コンテンツへスキップ →

日記220714

 日本語の表記体系にすこし触れるとこんな言語を採用している国のひとらが論理的な思考なんてできるわけなかろうという気持ちにどうしてもなる。漢字ひらがなカタカナ3種類の文字を混合して使用する点の違和については皆が勘ぐるところだと思うが、やはり厄介なのは漢字であり、常用漢字がどうで新字体がこうで拡張新字体がそれこれでといった変遷を聞けば国も長らく苦慮していることがよくわかる。あるいはその漢字をどう読むか。送り仮名のつけかたもなにやら微妙で明るい・明かるい・明いがどうこうとか。もしくはルビのふりかたは親となる漢字に対してああだこうだとか。そのリソースをもっとほかのことに向けたらどうなんだとキレたくもなる。ラテン文字がうらやましい。ところでTwitterをみていると著名人を火種に仕立てた騒動がいつも起こっていて、事態の詳細を説明して丁寧に誤解を解こうとする渦中のひとに対して話を聞く気もおそらくなければ揶揄を浴びせることをたのしんでいるだけであろう有象無象のアカウントがたえず薪をくべているものだから、真摯に対応する渦中のひとについ同情したくもなる。悦楽的に揶揄をしているだけだと指摘をすれば、さいしょに揶揄をしたのは誰なんだとでも言い返してきそうな輩には、だからそういう振る舞いを揶揄というのだといってもきっとなにも通じないし、たぶん不毛さが募るだけだ。はなから話を聞く気も理解する気もなさそうなごろつきを相手にいっそう丁寧な対応をしているひとを遠目でみていると、なんだろうこれと不思議な気持ちになる。ゴシップはおもしろいがゴシップなんて友人との会話で消費してそれでおしまいでしょうと思うじぶんにとっては、ネットで本人や関係者に凸しよういう発想が出てきたことがないからそれがまた不思議である。しかしネット上で揶揄に興じるアカウントにもそのおくには生身のひとがいて、そのひとにはそのひとの生活があるのだから無下にはできないというのも一理あり、まあひとやひとびとの暮らしなんてこんなものかとあきらめながら、他人のふりをみてわが身を自重することでぎりぎりのバランスをとるくらいがせいぜいじぶんができることなのだろう。

カテゴリー: 日記