空撮写真のカメラの位置に撮影者(としての権利を有する者)がいないことは、言葉が書いた者や発した者から離れて無限に複製されることとどの程度重なりあるいは重ならないだろうか。ちょっと前に読んだ鈴木忠志の著書に、詩人が詩を朗読するパフォーマンスが流行っているがなぜ書いた当人が朗読しなければならないのか、書いた当人が朗読することがなぜ自明視されているのかと疑問が呈されていた。演劇においては戯曲を書く者と演じる者は異なる場合がほとんどであり、さらには演じる者が多数いる場合がほとんどなのだから書かれた言葉と発される言葉の出どころは見かけ上は異なるのであり、演出家である鈴木忠志がそのように思うのはとうぜんである。ポピュラー音楽は歌詞の書き手と歌手が分業されていることが多く、落語家は師匠の演目を目で見て真似て昔から受け継がれている話を引き継ぐのであり、アニメーションは生き生きと動く絵に合わせて用意された台詞を吹き込む。もとより言葉はすでにあったものを複製することで運用されているのだから始点を辿ることもできまい。
では写真はといえば、従来基本的にはそのときその場所に撮影者がいてシャッターを押したということがある写真の権利所有者としての条件になりえた。けれど写真やカメラのおかしさは、たとえば集合写真の権利はおそらくは被写体である集団にありカメラマンは表に出てこれないのでは、とか考えられる点にある。ああこの集合写真は構図から見てあのカメラマンだねとか、記念写真にそんな作家性は求められていない。もしかしたらネガの所有権とかなんとか細かく部分を見ればある段階までは撮影者の権利、ある段階から集団の権利と境界線があるのかもしれないが、カメラに詳しくないしそこまではわからない。いずれにしても場合によって権利が撮影者だったり被写体だったりする。撮影者はカメラの位置にいるが、被写体はカメラから離れた位置にいる。カメラの位置にいることが権利を絶対的に保障するというわけではなさそうだ。
それで空撮はどうかとなるのだが、撮影者の身体がその場になければシャッターを押したひとが撮影者なのかとか、レタッチまで含むのかとか、撮影に関わる諸工程をディレクションした者なのかとか、どの立場に権利が付与されるのかが気になってくる。もしシャッターを押したひとという単純な条件に由来するのであれば、では最後にシャッターボタンを押すだけのアシスタントを用意しそれ以外のすべてを別のひとりが担ったとして、そこで撮られた写真はアシスタントのものになるわけだがそれはそれで奇妙な感じがする。真上から人物を撮るとその人物の個別性が消失し、老若男女のいずれの属性であるかすら判断が難しくなる。空撮は撮影者と被写体の両者を匿名化する。特定個人に権利が付与されない匿名的な空撮の完成形はやはり地図になるのだろう。だれが見た風景でもないがゆえにだれもが見たことのある風景として共有可能になる。一般的に言葉は共有可能な状態が自然であり、共有可能であるがゆえにわたしたちは言葉を交わすことができるように、写真も匿名化し共有可能な状態を目指すとき、たどり着く図が空撮だとするならば、人間が重力に対して垂直な視線を有するのに対し重力と並行な視線でスキャニングされた面が自然であるというのはこれまた奇妙だ。
ただ公共的な共有財と個人的な文化芸術とはわけて考えるべきなのかもしれない。辛ラーメンにツナを入れたらおいしかった。
日記230124
カテゴリー: 日記