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N.Mu Event Context 投稿

日記210319

 なんか蕎麦を食べたくなってきたな、と思ったのはたぶん勤務先近くに蕎麦屋があるせいだ。出勤の時間帯には仕込みが始まっているのか、店前を通り過ぎるときに出汁の香りがすることもある。朝は食欲がまったくなく、食事の香りを嗅ぐと気持ちが悪くなってしまうからあまりいい気分はしない。昼も食事を摂る気分ではないから昼食にその蕎麦屋へ行く気も起きない。昼食はコンビニで買った適当なパンで十分だ。夜は早く帰宅したい。帰宅して何があるわけでもないが、とにかく自宅で気を緩めたい。毎日そんな感じだから、そして今後もきっとそんな感じだから、勤務先近くの蕎麦屋に行くことはおそらくない。
 近所のスーパーで蕎麦を買って自宅で茹でる。冷蔵庫にうどんが残っていることはわかっていたが、蕎麦を食べたかったので蕎麦を買う。こうして要らぬ出費が増えていく。金銭状況を気にしているうちに蕎麦が茹で上がる。適当に出汁をこしらえ、レンジで温めたほうれん草を乗せ、生卵を落とす。ささっと用意した蕎麦を食べてみると、どうも思っていた蕎麦のイメージからは程遠い。蕎麦らしきものでは満足には至らない。そういえば近所に蕎麦居酒屋を謳った飲み屋がある。何度か足を運んだことがあるが、訪れたのはいずれも友人が遊びにきたときである。流行りの病の影響もあって、ここしばらくは友人が遊びにくる機会もないから、その飲み屋にも行っていない。このご時世だから、いまもまだ営業しているのかすらはっきりしない。ひとりで外食をするのが苦手だから、この先もしばらく行く機会がないかもしれない。
 昨日、図書館からデリダの『絵葉書』を借りてきたので読んでいる。実験的などとよく言われているから警戒していたが、ソレルスやル・クレジオなどの仏小説をいくらか読んでいるおかげか、べつに文体に対する違和感はなく、むしろおもしろく読める。おもしろく読めることと理解できることとはまったく関係がないのだが、それでも内容的に興味深い点も多くある。その傍らで、ユリイカの大林宣彦特集号に載っている山本浩貴さんの論文を読み返している。どこか『絵葉書』に接続する問題系があるようにも思う。というか、山本さんの論文で挿入されている図を念頭に『絵葉書』を読むと、送り手・名宛人・宛先・郵便・遠隔通信などのキーワードを具体的に描ける感覚がある。この頃はかなりざつに本を読んでいたから、こうしてテクストとテクストのネットワークをつくりながら本を読めるのがひさしぶりでたのしい。

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日記210318

 毎日飽きずに同じような食事を摂っている。飽きているのかもしれないが、それ以上に食に変化をつけることがわずらわしい。だけど今日はめずらしく、なにか少し気分を変えたいような気分でもあり、帰りにスーパーで〆さばの棒寿司を買った。しょせんはスーパーで買う寿司だから、食べてなにか感動があるわけではないが、食事からいつもと異なる刺激を得ることは鬱の予防とかにもいいんだろうなとなんとなく思いながら、親しみのない味を感じとる。
 一般に、寿司を見定める判断のひとつとして回る/回らないという見方がある。多くの場合、一方で回る寿司は安価で大衆向けとされ、他方で回らない寿司は高価で立派なものとされる。これらは回転寿司店がもたらしたイメージであることは言うまでもなく、寿司に回転のイメージを強固に付与した回転寿司店の影響は何度考えても驚くべきことであるように思う。
 ところでスーパーの寿司は回らない。回らないが、寿司の持つ特性としてはむしろ回る寿司に挙げられるそれに近い。安価、大衆向け、米が硬い、ネタが乾いている、誰が握っているかわからない、たぶん機械が握っている、その他云々。これらはチェーンの回転寿司やスーパーの寿司に共通する。つまり、回る寿司の根幹を支える性質は回ること自体には宿っていない。というか回る寿司において、寿司自体は回っていない。寿司は皿の上に乗せられているだけであり、皿はレールに乗せられているだけであり、レールが円形に沿って動いているだけである。そう、寿司はただ置かれているだけだ。たんにディスプレイされていることを回ると読み替えているだけだ。それゆえに、スーパーに陳列されている寿司もあきらかに回ってはいないのだが、陳列されているという一点に由来して回る=ディスプレイされている寿司と呼んでも差し支えない。どうやらスーパーの寿司は回る寿司だったらしい。
 では回らない寿司の方はどうか。回らない寿司屋には動くレールはない。動くレールはないが、職人の手は絶えず動いている。客から注文を受けるたびに新たに寿司を握る。日々の修行により磨き上げられた技術。研ぎ澄まされた一挙手一投足。寿司を握る動きは、まるで同じ円を何度もなぞるようで一寸の狂いもない。実は回らない寿司は回る寿司以上に強烈なエネルギーの作用から立ち上がっており、円的な運動に支えられている。もうおわかりだろう。つまり、回らない寿司こそが回っているのだ。つい視覚情報ばかりを信頼してしまうが、寿司は不可視の領域でこそ回転をしている。回らない寿司は、回っているからこそ高級なのである。
 などと無茶苦茶なことを、それなりの熱量で、かつ、早口で捲し立てたら妙なそれらしさを帯びてしまい、なぜかひとを納得させてしまうことがある。声によって届けられる言葉はどうも信用がならない。信用できないからおかしくておもしろい。
 何かを回し続けるためには抵抗は少ない方がよい。しかし、つねに同じところを回り続けていたら、やはり飽きてしまう。だから、抵抗を受けながら回し続けるためにはどうするか、あるいは、抵抗を受けながら回し続けることを試すにはどうするか。そんなことばかり考えている。

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日記210317

 今朝見た夢にまた東浩紀氏が登場した。これで三日連続だ。しかし夢の話ばかり書いていてもおもしろくないのでこの話はこれでおしまい。

 日記に書くべきこととはいったいなんだろう。一般に日記といえば、その日に起きた出来事を書き連ねることが多いのだろうが、私の場合はその日に思ったことや考えたこと、もしくは感情の浮き沈みばかり書いているように思う。それゆえに「と思う」や「な気がする」などを用いてあいまいに締められる文も繰り返し書かれる。毎日毎日あいまいさのなかを泳いでいる。
 現実に体験した出来事が描写されず、より内面的な思考や感情ばかり書いてしまうのは、たんに記述するような出来事に遭遇していないことに由る。粛々と労働の勤しむ日々にドラマチックな場面などあるはずもなく、平坦な日常にあることないことこじつけて日記の上でだけドラマチックな一日を仕立て上げてもよいのだが、そもそも日々にドラマを求めているわけでもない。仮に誇張した一日を書こうとしても、もとより私は嘘をつくのが苦手で、ありもしないドラマチックな一日をあたかも体験したかのように記述することは難しいように思う。
 ドラマチックな一日。感動的な、劇的な一日。そんな日がみずからに降りかかってくるとしたら、はたしてどんな出来事が起こるだろうか。道端で偶然ばったり東浩紀氏に遭うとか、そういう感じだろうか。それはまあ驚くかもしれないが、ただ著名人に遭遇したところで劇らしさはどこにもない。劇的という以上、一時的な驚きの体験をするだけでなく、それなりに道筋の立ったエピソードであることが求められるし、それなりに道筋の立ったエピソードをわずか一日のうちに求めることは浅ましいように思う。平坦な一日をただ持続する。繰り返す。飽きても続ける。繰り返す。だって繰り返すことしかできないのだから。そういえば、東浩紀氏が先日行った配信でかっこいいことを言っていた。〈必然に時間がかかることを待たなければならない〉。
 とはいえ試しにドラマチックな一日を考えて書き出してみようかと少しばかり考えてみたが、やはりできなかった。想像力のなさはもちろんのこと、己が考えるドラマチックとやらが可視化されてしまうことへの恐怖が書く行為に抵抗を与えてくる。私は私が書けることしか書けない。私が書けることは私が書けることでしかない。書きたくても書けないこと、書こうと思っても書けないこと、書けるけど書かないこと、書けるけど書けないこと、こうした文章は私の手で書けそうであっても、私の手から書かれることはない。私はじぶんにとって抵抗の少ない文しか書くことができない。

 私には書けない文があるように、私には読めない文がある。日頃から見聞きしている日本語で書かれているにもかかわらず、読めない文がある。語彙が難しい、文脈を知らない、知識が及ばない、想像が追いつかない、リズムが合わない。自身の至らなさを原因の大部分に、私には読めない文章が多くある。いま、ボルヘスの『砂の本』を読んでいる。文化的背景や(固有)名詞のわからなさや類型化できないエピソードに戸惑い、本来文字が表象しようとするイメージに到達することができず、ただ文字を文字として漠然と読んでいる。わからないまま文字を追っている。わからない文をわからないものとして読んでいる。こうした情けない読書態度から、みずからの内に類型化された概念や意味情報しか読み取ることができないのならば、いったい何のために本を読んでいるのだろうかと自省することもある。本だけではない。私が目にするあらゆる情報に対して、私は私自身を見ることしかできないのではないか。そんな不安がある。細やかな差異やわからなさを無視して、じぶんにとって類型化可能な性質だけを抽出し、知った顔を装う。そんな暴力的な振る舞いをしてはいないだろうか。いや、きっと何度も、到底数え切れないほど行っている。していないはずがない。というより、おそらくそうでしかいられない。傍若無人なわかった振り。それを思えば、わからない本をわからないまま読み続けることもそれなりに大切なことのように思う。わからないから読み続ける。わからないから手元に置き続ける。わからないまま読み続けていれば、いつか何かをきっかけに少しわかるときが来るかもしれない。そうして生じるわかりというのは、じぶんにとっても重要で必然的な気づきになるんじゃないかと思わなくもない。必然に時間がかかることを、私は待たなければならない。

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日記210316

 昨日の日記で夢に東浩紀氏が出てきた話を書いたせいか、今朝の夢にも東氏が出てきた。地震があったのはその夢をみる前だったと思う。揺れで一度目を覚ましたが、まどろみのなかの振動にちょっとした心地よさを覚えながらまもなく眠った。津波を引き起こさない程度の地震が日常に溶け込んでいる。ただやみくもに大地が揺れるだけでは夢は壊せない。壊れてくれない。

 そういえば年度末だなと気づき、そういえばいまの勤務先と結んでいる雇用契約は年度末までだったなと思い出した。いまのところ特に契約更新の話はない。雇用契約書を確認すると「契約更新:あり 但し、勤務態度や能力による」との記載がある。微妙な書き振りにどうも判断がつかない。調べてみると勤務期間が一年未満であれば三十日前の解雇予告も不要らしい。私はいまのところに勤め始めてまだ半年も経過していないため、契約終了直前になって雇い止めを申告される可能性も十分にある。勤務態度云々に関しても、勤務を開始してすぐからいまに至るまで体調が不安定で、そのせいで何度か欠勤もしていて、加えてこの頃は勤務中に激しい眠気に襲われがちでもあり、勤務したところでろくに働けていない。うとうとしている。この有り様では雇い止めでも仕方ないとは思うし、自身の感覚としても、フルタイムで働くこと自体がいまのじぶんには無理かもしれないとまあ本気で思っている。あまり世間体は気にせずに、まずはじぶんにできる生活を見つけたい。

 もし失職したらとりあえず好きなだけ眠ることにしよう。見れるだけの夢を見よう。それが悪夢だっていい。肉体を引き裂かれるような絶望感も日常では体感できない。怖い、苦しい、痛い、悲しい。そんな感情を生々しく受けとることから遠ざかって久しい。そのまま夢のなかに置き去りにされたって構わない。どうせそんな願いが叶うはずもなく、あれよと現実に引き戻されるのだから。夢見ることを夢見るくらい許してほしい。好きなだけ夢を見て、目を覚ましたら書きたいものがある。書きたいもののために読みたいものがある。悠々自適に無責任に生活して、いつか生活ができなくなったら、これはそういうものなのだと思うことにする。そう思えるように、そういうものに陥るまでは、じぶんがちゃんと生きるためのじぶんにできる生活をさがしたい。

 雇い止めに夢を見ている。できることならもっと地に足を着けていたいのは内緒である。

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日記210315

 何も根拠がないことをとりあえず大袈裟に言い切る様子はおもしろい。言い切っちゃうとなんとなくかっこいいし。寝れば治る。筋肉は裏切らない。巨人軍は永遠に不滅。世界を征服しに行こうぜ。人の夢は終わらねェ。あなたを愛してる。安易に言い切ってしまうことの軽薄さを嘲笑してもいいのだが、スパッと切ってて豪快だなあおもしろいなあと受け止めるのがほどよい気がする。皮肉でもなく冷笑でもなくちゃんとおもしろがれたらたのしいように思う。アフォリズムは祈りに近い。おもしろいという真剣さで受け止めて、いつか祈りが叶えばなおうれしい。おもしろがるというか、興味深く寄り添うと言うほうが適切だろうか。
 一方で、言い切ることは記号化の暴力でもある。おもしろがって大雑把に刀を振り回していれば、当然ひとを刺してしまうこともある。筋肉だって疲れて気を抜いていたり誘惑に負けたりして、結果的に誰かを裏切るような事態を招いてしまうことはあるだろうし、裏切らないと周囲に思われてしまうことの圧力を常に感じてしまう状況が作り出されてしまっているとしたら、それは筋肉への暴力である。だから、言い切る側が、これはあえて根拠なく大袈裟に言い切っているのだとメタ視点で理解しながら言い切るだとか、あるいは、生身のひとに対しては言い切らないようにするだとか、刀の取り扱いにはいくらか注意が要るだろう。むろん、ここまで書いたことは一切の根拠を持たず大袈裟に言い切っているだけであり、以下に続く文章も同様である。

 今朝、夢に東浩紀が出てきた。エヴァンゲリオンの映画についてうれしそうにたのしそうに語る東氏に対し、ぼくエヴァってまったく観たことないんですよねと夢のなかの私は述べる。東氏は驚愕しながら、観ないとかないから、観るしかないんだよ、と冗談めかしく非難する。
 さいきんは東氏が夢に登場することがたびたびある。私の無意識が何をしたいのかは知らない。ただ察するに、そもそも私の交友は広くなく、頻繁に会う機会のあるひとといえば職場のひとたちくらいである。その職場のひとたちとも勤務中の事務連絡以上のコミュニケーションはほとんどしないし、常にマスクをしているからろくに顔も見たことがない。まともに、かつ、何度も顔を見る相手はこの頃月一で会っている友人くらい。いまとなっては他人の顔を見る機会はネット上での方が多い。ではネット上で見かける顔が誰の顔かというと、ゲンロン完全中継チャンネルに加入し東浩紀氏が登壇する動画を連日見ている私にとってのそれはやはり東浩紀氏なのである。ここ半年でいちばん長く顔を見ている相手は東浩紀氏であるに違いなく、この頃の私が抱く人間一般を象徴する標準的な顔のイメージが東氏の顔である。それを思えば、何度も夢に出てくることも納得がいく。

 昨日はネットでやりとりしているひとと初めて直接顔を合わせて数時間お話しをした。一昨日はネットでやりとりしていて、以前に一度だけ会ったことがあるひとと数時間通話をした。今日は週五で顔を合わせる勤務先のひとたちと会い、特に話はしなかった。会ったこともないネット上のひとは顔も素性もよく知らないし知人とか友人とか呼んでいいのかよくわからないなとたまに思うが、じぶんの交友関係を振り返るに、テキストや声のみで関係しているひとたちの方が相対的には知っているひとたちではある。顔を知らないことはこのご時世では問題にならない。ではインターネットで交流している彼らは私にとって知人や友人と呼びうる存在なのだろうか。
「知人」や「友人」とカテゴライズすること自体にどんな意味や効果があるのかは知らないが、利点といえばせいぜいこうして日記などを開かれた場で書こうとする際に容易に匿名性を保ちながら端的に記せて楽であることくらいだろうか。ではネット上でのひととの出来事を日記に記そうとしたときに「知人」もいまいちピンとこないとして、仮にたとえば「インターネットのひと」と記すとしても、私にとってインターネットのひとであっても別にそのひとが骨の髄からインターネットのひとであるはずもなく、まず何より現に生活しているひとである。関係性を記号的に処理しようとするとき、どうしても非対称性が問題となってくる。それはさておき他人との間で起こった私的な出来事を開かれた場で書くべきではないのではないかという疑問は一旦横に置いていただきたい。
 ネットだから知らないということも、何度も会っているから知っているということもない。繰り返すがこの頃の私がいちばん知っているひとは、外見的にも思想的にも東浩紀氏である。結局、いかにどれほど知っているかに重きをおくと、比較的身近にいるひとよりも遠くにいる著名人の方が、私にとっては親しいひとになってしまう。しかし言うまでもなく、東氏は私のことを知らないため、私は東氏と知り合いではない。しょせん私が知っているのは、私の内面で生成されたメタ東浩紀でしかない。こうなるとだんだんひとを知るということが、現に関係することや親しくすることにおいてさほど重要ではないようにも思えてくる。そうだとすると相対的に知っているからといって、そのひとらを知人や友人などと呼べはしない。ひとと知り合うことにおいて鍵となるのは、「知り」ではなく「合う」の方だということになる。いよいよもはや何をもってコミュニケーションが行われ、そこから何をもって親しみを得ているのかもわからなくなる。どうせ何もわからないのだから重々しく考えず、とりあえず適当に「知人」とか「友人」とか言い切ってしまえばいいんじゃないかと、半ば強引に冒頭に回帰させてみると、それらしく文章の終わりに向かっていく雰囲気を出せてよい。Instagramに「親しい友達」という機能があり、他にもっといい名はなかったのかと常々思っていたが、あれもまた、「親しい友達」と言い切ってしまうことのおもしろさの提案なのかもしれない。
 いっそ先人を見習って、ここで書かれる日記の登場人物をすべて「エヌ氏」で統一するのはどうだろう。その場合は私自身もエヌ氏とすべきだろうか。

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日記210314

 相変わらずやる気なく時間を過ごしながらインスタグラムを眺めていると、ネット上でいくらかやりとりをしているひとが茶をする相手を募集していたから、じぶん暇ですよとメッセージを送った。じぶんから誘いをするのは苦手だから、募集に手を挙げる方式はとても助かる。さまざまな募集に対し気軽にほいほい手を挙げるのは、それはそれで軽薄な態度にも思えて、そんな軽い輩に思われたくないとかなんとか言い訳してじぶんの重みを守りたくもなるが、少なくともいま現在、重いとか軽いとかの判定をしているのは自分自身以外になく、誰に対してなにを守ろうとしているのかよくわからない。だから手を挙げたくなったらとりあえず挙げるといい。いまのじぶんに求められているのはそうした自然さであり、また、脱ひきこもりを掲げるこの頃において外に出る機会やひとに会う機会は多ければ多いほどよい。疫病の流行りもあって世の潮流としてはひとと会わない方に舵を切るのが正しいのだろうが、ひとにはひとの事情がある。
 指定されたカフェに到着すると、じぶんが移動している間に先方は偶然知り合いと出会ったらしく、初めて見る顔のひとが二人いた。不思議な感じがした。軽く挨拶をして、さてどうしようかなと様子を伺っていると、じぶんピン芸人やってるんですよと口を開いたのはネット上でやりとりをしたことがない方だ。そこからの展開がまあ凄まじく、その彼は惜しげなくネタを披露し、惜しげなく制作論を話し、それらがじぶんにとっては逐一深刻なものとして突き刺さるテーマ性を帯びており、怒涛の勢いで繰り広げられる語りを聞きながら、とにかく感動した。刺激を受けた。こんなにすごいひとが世の中にはいるんだなと素直に思った。メディア越しであればすごいひとなんていくらでも目にする機会があるが、間近で、目の前で、というか隣の席で、直に空気の振動が伝達されることによってその存在を体感するという経験はいまだかつてなかったかもしれない。身の回りにも尊敬する知人友人はいるが、ひとと話してここまでの衝撃を受けた経験はざっと思い返すに見当たらない。
 正常であること。異常であること。ぼくらは多くの場合、自らは前者であると思い込む。お笑いであれば、異常者を正常者がツッコむことで観客は笑いを誘われる。そこで生じる笑いはじぶんが正常側であることの安心でもある。異常者は正常者につっこまれることで異常的行動がリセットされ、正常世界においてネタが進行する。お笑いという舞台でさえ、ネタという虚構上でさえ、異常者は異常者のままではいられない。その彼は、そこにNOを突きつける。異常者が異常者のままコントを続ける。いや、異常者に寄り添うことによってコントが続けられる。観客=正常者の都合や論理によって(ツッコまれる対象としての)ボケが発言されるのではなく、演じられる人物にとって切実なものとしてたんに言葉が発せられる。一見虚言や妄言にも思える異常的発言を異常的と思いながらも、否定としてのツッコミを入れることなく、あくまで切実なものととして扱う。こうした態度はつまり狂気に対するやさしさであり、それは権威や体制に扱える代物ではなく、オルタナティブな表現ゆえに可能なものだ。このコントで生じる笑いは決して(権威側であることの確認がもたらす)安心に起因していない。この笑いは妙なおかしさによって支えられている。そして、妙なおかしさに寄り添い、妙なおかしさが笑いとして場に共有されたとき、はたして妙におかしいのはどちらなのかと疑心に駆られる。演じられている虚構上の人物とそれを見ている現実の私、どちらにおかしさが帯びているのだろうか。自らの正常性がゆらぐ。正常と異常が反転する。
 お笑いに対し、このように御託を並べて解釈しようとする態度は、あまり好まれる類のものではないだろう。ましてや舞台上でのネタを観たわけでもなく、たんにカフェで話を聞いただけである。しかし、それでも私はこのように受け止めた。あまりにも切実で、深刻で、誠実なものと受け止めた。受け止めてしまった。誤読であり、誤解であっても構わない。私はそう受け止めてしまったのだ。虚構を演じることによって、現実を覆う虚構性を一息に剥ぎ取るネタを、笑いではなくやさしさとして受け止めてしまったのだ。これもまたひとつの異常性であるのかもしれない。正常者にとってのツッコミの対象でしかないのかもしれない。しかし彼の異常性への寄り添いに心を打たれ、感銘を受ける者は少なくないのではないだろうか。彼のコントに涙を流してしまうひとがきっといるはずだ。現に私がそうなのだ。彼を知ってしまった以上、私は彼の今後の活躍を応援せざるにはいられない。
 外に出て、ひとに会いに行くといいことがあるなと思った。

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日記210313

 しばらくゴミを捨てにいけてなく、捨てにいけていないというか面倒で溜め込んでしまっていただけではあるのだが、そのせいで廊下を歩くことが困難になってきたため、ようやっと重い腰を上げてゴミを集積所まで持ち込んだ。自宅と外のゴミ集積所を往復しているあいだに、細かった雨は大粒になり、時間あたりに降る量も増えているようだった。ゴミを捨て終え、ぼんやりしながらインターネットで動画を見ていると雨や風はますます強くなり、本を持ってカフェでも行こうかという思いを断念した。気圧も急落しているようでなんとなく身体がだるかった。
 夜にひとと通話をする予定があり、それに向けてkeynoteで作成していたスライドを微調整する。スライドを用意するとどうしても作成者が一方的に話すという構図に陥りやすい。会話とは語り手と聞き手が絶えず交代されるものであり、一方的にしゃべりたいだけなら壁にでも向かって話せばいい。もしくは、インターネットを使えばおしゃべりを配信する手段などいくらでもある。自己言及するようにそのような旨を書いたスライドを見せ、考えを述べたところ、会話は一方的ではなく聞き手も非言語的な反応によって話を聞きながらにして情報を送ってもいると指摘を受け、それは確かにその通りだと思った。
 スライドを用意したおかげでこの頃に考えていたことを十分な時間をかけながら話すことができ、いくつかの鋭い指摘を受け、そこから脱線し、どんどん遠退きながら展開された会話の内容も興味深く、じぶんは相当に満足しているのだが、相手の満足度如何については知る由もない。そのことにいつも不安を感じるが、でも、そんなものなのかもしれない。ある劇を観ておもしろいと思ったならまたその劇団による公演を観に行くことがあるだろうし、おもしろいと思わなかったならまあ観に行かないだろう。おもしろいと思っても縁がなくて観に行かないこともあるかもしれず、おもしろいと思わなかったけど縁があって観に行くこともあるかもしれない。たまたま観た劇が以前観た公演と同じ演出家によるものだということもあるかもしれず、そのことに気づいたり気づかなかったりする。瞬間的な「満足度」など気にしても仕方がない。というかそもそも、ひとはそのときに話した内容などあまり気にしていないらしい。
ぼくはじぶんにできることしかできず、できることを愚直にやることしかできない。じゃあぼくにできることってなんなのかといえば、ひとと話す場に合わせてスライドを用意するとかになるわけだが、珍妙な劇を好むひともどこかにはいるだろう。ぼくが珍妙な劇を見たらおもしろいと思うから、ぼくも珍妙な劇を用意しようとする。なるほど、そんなにおかしな話ではない。
 週一くらいで考えごとや関心ごとについてひとと自由に話す機会を得られるとかなり救われる感じがある。週一くらいでひとと自由に話す機会が得られるだけで精神的に安定しそうな予感がある。そういうサイクルをどうにかつくりたいと思うし、たぶん、どうにかがんばってじぶんでつくっていくしかないのだろう。

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日記210312

 職場で食パンを一斤もらった。じぶんで食べるには持て余しそうだったから、友人にあげることにした。「食パンいりませんか?」と連絡をしたところ、すぐに快く受け取ってくれると返答があった。貰い物の食パンだけ渡すというのも芸がないなと思い、職場近くの珈琲焙煎所でコーヒー豆を買った。
 友人らしい友人もそう多くなく、ましてや労働終わりにひとに会いに行くなんてことは滅多にない。まあでも世の中そんなもんでしょ、とは思っていたが、いざこうしてひとからものを貰ったことをきっかけに、ひとに会う機会を得て、気になりつつも訪れたことのなかった珈琲店に行く機会にもなり、友人宅で飯をごちそうになり、近況を話し、最近の考えを話し、かっこいい音楽を教えてもらい……とかなんとかを経て、ほんのすこしだけ自分の世界が広がったかのような感覚が得られることはおもしろいなと思う。
 じぶんは基本、ものに興味がなく、たとえば小学六年生の頃から同じ財布を使っているし、高校三年生の頃に買った靴をいまだに履いている。着るものはとりあえず着られればなんだっていいし、食べるものはとりあえず食べられればなんだっていい。しかし、ひとにあげるとなると事情は変わってくる。お世話になっているひとであればあるほど、食べ物だったらできるだけおいしいものをあげたいし、雑貨だったらかわいいものをあげたい。となると、いざひとにものをあげようとしたときに、自分のために適当に済ませてきたものしか知らないとたいへんに困る。つまり、ひととかかわることがじぶんを関心のない事柄へと進ませるし、かかわってくれているひとがじぶんを関心のない事柄に誘い込んでくれる。
 難なく人間関係を育めるひとにとってはきっと当たり前のことなのだろうが、これを新鮮な出来事と思う者もいる。

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日記210311

先週の土曜日が勤務日だったからその代休で労働がなかった。例によって特にすることもなく、とりあえず外に出ようと考え、まあそういう日だしと思い、日本科学未来館でいま特別展として行われている「震災と未来」展へ行った。場所が場所だし、企画の主催もNHKだし、そこで何かが見れるという期待などむろんあるはずもなく、けれども、10年も経つわけだから何かがあってもおかしくなく、もしかしたら、ひょっとして、何かあるかも……? とどきどきしながら会場を観て回ったがやはり何もなかった。こんなにダメでいいのか。自宅にはテレビもないから、こういう場にでも来なければそれなりにおおきな画面で震災当時の映像をある程度の量でまとめて観る機会は得られないかもしれない。その点では貴重な機会といえばそうなのかもしれず、訪れた意味が一切ないとはいえない。でも、映像だけホイっと投げて、あとは適当に画面観ててくださいね、みたいな展示はべつに展示じゃなくていい。ネットでみれるし。記憶を想起することも、記憶を継承することも、あるいはそうした記憶にまつわる営みが私たちに何をもたらすかだとか、何も考えていないし、考えさせようという気もないし、そんなことは考えなくていいと思っているんじゃないかな。それにしても原発に関する資料がずいぶん淡白ですね。現在進行形で抱えている問題なんですけどね。「被災者アンケート」と書かれたパネルに、「2021年3月で震災から10年となります。当初、あなたが思い描いていた復興と比べて、今の復興の姿をどう考えますか?」という質問に対して48.8%が「思い描いていたより悪い」と回答した結果が載っているけど、こういうのどう受け止めて、どんな思いで掲示しているんでしょうね。そんなことどうでもいいよね。羽生結弦さんの衣装を展示できてよかったね。なんだそれ。くだらねえ。こんな津波に襲われたら真っ先に、かつ、最大級に被害を受けそうな地でよくもまあこんなお気楽で。ほんとうに思想がないんだろうな。ノンポリであることはきっと公平性とはいわないよ。まあ、国に根底となる思想がないのはラッキーなことで、ないのだから私たちでつくってしまえばいい。というか、つくらなきゃいけない。未来は私たちの手にかかっています。ああ、なるほど、「震災と未来」ってそういうことですか?

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日記210309

夕方頃になるとなにをやっていても必ず眠くなる。身体の力が抜けて座位を保つことすらままならない。まぶたは重く、眼球は光の受容を拒む。そんな状態で業務を行うことができるはずもなく、眠ってはいけないとウトウトに耐えたり耐えられなかったりしているうちに終業時間を迎える。
こうも眠いと自分の身体を疑ってみたくもなる。べつに夜に眠れていないわけでもないのだから。身長178センチ体重50キロ弱のあまりに貧相な身体では、一日を十分に活動することができないのではなかろうかと思うほうが至極自然である。BMIと呼ばれる肥満度を表す指数がある。Body Mass Indexの略であることは確かだが、そこで算出された結果がどれほどの確かさを有しているのかに関してはどうも確かでない。この指数を用いると、私の体格は16から17のあいだを彷徨うことになる。主に真ん中あたりに位置することが多い。日本肥満学会が定めた基準では18.5を下回ると「低体重(痩せ型)」とされる。むろん、日本肥満学会なる団体がいかなる集団であるかは定かでなく、だからといって調べてみようとも思わない。また、世界保健機関では、16台は「痩せ」とされる。ちなみに16を下回ると「痩せすぎ」と判定され、3年ほど前の、体重が48から49キロほどしかなかったころの数字で算出するとBMIは15.5と弾きだされる。こうした自らの身から出た数字を統計と照らし合わせてみると、男性の低体重者の割合は20代では約一割、全年代で見ると4パーセントほどしかいないらしい。
全体図を見たときに隅に追いやられてしまうほど私の身体は貧弱で、ここのところ強く思うのが、野生動物だったら体力不足によって真っ先に死ぬだろうし、あるいはすでに死んでいるだろうということだ。見方を変えれば、私は人間だからのうのうと生きていられるのであり、人間社会によって生かされているともいえる。それを思えば、いまこの時間はすでに余生と捉えても間違いではなく、その点では気楽に生きることもできるのだが、とっくに死んでいるはずの社会によって強引に生きさせられている個体が、他の標準的に生き延びる体力等の諸々を備えた個体と同列に扱われてしまうというのはなかなか酷でもある。放っておけば死んでいる個体が生きられる、つまり生存能力にかかわらず生きることができるということは、人間が生きることの豊かさを示すだろうし、これ自体が多様性というものだろう。しかし、多様な個体を生かしておきながら、それらの個体を同一の生存競争に並べていては、いくらその競争のロジックが動物的なるものとは異なると主張しようと、結局は元の木阿弥ではなかろうか。
多様な個体が、その多様さを維持したままに生きるためには、多様な環境が必要だ。それでいて、その多様な環境で育まれる生態系が、個々の共同体のなかで完結する閉じたものにならず、それぞれに関与しあうためにはどうすればよいか。そういったことをもっと考えたい。いつも思い出すのは、海洋生物のドキュメンタリー番組を連日熱心に見ていた頃のことだ。海の生物は多様で、かつ、成熟していると感じながら映像を観ていた。番組として作り込むために、そうした切り取り方をしているのかもしれないが、生命の起源は海なのだから、海の生態系に成熟さを感じることもそうおかしなことではないだろう。たとえばよくあるのが、イワシの群れを襲うために、アザラシやイルカやアジや海鳥が四方八方から攻め込む光景。一種の動物だけではイワシの素早さにかわされ、餌にありつくことができないが、共通の目的をもった複数種の動物が同時に、かつ、個々の種別に応じた異なる襲い方をすることで、食を完遂することができる。あるいはこうした話をするときに『ファインディング・ニモ』を引いてもいいのかもしれないが内容をあまり覚えていない。とにかく海は魅力的で、海の生態系は素敵に思える。いちおう、悪い面を知らないだけかもしれないという考慮もしてはいる。
海洋生物の多様性から逆説的に、人間は人間だけで生きようとするから息苦しいのではないかと考えることもある。どこを見渡しても同一種別しかいないから、皆がじぶんと同じであるような錯覚を覚えてしまうのではないか、という仮説はどうだろう。それを踏まえれば、猫を飼って、猫の気ままさに追われる日々を送るひとびとが幸福そうに見えるのも頷けはしないか。人間は、もっと猫に飼われるべきだ。

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