日記

  • 日記210822-24

     『ちびまる子ちゃん』をマンガやアニメで観続けているこの頃だが、外国人のキャラクターが出てくる回はどれも印象に残るような(言うなれば感傷的な)エピソードである場合が多い。多いと言っても該当するお話は片手で数えられる程度ではあるのだが、たとえば、まる子が南の島へ行き島に住む少女・プサディーと仲良くなるお話は言うまでもないし、まる子がたまちゃんら同級生数名と花輪くんの家に遊びに行く回では、花輪くんの友人であるアメリカ人のマークが(ふだんはアメリカで暮らしている花輪くんの母といっしょに)たまたま花輪邸を来訪していて、まる子たちといっしょに遊ぶ様子が描かれている。また、二〇一五年に上映された『映画ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』もそのタイトルのとおり、ホームステイで清水にやってきた外国人とまる子たちとのドタバタが物語の主である。ここに挙げた三つのエピソードに共通する点として、仲良くなった相手が母国へ帰ってしまうことがもたらす別れが終幕部分で描かれていると、誰でもあきらかに指摘できる。あるいは、いずれのエピソードも別れをもたらす存在、外側からの来訪者の象徴としてのみ「外国(人)」という記号は用いられている。この点について、ある見方においては、観念的・記号的でしかない「外国(人)」という存在が「日本的なもの」の強化のためにしか働いていないのだとして、安易なナショナリズムに収斂する物語やモチーフへの批判が可能であるだろうし、また裏を返せば、家、親子、町内などといった『ちびまる子ちゃん』を支える舞台である保守的な共同体を更新することの困難さを汲み取ることも可能であろう。ただいずれにせよ、何か言及するにあたってはもっとつぶさに観察する必要はある。

     ここでは備忘として、『ちびまる子ちゃん』と「外国(人)」におけるとっかかりになりそうな要素を、一点のみ記しておく。いくら物語の時代がいまと異なるとはいえ、たとえばまる子が町内会の福引きの商品を当てなければ外国へ行けなかったこと、またそのことが、旅先で仲良くなった友人と再会できないことをも示していることは、現代においても簡単に見過ごせる点ではないのではないか。学研教育総合研究所が二〇一六年に行った調査では、小学生の八割近くが渡航経験なしと回答した結果が出ているようで、また、観光庁から出された「若者のアウトバウンド活性化に関する最終とりまとめ」内の委員提出資料によれば、十八歳から二九歳で渡航経験のない者は約五一.八パーセントと出ている。かくいう私も、日本国内から出たこともなければ日本語しか話せないというありさまで、「外国(人)」という観念やそこに見出してしまう強烈な他者性はおそらく否定できるものではない。つまり、環境や風景こそ変われど、ある点においては『ちびまる子ちゃん』で描かれる生活の様子はけっして古いものではないのではないか。そして、この『ちびまる子ちゃん』がいまだに国民的アニメとしてお茶の間の届けられ、ともすれば大衆に素朴なナショナリズムを促すとするのならば、『ちびまる子ちゃん』を丁寧に読み解こうとすることもさほど馬鹿げた試みでもない気がする。

  • 日記210819-21

    MacBookのバッテリーがどれだけ充電しても1%を超えず、画面上に表示されるアイコンはずっと赤いままで、充電器を抜くとむろんすぐ落ちるという状態になり、さすがに限界かと思ってApple Storeで修理の予約をした。バッテリーが消耗していること自体は以前からだったが、ここまで酷くはなかった。ここのところネットゲームをやったり、動画を再生しながら海外のサイトを巡回したり(海外サイトのページを開くと動作がやけに重くなり、ファンの回る音は大きくなり、端末も何やら熱くなりやすい)、といった行為が続いていて、それらによる負荷が弱りきったバッテリーに追い討ちをかけたのだろうか。何はともあれ、いずれはバッテリー交換に出さなければいけなかったのだし、そのタイミングがたまたま今だったということに過ぎないといえば、まあその程度の話である。Apple StoreへMacを持参したところ、使用していた端末がバッテリー無償交換の対象端末であったらしく、約二万円の修理代金が無料になった。二万の出費は大きいが仕方があるまい……と思っていたが、まさかタダになるとは。すなおにとても助かると思った。

    『ちびまる子ちゃん』のコミックスを全巻まとめ買いして読み始めた。ふだんマンガを読まないせいか、一冊読むだけでもけっこう疲れる。小、中学生の頃は、休日は一日中マンガを読み続けていたことを思い出す。同じタイトルを繰り返し読み込んでいたこともあるが、半日で十数冊くらいはサクサクと読んでいたような気もするし、やはりこういうものは慣れに支えられているのだろうかと思う。たとえば文章であっても、慣れた分野だったら多少意味が分からなくてもページをめくっていけるし、逆に不慣れな分野、さいきん読んだものだと気象関係の本なんかは、専門的な語彙が多いという点も一方であるのだが、それを差し引いても文のリズムに抵抗があり、なかなか読むのが難しいなと思った。こうした抵抗を受け入れること自体に、何より慣れなければいけない。

  • 日記210817-18

     インスタグラムを見ていたら、小平うどんといううどん店の写真の投稿が流れてきた。気になって調べてみると、小平といいつつ聖蹟桜ヶ丘にも分店があるとのことで、近くだし今度行ってみようかと思った。ただ、うどんだったらじぶんでつくれば安く食べられることもあって、おいしいうどんを外に食べに行きたいと思ったときはいつも外で食べるほどのものなのだろうかと思いとどまってしまうから、今回もまた、でもうどんか……とすぐに微妙な気持ちになった。千円くらい出すならもっと他のものを食べられるし、なんでわざわざ外食でうどんを選ばなくてはならないのだ。うどんでお馴染みの香川県では、三百円くらいで讃岐うどんを食べられるらしいし、お店によっては百円台で出しているところもあるようで、大阪におけるたこ焼きもそうだが、栄えているところでもないと相場と感覚が合致しないというのはどうも釈然としない。需要と供給を考えればむろん栄えているところの方が価格が安くなるというのは言わずもがなではあるのだが、ことうどんに関しては、スーパーに行けば五食三百円程度で冷凍うどんが売られているものだから、そしてその冷凍うどんがそこそこおいしいものだから、比較するのは無粋であると分かっていながら冷凍うどんとお店のうどんの価格をどうしたって比べてしまう。こんなことで貧乏性を発揮せずに、食べたいものはお金のことなど気にせずすなおに食べに行けばいいのだが、この数百円を何度か我慢すれば本を一冊買うくらいの機会収益が発生するのでは……?などと考えてしまうのが何よりの元凶ではある。『ちびまる子ちゃん』の全巻セットを買うか迷っている。

  • 日記210814-16

     「あずきのチカラ」というホットアイマスクを買った。あずきが入ったアイマスクをレンジで温めて目に当てる。レンジで蒸しタオルをつくって目を温めるよりも熱さはなく、しかしそれでいて、ずしりと目の上に乗っかったあずきの束からはじわりじわりと温かさが伝わってきて、目の周りの筋肉が解けていくようで心地がよい。寝る前に目の上に置いていたらそのまま眠ってしまった。朝は目覚めがよく、まぶたの重さも感じなかった。出勤するまでに少し時間があったから、またレンジで温めて、五分ほど目を温めた。使用回数の目安は二五〇回とのことで、毎日朝晩にしようしても四ヶ月程度は使い続けることができる。いままで目の疲れを感じたときは蒸気でホットアイマスクを買ったりもしていたが、それよりよほど安上がりで経済的にも助かる。今回買ったのは目元用だが、顔全体用や首肩用もあるようで、ぜひそれらも使ってみたい。
     『ちびまる子ちゃん』を観ていたら、自家製洗濯石鹸を作る回があり、さくら家一同が順番に液剤をかき回すだけの場面があってよかった。重そうに液剤をかき回す友蔵やおねえちゃんの横で、陽気に応援するまるちゃんが微笑ましい。目が点のキャラクターは何をやっててもかわいいが、ただ点が二つ並んでいるだけでかわいい顔になるのはなぜだろうか。そういえば最近、ひとは三つの点が集まった図形を見ると顔と認識してしまうという話を聞いた。シミュラクラ現象というらしい。
     今年でデビューから三〇周年を迎えるZARDの全オリジナルアルバムのリイシュー盤が出るらしい。ベストアルバム商法もついにやり尽くしてしまったのか、あの手この手でよく飽きもせず阿漕な商売を続けるなと思う。それでもこうしてことあるごとにメモリアルだなんだと理由をつけて、熱心なファン以外誰も見向きもしないような商品を編み出して、なんだかんだで例年話題をつくってくれることは、それをちらっと目にしたタイミングでZARDを聴き返すきっかけにもなるし、虚しさをわかってあえて記念を祝うことも何かの意義があるのかもしれない。「Oh my love」を久しぶりに聴いて、いい曲だなと思った。

  • 日記210812-13

    プライムビデオで「ちびまる子ちゃん」を観た。昔に見た「まるちゃん 南の島へ行く」という回をずっと覚えていて、たまに思い出して見返してしまう。プサディという南の島のキャラクターはこのエピソードでしか登場しないにもかかわらず、そしてこの一回のエピソードをたまたま観ただけであるはずが、まる子とプサディの別れのシーンがその後もずっと記憶にとどまり続けていることにはすなおに驚く。本で読んだ知識はすぐに忘れてしまうが、物語は、受容の態度がたとえただなんとなく眺めているだけであっても、図らずしてじぶんの一部になってしまうということはままある。

  • 日記210809-11

    九日。だるさがあったから十五分だけと思って横になって四時間も寝た。起きてからは頭痛が続いた。ウェザーニュースのアプリを見ると、天気痛予報が警戒と表示されていて、じゃあ仕方ないかと思いながら、ほぼ一日を何もせずに消化してしまったことが鬱屈とした気分に追い討ちをかける。入浴して、ストレッチをして、寝た。寝たのは一時頃だった。
    十日。昨晩寝るのが遅かったから、朝食時間を削って七時頃に起きた。この頃はいつも六時半に起きている。少し前は六時に起きていた。五時半に起きることもあった。それでは──そのせいかはわからないが──勤務中に眠くなってしまうと気づいてやめた。べつに早起きして何かするわけでもない。プロテインを飲んで出勤した。昨日の体調不良が尾をひいたのか、一日中頭が重かった。
    十一日。帰宅時の電車で強烈な眠気に襲われて、寝た。時々隣に座ってるひとにぶつかって、何度か頭を下げた。頭を下げてすぐあとにまたぶつかった。左隣のひとが脚を広げたり組んだり、肩幅も広めにとっていて、狭かった。電車で大股開いて座っているのは多くの場合男性で──これは偏見だろうか?──、こういう日常的で些細でなんとなく受け入れられていることから粛々と正されてほしいと思う。

  • 日記210807-08

    Draw & Guess』というゲームをやった。ひとりが単語で示されたお題の絵を描き、他のひとたちは書かれた絵のお題が何かを当てるという単純なゲームではあるが、他者を通じて記号・表象・図像を往還することによって生じるずれを前提とするゆえに、描いた絵が伝わった/描かれた絵を理解できたときにうれしさを感じられるというこのゲームの魅力は、日常における言語コミュニケーションにおいても通ずることでありながらついぞ忘れてしまっていることでもある。わかりあえないからこそ意思の疎通に成功したことを喜ばしく思える。しかし当たり前のように他者と関わり生活する日々のなかで、いつからか言葉を適切に用いれば他人と容易にわかりあえるものだと思い込んでしまう。それは端的に誤りで、私たちのコミュニケーションはいつだって齟齬だらけであるにもかかわらずなんとなく成功している(ことになっている)。たとえば至極単純に、「冬」や「12月」と言っても札幌のそれと那覇のそれとではその風景は異なるし、同様に「海」や「海岸」と言っても日本海側と太平洋側とではやはり異なるだろう。同一の記号からなにを想起するかは記号を見る主体の経験に由来しているが、そうした差異を厳密に精査することが求められる場面はおそらく相当に少ない。言うなれば、個々のイメージの解像度を下げ、デフォルメすることによってようやく他者への伝達は可能となる。このようなコミュニケーションにおける原理的とも言える側面について、むしろずれることをおもしろおかしく受け入れながら、そしてズレのおかしさを共有することによって他者と関わることを可能にするという点で、『Draw & Guess』はいいゲームだと思う。

  • 日記210805-06

    五日。なにがあったか忘れた。なにもなかったのかもしれない。なにかがある、とはなにかがあったことではなく、なにかがあったことを覚えていることを指しているのだとすると、日々にはあまりになにもない。
    六日。スーパーに行ったらエンガワが売られていた。炙ったらおいしいだろうかと思って買った。切って、炙って、食べた。油分が多いから、ひとりで食べるには量が多かった。飲んでいた日本酒が甘めであまり合わなかった。群馬のアンテナショップで買った地酒だった。地酒を買ったのは先週だった。エンガワより勝浦産のマダコの方がおいしかった。マダコは半額だった。刺身が豊富に売られているスーパーが楽しくて、この頃よく足を運んでいる。肉もいろいろで、いつか奮発して買ってみたいと思った。三人組の若者が買い物をしていて、酒や惣菜を見て回っていた。このあと誰かひとりの家に集まって食べたり飲んだりするのだろうかと思って、楽しそうでいいなと思った。

  • 日記210803-04

     Spotifyで尾崎豊を聴いた。中学生だった頃によく聴いていて、同じ部活動に所属していた八柳くんと、尾崎の曲をよくいっしょに歌っていたことを思い出した。おかげで今でもある程度は歌詞を覚えていて、何も見なくとも歌える曲がいくつかあるほどだ。たしか八柳くんは「Scrap Alley」という曲が好きで、この曲を聞くとサビで歌われる「Say Good-bye おんぼろのギター」の箇所がいまだに彼の声で脳内再生されるから笑えてくる。一般に尾崎豊といえば、「15の夜」や「卒業」に代表される鬱屈した日々を過ごす十代のもがきを歌った曲が思い出されるだろうが、他方で「Scrap Alley」は父となり大人となった男がヤンチャだった若き頃を振り返っては当時と決別しようとする心情を歌った曲であり、中学生だった八柳くんが大人目線の曲のほうを好んでいたことは当時から印象的に思っていた。たしかに賢くて大人びたひとだった。歌もうまかった。その一方で、じぶんは「卒業」が好きだった。尾崎は生徒会副会長を務めるほど真面目だったというエピソードは有名だが、真面目ゆえに抱えた抑圧が歌によって解放され、しかし解放されたとて自由に辿り着くわけではないのだというアイロニカルにも聞こえる歌詞(俺達の怒りどこへ向かうべきなのか/これからは何が俺を縛りつけるだろう/あと何度自分自身卒業すれば/本当の自分に辿り着けるだろう)に、どこか共感めいたものを覚えていたように思う。
     気候変動によってマグロの活動域に変化が生じているという記事を読んだ。通常、エルニーニョ現象の起こる年には東の地域に、ラニーニャ現象の起こる年には西の地域に移動する性質を持つが、今後気候を原因に太平洋の熱帯水域がさらに温暖化すると東への移動が大きくなるだろうと見込まれているらしい。環境問題は、人間だけでなく、あらゆる生物に影響を与えるから問題を観察する視点が豊富でおもしろい(深刻ゆえに、おもしろがっていてはよくないのだが)。しかしその視点の多角性が、かえって議論を散漫にするということもあるのだろうか。海外のニュースサイトを眺めると環境問題にまつわる話題は頻繁に見かけるが、国内メディアだと扱いは小さく、あまり情報も入ってこないからわからないことが多い。

  • 日記210801-02

    一日。美容室へ行き、(たぶん)四ヶ月ぶりに髪を切った。このあとどこかに出かけるんですか、と訊かれ、ぐんまちゃんのポスターをもらいにいくか迷っています、と答えると、せっかく整えたのでぜひ行ってきてくださいと言われた。散髪を終え、銀座にある「ぐんまちゃん家」という群馬県のアンテナショップを訪れると、店内には店員以外のひとがいなくてどきっとした。二〇〇〇円以上の買い物をするとぐんまちゃんのクリアボトルがもらえるとのことだったから、適当な地酒とぐんまちゃんの小さなぬいぐるみを買った。自身の関心の問題なのか、地酒以外にあまり魅力的な商品がなかった。地元の食材を利用したジャムや調味料はとってつけたような印象が否めないし、カミカミこんにゃくというジャーキー風に加工したこんにゃく、ペヤングをモチーフにしたせんべいなどは食べればそれなりにおいしいのだろうけどどうもパッとせず、手に取る気にはならなかった。飲むヨーグルトとか水沢うどんとかはよさそうだったけど、ぐんまちゃん目当てで立ち寄った買い物にしてはちょっと存在感が強いかなと思った。高崎のだるまも売られていて、先日見た映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』を思い出した(作中に登場する街が高崎をモデルにしていた)。地酒は週末にでも飲む。
    二日。昼に雨が降り、帰宅することの湿度が高くて不快だった。マスクをしているとろくに呼吸ができず、徒歩で帰宅していたこともあって、さすがにマスクから鼻を出した。別にただ歩いているだけだから近くにひとがいるわけでもないし声を荒げるわけでもなく、無理してまでマスクの着用にこだわる必要はないだろう。たぶん同じように息苦しさからマスクを外しているひとがいくらかいた。一方でマスクの負担感をあらためて感じながら、しかし他方では顔や口元を隠せるのはひとの顔を見ずに/ひとに顔を見られずに済むし、なんとなくしゃべらなくても許される感覚があるしという点で楽ではあり、十代の頃にマスク着用を義務付けられる生活を何年か過ごしたらたぶんその後もずっとマスクを着用することを好んだだろうなと思った。ほっともっとの前を通るとカレーののぼりが立てられていて、夕食をレトルトカレーにすることに決めた。