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【スライド】群れの一部であることとたったひとつの個体であることはいかにして両立されるのか

スライド資料「群れの一部であることとたったひとつの個体であることはいかにして両立されるのか」(上記画像は資料の一部。クリックすると全ページを閲覧いただけます。)

 先日、動画配信プラットフォーム・シラス内のゲンロン完全中継チャンネルで行われた配信イベント「吉見俊哉×大山顕 司会=速水健朗 まなざしと戦争 ── 空爆、ドローン、SNS」のレビューを投稿した。(https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20221025#review-mumu

 ここでわたしが書いたこと(イベント内の議論で特に気になった点)を要約するとつぎのとおりである。

 ライフル射撃には視点があり、そこには撃つ者と撃たれる者がいる(遠近法的ビュー)。
 空爆には視点がなく、撃たれる者はいるが撃つ者がいない。ここで撃つ者の代わりとなっているのは計算である(オルソ画像的ビュー)。
 主体的な視点をもたないオルソ画像的ビューの性質は、ビッグデータから「わたしのようなひと」を算出してユーザーにサービスをレコメンデーションする現代の一般的なウェブサービスとわたしたちとの関係と同等ではないか。空爆からわたしたちが置かれている現代の状況を考察できるのではないか。
 では「わたしのようなひと」とはなんだろうか。「ようなひと」である以上は「わたし」と相似的でこそあるが同一ではない。この個人が「わたしのようなひと」として扱われることに対し、一方ではひとりの個人としての感覚から受け入れがたさを感じてしまうひとも少なくないであろうが、他方で権威性を否定して中立を求める「正しさ」というのはわたしたちが民主的であることを望むときに求めるものではなかろうか。
 ……云々。

 レビューに書いたのはおおよそそんなところである。詳細についてはレビューを読んでいただくか、もしくは番組を観ていただくのがいちばんよい。
 ただしざんねんながら、わたしが書いたレビューではこうした問いが十分に整理されておらず、またどちらかといえば唯一無二の実存としての「わたし」に対するロマン主義的な憧憬が濃く現れすぎている感が否めない。
 しかしイベントを見てわたしが気になったことは、ロマン主義を保持するためにテクノロジーは否定すべし、などといった単純なものではない。

 そこでいまいちどイベントで議論されていた「視点の問題」を整理すべく、こんどはスライドの作成を行なってみた。こちらも十分な整理がなされているとは言いがたいが、テキストのみを材料とするよりはいくらか議論の見通しが立てられる資料となっているのではないだろうか。

[参考]当該番組のほか、レビューやスライドの作成には以下の配信イベントで行われていた議論を参照している。
「東浩紀突発#38 東浩紀がいま考えていること 6——全 シ ラ ス 最 速 仕事始め突発番組
「安達真×桂大介×東浩紀 シラスはウェブのなにをやりなおすのか──エンジニアが語る開発の舞台裏2」

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