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日記210324

 

 Wordpressを使うとなにがどこまでできるのだろうかと思い、適当にGoogle検索を行うと「集客」「稼ぐ」などのキーワードがセットになった記事がいくつも出てきた。ろくに読みもせず、というか記事を開きもせず、検索結果が表示されたタブを閉じる。見たい風景はこれではない。
 いつからインターネットは「集客」して「稼ぐ」場所になったのだろう。たんに見えていなかっただけで、私がネットに触れはじめたときにはすでにそうであったのかもしれない。けれど少なくとも、インターネットと稼ぐこととがつながる回路を、私はもっていない。私にとってインターネットは自由に「遊ぶ」場所だ。この日記を読みにくる読者も利益をもたらす「客」なんかではない。ひとりで好き勝手に遊んでいるところを、気づけばいっしょにたのしんでくれている「友人」や「同志」と呼ぶにふさわしいひとたちだ。この日記が誰かに読まれることは、結果的に私に充実感を与え、その意味では読者は私に利益をもたらしているのかもしれないが、それは定量化不可能な、数字や効率の外側にある幸福であるはずだ。
 そもそもこちとら稼ぎにかまける輩のせいで不自由さの増したインターネットに辟易して、好き勝手に遊ぶためだけにわざわざ金を支払って個人サイトを立ち上げている身である。カフェでひと休みするには金がいる、温泉に入るには金がいる、本を読むには金がいる、電車に乗るには金がいる、大学に通うには金がいる、ディズニーランドを訪れるには金がいる、金を支払うことで果たしたい欲望、つまりみずからにとっての自由が叶う。だから私はインターネットで遊ぶために金を払う。ただたのしむために金を払う。誰もが日常的に行っているごく普通の営みだ。ディズニーランドに行って金を稼ごうなんてひとがいるとは思えないし(いるのかもしれないけど)、ディズニーランドに行けば稼ぎを得ずとも満足感を得られるだろうし、また時間をつくって訪れようとすら思うだろう。インターネットだって同じではないだろうか。それともサービスを売る側、稼ぐ側に回りたいと願うひとが、思っている以上に多いというだけのことなのか。

 勤務中に見知らぬ親子を見て、顔が似ているなと思った。片方だけを見ればただそのひとの顔であるのだが、二人揃って並んでいるとその類似性が主体の奇妙な拡張をもたらすかのようでいて、しかし同時に一方の特徴、言い換えれば、そのひとがそのひとであることが、より際立つようにも見えてくる。それに加えて、たとえば同じ家で十数年二十数年と暮らしているとなれば、おそらくは顔という遺伝的に複製されるような要素だけでなく、表情や身振り手振り、口癖や声の調子、歩き方や立ち姿勢、箸の持ち方、麺の啜り方、ソファでのくつろぎ方、くしゃみの仕方、収納の方法、入浴後の習慣、そうしたあらゆる動作も一方から他方へと伝染してしまうことだろう。子は親の複製物である。というと語弊があるかもしれないが、この考え方を私が重要視していることは間違いない。ここでいう親や子は、けっして血縁関係だけを指示しない。人類が歴史のなかで、歴史に依存しながら文化を育み、その過程で文明を発達させている以上、複製、模倣、真似、伝承、継承、参照、参考といったことは普遍的な事柄で、そのひとつの象徴として親子、あるいは家族がある。親子の関係は一般に親が優位に立つことが多い。抽象的にいえば、オリジナルとコピーを並べたとき、一般にオリジナルが優位であると考えられる。しかし、この両者はほんとうに優劣の関係性にあるのだろうか。前例なくして複製はありえないが、同様に複製こそがオリジナルをつくりだしているのではないか。これを私自身の関心に置き換えると次のようになる。無数の複製が重層した現れとして「私」は仮構されるのではないだろうか。そして、そのことを逆手にとり、多層的主体としての「私」に対して意識的に働きかけ、「私が私であること」を「確固たるたったひとつの存在としての私」とは異なる形式において捉えられないだろうか。地層としての「私」。書物としての「私」。複製に複製を重ねて「私」を浮かび上がらせる層に働きかけ、さらに書き換えようとするその過程で「私」の範囲の操作を試みる、そのような場をつくれないかと考えていて、その理念系をとりいそぎ「共同制作」などと名付けている。まだおぼつかないアイデアだが、親子という複製的関係性を踏まえるに、私が言わんとする「共同制作」とは柔軟に入れ替え(交代)可能な親子のようなものに近いのかもしれない。

 労働を終えた帰り道で書店に立ち寄り早稲田文学の春号を購入した。レジには長い列ができていた。並んで会計を待つ間に視界に入った本をなんとなく手に取ってそのまま流れで購入した。コンビニで目についたお菓子に手を伸ばすような感覚で本を買うのはよくないような気がする。なにせコンビニのお菓子と書籍とでは価格が十倍は変わる。書店にいるときの私は、もう少し自らの収入を気にすべきだ。

カテゴリー: 日記