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N.Mu Event Context 投稿

日記210307

フランスの憲法(第五共和国憲法)の冒頭を少し読んでみたら国家、選挙権、政党の順で記述が続いていたので、個人の権利についてはどこに書いてあるんだろうと思いWikipediaを見てみると、1789年のフランス人権宣言ですでに規定されており、加えて前文でその規定が前提であると宣言されているため人権規定に関する記述は省略されているらしい。

フランス国民は、ここに、人間の権利と、1789年の宣言によって定義され、1946年の憲法前文によって再確認され、補完された国民主権の原則、および2004年の環境憲章に定義された権利と義務に献身することを厳粛に宣言する。

「第五共和国憲法」前文

日中、特にすることもしたいこともなくネットを見ながらぼーっとしていたら鬱の気配がやってきたから慌てて外出をした。ちょっと外に出るだけでも気分が相当ましになることをようやく覚えた。カフェに行くにもお金がかかるし、なんて思ってはいけない。本を片手に一杯のコーヒーを注文し長居する。それだけでいい。
最近、本を読みっぱなしにすることが多くせっかく読んだ内容もあまり頭に定着していない。読み終えたらすぐ次の本を開く。次の本を開いてまもなく直前に読んでいた本のことは忘れる。本を読む行為が自己目的化していることには気づいている。文字を目で追っている快楽に耽るのも結構だが少しは書かれている情報にも気を配りたい。そういえば以前は読了後にメモを取って引用帳をつくるなどしていたがいつの間にかやめてしまった。引用帳の存在を思い出したことを機に再開してもいいかもしれない。ただ、自分の体力の都合上、本を読む時間とメモをつくる時間の両立が難しい。思い返せばメモをつくっていた頃は無職かフリーターで時間だけはあった。週五で労働に励むとできないことが多くなってくる。たまの休みくらい好きなことをしたい、好きなだけ寝たい、リラックスしていたい、無責任でいたい、なにも頑張りたくない、そんなことを思って徳の低い時間を過ごしてるうちに労働の時間が訪れる。労働するだけのどうしようもない日々を過ごしている。どうしようもない未来を描き出してしまう。そしてまた抑うつ状態に陥る。自分の場合、不調の原因の多くはこのパターンにはまってしまうことにある。どうにか週三労働して、週二勉強して、週二リラックスする、そんな生活を営めないものか。ついでに大きいことをいえば、私たちがよりよく生きていくためには、知らないことに興味を持ち、調べて、学んで、培った知識を周囲のひとと語り合うための時間がもっと必要ではないだろうか。

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日記210306

土曜日だが勤務があった。夕方くらいに勤務を終えて、スーツ姿のまま映画館へ向かった。通常料金で映画を観るとけっこう金がかかるなと思った。観た映画について安易になにか言葉を並べようとすると、その行為によって一方的に〈観る〉側であることが猛烈に意識されるような気がして、なにかを語る気が失せる。というか、映像についてなにかを語れる言葉などないような気がしてくる。「映像それ自体」なんて映像を神秘化しているだけだと言えばそうなのかもしれないが、映像それ自体が持つ尺度と観ている観客=映像の外側の世界が持つ尺度はやはり異なるのではないだろうか。文化は語りによって育まれることは確かだと思う一方で、観客が観客の論理で作品を抑圧するようなことは文化への冒涜だ。
夜、『CLANNAD AFTER STORY』の第12、17、18話を見返して大号泣した。思ってもいなかったほどに泣いた。物語のカタルシスによって号泣することは身体を日常の抑圧から解放することであると思う。抱えていた抑圧を剥がされたところに、驚きがあり、感動があり、学びがあり、そうして観る者の身体が書き換えられて、観る者にとっての世界の在りようまでもが変わってしまう。それが文化の──とりわけ表現文化の──すばらしさだ。

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日記210305

昨日の日記を書き忘れてしまったが、別に毎日書こうと決めたわけでもなく、それがどうしたという話ではある。ただ、こうして入力画面を開いてしまえば、あとは適当に文字を並べるだけで日記というていを成した文字列が完成するのだから、日記を書き忘れてしまったことは単に怠惰の現れということでもある。ここ数日にここで書いている文章は、ほんとうに、心の底から何も考えずに書き出されている。思いつくままに書き出されている。はちゃめちゃに適当である。だから、書く労力はほとんど強いられていない。読む価値もない。実際、誰も読んでいない。
文章を書くということがこれほどに負担なく行えることの大部分は、書く行為のテクノロジー化に依っているのだろうと思う。これがペンと紙で書いていたら、何も考えずとも身体的な労力をそれなりに要してしまう。紙の日記を始めようとしたことが何度かあるがどれも数日でやめてしまった。それも書き続けることの大変さ以上に、あるいは、自らの飽きっぽさ以上に、ペンで書くことの大変さに身体が追いつかなかったのだろうと思っている。文章が適当に、雑に、無責任に、投げやりに書けてしまうことが、個人にとって、人類にとって、どれほどの幸を生み、どれほどの不幸を生んでいるのかはわたしにはわからない。

なんとなく思うことがあり、二年前に制作した文集を少し読み返した。みんな文章がうまいなと思った。自分にはこうした文章は書けないなと思った。自分が書いた文章を読み返して下手だなと思った。このころに比べていま文章がうまくなっているということも、さらさらないなと思った。自分は文を書くのが下手な人間なんだなと思った。だけど、考えも言葉遣いも表現技術も稚拙でおぼつかなく、それゆえに他者に加害を与えてしまうことや他者から見放されてしまうことに恐怖を抱きながらも、愚かであることや誤ってしまうことを避けていてはそれらを乗り超えられない──愚かさや誤りをまずは自ら受け入れなければならない──のだと強く、希望を見るように、祈るかのように書かれていて、その態度はいま現在も夢みていながら到達できていないと同時に、やはり自分にとっては必要でどうにか得なければならないものであると感じ、まあ、なんというか、つまり平たく言えば、劣等感にどう折り合いをつけて生きていくかについてこの先もずっと悩んで、考えて、試して、失敗して、後悔して、苦しんで、そうやって内にこもって生きていくのだろうという気がした。どうにか外に出たい。

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日記210303

わたしが悩んでいるすぐそばでもっと悩むだれかが助けを乞うているのかもしれないと、だれかがいなくなったあとしばらくたって、首元をかすめる風がくすぐったく鳥肌を立てる白んだまちで、だれかの気配を取りこぼしてしまうように、ちょっとうしろをふりかえってみたりするのです。だけど、そこにはなにもないのですから、すぐにまた、まちはいつもの色をとりもどしていくのだと思います。

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日記210302

首から上の風船が飛んでいって湧き出る血が肩を背を胸を腹を腰を腿を脹脛を足先の小さく突き出た小指を伝って肘から滴って上腕骨からしたは消えかけている朝がねぼけまなこの昼間に夢へと連れ去る連れ去られた悪夢の洞穴では焚き火が行われていて陽気なひとらが歌ったり踊ったりしている間近で目を回し岩と岩のあいだに埋もれ溶け込み同化していく内臓が痙攣し鍵穴を突き刺すみたいな閃光に引き裂かれた吐き気を伴う風呂上がりの夜

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日記210301

昨日はおそろしいほどに、もしくは、いま思えばおもしろいくらいに気が沈んでいたが、その時点においては身に迫るあまりに真剣なものであるのだから、結局一時の落ち込みに対しては耐えられるかどうかでしかないのだろうなと思う。いかに耐えるか、なんて助かる術を考えたところで答えはないし、答えらしきものに辿り着いたとしてもきっと使い物にならないだろう。小手先をかましている余裕はないのだから。
頭のうしろあたりが多少軽くなったのは、昨晩に東浩紀氏の配信動画を見ていたときだ。氏の語りはかっこよく、そしてあたたかい印象を受ける。どうしようもない世を憂いながら、しかし積極的に世を変えようと躍起になるのではなく、むしろあきらめており、そのあきらめによって余計に氏の思想が愚直に、誠実に、何よりもまっとうなものとして、それでいてきわめて論理的に、確かな知性に基づき、かつ明瞭に、時にユーモアを交えて、そうして伝えられる言葉に力強さを感じる。氏の思想と、そこから展開される姿勢や言葉に救われるひとはきっと少なくないのではないかと思う。真剣に世を生きているひとは数少ない希望だ。
ところで、noteにはマガジンという機能があり、それを利用してこの頃の体調不安定期に書かれている日記をひとまとめにしてみた。タイトルの設定を求められたから「ありもしない救済を求めて」とした。むろん『失われた時を求めて』に引っ張られているのだが、わたしはまだプルーストを読んだことがない。今後読むのかもわからない。たぶん読まないのだろう。プルーストを読む人生と読まない人生とでどちらが豊かであろうかと、少し考えている。またいつか激しい希死念慮に襲われたとき、「まだ『失われて時を求めて』も読んでないのに死ぬの?」とだれかが言ってくれたら、それもそうだなと我に返るかもわからない。

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日記210228

昨晩から続く抑うつ感が、朝になっても消えておらず、それどころか余計に重苦しいものとして頭のうえからのしかかっている。そのせいで、前日には朝イチで洗濯機を回そうと思っていたことを夕方になって思い出し、どうにか身体を起こしてワイシャツとか靴下とか明日からまた身につけるだろう衣類を洗った。
ここのところ自らの死を願う時間が増えている。なんのために、だれのために生活をしているのか、意味を求めたところでどうしようもないことを承知しながら、しかし意味に寄りかかれることはやはり安息でもあり、意味に立脚し、未来を夢みて、過去を参照し、現在を見つめるという過程によってようやくいまが輝き出すのだとしたら、意味も未来も見えないいまの状態、状況をどう受け入れたらよいのだろう。何かを得ていた試しなどないはずが、なぜか喪失感だけを抱いてしまう。強烈な喪失感の原因を意味に求めることでどうにか不安を和らげようとするが、そんなことに特段の意味も効果もない。具体的な迷いや不安があるわけではない。あるのはただ漠然とした不安感のみ。だが、死を願うにも意味を求められるのだとしたら、もう打つ手がないではないか。迷いや不安がなくとも自らの死を願ってしまうことくらいある。ただ、なんとなく落ち込み、そのなんとなくが思っていた以上に持続し、つい死に憧れてしまうことくらいある。手応えのない日々に心身は消耗して、消耗するだけの時間が無限にも思えるようなこの先の長い期間が、終わりの見えない真っ黒な空間に延び続けている。そんな途方のない悪夢がはやく終わってほしいと願うのは、なんら不思議なことではないではないか。そこに意味なんてなくて構わない。だから、実は皆、同じような思いを抱えているのかもしれない。街を歩けばすれ違ういたって平気そうな彼ら彼女らも自らの死を願ったりしているのかもしれない。それなのに自分だけが、こうして無力を言い訳に何もできずにいる、その可能性が余計に苦しい。いっそこのいまも、真っ暗で真っ黒になってしまえば楽なのにと、そんな思いとは裏腹に、いまが着実に訪れていることがひどく憎い。
だけど結局、わたしは自ら死を選ぶことはない。逃げ癖の染み付いたわたしにはしょせん死を願うことしかできない。死を願いながら、こうして人目につく可能性のある場所で思いの丈を書き殴り、助かろうとすることしかできない。助かりたい。助けてほしい。この文章を読んだ誰かに助けてもらいたい。どうすれば助かるのかわからない。それが苦しい。助けてほしいと思いながら、助かり方がわからない。助かり方がわからないから、ひとを頼れない。なぜ助かりたいかもわからない。なぜ助けを求めてしまうのかもわからない。だから、死と助けを同時に願うことしかできない。助かりたい。
そんなことをぐるぐると意識し始めたきっかけは、二月五日にお気に入りのラーメン屋に行ったときだったと思う。その頃から心身は不安定な状態であり、少しでも気分転換をと思い向かったラーメン屋。ラーメンを食べている最中は素直においしいと感じ、満足感を得られていたはずが、食べ終わり、店を出て、電車に揺られ帰宅する過程で少しずつ虚しさが募り、おいしいからなんなのだと、十数分前の幸福なひとときが途端に憤りと苛立ちに転じてしまったのだ。かつてそのような経験をしたことがなかったから、いまの自らの状態はよほどよくないのだなと直感した。それからいままで、一時的なたのしい感覚やうれしい感覚こそ得られても即座に落ち込み、苛立ち、虚しくなり、悲しみに溢れ、どうしようもなくなり、どうでもよくなり、すべてを、自分に関するすべてを見切って、あきらめて、放り投げ出したくなってしまう状態が続いている。
わたしは助かりたがっている。そう直接は言わずとも、ネット上で文章を書いて、あるいはSNSなどを使ってなんでもないような投稿をして人目を伺うことで、誰か助けてくれないだろうかと期待している。無様なほどに必死に助かろうとしている。死を願いながら、みっともなく助かろうと足掻いている。仮に、万が一、偶然的な事故などで死への願いが叶ったとき、その足掻きがどうにか助かろうと生きたわたしの証左になればいいと、そう思いながら足掻いている。生きようとしている。
溺れゆく毎日に、身勝手で都合のよい期待と空想を求めてしまうことをどうか許してほしい。
そういえば今日は食事がまだだ。

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日記210227

日本でいちばん高い山は富士山 じゃあにばんめは? と投げかけて、一般ににばんめのことは広く知られていないのだ(だからいちばんをめざせ)と説こうとする。
かつてある国会議員が二位じゃだめなんでしょうか と言って批判の対象になったことがあった。
昨日ネットで見た記事に〈花屋なんて、一番に不要とされる仕事だと思ってました〉と書かれていた。
数ヶ月まえの記事には〈コロナ対策「東京一番やってない」 いらだつ専門家〉という見出しもあった。

いくら綺麗事をならべても
なんばんめであること あろうとすること あってしまうこと に
身をまとわずにはいられない
そんな御託をならべたのは
人類史で歴代なんばんめ?

わたしは
なんばんめ?

日本のひとたちのなかで
なんばんめに背が高いのだろう
日本のひとたちのなかで
なんばんめにやせているのだろう
日本のひとたちのなかで
なんばんめに本を読んでいるのだろう
日本のひとたちのなかで
なんばんめにタイピングがはやいのだろう
日本のひとたちのなかで
なんばんめに覇気がないのだろう
日本のひとたちが危機に陥ったとき
なんばんめに救われるのだろう

あると優れているとされるような
どんな要素を調査しても
どれも下から数えたほうがはやいことを
わたしがいちばん知っている
運動会のかけっこで にばんだったのは
もう十五年以上も前のこと
世界のひとたちのなかで
わたしがいちばんわたしの虚ろさを知っている
こんな空洞では 雨宿りすらできません

だけどせめて、
あなたのなかでだけ
いちばんでいさせてほしい と
スプーン一杯の傲慢さでもあれば
食いしばった歯をすこしでも
ほどいてあげることができたのかもしれません

いつだったか、中学校の同級生とひさしぶりに会ってお酒を飲んで話し続けたある夜のことをたまに思い出す。神楽坂のアイリッシュパブでたしか、ジントニックでも飲んでいたはず。それともビールだったかもしれない。おぼえていない。だけど、あるひとことふたことのやりとりだけをたしかに覚えている。

彼女がほしいとか思わないの?
いちばんは気が重いから、にばんめにしてくれるならちょっと考えてもいいかな
なにそれ

なにそれ、と言って相手は気味悪がるような表情をした
ほんとうは、にばんめですらいやなのに
誰かにとっての大切に 信頼に 期待に 必要に 関心に 価値に 救いに 尊さに 思い出に なりたくないから なれないから
ごみをみるような目で
ごみのままのわたしでいさせて
それでも
ほんのちょっとわがままになって
じゅうはちばんめくらいにいられたうれしいだろうなと夢みることもある

全国高等学校野球選手権大会(通称・甲子園大会)ではベンチに入れる、つまり選手登録される選手の人数の上限が十八名と制限されている。強豪校であればあるほどに、山のようにいる部員数から選ばれた十八番目の選手ともなれば野球選手として相当の技術を持つことだろう。十九番目から百何番目まではスタンドで声援を送ることしかできず、甲子園球場の土を踏むことは許されていないのだから。その差は天と地ほどに大きい。しかし、全国高等学校野球選手権大会では、試合中に選手交代が行われる機会はそう多くない。プロ野球のような年間通したリーグ戦であれば、選手の疲労や日々のコンディションを見極めて長期計画で采配を振ることも優勝に向けたひとつの鍵となるが、短期間のトーナメント戦で行われる全国高等学校野球選手権大会ではそんなものは必要ない。チームでもっとも優れた投手が全試合、全イニングを投げ切って、チームでうえから八番目までの選手たちが全試合、全イニングを打って走って守って、それで勝てるなら万々歳である。たかだか一ヶ月で終わる大会なのだから、九人だけで勝ち切ることもきっと不可能ではない。連日の試合出場で身体を酷使した挙句に故障しようとも、高校球児でいられる期間など三年しかないのだから大した問題にはならない。現に多くのチームはそれに近い方針で試合を進めている。したがって十八番目の選手は試合に出場する機会をほとんど得られない。十八番目の選手に与えられた主な役割は選手として試合に出場し活躍することではない。十八番目の選手はベンチ内で裏方、雑用に奮起し出場選手を支えることであり、それで試合に貢献した気になって、勝って笑ったり、負けて泣いたりするのだ。

中学生と高校生だったころ 陸上競技をやっていた
運動神経がわるく、選手として見込みのないわたしは
大会の結果なんてやるまえからあきらめていて
あきらめる以前に期待もしていなくて
大会運営の補助員として駆り出され
スターティングブロックやハードルを並べたり
走高跳用のマットを運んだり
指示された雑用をこなしながら
がんばってるひとたちを
遠くから見てるのが好きだった
あちらのステージに上がることはないのだという手応えを感じるのが好きだった

身近な部員が走り競っているときの表情を
トラックの内側からたまたま
間近でみたあの瞬間 わたしの声は
水族館みたいなガラスの壁にさえぎられた

責任を負うことがこわくて
世界に干渉してしまうことの重さに耐えられなくて
耐えられる気がしなくて
逃げかわして
鑑賞者を気取ってしまう
ごみのようなわたしを
ごみを見る目で一瞥して
ありのままのわたしでいさせて
それでも
ごみ収集場でくたびれる
年季の入ったこわれたガラクタのように
横切るあなたのほんの一瞬の目と心のなかにいさせてほしいと
そう願うのは あまりに愚かでしょうか
世界のひとたちのなかで
なんばんめに愚かでしょうか

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日記210226

背中に貼られた痛みに締めつけられて
rの形で風化する
落ち着きなくからだを掻きむしってる音楽が
ブラックニッカに香る 束の間の安息

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日記210225

からだじゅうで生まれてまもない鳥たちが鳴きわめいている。未熟な羽は猛りたち、ちいさな砂や擦り切れた草や頼りない木の枝がめざまし時計のベルみたいにおどろく。親鳥が還る気配はなく、どこへ行ったのかもわからず、いるかどうかなんて

きかないでほしい
名前を 誕生日を
けさの朝食を
思い出の場所や、手放したくないことばを
もうなにかであるふりなんて

駅のホームで
しらないだれか、あるだれかが
体液を吸いとられたみたいにぐったりとたおれていて
ひとりの駅員と
ひとりの同行者と
たまたま近くに居合わせたらしいひとりのだれかが
介抱している 舞台のそば
数メートル先の車内で眺めている窓に
潜んでいる顔

時刻ぴったりにドアが閉まり
電車が出発して
座席のうえに残された紙屑
の居心地の悪さに雲隠れする

固く閉められていた蛇口が
ぷつりと弛んで
ビリジアンの顔料が染める空に
溺れてしまいたい

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