あたらしい眼鏡がほしくなり、いま使っている眼鏡を買った店のインスタグラムやネットショップを見ながら、どんなものがよいだろうかと考える。いま使っているのは赤くて細いフレームの丸眼鏡で、せっかく新調するのであればいくらか雰囲気が異なるものがよい。というより正確な順序としては、雰囲気を変えたくて眼鏡がほしくなっているはずなのだが、大量のフレームを眺めているとどうしてもいまの眼鏡と同じようなものにばかり目がいってしまう。ネットで見るより実物を手にとりながら選ぶほうが柔軟に検討できるような気がしてくる。
頻繁に会うひとに対して抱くイメージは日に日に固定化し、次第に凝り固まってすらいくだろう。そして自分自身にとってもっとも頻繁に会う人物は、なによりその自分自身である。
じぶんに飽きるというほどのことはないが、わたしという人物の外見が確定することに伴い、わたしはこのような人物であるという幻想がはっきり輪郭だってしまうような錯覚めいたものはある。その輪郭を少しばかり揺さぶって、退屈な日常にわずかな刺激をもたらせないだろうかと夢みることもしてしまう。
夢みたさに髪を伸ばしたり短くしたり、服装の方向性を変えたり、眼鏡を新調したりする。身長は意図して変えられないし、体重を変えるほどの努力はしたくない。意識的に内面をがらっと変えることもむずかしいのだから、けっきょく手を加える先は外見の装飾になる。装飾物の変動には夢や願いが込められている。たとえばイメチェンだとかモテたいだとか。
おもえばアニメやマンガに登場するキャラクターは、よほどのことがないかぎり外見を構成する要素は大きく変わらない。見た目の類似性が相当程度確保されているからこそ、各コマ各ページに描かれる人物らしき絵の数々に読者は同一性を読みとる。それゆえに類似する数々の絵はひとつのキャラクターとして束ねられ、そこに人格が立ち上がるのである。
翻ってわたしがわたしとして見られることは、わたしが毎日このからだでいることに起因しているはずだろう。わたしをわたしとして支える外見への抵抗として、わたしはわたしの外見に小さな変更を加えてみる。
わたしやあなたがおもうほど、わたしはわたしではない。