コンテンツへスキップ →

日記220717

 浴室の排水溝がずっと詰まっていて、浴槽にためた湯を流すとその量を流しきれずに水があふれてしまっているのを困ったなと思いながら長らく放置していた。昨日ようやく思いたって排水管を掃除する錠剤をドラッグストアで買った。困りの種だった排水溝にその錠剤を入れてみたが何かがどうにか解消されているのかどうかまだわかっていない。部屋の清掃をほとんどしていない。だから放置されている生活の蓄積、それも垢や膿といった類いのものがいくつもあるのだと思われる。現にベッドのしたを視界に入れると一面にほこりが積もっている。いや、ベッドのしたのほこりなら目につくぶんまだましであり、部屋の隅々や家具の隙間がどうなっているかは神のみぞ知る、ということはないが、少なくとも入居してからの数年ろくに気にしたことがないから考えるだけでもおそろしい。掃除をする時間や労力がないという言い訳はあまり的を射ておらず、どちらかといえばその習慣がないことの方が影響は大きいのだろう。部屋の掃除が生活に組み込まれていない。幼少期から散らかった部屋で育ったから部屋が散らかっていることに何も思わない。掃除の仕方もわからない。掃除だってひとつの文化であり、その文化に触れる習慣がなければせいぜい雑学的に異国の風習を知る程度の距離感でしかいられない。けれど、むろんその逆のひともいるわけで、散らかっている部屋に住んでいるひとは綺麗な部屋にあがることもできるが、部屋がきれいであることがとうぜんなひとの多くは散らかった部屋には抵抗があるのだろうということくらいの想像はできる。部屋が散らかっている以上はそれを嫌うひとが一定数いることへのある種の負い目を抱えてしまうというのなら、散らかっている部屋に抵抗感を抱くひととは公共空間でしか関わりあえず、私的空間から離れたところで生活のにおいみたいなものを隠すことによってもたらされる平等に助けられているのかもわからない。そういう意味では放課後に生徒に掃除をさせる学校の方針というのはただしいのだろう。公共空間における掃除の強制は自宅の散らかりを否定しない。それがどこかで転倒し、居住空間は掃除するものだという認識が浸透した結果として、自宅の散らかりを否定することにさえならなければ。

カテゴリー: 日記