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日記210318

 毎日飽きずに同じような食事を摂っている。飽きているのかもしれないが、それ以上に食に変化をつけることがわずらわしい。だけど今日はめずらしく、なにか少し気分を変えたいような気分でもあり、帰りにスーパーで〆さばの棒寿司を買った。しょせんはスーパーで買う寿司だから、食べてなにか感動があるわけではないが、食事からいつもと異なる刺激を得ることは鬱の予防とかにもいいんだろうなとなんとなく思いながら、親しみのない味を感じとる。
 一般に、寿司を見定める判断のひとつとして回る/回らないという見方がある。多くの場合、一方で回る寿司は安価で大衆向けとされ、他方で回らない寿司は高価で立派なものとされる。これらは回転寿司店がもたらしたイメージであることは言うまでもなく、寿司に回転のイメージを強固に付与した回転寿司店の影響は何度考えても驚くべきことであるように思う。
 ところでスーパーの寿司は回らない。回らないが、寿司の持つ特性としてはむしろ回る寿司に挙げられるそれに近い。安価、大衆向け、米が硬い、ネタが乾いている、誰が握っているかわからない、たぶん機械が握っている、その他云々。これらはチェーンの回転寿司やスーパーの寿司に共通する。つまり、回る寿司の根幹を支える性質は回ること自体には宿っていない。というか回る寿司において、寿司自体は回っていない。寿司は皿の上に乗せられているだけであり、皿はレールに乗せられているだけであり、レールが円形に沿って動いているだけである。そう、寿司はただ置かれているだけだ。たんにディスプレイされていることを回ると読み替えているだけだ。それゆえに、スーパーに陳列されている寿司もあきらかに回ってはいないのだが、陳列されているという一点に由来して回る=ディスプレイされている寿司と呼んでも差し支えない。どうやらスーパーの寿司は回る寿司だったらしい。
 では回らない寿司の方はどうか。回らない寿司屋には動くレールはない。動くレールはないが、職人の手は絶えず動いている。客から注文を受けるたびに新たに寿司を握る。日々の修行により磨き上げられた技術。研ぎ澄まされた一挙手一投足。寿司を握る動きは、まるで同じ円を何度もなぞるようで一寸の狂いもない。実は回らない寿司は回る寿司以上に強烈なエネルギーの作用から立ち上がっており、円的な運動に支えられている。もうおわかりだろう。つまり、回らない寿司こそが回っているのだ。つい視覚情報ばかりを信頼してしまうが、寿司は不可視の領域でこそ回転をしている。回らない寿司は、回っているからこそ高級なのである。
 などと無茶苦茶なことを、それなりの熱量で、かつ、早口で捲し立てたら妙なそれらしさを帯びてしまい、なぜかひとを納得させてしまうことがある。声によって届けられる言葉はどうも信用がならない。信用できないからおかしくておもしろい。
 何かを回し続けるためには抵抗は少ない方がよい。しかし、つねに同じところを回り続けていたら、やはり飽きてしまう。だから、抵抗を受けながら回し続けるためにはどうするか、あるいは、抵抗を受けながら回し続けることを試すにはどうするか。そんなことばかり考えている。

カテゴリー: 日記