あすから緊急事態宣言が明けるまで休業です、と伝えられて、じゃあ小説を書こうと思った。小説を書いたことがないから書けるかわからないし、どんな要素を満たせば小説になるのかもわからない。でもそれは日記に対しても同じことで、まいにち書いている文章をとりあえず日記と呼んでいるだけで、これが日記なのかどうか、そもそもここに書き溜められた文章はいったい何なのか、よくわかっていない。ただ、日記の自由さと同等に、ソレルス『ドラマ』とか吉村萬壱『クチュクチュバーン』とか──まあタイトルは何でもいいのだが──を思い返せば小説としてカテゴライズ可能な文章の幅の広さがわかる。小説の懐の深さに甘えれば、ここに書き溜められた日記だって小説と呼ぶことができるのかもしれない。こうした文章の可能性をこそ小説とするならば、じぶんは小説を書きたいのではなく、文章はいかなる姿を現すことが可能なのか、ある程度時間や熱量をかけてみずから探求してみたいというその欲望を、小説という語に託しているとも言える。物書きでもなければ文学などを学んだわけでもないじぶんが、何を偉そうに、とは思うが、偉くないからこそごく自然に言葉を扱えている(少なくとも、扱えていると錯覚している)ことの不思議さに囚われてしまう。せっかく三週間ほど労働せずに済むのだから、生活するうえではまったく役に立たない不思議さと向き合う時間としてはちょうどいいだろう。
昨日つくった肉じゃがの残りを夜に食べる。食べ終えて、台所まで食器を持っていくと、シンクからあふれるほど蓄えられた洗い物が目についたから、面倒を押し避けてスポンジを手に取る。しばらく食費も抑えなければいけないかなと思いながら、そんなことはどうでもいいような気もする。買い溜めてばかりの本が机上に積み上がってもいるし、読んだり書いたりしながら、適当に過ごせればいい。食器が片付いた台所を見て、広くなったと一瞬思うが、どう見ても十分に狭い。