいしい。おなじ週休二日でも、五連勤二連休より三連勤一休二連勤一休のサイクルのほうが負担が少なく楽な気がする。限界まで身体を酷使し続けるより余裕のあるうちに休息を入れる方がよい。労働がなければじぶんがやりたいことをしたいし、むしろそのための気力や体力が必要だ。労働のない日をつぎの労働に向けた休息日にはしたくない。土日だから休みなどと曜日に固執する意義もどこにもなく、もっと柔軟に、個々のからだの状態や意向や志向性に応じて勤務形態を自由につくりこめたらいいのに。でなければ労働に飲み込まれてしまうだけだ。それがわかっていながら工夫も抵抗も一切せずに侵食されるのをおとなしく待ち続けるなんてあまりに馬鹿馬鹿しくはないか。

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日記210525

 手首から肘にかけての筋がだるい。おとといに腕立て伏せをして、きのうから肩や胸のあたりに筋肉痛があるのだが、きょうの昼頃になってとつぜんあらわれた腕のだるさもそのせいなのだろうか。夜ごはんにそうめんを食べる。納豆とめかぶと卵黄をのせた。帰宅時の電車のなかで意識を失うみたいに眠ったにもかかわらず、横になったら数秒で入眠できそうなほど眠い。眠すぎるから浴槽に湯はためずシャワーだけにした。早く眠りたいから早く日記を終わらせたい。シャワーする前に、『徳島文學 volume 4』収録の佐川恭一「受験王死す」を読んだ。「愛の様式」でも登場した浜崎あゆみ『LOVEppears』がまた出てきて笑った。佐川恭一の小説を読むと思い出すのは、ジャック・デリダのことだ。『弔鐘』でヘーゲル論とジュネ論を同一平面上に並列し、『絵葉書』では断片的な擬似書簡という奇妙な形式で論考が記述される。論理的な読みを退けるかのような七〇年代のデリダの著作における文体の奇怪さは、テクストにどんな効果を働かせているのかと考えたとき、ひとつは、ある形式におけるテクストの表象可能性の限界を解きほぐすことにあるのではないかと思いつくことは容易い。文体は形式=環境に左右される。手紙、メール、チャット、事務文書、詩、小説、その他なんでもよいが、いかなる媒体のうえに記述されるかという前提がそこで記述されるテキストの方向性をある程度定めてしまう。たとえばこのテキストも、日記という形式に依存することで書かれている。「これは日記である」という枠組みがあらかじめ設定されていることで、文章に付随するメタレベルの情報の遮断が行われる。もし小説であれば、作者が書いた文章に登場する作中人物はこの語りをなぜどうしてどんな手段で誰に宛てて書いているのか、あるいはそれらをどうして読めているのかどのように読めてしまうのか、といったことが、つねについてまわる。しかし日記であれば、「筆者がそう思ったのだからそうなのだ」というこれ以上ないくらい素朴な割り切りゆえに、根拠も論理もなく語気の強いアフォリズムなんかも堂々と書き記せてしまう。その形式ゆえに書ける表現や書けない表現があり、一般的な論文では抜け落ちてしまう何かを描出ために、一時期のデリダも異なる論文を並列したり書簡形式を用いたりなどの舞台設定の再考が要請されたのではないかと妄想することは、見当違いかもしれないが文章のあり方としてはそこまでおかしなことではないように思う。そしてデリダはさておき、佐川恭一の小説を読んだときにいつも同様のことを思ってしまう。音楽の歌詞を例とすると、一時期のJPOPの歌詞は空飛びすぎ翼生えすぎなどと揶揄されることは多いが、JPOPの歌詞における文脈において生じた文体として「翼が生える」という表現があり、「翼が生える」ことを真に受けようとしたとき、そこで必要となる表現は論文でも批評でもなくやはりJPOPの歌詞でなければならない。こうしたさまざまな環境における文体、とりわけ文学的な言語からは避けられるような文体を、分け隔てなく小説のなかで取り扱う志向と技術が佐川恭一からは感じられる。「受験王死す」でも、浜崎あゆみや大塚愛の曲の歌詞の引用があり、試験の問題文を模した文もあり、〈仕事では昨年後輩の上司ができ、一年目は僕が先輩ということもあって向こうも気を遣っていたようだが、二年目になった今年、ボコボコにいかれ始めた。〉という(お得意の?)丁寧な語りの終わりに今風の言葉を使用して急速に描写を片付ける一文もあり、ひとつの小説のなかに多様な文体が入り混じっている。他作品に目を向ければ、「ダムヤーク」では常体と敬体とが混合していたし、「コマネチ」ではネタツイート風の文があったし、「童Q正伝」などではアダルトビデオのタイトルが頻出する。「コマネチ」で〈でもそれは自分が相手を殴り倒すイメージばかり持っているからで、実際に一発でも鼻面にブチ込まれたら即ごめんちゃいだろう。〉という一文を読んだときは、「ごめんちゃい」という語が自然と小説に馴染んだ状態であらわれたことに感動した。こうした例から確認できる、小説らしさという抑圧を横目に、現実に存在する文章/文体を模倣/引用して小説に落とし込んでいくその態度は、言語の可能性の拡張にたゆまず挑み続けているようでもあり、言語表現者としてあまりに真摯であるようにすら感じられる。それでいて圧倒的な可読性の高さと読みのリズムの良さ、読みの中毒性も兼ね備えており、こんなに巧みに日本語を扱えるひとはなかなかいないのではないか。そういえば「愛の様式」の感想を整理してちゃんと書きたいなあと思っていたのだが、ウェザーニュースライブに没入してしまってすっかり忘れていた。どこかで読んだり調べたり書いたりする時間を設けられるだろうか。それはさておき、この日記の締めが一向に思いつかず当てもなく書き進めてしまっているが、はやく眠りたいからもうこのまま終わる。文が荒れている気がするが眠いから推敲もしない。明日の朝にも持ち込まない。眠いし、面倒だから。面倒だけどおもしろいから一丁気合い入れてやるか、みたいな意気込みで臨める目標やそれに取り組むだけの時間がほしい。

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日記210524

 まいにち出勤するがろくに業務を与えられていないからいつも調べものをしている装いで業務に関係あるのかないのか微妙なサイトを適当に閲覧しながら時間を潰している。普段はこんなことやってておもしろいんですよとかなんとか、もっとひとに言いたくなるようなことをしたい気持ちもありながら、たかが労働にそこまで求めても仕方がない。ここに書き溜めている日記を読めば、いかに労働のさなかに関する記述がないかは明らかで、一方では意識的に書いていない面もあるのだが、他方では書きたいと思わないどころか書き残したくないとすら思ってしまうほど労働中は目に見えるすべてに対してどうでもいいと思いながら過ごしている。しかし雇用されている以上は雇用主に時間や身体の所有権を委ねていることにほぼ近いのだから、他人に身を預けている時間を関係のないものとして取り扱うことはさほど不自然なことでもないように思う。預けている以上はそれなりに活用してほしいのだが、べつにぼうっとしているだけでいいのなら遠慮なくぼうっとさせてもらうだけだ。やってみたい業務とか、就きたい職とか、真面目に考えたことがない。ビデオスイッチャーを触ってみたいけど個人では買う予算も使う機会もないから、映像に関わる業務の求人がどこかで出ていないだろうかとここのところは思いつきのように考えているが、それも思っただけで終わる。要するに本気っぽさがない。
 夜ごはんにそうめんを食べようと思ったがめんつゆが切れていたからやめた。代わりに餃子を焼く。焼いた餃子にチーズをかけて炙る。横にキムチを添える。餃子とチーズも餃子とキムチもどちらも合うし、チーズとキムチも発酵食品同士でたぶんそこそこ仲は良い。食べてみたら、目論みどおりにおいしかった。インスタグラムを開くとパグが表示されてかわいい。この頃は詩集も読んでないなあと思って手近にあった本をめくる。本は読まずとも増えていく。このまま読書をする習慣が消えたら積み上がったこの山はいったいどうなるのだろう。文を読めるときと読めないときの状態の差が激しく、読めない状態のほうが長くつづく。こういうときは無理やりにでも一日で一冊を読み切ると多少心持ちが変わったりもする。変わらないときもある。本なんか読まずとも生活をつづけられてしまうことや生きていられてしまうことはとても残酷だと思う。

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日記210523

 ウェザーニュースライブをずっと見ているせいで本を読む時間も、文を書く時間も、見たいものを見に行く時間もろくに取らず、苦労して時間をかけて取り組んで教養を培おうとする営みのあれこれが生活から振り落とされている。それゆえに日記に書くようなこともなく、ここ数日書いた日記は驚くほどに中身がない。貴重な二十代の時間をウェザーニュースライブに費やしてよろしいものか、と考えたとき、あきらかに生き方を間違えていると言わざるをえない。しかし他方で、ウェザーニュースライブを見て得られる高揚感や愉快さ、気分の向上は確かにあり、番組内で語られるふだんじぶんではしないような雑談、たとえば年間行事や今日が何の日であるかとか、ある食べものがおいしいというだけの話や休みの日に何してるという話、そもそも天気や気象の話が縁のなかったトピックでもあり、そうしたふだん主に関心のある文学や思想やあるいはサブカルチャーなどの言葉とは距離の離れた話を聞いて、この手の話題は職場などで雑談として振られた場合には嫌悪して無視する類いであるにもかかわらず、画面を見ているだけという外野の立ち位置とコメントを書き込むという間接的な関与の仕方によって、おもしろさを感じたり影響されて話題にあがった商品を買って現に生活の一部を変化させられたりしている。ワイドショーを堕落的に眺めて不毛な好奇心を煽られて実際にからだを動かされて頽落した日々を送るという、ひとつのだらしなさや救いようのなさがここにはあり、この態度はじぶんがいつも批判している対象そのものであるのだが、一冊の本を読んだだけでは思考のあり方も言動のあり方も生活のあり方もさほど変わらないのに対し、ウェザーニュースライブのようなものにこんなにも生活を書き換えられてしまうという事実をたんに否定するだけではたしてよいものか。ウェザーニュースライブの求心力がどこにあるかといえば、やはり天気を中心としたキャスターや気象解説員やアプリのユーザーや番組の視聴者間で行われるコミュニケーションの力が大きいように思う。ある小説を読んでも、ある映画を見ても、ある美術作品を見ても、それを共有する相手や場所はあまり得られない。少なくとも、そういう「界隈」に属していない、「界隈」を通過したことのない、まったく外部のひとりの客(もしくは消費者)でしかないじぶんは、文化芸術に触れて感じたことや培ったものがあってもそれが生活に直結することはない。政治について学んだとしても、政治運動に参画することもなく、何の足しにもならない選挙権をたまに行使することしかできない。多くのひとは選挙に行けというが、選挙に行っても何も変わらない、というのはまぎれもない生活の実感だ。生活の実感を得られないものに関心を持ちつづけることはむずかしい。あるカテゴリの運動や活動の当事者でなければ、文化芸術も政治もただの消費物でしかなく、しかも生活から遠く離れたところで消費されるものでしかない。したがって文化芸術を消費することは一時的な現実逃避にしかならなず、一夜だけ輝いて翌日には跡形もなくなる祭りのようなものだ。たまの晴れの場で誤魔化しながら、世に対する不満や怒り、不快感や苛立ちを抱え続けるしかないことやその無力感もまた生活の実感なのかもしれないが、でもじゃあしょうがないねと片付けてしまうこと自体もまた新たな苛立ちを生み出してしまう原因であり、それをあきらめで解決することは正しいのだろうか。こうした孤立した状況、孤独な状況を、じぶんはよく「引きこもり」と呼んでいるわけだが、ネットで書き込みをすること、それも匿名で参加者の多くが誰でもないものとして関わる匿名掲示板やニコ生のコメントの参入障壁の低さは、引きこもりにとって安らげる居場所になりうる。さまざまなことを雑に、無責任に書きあい、それは何の議論にも対話にもならないが、しかし他者に向かって言葉にする機会が確かにあることによって生活の実感は更新されていく。ネットの外側ではテレビのワイドショーなんかも担っているだろうその役割、要約すれば、コミュニティの形成可能性や第三者の参入可能性を、文化芸術や人文知などのジャンルやコンテンツを包摂するコミュニティは担保してくれないのだろうか。歴史の上に成り立つ文化芸術や人文知は、外部の人間が安易に参加できるものではないことは承知ながら、その一方で、長い歴史に育まれた文化を土台に日常言語を更新しうるような場所があってもよいような気がするがどうなのだろう。一般市民が教養に到達するための入り口にまず純粋なおもしろさが有効であることは、ウェザーニュースライブを見て気候や地球科学の本を買ったこの頃を振り返れば私的な実感として確かである。たとえば東浩紀の思想やゲンロンの事業は、こうした問いや課題に対する運動でもあるようにも思える。大学に閉じこもるでもなく、YouTubeで数字を稼ぐでもない、第三の道を提示すると、東氏もたびたび口にしている。だからゲンロンから出ている本を読んだりゲンロンカフェのイベントを見たりは積極的に行っていて、そこで知った固有名詞についてまた調べたり本を読んだりすることも必要で、ウェザーニュースライブばかりを見てはいられない。

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日記210522

 友人宅で酒を飲む。近くのスーパーで適当な食材を買ってきて、適当にバーナーで炙った。ブリ、鯛、カツオ、しめさば、イカ刺し、イカキムチ、辛子明太子、枝豆、パプリカ、にんにく味噌、カマンベールチーズ。ひとりでは一回の食事でせいぜい一、二品を炙るくらいしかできないが、ひとが集まると一度に大量の食材を試せてたのしい。人数が多いといろんなことを省略だったり分散だったりできてよい。十人くらい集まれば本だってつくれる。ブリやしめさばなどの油分多めの魚は炙りが合う印象があった。熱せられた油が口中で溶ける。おいしい。
 帰り道、雨が降っていたから濡れながら歩く。強い雨ではなかったが、駅に着いたとき、髪の毛はびしょびしょに濡れていた。電車の到着までホームのベンチで待つ。iPhoneできょうのプロ野球の結果を見る。濡れているわりには寒さはない。ウェザーニュースのアプリで天気の報告をする。電車に乗り、府中に移動すると、雨はさほど降っていない。ドラッグストアに寄って春雨スープと飲みものを買う。酒を飲んだあとの帰路はいつも小腹が空く。帰宅して、春雨スープを食べる。一時期、頻繁に春雨スープを食べていた。その頃から思っていたが、一食分はかなり少ない。たぶん三つくらいでちょうどいい。

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日記210521

 帰りにスーパーでしめさばを買おうと思ったら売り切れていた。代わりに何か炙れそうな食べものはないかと探して明太子を買う。缶に不備があったから自主回収すると記事が出ていた、タカラ焼酎ハイボールがふつうに売られていたから、それも買う。帰宅して、明太子を炙る。火の当たった粒々が弾ける音がして、磯の香りが漂ってくる。さいきんは小松理虔『新復興論』を読んでいて、福島の海産物の話が書かれているせいか、海沿いに行って活きがよい海産物を食べたいなあ、とこの頃はよく思う。タコとか貝とか、うねうねした生きものを食べたい。炭火で焼いてほしい。魚も、自宅ではあまり食べる機会がない。ウェザーニュースライブの過去放送の切り抜き動画を見ていると、キャスターが、魚介が苦手、と言っていた。

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日記210520

 チーズと納豆とキムチがあったから、食パンにのせたらおいしいかなと思い、試してみる。チーズはバーナーで炙った。食べるとさほどおいしくはなく、おそらく原因は食パンを加熱していないせいだ。バーナーはあるがオーブンやトースターはない。レンジで温めればもちもち感が出るが、しかしそれはトーストではない。そういえばフライパンでもトーストは焼けると聞いたことがある。焼いた食パンを用いて、もう一度試してみてもいいかもしれない。バーナーを買って以来、チーズを食べる頻度が激増しているから、塩分の摂りすぎが気になる。

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日記210519

 帰宅途中、遠くに見えた空が夕焼けだったから、もっと一望できる場所はないかと、自宅への最短距離を離れて、自宅から遠ざかりながら、なんとなく近所の公園のほうに向かって歩く。空を見上げながらうろうろ歩くと、頭上周辺の空こそどこでも見えるが、建物や街路樹が遮るせいで、遠くの空はどこにいってもぜんぜん見通せないことに気づいた。当たり前のことではあるのだが、空を見たいと思って空を見ながら空が見える場所を探したことがなかったから、ちゃんと意識したことがなかった。甲州街道の歩道橋のうえにでも向かった方が、広がる空がよく見えたかもしれない。いいスポットにたどり着いたら写真を撮ろうと思って開いていたウェザーニュースのアプリを閉じる。近くのスーパーで、デカビタを買う。棚にはちいさくなったジンジャーエールが置かれていた。さいきん炭酸飲料がちいさくなる傾向にある一方で、ペプシコーラはすこし増量していた。

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