先週応募した求人の返事が1週間経ってもこないからきっと相手にされていないかもう採用が決まったかしたのだろうなと察する。どこで雇われようと労働時の不満のはけ口がないと長続きしないような気がしていて、親兄弟友人恋人なんでもいいのだろうけど背中を押してくれる他者の存在によって責任感を得つつ弱音も吐きつつしながら生活を駆動させていくということはあるのだと思う。他方、たかが労働に対する不満を話題に時間を費やすというのも不毛であるような気がして、部外者である誰かの耳は汚すことになるし、そもそも文脈を共有していないのだから話もうまく伝わらなければ問題解決にもつながらない。そんな話をするくらいならさいきん読んだ本とかふと思いついたこととかを話したほうが充実した時間を過ごせるだろう。とすると、労働に対する不満をこぼす相手は同じ勤め先のひとがもっとも望ましいように思う。文脈を共有しているから個人的な不満が個人的な問題なのか組織全体の問題なのかも相対的に検討できるし、問題解決にまで話を展開させる可能性もなくはない。ただし前提として誰かの悪口・誹謗中傷にさえ至らなければの話ではあり、えてしてひとは何かの問題を個人に背負わせ誹謗中傷を浴びせることで、正当で善良な立場である「こちら側」にみずからを位置づけては問題から目を逸らしたままなんとなく安心して落ち着いたかのような状態に落ち着いてしまうのだから厄介だ。
夜に酒を飲みながらひととおしゃべりをしたが、勢いに任せて適当なことを言いすぎて失敗したなと思っている。おしゃべりに成功なんてあるのかはわからない。
N.Mu Event Context 投稿
ようやく離職票が届いたから市役所とハローワークでいくつかの手続きを済ませた。市役所で順番待ちをしているとき、やんちゃな雰囲気の兄ちゃんがずっと通話をしていて、しかもイヤホンをしていたから番号を呼ばれたときに気づけるのだろうかと気になった。待ち時間や隙間時間はスマートフォンで埋めるというのがいまのひとつの様式であり、もしくはイヤホンは常時耳に装着というのもひとつの様式であり、外に出ていながら仮想的なプライバシー空間を保持し没入しているという状態のひとはよく見かける。ただそれゆえに必要以上の待ち時間を過ごし、当初の目的の所要時間が必要以上にかかってしまうということも起こりうるのかもしれない。他方、そんな事態が起きてどうということもなく、実際の感覚としてはスマートフォンでSNSを見たりチャットをしたりゲームをしたりという時間の隙間で生活の必要事項を済ませているという順序のほうが適切なのだとおもう。実際じぶんも同じように、家で本を読んでいたいけど手続きを済ませなきゃいけないしせめて隙間で読めそうな軽めの小説でも持っていくかと思いながら市役所に向かったのだし。はやく離職票送ってくれと思いながら届いたら手続きに行かなければいけないから来なくてもいいのにと思ったり、はやく再就職したいと思いながら再就職したらゆっくり本を読みながらのんびり過ごすことができなくなるからまだ就職したくないとか思っている。目的をどこに置けばいいのかわからずにいる。帰りにコーヒー豆を買った。帰宅後もしばらくコーヒー豆をリュックに入れっぱなしにしてたら取り出すときに香ばしい匂いが広がった。
コメントは受け付けていません午前に面接の予定があったから準備をしていて、出発予定時刻は8時50分、まだ余裕があるなとのんきに着替えを終えたのちiPhoneを手にとると画面に8:50と表示されていて驚いた。部屋に置かれたアナログ時計は8時30分を指している。あったはずの余裕がとつぜん消失し、慌てて歯を磨いて上着を羽織って書類をリュックに入れて外に出た。多少早めに面接予定地の最寄り駅に着くように準備をしていたおかげで電車を一本遅らせてもぎりぎり間に合いそうではあったが万が一それすら逃すと厄介だからと駅まで走ってさっそく疲れる。通勤の時間帯としては多少遅めではあったが電車は混んでいて余計に疲れる。面接を受けてさらに疲れ、たった一時間の面接で疲れていてはまともに勤務などできないのではと思いながらも帰宅後疲れて何もできなかったから夜まで寝た。時計は同期していないと効果を発揮しない。同期を自明のものとしているデジタル時計に慣れてしまってつい忘れてしまうがアナログ時計はずれる。ずれることもあるから何かがずれていたとしてもまあそんなものでしょう、といういいかげんさを育むのにアナログ時計はいいのかもしれない。晩ごはんのあと面接での話をなんとなく思い出しながらまた求人サイトを眺めたり閲覧履歴からのおすすめを見たりカテゴリを入力して検索したりして、仕事をするってこういうことではないんじゃないかと思ってサイトを閉じる。些細なことでいちいちそういうことではなくないかという疑いが生じていろんなことが進展しない。労働者をたんに労働力として扱ったときに切り落とされる何かしらを手探りしたくもなる。
コメントは受け付けていません基本的に怠惰で自宅にいるときは寝転んでばかり、やろうと思っていたことも手つかずのまま日を終えてしまうことが多い。けれどやろうと思っていたことややらなければいけないことを書き起こしてリストにすると意外ときっちりからだが動く。言ってしまったことや書いてしまったことを自分から切り離すことができず、規範として現れてしまったそれらにどうしても従わなければいけない気になる。自分の発言に責任をとろうとする意識が強いといえばなんだか聞こえもよさそうだが、実態はただたんに規範に従順であろうとする哀れな性質が発露しているだけだ。そういえば前職で働いているときは適当な嘘でごまかしや言い訳ができるひとはいいなと思うことが多かった。その場しのぎをその場しのぎで済ませることができるのも一種の技術みたいなものなのだとおもう。じぶんにはその技術がない。そう発言した私が私を私たらしめてしまうと素朴に錯覚してしまう。教育において日記や作文の指導は多くの場合、自意識や内面の形成への働きかけとして行われる。義務教育くらいの段階であればこう言った・こう書いたをベタに自身に引きつけてしまうこともあろうが、逆にいえば、ある程度歳をとればこう言った・こう書いたに対して客観性を持てるようになるのが一般的なのかもしれず、いまだこう言った・こう書いたに主観性の密着を感じてしまうあたりに未熟さがあらわれているとみることもできる。言葉を正しく扱おうとする態度には怖さがある。
とはいえ文字に起こしたおかげか靴を磨いたりシャツのしわを伸ばしたり古い新聞紙をまとめて縛ったりといった雑務を完遂できたことはひとまずよかったとしておきたい。
吉増剛造は石巻市鮎川のホテルの一室で、金華山の見える窓ガラス上にペンで詩を書いた。紙面に詩を書く経験と、窓ガラスという透明の媒体に書く経験とではそれぞれ体感が異なると吉増はいう。紙面は文字(を残すインク)以外の存在を原則的に排するが、窓ガラスはその面の奥にある風景がそのまま見えるだけでなく、面の前に立つ者の姿をうっすらと浮かび上がらせ、透明な面がそこにあることをも意識させる。面を構成する素材の性質を比べるだけでたしかにそのありようは異なるはずであろうと、ガラスに文字を書いた経験がなくとも想像はつく。
吉増は窓ガラスに詩を書く経験を「カメラのなかに入ったようだ」と表現したが、この表現には素直に首肯しがたい点がある。というのも直観的にはどちらかといえば風景越しに字を書く経験はスマートフォンを指で操作するのに近いように思われるからだ。風景が映るのはレンズではなくスクリーンであり、窓越しの風景にペンで触れているのだからガラス面で行われているのは視覚イメージと触覚イメージの交差であるとひとまずいうことはできるはずだ。いうなれば吉増が行う窓ガラスに詩を書くというパフォーマンスはスマホのスクリーンショットと類似的である。空間現代が演奏するなか吉増が詩を朗読するライブ・パフォーマンスにおいて、ガラス面の両側に椅子を置き、場面場面でこちらとあちらを行き来する吉増の姿もさながらインカメラとアウトカメラを切り替えているかのようでもあり、あるいはガラスに萩原朔太郎の写真を貼ったりペンで線を描いたりハンマーで叩いたり録音テープを再生したり唸るように詩を読んだり……とガラスを起点に複数のレイヤーを重層的に配置する様子はマルチウインドウ的であるとも見立てられる。のだが、あえて吉増のいうことを鵜呑みにするとしたらどうだろう。金華山から反射した光の痕跡として詩を記す。光を取り込むレンズであった窓ガラスは同時に光を刻むフィルムとなる。そこで詩人は感光剤の役目を果たす。長大な露光時間を要するカメラで撮られた写真=詩、その鑑賞者もまたカメラのなかに侵入する。としたときに、詩の役割はいったいなんであろうか。ガラスに書くという行為と完成した詩を取り出し、彼の地を離れ、異なる地の室内でライブ・パフォーマンスをすることは何を現前・再現前しているのだろうか。そのライブ・パフォーマンスを撮影した映画『背』に映っていたものはなんだったのだろうか。これらの問いを整理し回答を出すことはむろん容易ではない。いまの時点でぱっと思いつくことといえば、スマートフォンのインカメラで自撮りはできるがインだろうとアウトだろうと自らの背面姿を自ら撮影はできないということくらいか。
よほど強くなければ外から雨音も聞こえてこない。カーテンの半分は日中も閉めていて、開けているもう片方も窓越しにくっきり外の様子が見えるということはなく、意識的に覗き込みでもしなければ日差しが出ているかそうでないかくらいしか判別できない。空調をつけていれば外が寒いのか暖かいのかでさえ判断できず、つけていずとも駐車場の真上に位置する部屋は熱がこもらないからただでさえ冷えやすく外に出たほうが暖かいということはざらにある。降雨についても同様で、外に出てはじめてその日そのとき雨が降っていたことを知るなんてことはしょっちゅうであり、きょうも出かけようとドアを開けてからだを外に出した瞬間に、雨が降っているとわかってすぐさま身をひっこめた。そもそもろくに外に出ないと気もふさぐからという、ややうしろむきな理由で外出を決めたくらいだからやる気もなく、時刻は夕方、日はすでに沈んでいて、行くあてといえば駅近くのカフェくらい、わざわざ傘を差しからだを濡らしてまで済ませるような用事ではない。宛先のない屁理屈をうだうだと並べながらも結局カフェに向かうことにはなるのだが、カフェが入ったビルの二階の催事場で東北物産展が行われていたりそこで稲庭うどんと迷いながら白石温麺を買ったりと、外出を迷っていた時点では想像しえなかった事態が起きるものだから、外に出ないと気がふさいでしまうのはからだが偶然に晒されないことからくるのかなとかなんとか思わなくもない。一時間ちょっとカフェに滞在して、帰り道は雨がほとんど止んでいた。
コメントは受け付けていませんカフカ『審判』を読んでいた。冒頭の窓ごしに好奇の目をむける老婆やドアの向こうから監視人が現れる描写からはじまり、以後繰り返し(執拗に?)ドアや窓を挟むように主観人物であるヨーゼフ・Kを含む誰かと誰かが配置されるという構図が描かれる。その点が気になり始めたのは中盤からであったため、ドアや窓のモチーフに重点を置きながら読んだり細かにメモをつけたりはできなかったのだが、終盤に「法の掟」という挿話もあり、これが「掟にたどり着くにはいくつかの門を進む必要があり、それぞれの門には門番がいて、門番は侵入をぜったいに許さない」といった逸話のようなもので、書き振りからして作品の主題に関わる類のものであるとみてよさそうだ。となると、ドア・窓・門といった空間をさえぎると同時に橋渡す領域(とそこへの立ち入れなさ)を半ばスルーして読んでしまったのはなおさら惜しいことで、しかしこの一回性こそが小説を読む、とりわけ長編小説を読むということなのかもしれない。気になった箇所が気になったまま残り、けれど再読するのもやや億劫で、せめてひとに話してみようと思ってみてもうろ覚えでままならず、せいぜいいつかまた読むときには注視しようという脆い希望にすがるくらいだ。テキストは確かにここにある。何度も読み直すことができる。ただここにあるのはあくまで可能性であって、わたしにとってはこの小説を読んだ一回の経験がこの小説をこの小説たらしめてしまう。
コメントは受け付けていません前髪が長くて邪魔だから整髪料をつけて横やら後ろやらに流してしまおうと思い、普段は使いもしない整髪料をわざわざ買ってきて髪の毛につけてみたが、普段使わないものだから勝手がわからない。結局横に流した前髪が何度も顔のまえに落ちてきて、いつも以上に邪魔で苛立ってしまった。落ち着こうと思って漢方薬を飲んだ。何かと苛立ちやすい傾向があるから気休め程度でも気分を切り替えられる対処があるとこの先も何かと助かりそうではある。
カフェイン入りのグミを食べながら、そういえばさいきんアルコール入りのグミが出荷停止になったという報道があったことを思い出した。カフェイン入りのグミを食べながら読書をしていたらあまり眠くならずに済んだ。ただそれがグミのおかげなのかはわからない。日中うとうとせずに過ごした疲れが夜にきたのか、晩ごはんのあとにかなりしっかりと眠ってしまった。知らないひとに挑発されて苛立った自分が相手の口に粉唐辛子を詰め込んで呼吸困難に陥らせる、という夢を見て、夢のなかのじぶんは怖いことをするもんだなと思った。
わけあって、ということもないのだが、なんとなく鏡でじぶんの顔を眺めていて顔が左右非対称だと思った。証明写真を撮ったときもいつも顔の歪みが気になってしまう。左右の顔がどれほど異なるかを検証すべく、iPhoneで正面から自撮りをして左右を半分ずつ順番に隠してみると、なんだか右の方が疲れて見える。左はなんとなくキリッとしていて、そういえば高校生くらいのときはこっちの顔だったななんて気がしてくる。
左右の歪みはおそらく視力のバランスの悪さに起因していて、左はほとんど見えないくらい視力がわるいから無意識で使用を避けており、そのせいで眼周辺の筋肉に弛むような疲労感が出ていないのだと思われる。視力のバランスが悪いからとうぜん眼鏡のレンズの度も左右で大きく異なり、だから眼鏡をかけると余計に目の大きさが不均衡になる。なんだかんだ言っても顔面が整っている方が何かとウケはよいという現実はあって、顔面が整っているとは左右の均衡がとれているということであって、要するに顔面が不揃いなじぶんはそれだけで他人にあまりよい印象を与えてない可能性が多分にあるということである。そんなことを考慮しても仕方がないのだが、ただパッと見でよい印象を与えられていないのだという自覚がなければないでコミュニケーションの目測を誤ってしまうおそれも否めない。少なくとも履歴書には左右非対称な顔写真を貼らなければならないのだから。
しかしいずれにしても、どちらかといえば、じぶんの顔を見るのはもっぱら他人であり、じぶんはじぶんの顔を見る機会も少ないし実際じぶんの顔がどうなっているかなんてよくわかっていないということの非対称性の方がおもしろい。これはこれで、じぶんの顔を見る機会が少ないと思うのは鏡をまじまじと見る習慣がないというある種のジェンダーバイアスに由来しているのではないかとか指摘もできるのだが、鏡で見るじぶんの顔は実物ではないし、証明写真に写っている顔がじぶんであることをじぶんは確認しようがないのは誰だって同じであるはずだ。証明写真と本人の顔を並べて見比べるのは他人にしかできない。ではじぶんにとってじぶんの顔とはいったいなんなのだろうかと、なんとなく鏡でじぶんの顔を眺めてみる羽目になるわけで。
ロールズのルソー論を読んだが、一般意志の概念のよくわからなさは相変わらずだ。ただ、一般意志とは社会全体の意思ではなく、あくまで各人が持つものであるというロールズの指摘は重要だと思った。一般意志を持つのは各人である、したがって市民の利害関心が共有されていないとき一般意志は失われる。のであれば、特殊意思とは利害関心が共有されていない意思であるのだと裏返すように言うこともできるのかもしれず、ひいてはいまネットでみかける「政治的言説」の多くはしょせん特殊意思の縄張り争いに過ぎないと見立てるのはいささか乱暴か。
カルディで粉唐辛子がずっと品切れだったからAmazonで注文していたのが今日届いた。それを使って晩ごはんにキムチチゲをつくった。韓国産の唐辛子は甘みが強く、大量に入れてもあまり辛くならない。一向に辛くならないからつい入れすぎて、見た目がドロドロになってしまう。ドロドロで真っ赤なものは辛いという先入観から、粉唐辛子を入れすぎたキムチチゲをおそるおそる口に運ぶが、やはりぜんぜん辛くはない。色に騙されてはいけない。そういえばマグロが人気なのは赤い身が広告映えするからだと聞いたことがある。赤に騙されてはいけない。