汗をかいてもすぐに乾く肌着がほしいと思ってモンベルから出ている「ジオライン」という素材のシャツを買ったのはたしか2週間くらいまえで、これが思いのほか要望に答えてくれる代物だったから、ではタイツも買ってしまおうと思って新宿のモンベルに行った。タイツをふたつとパンツをひとつ手にとって、せっかくだからと店内を見てまわったが、2週間まえに見た光景が同じようにあるだけだった。風通しのよさそうな薄手のシャツは肌触りも冷たくて気持ちがよさそうで、一着買ってみようかと思ったが、このお金で分厚めの本が一冊買えると思ってやめた。買いものを終えて駅へ向かうと街頭演説が盛り上がっている。そういえば立ち止まって聞いたことがないと思い、近くで数分眺めていた。滞りなく言葉が語られるようすに新鮮な印象を受けながら、しかし映画や演劇という形式のうえでみる人物が同等のなめらかさで言葉を語っていることを思えばさほど新鮮でもないはずで、だとすればたとえば演者と聴衆の距離のほうに馴染みのなさを感じているのかもしれない。それは物理的な距離でもあるし、舞台の設計上生じる心理的な距離でもある。演説から抜けて、待ち合わせ場所へ向かう。集まったひとたちと大衆居酒屋で数時間話す。ざわめく居酒屋で話すとき、道中で話すとき、店を変えて話すとき、靴を脱いだり脱がなかったり、からだが近かったり離れていたり、姿が見えたり見えなかったり、少人数だったり多人数だったり、オンラインだったりオフラインだったり、パワポが用意されていたり画面の共有がされていたり、話題が設定されていたりその場しのぎの雑談だったり、ただひととおしゃべりをするだけの環境も多様であるなかで、いま言葉を交わしあおうとしている舞台がどのようにあり、その舞台上で演者と聴衆を同時に担うひとらがどのような姿勢を強いられるのか、その辺りをもっと考慮できてもよいのかもしれない。言葉に対し愚直な言葉を素朴に返せばよいというスタンスは楽でこそあるが、どこかで行き詰まるような気もしている。モンベルのジオラインのことを書こうと思って書き始めた日記がそうはならなかった。
日記220709
カテゴリー: 日記