今月の電気代が先月の2万円に迫る金額でびっくりしたから暖房とは手を切ることにし、フリースを二枚重ねにして過ごした。意外と問題なくいられたが空気の冷たさがつねに感じられ、寒さと冷たさは違うのだなと思った。25分読書して5分休憩を繰り返した。雑念が多くてあまり文を読めなかった。読めるようになったころに25分経過のアラームが鳴ることが多かった。先週くらいから本を読む勢いが落ちてきたから散歩でもするとよさそうではある。中原中也はとにかく歩いたらしいと吉増剛造の講義録に書いてあった。晩ごはんに辛ラーメンを食べたらあたたかかった。
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明け方まで夜通しおしゃべりをしていて帰宅したのは早朝6時頃だった。入浴を済ませてすぐに寝た。お昼頃に空腹で目を覚ましてパンを食べたが疲れで何もできず結局また寝て、また空腹で目を覚まして辛ラーメンを食べてみたび寝た。23時頃になってようやく回復し、まともに動けるようになった。享楽的な時間とその直後に訪れるエネルギーの枯渇した時間とに浸っていられた尊さを、いつか幻影のようにしか思い出せなくなるのだろうなと思う。
コメントは受け付けていません職務経歴書を見直していて、これでは読んでも何をやっていたか全然わからないだろうなと思い、いくらかのブラッシュアップを施した。なんとなく解像度が上がったような気がするのはたぶん気のせいで、いくつか実務上使用していたサービスや機能等の固有名詞を並べて雰囲気が演出されているだけだ。ただ固有名詞を並べられるということはそれを知っているということの主張にもなるわけで好意的に読み取ってもらいたいところではある。
夜は集まりに参加してずっとしゃべっていた。しゃべる行為は身体運動であり、しゃべりつづけるととうぜん疲れてしゃべりづらくなってくる。疲れると口も頭もまわらないし、さほどお酒を飲んでいないのにアルコールが十分にまわったみたいな状態になって、適当なことを知ったかぶりで話したりしてしまう。参照や引用をするならちゃんと説明できるほうがいいし、できないなら下手に参照・引用を明示する必要もなく、参照先を念頭におきながら可能な範囲でなぞるくらいに留めた方がよさそうだ。が、ある固有名を出すことだけで、文脈の暗示にもなるし知っている人がいたら補足を促すこともでき、いずれにしても、学問の場でもあるまいしおしゃべりの場では適当な発言に過度な抑制をしなくてもいいのかもしれない。
朝、目覚まし時計のアラームで目を覚ましたが、疲れていたから二度寝した。起きたのは昼だった。もそもそと起きてもそもそと食事をしてたらたらと身支度をしてラップの練習とかしていたら外出の時間が近づいていて、遅くに起きると何もできないなと思った。三鷹SCOOLで開催された七里圭、山本浩貴、鈴木一平のトークイベントを観に行って、密度の高すぎる話を聞いてへとへとになって帰ってきた。雑感を整理したいところだけどそんな余力はなく、そもそも書きしるせるほどすぐには整理できそうもない。「面」についてはそれこそ『背』を観てからずっと気になっていたことだから配布資料を振り返るなどしてしばらく考えたい。無責任にしゃべり散らかすことであればできそうだが、文として書こうとすると整理の必要性や責務を感じてしまうことがすでに面の特性であるようにも思う。帰宅途中にコンビニで買ったカップラーメンがさほどおいしくなく、そのくせ300円くらいしたことに世知辛さを感じる。
コメントは受け付けていませんハローワークで求人の紹介状をもらった。履歴書はまだ作成していない。あしたにつくって、週末には送付できたらいい。ChatGPTはブレストにも使えそうだと思った。とするとアイディアの発想はAIに任せてしまい、それをいかに巧みに活用するかが問われてくる。いずれは活用方法もAIに委ねられるのかもしれないが、いまのところレイトマジョリティ層が気軽に使える範囲においては全体の状況判断と状況に応じた柔軟性はまだ個別の人間のほうがコストは少なくリスクも小さいように思う。キムチチゲをつくったらけっこうおいしくできたがいつもとつくりかたは変えてなく、再現性に乏しいのがざんねんだ。
コメントは受け付けていませんハローワークに行って求人の紹介状をもらいに行こうと思っていたが、待機期間が今日までだったからやめておいた。ハローワークに行くついでに家賃を振り込もうと思っていたのも明日にまわすことにした。支払い期限は25日までだが数日遅れてもさほど問題はないはずで、これまでにも1〜2日振り込みが遅れたことは何度もあるがいまのところは問題視されていない。労働をしていないぶん収入がないことを預金残高を見て実感する。今月初めあたりからまいにち韓国語入門のテキストに数分取り組んでいて、数分とはいえまいにち聞いたり書いたり発したりしているとあきらかにハングルがすこしずつ読めてくるのがわかる。同様に生活や労働もすこしずつ積み上げていかないといけないのかもしれない。教養とか交友とかもほとんど積み上がっていない。時間をかけて地道に積み上げてこなかった者に対する風当たりはけっして弱くはなく、生活をしていて快さを感じることはあまりない。仕方ないと思いながらじゃあどうしろというのだと刃向かいたくなる気持ちもある。押しても引いても何も出てこないくらいの身軽さは、じぶんがたどり着く先として妥当であるようでありながら、しかしそれでもからだを持ち名前を与えられている以上は生活がだらだら続いてしまうのだから困ったものだ。生活が続くことが苦痛なのか、苦痛だから生活が続くことへの意識が出るのか。苦痛というより鈍痛というのが感覚的には近い。
コメントする空撮写真のカメラの位置に撮影者(としての権利を有する者)がいないことは、言葉が書いた者や発した者から離れて無限に複製されることとどの程度重なりあるいは重ならないだろうか。ちょっと前に読んだ鈴木忠志の著書に、詩人が詩を朗読するパフォーマンスが流行っているがなぜ書いた当人が朗読しなければならないのか、書いた当人が朗読することがなぜ自明視されているのかと疑問が呈されていた。演劇においては戯曲を書く者と演じる者は異なる場合がほとんどであり、さらには演じる者が多数いる場合がほとんどなのだから書かれた言葉と発される言葉の出どころは見かけ上は異なるのであり、演出家である鈴木忠志がそのように思うのはとうぜんである。ポピュラー音楽は歌詞の書き手と歌手が分業されていることが多く、落語家は師匠の演目を目で見て真似て昔から受け継がれている話を引き継ぐのであり、アニメーションは生き生きと動く絵に合わせて用意された台詞を吹き込む。もとより言葉はすでにあったものを複製することで運用されているのだから始点を辿ることもできまい。
では写真はといえば、従来基本的にはそのときその場所に撮影者がいてシャッターを押したということがある写真の権利所有者としての条件になりえた。けれど写真やカメラのおかしさは、たとえば集合写真の権利はおそらくは被写体である集団にありカメラマンは表に出てこれないのでは、とか考えられる点にある。ああこの集合写真は構図から見てあのカメラマンだねとか、記念写真にそんな作家性は求められていない。もしかしたらネガの所有権とかなんとか細かく部分を見ればある段階までは撮影者の権利、ある段階から集団の権利と境界線があるのかもしれないが、カメラに詳しくないしそこまではわからない。いずれにしても場合によって権利が撮影者だったり被写体だったりする。撮影者はカメラの位置にいるが、被写体はカメラから離れた位置にいる。カメラの位置にいることが権利を絶対的に保障するというわけではなさそうだ。
それで空撮はどうかとなるのだが、撮影者の身体がその場になければシャッターを押したひとが撮影者なのかとか、レタッチまで含むのかとか、撮影に関わる諸工程をディレクションした者なのかとか、どの立場に権利が付与されるのかが気になってくる。もしシャッターを押したひとという単純な条件に由来するのであれば、では最後にシャッターボタンを押すだけのアシスタントを用意しそれ以外のすべてを別のひとりが担ったとして、そこで撮られた写真はアシスタントのものになるわけだがそれはそれで奇妙な感じがする。真上から人物を撮るとその人物の個別性が消失し、老若男女のいずれの属性であるかすら判断が難しくなる。空撮は撮影者と被写体の両者を匿名化する。特定個人に権利が付与されない匿名的な空撮の完成形はやはり地図になるのだろう。だれが見た風景でもないがゆえにだれもが見たことのある風景として共有可能になる。一般的に言葉は共有可能な状態が自然であり、共有可能であるがゆえにわたしたちは言葉を交わすことができるように、写真も匿名化し共有可能な状態を目指すとき、たどり着く図が空撮だとするならば、人間が重力に対して垂直な視線を有するのに対し重力と並行な視線でスキャニングされた面が自然であるというのはこれまた奇妙だ。
ただ公共的な共有財と個人的な文化芸術とはわけて考えるべきなのかもしれない。辛ラーメンにツナを入れたらおいしかった。
昨晩キムチチゲをつくったが、肉なしでもいけるのではないかと思って試したそれはどこか印象に欠くできばえであり、どうにか工夫を凝らせないかとその残りにきょうはツナ缶を入れてみた。ツナでキムチチゲをつくることはわりとポピュラーらしいと韓国料理のレシピ本やネットなどにも書かれている。さて味はどうかというと、食べているときにツナをまったく意識しなかったことをいまになって思い出すほどで、少なくとも劇的な変化はなかったようだ。缶が開いているところを見ると入れわすれてはいないはずであり、おそらくたんぱく質は摂れているはずだからそれだけでもまあよしとしたい。ツナより昨日入れた分のたまねぎがくたくたになっていたのがおいしかった。「おいしすぎる」といったとき、ふつうは「おいしさの度が過ぎる」を意味するはずだが「おいしさが口中を過ぎ去る」という解釈もできるなと思った。うまかったという感慨と物寂しさが口中に漂い入り交じるその刹那、ひとは「おいしすぎる」とつぶやく。おいしが過ぎ去った状態をそのまま表現することが数秒前の喜びの余韻を思わせると同時にいままさに消え去ってしまったことへの哀愁を伝えることになるこの転換はどこから呼び起こされているのだろう。
コメントする自宅から徒歩20分先にあるラーメン屋に行ったら定休日だった。京王線と中央線のちょうどあいだくらいに位置するその店からどこか他の場所へ移動するのはやや面倒で、どうしようかと迷ったが、せっかく歩いたしもう少し歩くのも気持ちよさそうだと思って武蔵小金井駅までさらに30分ほど歩いた。かつて時給1050円でフリーターをしていたお金のなかったころ、高円寺にあるクラブに行くための電車賃を節約するために、自宅最寄りの京王線から新宿経由で中央線に入る常識的なルートではなくわざわざ40〜50分くらい歩いて武蔵小金井駅を利用していたことを思い出した。金がないときには時間があって、時間があると金があるときにはしないようなことをする。環境や状況が変われば行動の動機も変わるのであり、それだけ行動の動機は見えないところであふれているはずで、時間がないときにはそのことにどうしてか気づけない。じぶん自身は特に決まりきったことばかり行なってしまう傾向があり、未知や偶然に身を晒すことをつい避けてしまう。するといつしか生活は停滞し、凪いだ時間にいてもいられなくなって職を辞める。環境や状況に細かく手を入れていくということがおそらくは苦手なのだろう。もしくは職を辞めるみたいな大胆な手段しか身についていないだけだろうか。不器用なのかもしれない。武蔵小金井駅近くに前から行ってみたかったラーメン屋があったからそこに入った。岩のりがたくさんのったラーメンを食べた。食後、きのうツイッターで知った中国空撮写真展を観にいき、人間の視線は重力方向に対して垂直だったんだなあとごくごくとうぜんのことを思った。武蔵小金井駅までの道のりが、川を挟んでかつて土手であっただろうことを思わせる坂道になっていたことを思い出した。
コメントは受け付けていませんラーメンが食べたくなって駅に向かった。ただ駅の近くには食べたい感じのラーメン屋がないから歩きながら微妙な気分でいると、駅に着く頃にはなぜか満腹感が出てきてラーメンを食べる気もなくなっており、かといってUターンして帰宅するのももったいなく、仕方ないから書店に入ってうろうろした。いくつか適当に買ってしまおうかとおもった本はあったが、収入がないくせにこのあいだカフカ全集を買ったばかりの状況で散財するわけにもいかないだろうと踏みとどまった。結局ラーメンを食べるに至らなかったのがやや心残りだからあしたの昼にラーメン屋に行きたいと思っている。昼間にツイッターで見た中国空撮展というのがおもしろそうだったからそれも行けたらいい。そのためには午前の早い時間に起きなければならない。
インプット/アウトプットという表現にずっと抵抗感があって、理由のひとつは主にビジネスの文脈で使われる言葉であることからややマッチョなニュアンスが帯びているように感じられるという点があるのだが、より本質的にはインプット/アウトプットといったときに前提となっている主体性のありようがじぶんの解釈と異なるということなのかもしれないとふと思った。なんとなくインとアウトが逆であればまだ腑に落ちる気がする。とはいえ具体的に主体性の解釈がどのように異なって、じぶんはどう解釈しているのかを説明できるほど意識的かつ論理的には考えられていないからもうちょっととっかかりがほしい。