きのう朝から映画を観に行ったが上映開始直後から強い眠気に襲われて、動きの多い映像でもなかったからなおさら眠く、けっきょく半分以上の時間を眠ってしまったような気がする。ぐっすり眠ったはずだが映画終了後もすっきりせず、電車移動の時間でまたすこし寝て、おなかがすいてラーメンを食べるなどはさんでみては、帰宅してからもずっと横になっていた。
どうしてからだを横にするとこうも心身がらくになるのか。課金制でもよいから気軽に横になれるスポットが街のあちらこちらにあるだけで、日々の疲労感も外出前の億劫さも軽減できるはずであろうにお昼寝で一儲けしようという企業家はどうもいないらしい。べつに横になることで公序良俗を乱すということもあるまい。どうにか公共の場でごろごろできる街づくりが進まないものか。
それはさておきどうも頭はおもいしからだもだるいとおもっていたが、今朝起床したときもやはりだるい。ルーティンの二度寝をしても特に変わらず、通勤電車ではいつものように本を読む気すらおきず立ちながら新宿まで目をつむる。頭がしゃっきりしないまま勤務を開始して、ときおり眠気に屈しながらも業務をこなし、休憩時間は沼にしずんでいくみたいな昼寝をしては、どうにか退勤したあとの帰りの電車でまた沼にしずむ。なんとなく風邪の初期症状めいた気配も漂っている。なんにせよ寝不足はよくない。養命酒を飲んでさっさと寝る。
カテゴリー: 日記
平日の疲労が尋常でない。朝から晩まで労働への従事を強いられているのだからつかれるのもとうぜんなのであろうが、労働だとか労働に時間を割かれることによる睡眠不足とかを疑う以前にまともな食事をとれていないことのほうが影響が大きいのではという気もしてくる。
平日の食事はほとんどルーチン化している。朝はベースブレッドをひとつとサプリメントをいくつか、昼はベースブレッドをひとつ、夜はコンビニでグミとラーメンとかうどんとかの主食の類いを買って食べ、寝るまえにサプリメントをいくつか摂取する。ベースブレッドは約250kcal、グミはものにもよるがひと袋100~300kcal、ラーメンとかうどんとかは500~800kcal、その他なにかつまんだとして200kcalくらい多めに見積もって、合計1800kcal。農林水産省は成人男性は1日2200kcalていどの摂取を推奨しており、いざ計算してみると推奨値比で少ないにしては少ないが、とりたててさわぐほど少ないわけでもなさそうではある。そもそもひとより痩身なのだから推奨値よりも少ないくらいがおそらくはちょうどよく、なんなら妥当という見方もできそうなくらいである。
摂取カロリーに圧倒的な不足がみられるはずだとの思惑がびみょうに外れて途方に暮れかけているのだが、ではどうしてこんなに慢性的に日々ぐったりするというのだろう。ふと総務から健康診断を早く受けろと催促の通知がきていたことがおもいだされる。診断せずとも不健康であることは自明なのであり、仮に健康と診断されようものならそれはそれで困るというか、これが健康と呼ばれるのなら健康であるという状態にはいっさいの有益性はないと断言したくもなる。あるいは不健康であったとしてもひとは不健康者に対して健康を強制してくるのであり、不健康でありながらも生活を送るための技術を提供するでもなければ支援をするでもない。所詮管理する側の連中はひとを労働力としか見なしていないのであり、個別の労働資源に標準を逸されては管理統制の効率悪化を招きかねずこまるのであって、雇われの身であるわたしは不健康である自由をつねにおびやかされている。ひとを不健康に陥れる環境に囲っていながら健康であれとはなにごとかという話である。
いくら御託をならべてもからだのだるさはなんら解消されない。だるいときにはぐっすりねむるのがもっともなのだと決まっている。養命酒を飲んでさっさと寝る。
愛の言葉は書かれた瞬間に書き手の手を離れ、言葉自体の運命に委ねられる。受け取られることなくだれのこころにも響かずに消え去ることもあれば、予期せぬだれかのもとに流れ着き、おもいもよらない仕方でだれかの胸を打つこともある。その愛の言葉が宛てられた受け手に届いたとしても、書き手が意図したままの感情を伝えられることは稀だろう。しかしだからといってラブレターが無力だというわけでもない。
おそらく多くの場合にはラブレターは愛を伝えることを目的として書かれるが、その言葉が意図どおりに受け手に届くとはかぎらない。むしろラブレターの言葉は書き手と受け手のあいだに横たわる不確実性と誤解の可能性を孕んだ曖昧な場をつくりだす。その場において愛は固定された概念としてではなく、読み手の解釈と心の状態によって、あるときは強烈な感情として、またあるときはささやかな響きとして立ちあらわれる。たとえおなじ言葉を使っていたとしても、愛がその文字列のなかに潜んでいるかどうかは読み手の状態に左右される。
愛が発見される瞬間は意図的に生み出せるものではない。むしろそれは、偶然に、あるいは予期せぬタイミングで、受け手のもとに不意に訪れるものだ。たとえば、書かれてから何年も経ちある出来事をきっかけに突然その手紙を読み返すとき、過去には何の響きももたらさなかった言葉が現在の読み手に強く訴えかけることがある。このとき愛は書かれた瞬間に生成されたのではなく再読という行為を通して新たに発見され現前する。ラブレターが愛を伝えるかどうかはけっしてその手紙が書かれた当初の意図や状況には依存しない。愛はつねに読み手に対して開かれた可能性としてそこにあり、その姿を変えながら現れ、あるいは消えていく。
愛の伝達の不可能性。言葉は書き手の感情そのものを他者にそのまま届けることはできず、伝達を試みる瞬間にその不可能性を露呈してしまう。だからといって愛の言葉が無意味だと結論づけることもできない。伝達の不可能性を認識したうえで書かれたラブレターであるからこそ、読み手がそこに愛を発見したとき偶然にもたらされた奇跡のような体験として記憶にのこることだろう。書き手が意図した愛がそのまま伝わったのではなく、むしろ言葉が不確かに響き、時には誤解されるその過程を経たからこそ、その言葉が最終的に愛として受けとられる瞬間が訪れる。
ラブレターの言葉は書かれた瞬間に書き手の手を離れ独自の運命を歩みだす。愛は伝えられるものでも理解されるものでもなく、受け手によってその言葉の向こうに発見される。書かれた言葉を手がかりとして、受け手がそれを感じとり、自らの心の中に愛を創り出すプロセス――それこそが愛の発見の瞬間なのだろう。ラブレターは愛の発見を生み出す媒介物にすぎず、ラブレターが持つ本当の力とは、不確実さゆえに受け手が偶然にもそこに愛を見出す可能性を秘めているところにある。言葉が受け手の心をどのように揺さぶりどのような感情を生じさせるかは、書き手の手を離れた瞬間からすべて受け手の内なる心の風景に委ねられることになる。伝えられないからこそ愛は書かれる。伝わらないからこそラブレターは書きつづけられる。愛はその行為のなかでだれかに発見されるのを待っている。
日時:2024年10月19日(土)15時30分から18時00分まで
場所:府中市内貸し会議室(京王線府中駅から徒歩1分)
参加費:500円
定員:8名
お申し込み:Googleフォーム
原則的に言語活動は複製によって営まれる。日本語話者が発する言葉はたいがい五十音に文節可能であり、それら一音一音が連なって構成する各ユニットはたいがい広辞苑に載っている。知らない単語が混じった分は少なくとも字面だけでは基本的に理解が困難なのであり、会話はたがいが理解できる言葉――たがいが知っている言葉――によって営まれる必要がある。あくまで原則的には。
「あなたを愛してる」とわたしは発言することができ、あるいは紙面に書くことができる。キーボードやタッチパネルを介してディスプレイに表示させることも可能である。しかし愛するあなたに「あなたを愛してる」と声または文字で伝えたとしても、それはかならずしもあなたに愛を伝えることに結実しない。あなたを愛してる――現にいまわたしがあなたの目に触れるようにそう記述したところで、あなたがそこに私からの愛を感じないように。
言葉は複製される。わたしはかつてだれかが「あなたを愛してる」と発言することで愛を伝えたであろうことを頼りに、かつてのだれかの愛の表現を模倣するかたちで「あなたを愛してる」と言うことができる。同様に、わたしはわたしが愛しているひとに対して行う愛の表現を模倣するかたちで、愛していないひとに向けて「あなたを愛してる」と発言することができる。あるいはわたしでないだれかはわたしが愛するひとに向けて「あなたを愛してる」と発言することができる。そして言うまでもなく、わたしでないだれかはわたしが愛していないひとに向けて「あなたを愛してる」と日々世界のどこかしらで伝えていることであろう。
たったひとりのわたしからたったひとりのあなたに向けて発されたはずの「あなたを愛してる」というフレーズは無限に複製されつづけ、無限に複製されつづけている「あなたを愛してる」というフレーズのおかげでわたしにはあなたに愛を伝える可能性を与えられているはずなのだが、それゆえにわたしはわたしにとってただひとつしかないはずの愛をあなたに伝えられずにいる。
日時:2024年10月19日(土)15時30分から18時00分まで
場所:府中市内貸し会議室(京王線府中駅から徒歩1分)
参加費:500円
定員:8名
お申し込み:Googleフォーム
ここ2ヶ月くらいで近所にまいばすけっとが新設され、長らく改装工事中だったマクドナルドはついに再オープンした。両者に今日はじめて訪れた。リニューアルしたマクドナルドは店舗は縮小されてドライブスルーを主に据えたような印象だった。テイクアウトで利用したため店舗の内側をじっくり観察したわけではないが、以前は客席も広く高校生や家族連れがよく居座っており、かくいうわたしも仕事帰りやたまの休日に本を読んだりPCを持ち込んで原稿を書いたりして長居したものだったが、そうした過ごしかたへの許容は縮小しているようだった。まいばすけっとはビールが安かった。助かる。
9月は出身地である秋田県を二度訪れた。秋田駅の改札を出ると秋田犬の大きなオブジェクトが待ちかまえていて、これも何度か目にしていまや見慣れた光景ではあるが、じぶんが秋田に住んでいるころにはなかったはずだ。生まれてから20年ほど過ごした土地ではあるが、幼いころからひきこもり気質でまともに外出した経験も少なく、馴染みのエリアや通い慣れた店もない。時間の経過で記憶もあいまいになっており、もとからこうであったような気がしてこなくもない。
かねてから帰省なんてしたところでその地ですることもなければさして会うひともなく交通費だけがやけにかかって無駄なだけではないかとかんがえており、現に去年仙台出張のついでに立ち寄るまでは5年ほど訪れる機会はなかったのだが、なぜここへきてひと月に二度も訪れるようになっているかといえば、ひとえにわたし自身に近年芽生えた舞踏への関心ゆえである。かの著名な舞踏家である土方巽は秋田県秋田市出身であり、土方の舞踏と東北性はたびたび関連づけられながら論じられてもいる。この土方を被写体に秋田県羽後町田代を主な舞台に写真家の細江英行が撮影した写真集『鎌鼬』に関連する展示を行う鎌鼬美術館が田代にあり、一度は訪ねてみたいとおもっていたところ、調べてみるとこの9月の毎週末に土方巽(および土方と同じく秋田出身の舞踏家である石井漠)の名を冠した舞踏のイベントが鎌鼬美術館も含めた秋田県の各地で行われるという。舞踏という表現を知ろうとする以上は論文や写真や映像だけ眺めていても仕方がなく、現役の舞踏家の公演もみられるというのであればいい機会になるだろうとおもい、短期間に二度も帰省(にみせかけた観光)を行うに至る。
一昨日に行った羽後町は秋田市からそれなりに離れていて、田代は峠のうえにあり、さくっといける土地ではなく、むろんこれまでも訪れたことはない。二週間まえに秋田に訪れた際は三種町で行われたイベントに参加したが、こちらは田代ほど遠くはないがやはり意識的に訪れた経験はないようにおもう。生まれ育った土地を離れてからそう短くない時間が経過して知らない文化にふれる経験を重ねるなかで関心の対象が変わらなければこれからも訪れることはなかったであろうこれらの地域はわたしが生まれ育った土地とおなじ名称をあたえられていて、知っている街の知らない光景に出会ったようなおもいをした。そこでは秋田の名のもとで何十年も暮らしているひとびとがいて、わたしがそのひとたちと出会い声を交わすには一度外様の人間になる必要があったということにみょうな感慨すらおぼえてしまう。
あるていどは知っているはずの秋田市内でも、わたしが上京したころにできたという古書店で常連客のひとらと本や小説の話をしたり、10年くらいツイッターでつながっていた秋田市在住のフォロワーとはじめて顔を合わせておたがいの好きな音楽の話をしたり、そのフォロワーと古書店で知り合ったスナックのオーナーのお店に行ってまた音楽の話をしたり、あるいは別の日には、あきた文学資料館なる施設で名誉館長から文学や政治の話を聴いたり、こうした小説や音楽といった文化芸術をきっかけにおこなわれるひとびととの交流に十代のころはただあこがれるだけであったが、いまそれがしぜんとできる状況になっていることにすなおにおどろいた。
他方でかつて交流があっていまだに付き合いのあるひとはごくごく少数に限られてきている。 えてしてひとはいろんなひとと出会っては、それが最後だとおもわぬうちに多くの人との最後の出会いを終わらせているのであり、そのことじたいにさして感傷もないのだが、わたしが知っている街に知らない光景をみたり知らないひとと出会ったりしているように、わたしがかつて知っていたひとたちもここにいながらにして知らない街を暮らし知らないひとと過ごしているのだとおもうと、どこかすがすがしさを感じたりもする。
枯れたからだはなにを書けるか。欲もない。訴えもない。声すらもたない。しかしながら記述したとたんに立ち現れるこの目線に感じる不気味な距離。これはいったいだれだ。まいにち会うしらないひと。どこかを見ている。振り払う。まだ見ている。異物が血管を伝う。死んでいる空間だけをここに。
コメントするスーパーに向かう途中、ロイヤルホストの駐車場でカラスが死んでいるのを見かけた。野菜をたくさん買う。ゴーヤとズッキーニとオクラ。切った野菜と醤油と料理酒とおろしにんにくをビニール袋に入れて10分くらい置く。汁気をしぼってから片栗粉をまぶしてごま油で揚げる。食べていると油の感じが気になって、途中から衣をはがして食べた。のこった油は新聞紙に吸わせてすてる。
コメントする凍てつく寒さに対するどんな責任も自分に引き受ける覚悟をし、願いも強かった深い眠りから、ぎょっとして目覚めた。この息苦しい部屋の幕が開いて、墓地の近くの小径のなかに窪みを掘った。ただ活動的な表面にせいぜい近づきはするが、非人間的な生活の無意味な上昇にふたたび底の方へ激しく追い返されず、あるいはぼくをどうでもいい存在か、もしくはその羊のあとをいとも簡単にふり切るという唯一の希望をいだいて彼女に微笑した。
(この日記はマックス・ブロート編『決定版カフカ全集7 日記』(谷口茂訳、新潮社、一九八一年)で使用されている語句の引用・組み替えによって作成しました。)
コメントする漁師たちが甲板の上に配置された三つの問題点を数えあげるときなど、ぼくは園亭のようなところで青年たちの真中にいて、会社のやり方を図々しくも呪った。もう八時だったが、ぼくの心のなかにあるのは人間の生がいかに不完全な一瞬かという申し出である。戦いの相手は目を上の方へ向けるが、それはぼくの邪魔にはならなかっただろう。ときどき休暇の間、仕事場のなかで気楽さを感じる。
(この日記はマックス・ブロート編『決定版カフカ全集7 日記』(谷口茂訳、新潮社、一九八一年)で使用されている語句の引用・組み替えによって作成しました。)
コメントする今でもそうだが、いわばいろいろな飾りをぶらさげていることによって表面化しているのは、今ではもう我慢できないように思える者が、ぼくと読まれているものとを断乎として分離している無口の、社交性のない不平家なのです。だからぼくは自分が自由だと感じ、いろいろな観察を書きとめたことの、つまり恐怖が不幸のもとなのだ。すなわち、自分をすっかり満足させるもっと大きな仕事をめがけて落ちてくるだけであり、不幸そのものはひどく絶望した人間でさえ認めなければならない。人間性の一体性は、恐るべき騒音の単なる小さな譲歩がなされていることだ。
(この日記はマックス・ブロート編『決定版カフカ全集7 日記』(谷口茂訳、新潮社、一九八一年)で使用されている語句の引用・組み替えによって作成しました。)
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