かつてよく聴いていたがここしばらく特別聴いていなかった音楽がとつぜん頭のなかで流れるということがたまにある。それはその瞬間に目にしたり耳にしたりした情報からの連想で想起されることもあれば、まったく何の脈絡もないような状況でふと想起されることもある。音楽にかぎらず、記憶というものはそうした性質をもつものだが、きょう、労働中にとつぜんある音楽を思い出して、そんなことを思った。
きのうに見た石田英敬、三宅陽一郎、東浩紀の対談イベントで、「身体の記憶」が話題に上がる場面があった。たとえば、私たちが歩くとき、無意識下でなんらかの計算を行なっているはずである。歩く行為の経験の蓄積=記憶が、歩こうとするときに演算されて現れることによって、現に歩くことができる。身体に染み付いた、あるいは経験的に獲得したと呼びうる行為も、身体体験の演算の現出であり、言うなれば無意識下において都度考えながら行動をしている。これはつまり、意識まで上がってこない記憶の想起が、身体において持続的に行われているともいえる。それがたまたまある記号と結びついたときに、ようやく具体的にイメージ可能な記憶として取り出され、思い出したものとして意識する。あらゆる刺激を受けつづけ、あらゆる刺激を蓄積する私たちは、意識せずともつねに予感としての想起に囲まれている。
こうした考えに基づくと、ある音楽をその瞬間と脈絡なく想起することは、一見脈絡がないようでありながらも、身体感覚のレベルでその音楽を聴いていた当時の体験との類似性や近接性を察知し、ある具体的な記号に紐づく手前の、音楽(という聴覚=身体に刺激を与える媒体)として記憶が顕現している、と捉えることができそうだ。むろん、何かを考える、何かを認識するとは言葉だけで行われていることではない。にもかかわらず、ひとは言葉で考え、言葉で意識しないことには具体的にイメージすることができない。この身体と言葉の中間に位置するものとして、たとえば絵=視覚イメージや音楽=聴覚イメージがある。とするならば、絵画や音楽という形で記憶が現れるということもまた、具体的な記憶の想起のあり方として位置付けられるように思う。
ちなみに、きょう思い出した音楽というのは、GARNETCROWという音楽グループでギターを弾いていた岡本仁志というひとの一枚目のアルバムに収録されている「Res-no」という曲だった。たまに聴いている(年に一回くらい?)アルバムではあるから、長らくまったく縁がなかった曲だということもないのだが、それにしても急に思い出したことが不思議だった。図らずもこの曲の歌詞には「どれくらい出会えた人達/覚えているのだろう」「落ちていく太陽に/言葉失いながら/感じてた儚さと/流れゆくもの/此処に留まるもの きっと/他愛もないことで」など、記憶にまつわるフレーズがある。上記のような原理を適用するとすれば、落ちていく太陽に言葉を失いながら儚さを感じる、という記述はいくらか誤っている。まず主体の身体に儚さを抱えうる経験の蓄積があり、落ちる太陽がその経験を演算した結果として儚さが顕現する。太陽から受け取った刺激は儚さという感覚のみを呼び起こし、記号化される以前の領域に留まる。したがって、言葉を「失っている」とはあとから振り返ったときに喩えとしてのみ言えることであり、その最中に行われている状態としては、予感としての身体の記憶だけが現れていて、記号として連想するには至っていない、とするのが適切だろう。失うどころか言葉に到達すらしていないということだ。そう解釈するのであれば、かつて出会えたひとたちのことも、そのひとの具体的な名前や顔、言動として記憶が呼び起こされないとしても、身体感覚やその予感として記憶しているということも、同時に想定できるかもしれない。
日記210421
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