神保町の古本屋へ行く。演劇関連の本を二冊とSF小説の文庫本を二冊買う。デリダの『グラマトロジーについて』の上下巻が三〇〇〇円で売られていて、すこし迷うが、たぶん読もうとしてもさっぱり理解できないだろうから買わずに店を出る。もともとは、〇〇年代の国内作家が書いた中編小説の単行本が数百円程度で手に入らないかな、なんて思って神保町まで足を運んだのだが、この類いの本は見つけられなかった。代わりになるかと思ってSF小説を買ったが、この頃はSF小説を読むような気分でもないし、さいきんはどうも文庫本のサイズ感に読みづらさを感じてしまっていて、まあおそらくすぐには読まないように思う。これは読むとか、これは読まないとか、読めるとか、読めないとか、ほとんど無意識に無根拠になんとなく判断しているが、こうした振る舞いは食べものの画像を見ておいしそうと思う感覚とは近いのだろうか。天丼屋の前を通るとき、おいしそうな香りが漂ってきて、すれ違った若者二人組も、なんかいいにおいがする!と話していた。すずらん通りを適当に歩き回り、次第に脚が疲れてくる。空腹感もあったから、電車に乗って、つつじヶ丘で降車し、柴崎亭というラーメン屋で鴨中華そばを食べる。柴崎亭には月一回程度のペースで訪れているが、ここ何回かは鴨中華そばが品切れで、塩煮干しそばの注文がつづいていたから、ひさしぶりに鴨中華そばを食べられてうれしい。しいたけの味や香りが強く感じられるが、材料にしいたけが使用されているかまでは知らない。兄がしいたけ嫌いだったことを思い出し、ここ三年ほど会っていない彼がいまだにしいたけを避けているのだとすればこのラーメンは食べられないかもな、と思う。かくいうじぶんもたしか中学生の頃くらいまではしいたけがすこし苦手だったが、いつからか気にしなくなった。小学校の給食に出てくる味噌汁に入ったしいたけの食感が苦手の主な由来だったから、給食から解放されたことでどうでもよくなったのかもしれない。というか、成人してからは、食べものの好き嫌いに対してどうでもよさを感じることが多くなったように思う。おいしいものを食べればもちろんおいしいが、だからといっておいしいと感じないものを毛嫌う必要はどこにもなく、じぶんが苦手に思うことはじぶんに理由があって、対象そのものがなにか悪さをしているわけではない。対象はただそうあればよく、苦手と思うならただ勝手に苦手であればよい。それはそれとして、もうしばらく食べものに対して苦手と思うこと自体も少なくなっていて、へんな味だなあとかいまのじぶんには合わないなあとか思うだけで、むしろあえてその変な味や合わない味に身体のほうを合わせていこうとすることもある。味覚に対する快不快は絶対的ではないのだから、食材の腐敗による異味異臭などでなければ、目の前の食べものと身体感覚とをつど調整すればよい話であり、こうした食べられるものと食べるものの両者のかかわりが、生存行為としての食を食文化として昇華させてきたのではないか。反射的に苦手と一蹴してしまうのはあまりに簡単であり、それによって生まれるのはむしろ悪意だったりするから、そう傲慢にならずに、じぶんをやわらげていこうとする態度の方におもしろみを見ていきたい。
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駅前のドトールで読書をする。隣の席に、高齢の男のひとが腰を下ろし、すこしの間をおいて、注文を済ませた配偶者と思しき女のひとが、頼んだドリンクをもってやってくる。手に持っていた二人分のドリンクが載ったトレイを机の上に置くとき、一方のグラスが倒れて、アイスコーヒーがこぼれてしまう。店員は床を拭いたあと、新しいアイスコーヒーを手に老夫婦の前に現れて、中身が半分ほどこぼれてしまったグラスと交換したのちに、女のひとといくつか言葉を交わす。
──お召し物は汚れてませんか?
──大丈夫、大丈夫。
──染みにならないとよいのですが。
──気をつけて持ってと言われたのに、さっそくこぼしちゃって。
──わたしもたまにやっちゃいます(笑)
──あらそう(笑)。ごめんなさいねえ、すぐに帰りますから。
──いえいえ、どうぞゆっくりしていってください。
店員がカウンターへと戻り、飲みものをこぼしてからずっと慌てていた女のひともようやく落ち着く。岩成達也『私の詩論大全』を読みながらメモを取る。筆記時に小さな机がガタガタと揺れる。ノートに書かれた文字を見て、じぶんでも読めないなと思う。一時間ほど居座って退店し、無印良品でレトルトのグリーンカレーを、成城石井で三本のビールを、それぞれ購入する。夜、ビールを飲みながら、ゲンロンカフェの配信イベント「さやわか式☆ベストハンドレッド2020」を見る。五十九位で、テレビ大阪で放送されている「ねじの世界」という番組が紹介される。「ねじの世界」は、芸人の中川家が町工場社長コントをしながら関西圏の町工場でどんなネジをつくっているかをVTRで紹介するという六分程度の番組で、ねじだけでなく、町工場の社長が昼食の蕎麦をどう食べているか(一味唐辛子を蕎麦に直接かけるらしい)などの誰の得にもならない社員の情報も併せて紹介するのがお決まりのようだ。百個のコンテンツが紹介されたなかで、なぜか「ねじの世界」の印象がもっとも強く残っている。
詩や小説を読む。なんとなく、いいな、と思う。そのなんとなくのいいなを言葉にしようとするときのむずかしさは、なぜ生じるのか。たとえば、ある小説を読んでいいなと思い、このお話にすごく感情が揺さぶられて!と声に出したとして、しかし感情が揺さぶられたのはお話のある一部分でしかないだろうし、お話という要素は小説のある一部分でしかないだろう。ここで示されるお話のある一部分や小説のある一部分は、他のお話や他の小説で、あるいは他の文化芸術作品で、代替可能かもわからない。小説の一部分であるお話のある一部分を取り上げることは、その小説をひどく矮小化させてしまう。むろん一方では、ある作品の受け手が作品に刺激されて得た感情や考えはその者が紛れもなくその瞬間にその作品と出会わなければ得られなかったものであり、その者が発露した表現として尊ぶべきではあるが、他方で、ある受け手の一時の感情なんてものは作品にとってはあまり関係のないことである。つまり、前者は受け手の歴史において作品がいかにあるかという問題であり、後者はある文化体系の歴史において作品がいかにあるかという問題であり、これらは一方がなければ他方もなく相互に干渉しあっているはずなのだが、そこには同時におおきな断絶も感じさせる。逆にいえば、ある小説に対する考えを容易に言葉にするためには、小説を包む文化の歴史に接続させることはひとつの手である。小説のある部分を抽出することが小説を矮小化させるのであれば、その小説をその小説よりも大きな体系に組み込んでしまえばよい。著者の経歴のなかでその作品がいかに現れているか、ある文学者の理論を適用することでその小説にいかなる可能性を見いだせるか、近代文学史の流れにおいてその作品はいかに位置付けられるか、現代の国内情勢においてその作品はいかに受容できるか。こうして大きな歴史に接続させることで作品を語りやすくはなるが、その代わりに、作品に対して言葉を発する動機であるはずの一受け手としての感情のゆらぎは、言葉にされることなく消え去ってしまう。だから、個人の歴史と文化の歴史という両者は絶えず往復することが望まれるのではないか。偶然に生じた瞬間の出来事から事を始め、そのうえで瞬間の出来事なんて過信せずにみずからを空虚になるまで削ぎ落として、蓄えられた知恵と技術を駆使して歴史の重みに到達しようとすること。その地点から、瞬間の私を見つめようとすること。これらの往還によってようやく、受け手と作品の関係が明らかになろうとするのではないだろうか。
詩や小説という言語表現について言葉を発しようとするとき、そのむずかしさは、言葉を言葉で語ることに由来しているのではない。受け手が何を思い、その思いを発した根拠がどこにあるのか、についてならばおそらく誰にでも容易に語ることができ、なぜならそれは受け手のなかに由来するものだからだ。そこで作品が置き去りになること、作品がもつ歴史が無視されることにむずかしさがある。とすれば、詩や小説を語ることがむずかしいのは、小説をひとつ読むことすら時間がかかることや、詩における言語の扱いが日常的なものとは大きく乖離しているおかげで言語の歴史性に距離を感じてしまうことなどによるのではないか。そこを乗り越えさえすれば、言葉を言葉で語ることほど簡単なことはないようにも思う。では、日記が文化芸術として提示されたときに受け手はいかなる語りようがあるのか、また、日記を文化芸術として提示するには書き手はいかなる手続きを必要とするのか。これに関してひとつ言えるのは、そんなことを考えていたら日記を継続することなど到底できないということだ。
勤め先へ向かう朝の電車のなかで小説を読んでいると、訪れたことのない終着駅にたどり着くまでこのまま運ばれてしまいたくなることがあって、それでもいつも願望を抱くだけ抱いて、結局は時刻通りに勤め先近くの駅で降りるのだけど、降りたあともしばらくは電車のやわらかすぎる座席に身体が沈んでいるみたいな筋肉の弛緩があって、重い足取りで階段を上って改札に向かう途中でやっぱり降りなければよかったなんて後悔しながら、電車に乗り続けたところで勤務先のひとたちから怒られたり蔑まれたり収入のあてを失ったり収入のあてを探すのに苦労したりするだけでじぶんの都合が悪くなるばかりであることもわかっていて、そのわずらわしさが私の身体をわずらわしい労働へと向かわせているのだけど、週末の午後のそれも陽がのぼってまもないくらいの時間帯に日差しを首すじに当てながら乗る電車の心地よさがどこか遠くへ連れていってくれるような、二十年くらいかけて私の身体に巻きついたすべてのしがらみが全身からほどけ落ちていくようなあの状態ともまったく異なる、はるか遠くでありながら小説のように確実に訪れる終わりへの憧れを、その憧れにこの電車が向かってくれているような錯覚に魂が吸いとられていく瞬間の連続を、見て見ぬふりをしてあとかたもなく振り落としてしまうことに名残惜しさを感じずにはいられなくて、エスカレーターから伝わるわずかな振動でふらついてしまうおぼつかなさのまま地上に到達して、その足はもう勤務先に向かう以外のことをできなくなってしまっている。
労働が終わってビルを出る。歩き始めると進行方向に追い風が吹いていることに気づいて、風に押されて多少の身軽さを感じながら駅へ向かう。歩道に面した居酒屋の入り口には風の冷たさを際立たせるように「水炊き」と大きく書かれていて、そのすぐ横に閉店時間変更のお知らせが書かれたA4用紙が貼り出されている。電車に乗って読みかけの小説をひらく。朝に読んでいたお話は昼休憩中に読み終わっていたから、おなじ本のなかの朝とは異なるお話を読んで、どこに連れ去られることもなく淡々と予定通りに電車は進んで調布で乗り換えて府中で降りて、またあしたも労働があって来週もまた労働があってどこまでも終わりがなくそれってなんだか夜空みたいだと思ったけど、東京の空では星も見えない。見ようとしていないだけで見えるのかもしれないけれど、立ちどまり方を忘れてしまった私はふらふらと歩いて疲れて腰を下ろすことくらいしかできないから、脚が千切れるほど疲れきったそのときにせめて仰向けで横になれたらいい。星が消えるみたいに終わりがきたら、きょうの私はどこか感傷的な気分で、この、小説に引きずられただけの陳腐な一時の心持ちを誰もが抱えていたらいいのにと、のんきに願うことですこしでも救われたら気も楽になるというのに、声はいつも行き場を見つけられないままでいる。
ここ一週間ほど、出勤時に九段下のスギ薬局に寄ってヘルシア緑茶を買っている。ヘルシア緑茶を買う前はローソンでプライベートブランドのジャスミンティーを買うことが多かった。ジャスミンティーの前は緑茶だった。二月頃に体調不良が長くつづき、自律神経の乱れも感じていたから、カフェインを控えようと思って緑茶をジャスミンティーに切り替えた。体調が比較的安定してきたと思ったら、今度は連日襲いかかってくる日中の眠気に耐えられない。やはりカフェインに頼らずしてまともな生活は送れないなと思い、コーヒーよりもごくごく飲めそうという理由から、また緑茶に戻ってきた。緑茶を飲む目的のいちばんに眠気防止を設定している以上は、カフェインの含有量が多いものが好ましい。ドラッグストアに陳列されたお茶の成分表記を見たところ、どうやら特茶はカフェインを多く含んでいるらしい。しかし、カフェイン含有量こそ下回るが、カテキンの含有量を見るとヘルシア緑茶の方が多いようで、さらには値段も特茶と比べて安い。カテキンが多いということは、お茶の渋みも濃いはずで、濃いめのお茶がすきだということも加味した結果、ヘルシア緑茶の購入に至る。
勤務中にヘルシア緑茶を飲んでいたところ、隣の席のひとから「きみはヘルシア緑茶を飲む必要はないんじゃないか」と指摘をされた。上記のとおり、飲む必要は大いにある。カフェインを摂らなければろくに身体を動かせず、濃いお茶の味も好みである。にもかかわらず、ヘルシア緑茶を飲む必要がないと言われる所以は、むろん「ヘルシア緑茶」や「特定保健用食品」などの記号性による。「内臓脂肪を減らすのを助ける」とラベルに大きく書かれたヘルシア緑茶は、「脂肪の分解と消費に働く酵素の活性を高める茶カテキンを豊富に含んでおり(540mg/1日の摂取目安量350ml当たり)、脂肪を代謝する力を高め、エネルギーとして脂肪を消費し、内臓脂肪を減らすのを助けるので、内臓脂肪が多めの方に適して」(花王 | 製品情報 | ヘルシア緑茶 [350ml] – Kao より)いるとのことだ。それを飲む私はといえば、内臓脂肪が著しく少なめであり、身長が一七八センチもありながら体重が五〇キロ程度しかないとだけ言えば、その痩身ぶりは容易に伝わるだろう。この点だけ見れば、たしかに私はヘルシア緑茶がターゲットとするお客さんではない。しかし、言うまでもなく、ターゲット外であることは必要がないことにはつながらない。茶カテキンがもつ脂肪の分解と消費に働く酵素の活性を高めるという性質は、あくまで数ある性質のひとつでしかない。そのたったひとつの性質を、「ヘルシア」「トクホ」「内臓脂肪を減らす」などの単純な記号でパッケージングすることで強調し、商品としているに過ぎない。だから、ターゲットの外側はいくらでもあるし、強調された要素の外側もいくらでもある。あるアイコンをアイコンとしてのみ消費することは、そうした象徴化されていないいくつもの要素を無化し、世界を単純化させる。もちろん単純化によって何らかへの理解が進むことも多分にあるが、繊細さの放棄にばかり陥ってしまうようではあまりに乱暴だ。「きみはヘルシア緑茶を飲む必要はないんじゃないか」との指摘はしょせんはジョークとして言われているだけであり、まじめに応答する類のものではないが、こうして迂闊に発言してしまった冗談がときにひとを傷つけることもあるのだろう(あるいはすでに誰かを傷つけていて、そのことに気づかずにいるのだろう)と思いながら、ヘルシア緑茶を口にする。
シラスのゲンロン完全中継チャンネルで三浦瑠麗と東浩紀の対談イベントを見る(というかバックグラウンド再生で音声を聴きながら書いている)。序盤に東氏がコロナ禍における地方自治の状況について「ポピュリズムは知事からはじまる」と指摘をする。そもそも人気商売としての機能が目立つ知事という立場が、国に対して批判的な姿勢を見せるだけで、その地域のひとたちからの支持を容易に獲得できてしまえることを示しているのが、ここ一年の状況だという。実際問題、東京都知事や大阪府知事を主とした各都道府県知事が、みなここぞとばかりにメディアアピールに励んでいる。その結果、ではないが、この一年の間に現実として起こったこととして、県外から引っ越してきた者が入居予定だったマンションの入居を拒否されたり、病院が県外に居た者の受診を拒否したり、と県民性の内面化の強化を象徴するような、県境の内側と外側の分断に由来する動きや事件が見られたことは無視できないだろう。まあただ、上に二つだけ挙げた事例も恣意的ではあるから、切り取りようによってはべつの見方もできるのだとは思う。逆に(逆か?)緊急事態が国威発揚に接続して、国民としての一体感なんかが発生してしまったらそれはそれでおそろしい。
そういえば、先日、秋田県知事選挙が行われて、佐竹敬久氏の4選が決まったらしい。物心ついた頃には佐竹氏が秋田市長を務めていて、いつからか県知事になっていた。たしか数年前に龍角散のテレビCMにも出演していた。秋田県が豪雨被害に遭った際、佐竹氏は県部長と宮城県にゴルフ旅行へ出かけていて、そのせいで関係機関との緊急会議に間に合わなかったのだが、その理由を虚偽申告したために、CMの放送が中止となった経緯がある。が、調べたところ、どうやら昨年からまた放送されているらしい。全国的に知名度のある商品のCMに知事が出演していること自体をまず問題視してしまうが、やはり「知事は人気商売」とは言い得て妙なのだろうか。ツイート検索などの結果を見るに、このCMはそれなりに受けがよいようだ。調べていたら「佐竹知事から県民の皆様へのお願い」という動画も出てきて、県民の皆様ではないながらに見てみると、佐竹氏が「県外から家族や親類を呼ばないでください」と訴えていた。昨年の四月に上げられた動画で、どこもかしこも慌てふためいていた時期ではあり、世界各国を見ても都市封鎖が容赦なく行われていたから、特別取り立てるようなことでもなく、この感じはある程度普遍的なのかもしれない。もしくは権力者としてはそう言うしかないのだろう。最終的には、権力側、体制側が発したメッセージを、個々の市民や大衆全体が内面化してしまうことに警戒するしかないように思う。
この頃なんとなく地元(出身県)愛を無理矢理つくりだして演じでもしたらちょっとおもしろいかなと思っているが、地域への愛の発露として行う言及が知事批判でよいものか。無理矢理感は漂っているかもしれないが。
ある文章が常体で書かれたとする。
ある文章が敬体で書かれたとします。
文体が選択されるということ、あるいは文体という性質それ自体は、書き手や読み手にどんな働きを与え(てい)るだろうか。まず、ある文体が選択されるにあたっては、書き手の志向以前に、書き手が置かれた環境、つまり文が書かれる環境が、ひとつの型として設定されるだろう。親しいひとに宛てる手紙と不特定多数に宛てるビジネス文書とでは、たとえ内容がおなじでも採用される文体が異なるはずだ。より卑近な例を出せば、Twitterで、Instagramで、Facebookで、LINEで、それぞれ採用される/されやすい文体は異なるのではないだろうか。それはいかに読み手にとって受け入れやすい文章を書くかということでもあるが、ある見方においては、その場(や場がもたらす文脈)が書き出される言葉に変形を強いているのだということもできはしないか。文が書かれる状況から、書き手は自由でいられない。
日常的な言語コミュニケーションの場合、ひとびとは、さまざまな状況に応じた文章の型を無意識に察知し、この状況ではこうした文体、この宛先にはこうした文体、とあえて考えるでもなく選択をし、文を書き出していることだろう。その点でいえば、書き手は文が書かれる状況からさほど不自由を感じない。他方で、こうして文を扱う場を「言語表現」として捉えようとした場合には、文章の型に対しては少なからず意識的であることが求められよう。わかりやすい例では定型詩が挙げられる。五七五の十七音による韻律と季語の設定という制約=型が、俳句を俳句たらしめるような独特のリズムを生み出す。型を自覚せずに俳句は書けず、型への意識が要請されるからこそ型から逸脱した句までもが成り立つ。言語に負荷を強いるある表現形式の独特のリズム(この「リズム」は音韻に限定されない)は、逆に言えば、その場に現れる文の表現由来を担っているともいえる。「古池や蛙飛びこむ水の音」の上の句を「古い池がある」ではなく「古池や」として立ち上がらせるのはまぎれもなくリズムの負荷である。つまりリズムは言語の変動要因として顕在化する。あらかじめ設定された舞台が用意するフレーム、それも日常的な言語運用における論理や規則とは大きく異なるフレームに、その抵抗力を借りて身体のかたちを変容させていく過程が表現と呼ばれるものであるならば、表現主体は歪にも見えるフレームからどのように負荷を受け取るかということを、みずからの身振りに組み込んでいかなければならない。
小説、詩、戯曲、往復書簡、対談の書き起こし、ある者の語り起こし、一人称視点のモノローグ、三人称視点の物語、公開されるエッセイ、私的な日記、未就学児向けの絵本、ポップミュージックの歌詞、新聞記事、広告のキャッチコピー、ホワイトボードに書かれる議事録、付箋に書かれたメモ、パワーポイントでつくられたスライド資料、クイズの問題文、大喜利のお題と回答、問題集の解説書、序文、あとがき、注釈、論文、論文のなかの引用文、公文書、憲法の条文、利用規約、契約書、街中に立てられた看板の注意書き、書店のポップ、トートバッグにデザインとして書かれた文、YouTubeの概要欄、匿名掲示板の書き込み、料理のレシピ、パーティの招待状、カフェのメニュー表。役割が付与された文章は、その役目を果たすだけの形式の上で書かれる。文を支持する場が所有する形式によって、文が書かれる外的要因たる場=型と内的要因たる表現主体の志向とが、判断不可能な状態で混在したものとして文章には組み込まれ、その文章から、場と書き手が混在した状態としての表現主体が事後的に発見される。これは、上に羅列したようなある程度類型化可能な状況、役としての文章だけでなく、未分化の散文も同様である。この文章が敬体ではなく常体で書かれていることは、書き手に由来するのか、それとも場に由来するのか、易々と判断できることではない。「この文章が敬体ではなく常体で書かれていること」という一文において、「文/文字列/テキスト/テクスト」などでも代替可能と思われる「文章」が「文章」として選択されたことは、表現主体の意思なのかリズムの要請なのか、これも同様に判断できることではない。
こうした前提のうえで、表現主体を歪に変形させる場から新たに設定し提案しようとするとき、どのような手法が考えられるか。端的にいえば、まだ発見していない文のリズム=文章の書き方はいかにして開発可能か。それを検討するには、日記という場はすこし頼りないだろうか。上から下までまったくうまく整理されていないが、日記(というか覚書?)なのでよしとする。
参考:【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part8)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト
コメントする 昨晩に深夜まで通話をしていたこともあり、十時頃になってようやく目を覚ます。それでも調子の悪い時期にはいつも昼過ぎまで眠りつづけることしかできなかったから、夜更かしをしても午前中に目を覚ませるくらいにはいまは状態が落ち着いているのだろうなと思う。眠気を抱え、ベッドのうえで横になったまま昨日の日記を書く。
十五時頃に本を持ってカフェにでも行こうかと思ったが、昼に辛ラーメンを食べたせいか胃腸がやけに動くから、いったん横になって躰を落ち着ける。窓辺から差し込む陽の光が心地よく、四〇分ほど眠る。この頃は昼寝をしても、そのまま夜まで眠ってしまうということがなくなった。その時々の睡眠との付き合い方には心身状態がわかりやすく現れるような気がする。十六時頃に家を出て、府中駅前のドトールでブコウスキー『街でいちばんの美女』を読む。正面の席にいた二人組がこちらに聞こえる程度の声量で会話をしていて、時折注意を奪われる。
──友情の上位互換が恋愛ではないと思ってるんだよね。
──仲良くなりすぎると恋愛対象にはならないなあ。
──そもそも男と女って単純に分けるのが変だよね。
──女ってだけで異性としか見られないときは怖いね。
──よく街中で女の肩に手を回して歩いてる男いるじゃん?
──あれキショいよね(笑)
──歩きにくいって(笑)
──ああいう型にすっぽりはまれるひとから幸せになっていくんだろうね。
どうやら外大生らしく(府中には東京外国語大学がある)、恋愛、ジェンダー、婚姻制度、就活、小説、映画、大学内コミュニティ……とシームレスに話題を乗り換えながら話が続いていてたのしそうだった。会話の内容から察するに、きっと優秀なひとたちなのだろう。
周囲の音に気を取られて集中を欠きながら読書をしていると、ぽんてさんから焼き肉に行こうと誘いのメッセージが届いて、行くと返事をした。待ち合わせにちょうどいい時間までカフェで過ごして、頃合いを見て電車に乗ったタイミングで、財布を持ってきていないことに気づく。だいたいの会計がiPhoneによる電子決済で済むからといって財布を持ち歩かない癖がつくと、こうして急な誘いが入ったときに都合が悪くなるなと思った。以前も同様の失態をして、同じことを思った覚えがある。指定された店に着いて、さっそく財布がないことを謝る。焼き肉店にくるのはひさしぶりかもしれない、と思いながら肉を焼き、酒を飲んだ。Sさんが先日三島由紀夫を読みましたと言っていて、その話を広げる手前で、遅れてきた出口さんが合流する。到着したばかりの出口さんから、たこ焼きを焼くのに飽きて肉を焼くようになったんですか? と笑われる。肉やハイボールがおいしい。近いうちの日本酒を嗜む会を約束して、解散する。
帰路につきながら、ひとと飲食をともにするとたのしいなと思った。そういう油断がよくないのだ、自粛をしろ、と言われかねないこの頃だが、コミュニケーションに対する欲望はそう簡単に否定したり抑圧したりできるものなのだろうか。散々食べたにもかかわらず小腹の空きを感じて、セブンイレブンで四個入りのドーナツを買った。焼肉店で悪ふざけで行った自撮りツイートにやたらといいねが付き、微妙な気持ちになる。
昨年の秋頃から詩に関心が出てきて、今年に入ってから積極的に詩集を買い集めている。関心を持つようになって、詩集を扱っている書店がそう多くないことを知った。たとえば府中の啓文堂書店では、文芸書はほとんど文庫本でまかなわれていて、そもそも単行本の小説などが置かれた棚はごくわずかしかない。小説と詩では前者の読者の方が多いだろうから、わずかな文芸書の単行本コーナーにはとうぜん詩は置いていない。きちんと確認したわけではないが、たぶん谷川俊太郎の詩集がいくつかあるくらいだったと思う。また、今年から現代詩手帖を毎月買っているが、啓文堂書店府中本店ではこれも取り扱っていない。取り寄せてもらうのも面倒だから、現代詩手帖は新宿の紀伊國屋書店かブックファーストで買っている。府中には古本屋もブックオフくらいしか目立ったものはなく、徒歩圏内には夢の絵本堂という古本屋もいちおうはあるが品揃えはあまり芳しくない。新宿で買った現代詩手帖を読みながら、おもしろそうな詩集を知ったとしても、それを買うためには府中の外へ出なければならない。府中で詩を嗜むことはむずかしい。
近所の書店事情がそんなところだから(そういえば今年のはじめに、分倍河原にマルジナリア書店という小さいながら人文書が充実した書店ができた。ツイッターをみたら店長だった方が四月一〇日付で退職したらしい。)、詩を集めるためにはまず詩を中心に扱っている書店を知る必要があった。新刊であれば紀伊國屋書店で事足りるが、やはり古本屋が望ましい。金銭的にもそうだし、新刊で手に入りづらい、過去に刊行された詩集などもたくさんある。文芸に詳しい友人が身近にいるわけでもないから、ネットで書店や詩人の横のつながりをさぐって都内の書店に当たりをつけて、順番に足を運んでみる。そんな古本屋巡業のようなことをこの頃している。
吉祥寺の古本屋「百年」、三鷹の「りんてん舎」「水中書店」にはじめて行く。とりわけりんてん舎の品揃えには驚いて、小さな店舗であるにもかかわらず一時間近く(盛っているかもしれない)本棚を眺めていたように思う。古本屋を三軒まわって、岩成達也の詩集と詩論集、田口犬男の『モー将軍』などを買った。岩成達也の詩論集は図書館で借りて読んだことがあったが、新体詩からはじまり、萩原朔太郎の『詩の原理』を経由して、モダニズム詩へ……と日本における詩史を順に辿っていくように各期に対する論考が並んでいて、歴史書としていつでも参照できるよう手元に置いておきたい一冊だ。田口犬男の『モー将軍』は、すきな詩人である鈴木一平さんが紹介していて気になっていた詩集だから買えてうれしい。一五〇〇円で売られたのだけど、かなり価格が高騰している一冊でもあり、いまAmazonではいちばん安いところでも五〇〇〇円する。五〇〇〇円ではさすがに買えない。古本屋を直接訪れて根気よく探すとよいことがある。
こうして毎週本屋で買い物をしているとじわじわと金銭的によろしくない状況に陥っていく。よろしくないとわかっていながら本を買い、ここまできたらもういくら出費しようと大差はないと、帰りに日高屋に寄ったりする。これではいけない。一旦本の購入をストップして、集中的に読む期間でもつくらないとそろそろまずい、とはつねづね思っている。
帰宅して、オンラインで行われる哲学カフェに参加する。たびたび通っていた集まりではあるが、このご時世でオンライン開催に移行してからははじめての参加だった。哲学カフェとしてテーマに沿って二時間ほど話して、その後は打ち上げとして四時間ほど好き勝手に話をする。後半からワインを飲み始め、しゃべりが快調になる。哲学カフェの主催であるOさんが陰謀論系のYouTuberがおもしろいと語りだす。陰謀論系動画の話の流れから、小山圭吾というスピリチュアルなYouTuberを紹介される。小山くんにはテレパシー能力があり、元暴走族で、視聴者からの電話相談に真摯に受け答えしていて、たまにすごくいいことを言うらしい。動画の配信を六時間ほど行うこともあるようで、Oさんは長いと嘆いていた。ひとしきり笑って、解散する。
コメントする 電車でとなりにいた、この春からの大学生と思しき二人組が談笑をしている。話のなかに共通の友人と思しき人物が登場して、その友人の名前はナオヤくんだという。かくいう私も、戸籍上は「ナオヤ」という(読みの)名が登録されていて、十代の頃までは周囲の同級生などから「ナオヤ」と呼ばれていた。いま付き合いのあるひとたちはもっぱらネットで知り合ったひとだから、名を呼ばれるとすれば、「むーさん」だとか「むーくん」だとか、「むぅむぅさん」だとか「むぅむぅくん」だとか、敬称なしで「むぅむぅ」だとか、まあだいたいはそんな感じだ。人間らしい名前から離れて久しい。サブカルチャーの批評家にさやわかさんという方がいるが、さやわかさんが出演するトークイベントを見ると対談相手から「さやわかさん」と自然に呼ばれていて、それをいつもなんとなくいいなと思っていた。「むぅむぅ」という個人の名前としてはあまりに腑抜けた名前で名指されることは、人間らしさから逃れることを許されているような、かつ、名前のキャラ化によって、しかも記号化される以前のキャラとして現実に風変わりな層を重ねているような、そんな感覚がありおもしろく、気分的にも悪くない。ツイッターを主とするインターネット上での言動から仮構され、発見される「むぅむぅ」なる主体は、私自身がおもしろがりながら鑑賞できる対象でもある。
ちなみにネットを介さない相手の場合は「ムトウさん」か「ムトウくん」と呼ばれる。したがって「ナオヤ」で名指される機会は、ここ数年ではメイド喫茶で「ナオヤ」と名乗ってしまったときの一回くらいしか心当たりはなく、要するにこの名が使用される場はほとんどない。しかし、「ナオヤ」が形骸化した現状でありながら、近くで「ナオヤくん」と連呼するひとたちがいるとやはりそちらに注意を引かれてしまうことに、当たり前と驚きが混在したような居心地の悪さを感じた。そして、妙に親しみのある「ナオヤ」を聞き流しながら、今後も引きつづき「ナオヤ」と呼ばれる機会からは遠ざかる一方なのだろうと思った。こうして表明すると冷やかしで呼ぶひとが現れそうでもあるが、じぶんとしても「ナオヤ」で呼ばれることにはもう抵抗があるし、呼ばれたらやめてくれと制止してしまいそうな予感もする。親しみの態度として、ファーストネームで呼ぶことを好むひとも一般には多いのだろうが、私自身はそれもあまり好きな風潮ではない。たんなる記号といってしまえばそれまでで、べつにこだわることでもないとは思うが、ある主体が対象をいかに名指すかは、その主体が対象をどのような姿として現前化しようとしているかということでもあり、いかに対象がまなざされているかということの現れでもある。そのような過程によって私を経由して見つめられた私の姿や、その距離を、私が引き受けられたり引き受けられなかったりすることは、日常でよく見られることである気もする。
府中に着いて、グミが食べたいと思い、おかしのまちおかに寄った。ペタグーというグミのメロンソーダ味を買った。数年前は、コンビニに行けばおかし売り場でも群を抜いてグミのコーナーが充実していたが、いつからかグミの新商品が出るペースは遅くなり、グミ売り場もしばらく寂しげな光景が続いている。グミの情勢が落ち着いたこのご時世において、わりとあたらしめに出た商品のなかでもペタグーはヒット作といってよいだろう。グミが盛り上がっていた当時はとりわけハード系のグミが強い存在感を発揮していたが、ペタグーはその名のとおりぺたんとしていてひらべったく、その食感はかつてのグミブームでは見られなかったものだ。味もいくつか種類が出ているようで、たぶん売れ行きもそれなりなのだと思う。ピュレグミやタフグミもおいしいが、それだけではつまらないから、こうした新勢力が着々と地位を得ようする様子が見受けられると、グミ好きとしてはうれしいかぎりだ。
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