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N.Mu Event Context 投稿

日記230110

兄から年賀状の返事が届いていた。昨年も年賀はがきで返事がきていて、母からの返事は去年も今年もLINEだった。兄から送られてきたはがきには、今年東京に行くかも、と書かれていた。じぶんは東京に住んでいる。今年で8年目になる。逃げるように上京したが、逃げた先でどうするかをまるで考えていなかったのだといまになって思う。令和4年度11月1日時点で東京都の人口推計は14,044,538人と発表されていて、そのうち何名が知り合いで、何名とすれ違い、何名と一切の縁を持たないのだろう。昨日の新型コロナウイルス新規感染者数は8,199名と公表されている。昨年の秋以降リモートワークが続いていて、先月末で就いていた職を辞めた。しばらくまともにひとと会っていなかったが、年末は集まりに呼ばれる機会が何度かあった。ひさしぶりに会うひとやはじめて会うひとがいた。兄とはしばらく会っていない。母ともしばらく会っていない。ひとと会わない生活は無責任でいられて気もらくで、感染症のリスクも限りなく低いが、同時に生活への執着が失われる。執着しないから職もあっさり辞める。そして執着があるひとから怒られる。

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辿るほどに埋もれてしまう「私」の在り処──新原なりか『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』から読みとれること

 文章にまつわる自営業をなさっている新原なりかさんが自主制作された『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』(以下、『私みたいな』とします。)という本を読みました。本記事はこの『私みたいな』の感想を書くことを目的としています。
 しかし感想といってもなかなかむずかしい面もあります。まずは本の概要を紹介しながらそのむずかしさについて記していくとしましょう。

書影。表紙にトレーシングペーパーが使われている。
新原なりか『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』 - 目次

はじめに ―はい、わたしの感想です。
ありがとう g.o.a.t
niina’s blog 2019年12月〜2022年4月 奈良の鹿のよさ / 日記 / やっていけるのか、私 / ひとの日記を読んで泣く / ぬるっとフリーランス /たばこと母性 / 明日のごはんを用意する / クリスマスだ、いったん全部忘れよう / クリスマスはつづく / 自意識過剰、それでも / 年末年始、ライブ、インフルエンザ / 私のまま、仕事をしたい / 地獄に日が差す土曜日 /「わたしたちがもちうる “まじめさ” について」/ 筆をすべらせろ / 褒める作戦 / 立ち竦む / クリスマスにゆるされる / サインをしたことがある人生 / クセのない文章 / 花を口実に / たとえばいま『構造と力』を読んでいること / 嫌いなものがつくる輪郭 / 小さい歌集を作っています / my史観プロジェクト
離婚しました
noteより 自分のために書くということ / 「人間として当たり前」とは(遅刻魔の言い分) / 本質でないほうで呼ぶ / The World Will Tear Us Apart、夜中にひとりで街を歩かなければならない私たちのための / 本が読めない
かつて「妻」だった私へ、そしてryuchellと、わたしたちへ
短歌連作「 Loveless Yellow 」
おわりに ―ねことプール

 『私みたいな』は日記、エッセイ、短歌が収められている本です。なかには書き下ろしの文章もありますが、まえがき(「はじめに ─はい、わたしの感想です。」)に「キラキラしたフリーランスのイメージとは程遠い私の仕事と生活と内省を綴ったブログの記事が本書の中心となっている」(p2)とあるように、主軸は筆者がかつてブログに書いた日記におかれています。つまり『私みたいな』はあるコンセプトや主張にしたがって構造的に書かれた本、というよりかは、時間的にも場所的にもばらばらに書かれたさまざまなテキストを無理に形を整えることなく一箇所に集めて生(なま)の感覚を記そうとした本、といった趣きがあります。
 ただし、「はじめに」の冒頭で宣言されたはずの「リアルを感じることができる」(p2)本であるというカテゴライズは筆者によって即座に留保されます。なぜならこうした大雑把な名付けは所詮売り文句に過ぎず、その時点でリアルからは遠ざかってしまっているからです。ましてや言葉なんてものはつねに限定的な表現でしかなく、受け手は限定的な表現から見出されるさらに限定的な観念を好き勝手に受け取ることしかできません。一個人の限定的な表現を客観的な視座から「データやロジックなどと無理矢理引き比べて貶め」(p3)ようとするなんてもってのほかです。
 ではわたしが本記事で行おうとしていることは何でしょうか。本記事の目的はこの本の感想を記すことであるとうえに書きました。それは言い換えれば、文章という限定的な表現を第三者の立場から恣意的に読み、恣意的に抽象化しながら強引に理念を仮構し、ありもしない理念と本の内容とを無理矢理引き比べようとすることにほかなりません。このようなやり方で述べられた感想は、本の内容や筆者の実感からは乖離したものにしかならず、本を素材にしただけの無責任な二次創作にしかならないでしょう。
 しかし、このまえがきは個人の感想を肯定するかたちで締め括られています。だとすれば、本の感想を好き勝手に述べることが許される可能性も残されていそうです。この先を書き進めるためにも、個人の感想はよしとされているという点をとりあえずの拠り所にしていくことにします。

 ではわたしがこの記事で試みることをもう一度確認します。
 この記事は『私みたいな』の紹介ではありません。どこそこに共感したなどの素朴な感想も書きません。ここで記す文章は、この本を乱暴に抽象化することでどのような構造や態度を取り出すことができるのか試みるという、ある種の二次創作です。実際の本が具体的にどうであるかは『私みたいな』を手にとって読んでくださいということ以外にわたしからいえることはありませんので、具体的にどうであるか気になる方は実際に読んでみてください。

 前置きもそこそこに、二次創作にとりかかっていきましょう。手がかりを掴むべくまずは本のタイトルに注目してみるとします。
 『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』という長々とした印象的な書名は、「ある夜コンビニの前でひとり缶チューハイを飲みながら」(p47)思いついた言葉であり「意味は特に解説するまでもな」(p47)くそのままであると、本には書かれています。しかし、本を読んでみるとこの書名には本に通底するテーマがはっきりと書かれていることがわかります。
 このタイトルには「私」と「私みたいなやつ」が登場しています。さらに「私」が「私みたいなやつのまま」であろうとすることが宣言されています。「私」にとって「私みたいなやつ」はかならずしも「私」ではなく、「みたいなやつ」である以上は場合によっては入れ替えも可能であるが、あえてこの「まま」を「私」として見立てようとするこの書名から、主体の二重性への意識を読み取ることは難しくありません。そしてこの主体の二重性への意識は本文からも見てとることができるのです。

 先ほど、『私みたいな』は生の感覚を記そうとした本である、と書きました。わたしが「生の感覚」とした性質は、本のなかでは「リアル」や「素」、「そのもの」や「そのまま」といった語で示されています。それがよくわかるのが「はじめに ─はい、わたしの感想です。」です。
 本の開幕を告げるこのテキストでは大きくつぎのことが確認されます。

  1. 言葉は対象をそのまま伝えないこと。
  2. 書き残された言葉は事物や出来事の一面でしかないこと。
  3. 一時的・一面的に記された言葉には還元されない「そのもの」や「リアル」があること。
  4. 「そのもの」や「リアル」でないからこそ言葉を書くことには意味が生じること。

 こうした感覚は「私」が「私みたいなやつ」でしかいられないことへの意識にそのまま通じるといってよいでしょう。
 「私」による恣意的な記述から生じた「私みたいなやつ」、を恣意的に読解することで生じる「私みたいなやつみたいなやつ」……と、「そのもの」からどんどん遠ざかってしまうスパイラルはときに言葉を書き記す意欲を阻害します。けれどもその渦の大元には「私」があるのだから、「私」は「私みたいなやつ」のままでやっていくのだ、と「私みたいなやつ」をも「私」で包含することで保持される主体性がある。こうした理念が書名やまえがきに顕現していることがわかります。(ここでは「私みたいなやつ」と「世の中」との対峙も書名に含まれている点が捨象されていますが、二次創作なのでよしとします。)

 「私みたいなやつ」は言葉がもたらす恣意的な記述や恣意的な読解から生じます。私から発された言葉が「私みたいなやつ」を象ります。言葉はひとつの道具であり、この道具の用い方によって「私みたいなやつ」はいくらでも変容します。そしてひとが言葉を用いようとするとき、どんな環境・どんな状況で道具を用いようとしているかという外的な要素も働きます。それがわかるのが「ありがとう g.o.a.t」です。
 「どんなエディタを使って書き、どんな場所に載るかが文章の内容や文体(中略)を大きく左右する」(p4)とあるように、言葉を用いる以前に、言葉という道具を使うために用いる道具によって「書く自分」(p4)はあるていど規定されます。タイプライターの誕生によって長文の執筆が容易に可能となったように、書く技術は書かれる文章の内容を変えます。書かれる文章が変わるということは言葉から見出される「私みたいなやつ」の姿も変わるということです。
 言葉以外の例で考えてみましょう。もし電車や自動車がなく移動手段が徒歩にかぎられていたら自宅と職場などの毎日通う先との距離は徒歩圏内に収束することでしょう。わたしたちは電車という道具があるからこそ職場から数十キロも離れた場所に住むことができます。ということは移動の技術は住環境を規定します。住環境が変わるということはそのひとの生活も変わります。生活が変わるということはそのひとの行動も変わります。行動が変われば考えも変わるでしょうし、いくら当人がじぶんがどこで暮らそうと私は私だと言い張っても、客観的に見える「そのひとみたいなやつ」は違ったものになるでしょう。
 言葉という道具や言葉を書くための道具が「私みたいなやつ」を表出する。『私みたいな』において日記が日付順に並べられているのではなく、まずは書いたWebサービス(g.o.a.t/note)で区分けがされていることはその象徴です。各Webサービスが用意するUIもまた「書く私」を基礎付けるのだから、こちらで書いた日記とあちらで書いた日記とでは「私」のありようも違うのです。どこで書いたかということは「私みたいなやつ」を条件づける重要な要素となる。これは『私みたいな』に短歌が収められていることの意味にもつながります。短歌というジャンルが書き手に強いる形式によってあらわれる「私みたいなやつ」の存在は、筆者が筆者の素を示そうとするときに欠かせないと考えられているのではないでしょうか。

 『私みたいな』は主体の二重性を主題とした本である、としたときにキーとなるテキストが「自分のために書くということ 2019/07/03」(p32)です。このテキストは2019年7月3日にnoteで書かれた日記ですが、文中で2016年4月10日に書かれたテキスト(日記?)がまるまる引用されています。そしてタイトルからもわかるとおり、2019年7月3日の日記は書くことについて書かれているのですが、2016年4月10日のテキストもまた書くことについて書かれています。つまり「過去の日記を引用しながら書かれた日記の内容が・書くことについて書くために書くことについて書いたテキストを参照したものになっている」という自己言及性に満ちたテキストになっているのです。ここに「私」と「私みたいなやつ」、あるいは「私みたいなやつ」を描き出す言葉やそれらを書く行為の関係への意識が露わになっています。
 そしてこうして本の要所要所で目立って見える私/私みたいなやつ・書かれた言葉/書く行為への意識を確認したうえで本全体を見通すと、なるほど心なしかこの意識は全体に散りばめられているように感じられる、それどころかあきらかに通底しているようにすら思える……とどんどん筆者みたいなやつ/この本みたいなやつの輪郭が色濃くなっていくようでもあります。
 また、『私みたいな』ではないですが、『生活の批評誌 no.5』という本で新原さんが書かれているエッセイ「「そのまま書く」をそのまま書く」でも同様の傾向が感じられます。タイトルからすでにここまで記したような要旨が伝わってくるだけでなく、『私みたいな』に収録されている「たとえばいま『構造と力』を読んでいること 2021/05/18」がそっくり引用されていたり、書かれた内容も私に帯びる多重性がひとつの主眼におかれていたりと、『私みたいな』と同等の意識が見てとれます。

 『私みたいな』に戻りましょう。
 たとえば「「わたしたちがもちうる”まじめさ”について」2013/11/03」(p16)では「「まじめさ」とは「言葉を重ねる」ということなのかもしれないとふと思った」(p16)とあります。言葉が「みたいなやつ」を表出するのだとすれば、言葉は重ねれば重ねるほどに「そのもの」から乖離してしまうはずです。けれども、それでもなお言葉を重ね、言葉と向き合うことが、何かとまじめに向き合うことであると筆者は書いています。
 ここで思い出したいのが「はじめに」で個人の感想が肯定されていた点です。個人の感想を肯定するうえで引き合いに出されていたのが、2ちゃんねるの開設者であるひろゆきこと西村博之氏の代表的な台詞「それって、あなたの感想ですよね?」です。反証可能な事実や数値ではなく「みたいなやつ」でしかない個人的感想を一蹴することは容易いでしょう。ただ、たやすく一蹴できてしまうからこそ、その個人的な感想がどのような場所や状況、その他列挙しきれないあらゆる諸条件から発されたものであるか、時間をかけて向き合い検証しようとする態度や根気さをまじめさと呼ぼうとすることは、『私みたいな』からみてとれる筆者の主張として一貫しています。
 ある意味、筆者自身が「私」がどの時期にどんな場所でどんな言葉を書いてきたかを検証すべく『私みたいな』という本が制作されているのだともいえるのかもしれません。そして言葉を重ねながら「私みたいなやつ」と向き合い、「私」を見通そうとする筆者の態度は、まさにまじめなものであると感じさせるだけの説得力があります。

 そろそろ本記事もまとめに向かっていきましょう。
 『私みたいな』の最後に収録されたテキスト「おわりに ─ねことプール」(p47)ではプールに通い始めたという筆者の近況が記されています。筆者は泳いでいるときの感覚を「陸上のことは全部遠くなって、水の生き物になる」(p47)と表現します。
 地上に二本の脚を立てたときと水中で浮かんでいるときとではとうぜんのことながら求められる筋肉の運動は異なります。それぞれでまるで違う生き物であるかのように身体は動きます。
 泳ぎの描写によってこうした身体運動のありようを想起するとき、言葉や言葉を用いる環境もまた「私」をあらわにする道具であるのだと本のなかで繰り返し示唆されていたことを思い出さざるをえません。いや、本記事では道具と表現しましたが、言葉とは陸上や水中と同様に「私」を包囲する場であるのかもしれません。いずれにせよ、陸上で走っている「私」は水中を泳ぐこともできるし、水中を泳いでいる「私」は陸上を走ることができます。その時々の「私」は「私みたいなやつ」という「私」の一面でしかなく、同時に「私みたいなやつ」である以上は「私」であり、集積しきれない無数の「私みたいなやつ」を少しずつ積み上げていくことをまじめにやっていく過程のひとつにこの『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』がある。
 わたしがみてとった『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』みたいなやつは、このような姿をしていたといえるでしょう。
 そして最後にこうした読解を経てあらためて本をみてみると、なんと表紙のイラスト部分が二重に貼り付けられているではありませんか。

表紙に印刷されたイラストの上に厚めの紙に印刷したイラストが貼られている。

 わたしは本記事の冒頭に強いコンセプトがある本ではないと書きましたが、あえて明示されてこそいないだけで、『私みたいな』はかなりコンセプチュアルに制作された本なのだろうなあと思い至るのでありました。

 さて、いうまでもなく本記事は言葉で表現されています。だとすれば、わたしがここに書いた文章もまた「みたいなやつ」として受け取られるに違いありません。『私みたいなやつ』の感想みたいなやつやそれを書いたわたしみたいなやつがどこかで姿をあらわすのでしょう。あるいはこうして無数の「みたいなやつ」を生み出しては絶えず確認しあう過程のことを、わたしたちはコミュニケーションと呼ぶのかもしれませんね。

(余談ですが、アイキャッチにしている画像はAI画家 Stable Diffusionを利用して画像を自動生成するサービス「お絵描きばりぐっどくん」に「mug」とだけ入力して生成された、実体をもたない観念としてのマグカップたちです。)

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【スライド】群れの一部であることとたったひとつの個体であることはいかにして両立されるのか

スライド資料「群れの一部であることとたったひとつの個体であることはいかにして両立されるのか」(上記画像は資料の一部。クリックすると全ページを閲覧いただけます。)

 先日、動画配信プラットフォーム・シラス内のゲンロン完全中継チャンネルで行われた配信イベント「吉見俊哉×大山顕 司会=速水健朗 まなざしと戦争 ── 空爆、ドローン、SNS」のレビューを投稿した。(https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20221025#review-mumu

 ここでわたしが書いたこと(イベント内の議論で特に気になった点)を要約するとつぎのとおりである。

 ライフル射撃には視点があり、そこには撃つ者と撃たれる者がいる(遠近法的ビュー)。
 空爆には視点がなく、撃たれる者はいるが撃つ者がいない。ここで撃つ者の代わりとなっているのは計算である(オルソ画像的ビュー)。
 主体的な視点をもたないオルソ画像的ビューの性質は、ビッグデータから「わたしのようなひと」を算出してユーザーにサービスをレコメンデーションする現代の一般的なウェブサービスとわたしたちとの関係と同等ではないか。空爆からわたしたちが置かれている現代の状況を考察できるのではないか。
 では「わたしのようなひと」とはなんだろうか。「ようなひと」である以上は「わたし」と相似的でこそあるが同一ではない。この個人が「わたしのようなひと」として扱われることに対し、一方ではひとりの個人としての感覚から受け入れがたさを感じてしまうひとも少なくないであろうが、他方で権威性を否定して中立を求める「正しさ」というのはわたしたちが民主的であることを望むときに求めるものではなかろうか。
 ……云々。

 レビューに書いたのはおおよそそんなところである。詳細についてはレビューを読んでいただくか、もしくは番組を観ていただくのがいちばんよい。
 ただしざんねんながら、わたしが書いたレビューではこうした問いが十分に整理されておらず、またどちらかといえば唯一無二の実存としての「わたし」に対するロマン主義的な憧憬が濃く現れすぎている感が否めない。
 しかしイベントを見てわたしが気になったことは、ロマン主義を保持するためにテクノロジーは否定すべし、などといった単純なものではない。

 そこでいまいちどイベントで議論されていた「視点の問題」を整理すべく、こんどはスライドの作成を行なってみた。こちらも十分な整理がなされているとは言いがたいが、テキストのみを材料とするよりはいくらか議論の見通しが立てられる資料となっているのではないだろうか。

[参考]当該番組のほか、レビューやスライドの作成には以下の配信イベントで行われていた議論を参照している。
「東浩紀突発#38 東浩紀がいま考えていること 6——全 シ ラ ス 最 速 仕事始め突発番組
「安達真×桂大介×東浩紀 シラスはウェブのなにをやりなおすのか──エンジニアが語る開発の舞台裏2」

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【動画】アニメ版「雪を食べたいの巻」から考えるちびまる子ちゃんにおける語りの階層──「ちびまる子ちゃん」について語るときに僕の語ること(4・編集版)

 アニメ『ちびまる子ちゃん』第1期から「雪を食べたいの巻」を扱って『ちびまる子ちゃん』に内在する視線や語りがどのように構成されているのか、またその語りの構成がお話にどんな効果を与えているのか考えてみました。
 さくらももこの短編エッセイとした描かれた『雪を食べたい』ですが、これをアニメ『ちびまる子ちゃん』に移行するうえで施された編集が『ちびまる子ちゃん』の視点をより顕著に表すものとなっていることは見逃せません。
 詳細は動画をご覧いただければと思います。

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日記220729

 朝の目覚めがやたらによかった。これも漢方薬とか首筋のストレッチとかのおかげだろうか。いつもよりはやい時間に目が覚めてしまって二度寝もできず、仕方がないから起きて本を読んでいた。心なしか文字もすらすら読める気がして、やはりこの頃はすごく疲れていたのだと実感する。けれど昼過ぎに急激に眠くなり、20分くらい寝ようと思って横になったが、その程度では起きられるはずもなくて結局2時間くらい寝た。ここのところ書いていた小説の締め切りは実質明後日で、今日になってさすがに酷すぎると判断したひとパートを書き直そうと思ったが直すあてもなく、テキストファイルの途中に数行のスペースが空いたまま夜になった。むろん寝てばかりでは何かが書けるはずもないのだが、去年書いたやつのほうがよかったなあと思いながら取りかかっている時点でどうにかすべきであったのだこれは。

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日記220728

 朝起きるとひどい眠気とだるさがあって、だるいので今日は休みますと上司に連絡を入れてまた寝た。つぎに目を覚ましたのは13時30分頃だった。上司からあしたも休みにしたらと返信がきていたから、じゃあそれでとさらに返事をした。その後もしばらく眠かった。昨晩寝る時間が特別遅かったわけでもなく、どうしてこんなに眠いのだろうと思い返しても心当たりはきのうから飲み始めた漢方薬くらいしかない。「抑肝散加陳皮半夏(よくかんさんかちんぴはんげ)」というこれは自律神経に作用するらしく、ならば眠気も誘発するかもしれぬと調べてみると、漢方薬自体に眠くなる成分は含まれてないが自律神経が乱れているひとは飲み始めの時期に「めんげん」と呼ばれる好転反応が起こることがあるようだ。不調が回復する過程は一時的な悪化を経由するらしい。何がどこまで根拠を持つ情報なのか定かでないが、実際ものすごく眠いからとりあえずそういうものだと思うことにする。夕方以降は眠気が解消されて、夜は神保町で校正の講義を受けた。今年のはじめから通っている校正の夜間講座も今日が最後の受講日で、何か身についたのかもわからなければ、今後役に立つのかもわからず、半年間特に声を交わすこともなければ名前も知らないまま週に数日顔を合わせ続けた十数名のひとらとも今後会う機会はないのだろうという薄い感傷が残るくらいがせいぜいのところだといっては寂しすぎる気もするが、しかし勤務後に講義を受けたり宿題に励んだりすることは大変だったが職場以外に通う先があることにけっこう救われていたのはたしかで、あるいはひとからものを教わる機会が貴重であることに気付かされたこともあり、それがいかに還元されるかとかそういうことはあまり関係なしに、また興味のあることを学びにどこかへ通いたい気持ちがある。あてがなくとも学びに金を使うことはたのしいということを知れただけでもよかったのかもしれない。まあでも、だけ、というのも大袈裟で、本づくりの講義を受けてまた本をつくりたいなあと思えたこともよかったし、なんだかんだ得られたことは多々あるのだろう。

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日記220727

 後頭部から鎖骨付近にのびる筋肉をほぐすとわりとあご周りの力が抜ける。胸鎖乳突筋というらしい。血管が集中しているこの辺が凝っていると自律神経の乱れにもつながるらしいとネットで見かけた情報がどこまで信頼できるものなのかは知らないが、ちょっとあごも肩も疲れてきたしなんとなく全身がだるいし声もかすれて出しにくいし……みたいな状態に陥るまえに、休憩がてら胸鎖乳突筋を何度か伸ばしているととっても調子がよい!ということはむろんないのだが、まあかろうじてぎりぎり平常といえなくもないかなというラインを下回らないくらいにはいられる。少なくともいまのところは。最近飲んでいた鎮静剤がなくなったからイライラを主とする神経症やら何やらに効くと書かれた漢方薬を買った。

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日記220726

 今朝、出勤時間に叩きつけるような雨が降っていてびしょ濡れになった。ほとんどのひとが軒下に集まって雨宿りをしていた。傘を持っているひとが雨宿りしていて、傘を持たないじぶんが雨を気にせず歩いているのがおかしかった。濡れずに済むための道具の使用が濡れることへの抵抗を育んでいるのか、濡れることへの抵抗があるから濡れずに済むための道具を使用しているのか、判断をつけることは難しいように思う。地震が起きたら揺れを感じるように、雨が降ったら濡れるのだというくらいの気持ちでいると気は楽で、では濡れることへの抵抗がないのかといわれるとそうでもなく、今日は靴と靴下がずっと濡れたままで不快だったし、職場は冷房が効いているから余計に体が冷えて体調もすぐれなかった。濡れずに済むための道具が普及していなければ濡れたあとの適切な対応が文化として醸成されていたはずで、それもひとつの濡れることへの抵抗である。たとえば当たり前のようにあらゆる出先に乾燥機があったらおもしろいなどは思うが、そんな大ごとでなくとも傘を持たないと決めてしまえばじゃあ着替えを用意しておこうとか、濡れても支障がないように下駄でも履いてみようかとか、身近な範囲で策はいくつか思いつく。濡れを回避するのではなく濡れたら乾かすとか濡れても気にならないようにするとかいった方向に向いていたならば、それはそれで、傘を持ちながら雨宿りするみたいな抵抗する手段を持ちつつなお恐れをなすような状況もまた変わった形で現れるのだろうけど、そもそも濡れて困ることってさほどないよねと思いながらリュックを開けると本が濡れていたのが笑えた。

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日記220725

 メルカリのアプリを開くと4日前に安川奈緒『MELOPHOBIA』が2万2222円で売られていたようで、すでに売り切れていた。どうにか手を出せてしまいそうと思ってしまう絶妙な金額だなと思う。まえにメルカリで同書が6000円で売られていたこともあったし、メルカリもなかなか侮れないと思いつつ利用したことはない。Twitterを見ていると『シン・サークルクラッシャー麻紀』がAmazonや楽天ブックスで品切れているというのでこちらもメルカリで検索をかけてみると「一読しただけです」などの一言を添えてほぼ定価で何件か出品されているようすだった。本を一読してすぐに売るということをしたこともなければ考えたこともなかったから、そういう習慣もあるということにやや驚いたが、それじゃあとわが身を振り返るに、買って一度読んだきり本棚に差しっぱなしの本なんて山ほどある。というか大半がそうだ。たとえ数万出して希少本を手に入れたとしても、擦り切れるほど読み返すなんてことはおそらくせず、せいぜい二、三度読めば御の字で、すぐに新しい未読本に目移りしてしまうことだろう。基本的に飽きっぽい。それを思えば、読み返しもせずただ所有しておくよりほしいひとの手に渡るようにしたほうがよいという考え方は合理的ではある。手放すひとがいるから希少本もかろうじて古本市場に流通してくれるわけだ。それにしてもこの所有権の譲渡によって失われるのはその所有物に立ち戻る可能性であるのだとすれば、著しく低い可能性に夢を見るか、はたまた著しく低い可能性などゼロと同等であると潔く割り切るかという異なる志向性がここにはあり、前者は宝くじを買っているようなものでたしかにあまり賢くはないのだが、それでもたまに500円とか700円とか当たって利益にこそならないが思わぬ喜びに出くわすことだってある。本を読み返すことはあまりできていないが佐川恭一の小説はたびたび読み返している。

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日記220724

 夜までずっと部屋に座って過ごしていたせいか脚に脱力感があり、筋肉に刺激を与えた方がいいような気がして走りに外へ出た。日頃の運動不足ゆえ、ジョギングでは適度な運動になるほど走り続けられるとは思えなかったから、近所の大きな公園まで軽く走って公園に着いたあとは直線の広めな遊歩道で何本か短距離のダッシュを繰り返した。日常的な運動における走るという行為はもっぱら長距離走を指しているが、それは短距離で瞬発的な走りをすることが身体に対する怪我の危険性と周囲に対する事故の危険性をはらんでいることによる。言い換えれば、気軽に短距離走を行える場所は日常にはなく、せいぜいトラックがあるくらい設備の整った運動場などに足を運ぶしかない。中学から高校まで陸上競技部に所属していたが、長距離走は大の苦手だった。専門でやっていた跳躍競技は持久力よりも瞬発力を要する。その点では短距離選手と性格は近く、跳躍選手は基本的に短距離選手と同じ練習メニューを与えられることも多い。過去にそうした経験があるからか、短距離走であれば嫌いではなくむしろたのしいくらいだ。もし生活圏内に気兼ねなく短距離走に興じられる場所があったなら運動不足も解消できそうな気すらする。そんなことを考えながら走った。いつしか長距離走が占めていた「走る」のイメージを短距離走に転回するだけで走ることへの距離感が大きく変わることがおもしろく感じられた。久しぶりの運動で──といっても外に出ていた時間はわずか20分程度だったとは思うのだが──疲れたのか、夕方に買った5個入りのどら焼きを4個も食べてしまった。少食で一向に体重を増やせない身としては運動するだけで食事量が勝手に増えてくれるのもまたありがたい。

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