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そろそろ寝ようと思ってから、1時間近くが経過した。そろそろ寝るためにシャワーを浴びようと思ってから45分近くが経過した。その間、何をしていたかというと、特に何もしていなかった。言うまでもないことである。
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きのう、アピチャッポンの映画を観た。音についての映画だった。それはまた、記憶についての映画でもあった。私の記憶には、どんなに大切なものでも、音は含まれていないことに気がついた。この文章を書いていて、私は自分にとってどの思い出がいちばん大切なのか、わからないことに気がついた。自分の思い出をふりかえりたいと思っても、外的なきっかけがなければ何も思い出せないことに気がついた。
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連日の労働で目を酷使している。そのためつねに目に違和感を感じている。乾いて、痛くて、赤くて、眠くなる。目薬をさすと一時的に症状が和らぐ。そうやって自分をごまかしながら、平静を装っている。なかば強制的に平静を装っている。無理な平静を強いられることで制約を受ける。
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京王線がこのほどダイヤ改正を行った。千歳烏山と笹塚に特急列車が停車するようになった。「京王線」で検索すると、昨年10月に京王線の電車内で発生した乗客襲撃事件の容疑者が起訴されたという記事がヒットした。
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きょう読んだ東浩紀『弱いつながり』にはこんなことが書いてあった。
そういう非合理性が、人間関係のダイナミズムを生み出している。もし人間に性欲がなかったら、階級はいまよりもはるかに固定されていたことでしょう。ひとは性欲があるからこそ、本来ならば話もしなかったようなひとに話しかけたり、交流をもったりしてしまうのです。その機能は「憐れみ」ととても近い。
東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎、2014年、112頁)
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自己責任論を批判することと、たんに無責任であることはどこか違うと思う。それとは関係ないのだが、きょう職場のひとの言動に無責任さを感じる場面があった。きょうにかぎったことではないから大きな問題ではない。他人を見放そうとする態度に感じる無責任さは、無責任とは違う呼び方があるのかもしれない。
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たまに会うけど知らないひとが妙に気になって話しかけたくなることがある。知らないひとに話しかけられたら怖いし、びっくりすると思うから、話しかけない。話しかけたらどうなるだろうと妄想する。名前を訊いても答えてくれない。
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夕食づくりに失敗した。焦げた白菜を食べた。おいしくなかった。残っているので明日も食べる。
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そろそろ寝る時間かもしれない。まだシャワーを浴びてない。だから寝るのはもう少し先になりそうだ。明日は労働がない。眼科に行きたいが、きっと行かない。