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昨夜は22時前に床で寝てしまい、0時過ぎに目が覚めたが、すぐにからだをベッドに移し、また寝た。朝になっても、何度か目を覚ましながら、二度目、三度目と、眠り続けた。午前11時過ぎに尿意を感じ、ようやくベッドから起き上がった。これだけ寝てもまだ眠かった。そのあとも午後3時ころまでなにもする気になれなかった。なにもしたくなかった。なにも考えたくなかった。ただ座ってなにもせず、できるかぎり長い時間、ぼんやりと空間を見つめていたかった。
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働く意欲がない。働く意欲がないから、雇用契約の更新や正社員登用の話をされてもまったく関心をもてない。働く意欲がないから、いつも煮え切らない返答をしている。いまの勤め先に採用されるまえ、感染症の影響でアルバイトをクビになり、家計が苦しくなって家賃を払えなくなり、生活福祉資金貸付制度を利用することになった。つまり、いまの勤め先に就職した当初は「生活が困窮していたから」という理由で労働をする気になっていた。お金がなければ生活は成り立たないが、お金がなくても生は継続する。容赦なくつづく生と、途絶えてしまいそうな生活との狭間がもたらす緊張感が、わたしを労働へと駆り立てた。一年以上働きつづけた結果、家計は今後3カ月はお金を稼がなくても家賃を払えるところまでは落ち着いてきた。それと同時にわたしにはもう働く意欲がなくなっていることに気がついた。困窮した状態に戻ればまた働く意欲が出てくるのだろうか。しかし、働く意欲のためにわざわざ生活を困窮させるというのもおかしな話だ。
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神保町の古本まつりに行った。ポーの全集が3000円で売られていた。買おうかどうか悩んだが、持ち帰るには重そうだからやめた。よく考えたらすでに文庫本のそれを持っている。買わなくて正解だったと思う。ルソー、デリダ、分析哲学に関連する本をそれぞれ購入した。
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東京駅の一番街で開催されている「ちびまる子ちゃん」のポップアップストアに行った。それほど混雑はしていなかったが、感染症対策のため入場制限がかかっていた。若い中国系の女性が大量に商品を買い求めていた。店員は大量の商品のバーコードをスキャンしていた。カゴがいっぱいになったところでその都度会計をしていたようだった。わたしが滞在していたあいだに会計の様子を二度確認したが、聞こえてきた支払額は総額15万円を超えていた。彼女はさらに買い物をつづけていた。インターネットで調べると「ちびまる子ちゃん」は中国でも人気があることはすぐわかる。彼女の買いものがすべて自分のために行われているとしたらあまりに量が多いから、もしかするとそこで買ったものは中国の「ちびまる子ちゃん」フリークたちの手に渡るという予想もできる。それが代理購入だろうと転売されようと、海を渡ってまで海外の文化を持ってきてくれるひとがいるとしたら、それは現地のファンコミュニティにとってはひじょうに貴重でありがたい存在のように思える。
彼女の買い物に圧倒され、買う予定ではなかったTシャツを買ってしまった。胸についたまるちゃんのワッペンがかわいい。
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動画プラットフォーム「シラス」の駅広告を見た。きょうが掲載の最終日とのことだった。有楽町と新宿のふたつの駅を訪れた。帰宅後、駅広告に関連したイベントを見た。ネット広告から権力の変化を考える議論が興味深かった。以前は「おまえはこうしなさい」だったのが、「あいつが自分の意思でやってくれるように、こういう仕組みをつくろう」となり、それが「あなたのようなひとは確率的にこうする」に変わりつつあると話されていた。議論を思い出しながらなんとなく書いたが、まえの文章でしぜんとあらわれた人称代名詞の変容に、なにか意味があるようにも思う。
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スーパーで買ったコロッケがおいしかった。じゃがいもが甘かったのか、甘みが添加されていたのかはわからない。
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ことしはひとと会話をする機会がほとんどない。いちどひととあつまる機会があったが、そのときはゆったりとした時間を過ごしたから、おしゃべりに注力する時間とは性質が異なるものだった。ひとは外から言葉を投げかけられたときにこそ思考をめぐらせる。いや、かならずしもそうではないかもしれないが、少なくともわたしはそういう人間であると思う。にもかかわらず、ひとと話す機会が少ないことが、思考だけでなく、人生をも停滞させている一因かもしれない。