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日記210602

 「社内ニート」で検索したらあまりの共感性の高さに鳥肌が立った。Google検索をすれば「何も入っていないWordやExcelのファイルを開いたり閉じたりする」と書かれた記事が出て、ツイート検索をすれば「以前はパワポの配置を数ピクセルずらす職人をしていました」と出る。じぶんもおなじことをしているから笑った。与えるほど業務がないなら人手が足りていて業務がないと言ってほしいし、能力的に任せられる業務がないのならおまえは使えないから業務を与えないと言ってほしい。前者であれば開き直ってまったく関係ないことを堂々と行えるし、後者であればさっさと解雇してもらうのがたがいにとってベターだろう。妙な配慮が働くことでかえって苦しい思いをする。だったらじぶんから無配慮に業務がないと訴えてみたらどうなのかと言われそうだが、一ヶ月ほどまえに、今年に入ってからすることがなく何をするためにまいにち出勤しているのかよくわからない、と上司に伝えたばかりではある。特に応答はなかった。そんな状況でさいきん、目標管理シートを作成して提出しろと指令が出て、業務がないのに目標なんてあるわけないだろうと思ってまだ作成していない。業務があったところで指示されたことを粛々とこなす以外に目標などない。これがたとえば、文章を書くとか本をつくるとか、じぶんが好きでやろうとすることであれば、わざわざ立てるまでもなくしぜんと目標めいたものは立ち上がってくる。しかし労働に関してはしょせんは他人が立てた理念に沿った、他人が計画したすべきことがあって、そこになんとなく参入した身で他人の指示になんとなく従っているという以上のことはなく、ただでさえそうであるのに業務すら与えられないありさまなのだから、目標とか言われても困惑するだけだ。強いて挙げるなら社内ニートを脱却して労働力としてまともに機能するか、社内ニートを脱却して失業手当をもらって純粋にニートをやるか、そのどちらかくらいしか思いつかない。経験上は社内ニートよりも純粋ニートの方が生活は充実する。あるいは働かずに給料もらえてラッキーくらいに思えるのがいちばんよいのだが、暇に耐える、それもさも忙しいかのような装いをいちおう保ちながら暇に耐えるには、意外にも強い精神力が要求される。忙しすぎても困るが多少は忙しいくらいにからだを動かしていることのほうがよほど楽である。以前の職場でも似たような扱いだったし、どうせまともに労働できない社会的にはゴミ同然の輩でしかないじぶんは、生活保護などを受給しながらひっそりと暮らしていたほうがいいのだろうとはよく思う。社会的に権威のある競争はすでにことごとく避けてきているから、イライラしながら無理してひとと関わることの利点があるわけでもない。じぶんが苛立っているとき、きっと周囲はじぶんに苛立っているのだろうし、ただただ不毛でくだらないだけだ。だれもじぶんに期待などしないが、あいにくじぶんでじぶんを持ち上げることはそこそこ得意なようだから、いまのじぶんを過去のじぶんが敬い、いまのじぶんは未来のじぶんに期待し、未来のじぶんが過去のじぶんを批判するみたいな狭い世界で生きてもそれなりにたのしめる気がする。中途半端に他人の目を内面化してしまうのもみっともないし、振り切れるなら振り切った方がいい。それはそれとして、業務を与えらてもらうことを目標として立てたとき、いったいなにをがんばれば目標は達成されるのだろうか。積極的に雑務を引き受けて丁寧に実行するとかそういうことだろうか。もしくは資格取得に励むとか。小説や思想書をいくら読んでもひとつの資格も得られない。

カテゴリー: 日記