夕方頃になるとなにをやっていても必ず眠くなる。身体の力が抜けて座位を保つことすらままならない。まぶたは重く、眼球は光の受容を拒む。そんな状態で業務を行うことができるはずもなく、眠ってはいけないとウトウトに耐えたり耐えられなかったりしているうちに終業時間を迎える。
こうも眠いと自分の身体を疑ってみたくもなる。べつに夜に眠れていないわけでもないのだから。身長178センチ体重50キロ弱のあまりに貧相な身体では、一日を十分に活動することができないのではなかろうかと思うほうが至極自然である。BMIと呼ばれる肥満度を表す指数がある。Body Mass Indexの略であることは確かだが、そこで算出された結果がどれほどの確かさを有しているのかに関してはどうも確かでない。この指数を用いると、私の体格は16から17のあいだを彷徨うことになる。主に真ん中あたりに位置することが多い。日本肥満学会が定めた基準では18.5を下回ると「低体重(痩せ型)」とされる。むろん、日本肥満学会なる団体がいかなる集団であるかは定かでなく、だからといって調べてみようとも思わない。また、世界保健機関では、16台は「痩せ」とされる。ちなみに16を下回ると「痩せすぎ」と判定され、3年ほど前の、体重が48から49キロほどしかなかったころの数字で算出するとBMIは15.5と弾きだされる。こうした自らの身から出た数字を統計と照らし合わせてみると、男性の低体重者の割合は20代では約一割、全年代で見ると4パーセントほどしかいないらしい。
全体図を見たときに隅に追いやられてしまうほど私の身体は貧弱で、ここのところ強く思うのが、野生動物だったら体力不足によって真っ先に死ぬだろうし、あるいはすでに死んでいるだろうということだ。見方を変えれば、私は人間だからのうのうと生きていられるのであり、人間社会によって生かされているともいえる。それを思えば、いまこの時間はすでに余生と捉えても間違いではなく、その点では気楽に生きることもできるのだが、とっくに死んでいるはずの社会によって強引に生きさせられている個体が、他の標準的に生き延びる体力等の諸々を備えた個体と同列に扱われてしまうというのはなかなか酷でもある。放っておけば死んでいる個体が生きられる、つまり生存能力にかかわらず生きることができるということは、人間が生きることの豊かさを示すだろうし、これ自体が多様性というものだろう。しかし、多様な個体を生かしておきながら、それらの個体を同一の生存競争に並べていては、いくらその競争のロジックが動物的なるものとは異なると主張しようと、結局は元の木阿弥ではなかろうか。
多様な個体が、その多様さを維持したままに生きるためには、多様な環境が必要だ。それでいて、その多様な環境で育まれる生態系が、個々の共同体のなかで完結する閉じたものにならず、それぞれに関与しあうためにはどうすればよいか。そういったことをもっと考えたい。いつも思い出すのは、海洋生物のドキュメンタリー番組を連日熱心に見ていた頃のことだ。海の生物は多様で、かつ、成熟していると感じながら映像を観ていた。番組として作り込むために、そうした切り取り方をしているのかもしれないが、生命の起源は海なのだから、海の生態系に成熟さを感じることもそうおかしなことではないだろう。たとえばよくあるのが、イワシの群れを襲うために、アザラシやイルカやアジや海鳥が四方八方から攻め込む光景。一種の動物だけではイワシの素早さにかわされ、餌にありつくことができないが、共通の目的をもった複数種の動物が同時に、かつ、個々の種別に応じた異なる襲い方をすることで、食を完遂することができる。あるいはこうした話をするときに『ファインディング・ニモ』を引いてもいいのかもしれないが内容をあまり覚えていない。とにかく海は魅力的で、海の生態系は素敵に思える。いちおう、悪い面を知らないだけかもしれないという考慮もしてはいる。
海洋生物の多様性から逆説的に、人間は人間だけで生きようとするから息苦しいのではないかと考えることもある。どこを見渡しても同一種別しかいないから、皆がじぶんと同じであるような錯覚を覚えてしまうのではないか、という仮説はどうだろう。それを踏まえれば、猫を飼って、猫の気ままさに追われる日々を送るひとびとが幸福そうに見えるのも頷けはしないか。人間は、もっと猫に飼われるべきだ。
日記210309
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