朝から嘔吐。どうやら昨晩に飲みすぎたようで、タコをつまみながら二合瓶の日本酒を飲んでいたまではよかったが、その後通話をしながらウイスキーを飲んだ記憶があり、朝になって机上に置かれたウイスキーの瓶を見ると中身が思っていたよりも減っていて驚いた。頭痛と胃のムカつきが続く。何度か吐くがなかなかすっきりしない。吐き気と吐瀉と水分補給と睡眠を何度か繰り返し、胃のムカつきが鎮まるくらいにしっかりと吐いたときにはもう午前を過ぎようとしている。大量の水分を吐き出したから、その分大量に水分を摂取したつもりだったが、なんとなく水分が不足しているような感覚が夜まで残っている。自宅前の自動販売機でアクエリアスを買う。スパークリングのアクエリアスが並んでいて、懐かしさを感じた。疲れる一日だった。というかここのところずっと疲れている。しばらく休みたい。べつにしばらく休んだっていいはずなのにしばらく休めないと思い込んでしまっているのは、規律や雇用契約を内面化しすぎだろうか。
日記
日記210703
ドトールで読書をしていると、近くの席に大きなリュックを背負った老人が座った。老人はリュックを下ろすと、カウンターからセルフサービスの水を持ってきて、無料の求人誌を読み始める。ドリンクの注文はしていないようだった。注文なしに店を利用することは原則許容されることではないはずだが、おそらくあまり仕事もなくお金もないその老人のような状況のひとがこっそりと席を借りて安堵を得ることがなんとなく見過ごされるグレーな部分はいいなと思う。ルールやマナーに忠実に、生真面目に振る舞おうとすると、グレーな部分で生活をするひとらは排除される。人間や人間の暮らしは多様であり、ひとは生き続けることでその在り方を更新するから、一旦引かれたある平等さはどこかで生きづらさを生んでしまう。だからある問題を制度の改変で解決しようとするだとか、あるひとの人格や暮らしを制度上認めさせるだとか、そうした公的な承認はひとびとの権利を守る上でかならずしも必要ではなく、私的な範囲で守られているものを守り通すという手段も一方ではあるのだろうと思う。公的なものがどうであれ自分らの場所は自分らで守る、という気概も馬鹿にできないのではないか。
日記210702
昨日から雨が続いている。外に出ると蒸し風呂のようで不快だった。雨対策にマウンテンパーカを着用していたこともあり、その内側に湿気がこもってなお不快だ。退勤後、自宅へ向かう電車のなか、空いた座席に座ったらすぐに眠ってしまった。電車で座るといつもすぐに眠ってしまうから、もはや条件反射のような気がする。しばらく眠り、目を覚ます。目を覚ますと座席と密着した脚が汗と湿度でベタベタして、かゆみもあり、かといって脚を動かして空気に触れさせることもできず、そのどうしようもなさに苛々した。降車駅まではまだ一〇分以上あった。再び眠って誤魔化せないかと思ったが、もう眠れなかった。疲れている。
日記210701
朝から背中がいたい。勤務中はデスクに座っているのもつらかった。思い返せば、にぎにぎすると柔らかくて気持ちがいい玉みたいなのをにぎったまま寝たのがよくなかったのだろうか。にぎにぎを握って眠ると睡眠中のからだの力みが抜けて睡眠の質が向上する感覚がある。しかし睡眠中に両手で何かを握っているという状態は、何も握らないときと比べてとうぜん筋肉の使い方に変化があるだろうし、普段は睡眠中に負荷がかかっていないだろう部位を動かしていたのかもしれない。睡眠時のからだの使い方をなるべく疲労のでない状態に近づけるのはむずかしい。
日記210630
客の立場になるとすかさず態度が乱暴になるひとをみて、いやなやつだとたいへん不快に思ったが、サービスの提供者-受領者という関係においてしか相手に対して優位になれない──優位劣位という言い方が適切でなければ余裕がないと言い換えてもよい──から、いざそういう場面になったときに振る舞い方がわからず横柄な、横暴な、傲慢な、乱暴なコミュニケーションをとってしまうということもあるのかもしれないとも思った。ただ、そう思ったから同情するなんてことはなく、その不快なひとは勤務先のひとであり、連日顔を合わせなければいけないのだからただたんに不快である。乱暴なコミュニケーションは日頃からのことでありほんとうに不快。昨日も今日も明日も不快でほんとうに気分が悪い。知性もなければ倫理観も欠如していてほんとうに関わりたくない。と、とにかく不快だから基本的には無視している。ろくに働けないひとだから無視し続けていても業務的にも何ひとつ問題はなく、不快感と嫌悪感が増幅してしまう分だけまともに相手にする方が問題がある。これ以上不快感が増すと直接批判してしまいそうだから無視することは妥当なはずだ。こうして不満を書くことすら不快であるのだが、声で愚痴を吐く先もないから仕方なく書いている。いくら無視しようと近くに存在しているから不快感は募るばかりで、こうして他人に対し不快だなんだと思うことは無礼だと捉える向きもあるのかもしれないが、もちろんどんなひとであろうと自由に振る舞い自由に暮らしてよいのだから他人の自由や公共の福祉を侵さないかぎりにおいて勝手にやってくれてよい一方で、同様に誰かを不快に思うこともまた個人の自由だ。我慢の限界に至るまで徹底的に無視したい。こうして周囲から相手にされない(どころか知らぬ間に憤らせる)ような状況が長らく続いているのだとすれば、やはり客になったときに店員にイキるという形でそいつの不甲斐なさが現れてしまうことは十分にありうるように思う。
日記210629
疲れがとれない。できれば外に出ずひとと会わず一週間ばかり自宅にこもっていたいところだが、雇用契約を結んでいる以上そうもいかない。外に出るだけひとと会うだけで筋肉が強張って極度に疲れてしまうこのからだは生存するのにあまりに向いていない。そばにいて安心できるひと、というのはなかなかいない。知らない誰かが書いた本を読むときはこんなにも安心するというのに。安心先を増やしたくて、にぎにぎすると柔らかくて気持ちがいい玉みたいなのを買った。二個買ったから両手でにぎにぎしている。からだの力みが吸い取られていくような感覚がある。両手でにぎにぎしているあいだはMacやiPhoneの操作もできないから、無駄にネットを眺めてだらけて過ごしてしまうことの予防にもなるだろうか。まいにち日中に強烈な眠気に襲われるから、きょうから眠気の記録をつけることにした。きょうは十六時前から十七時まで眠かった。たぶん眠っていた。眠くなるときはいつも首周辺と下腹部周辺が熱くなるが、検索してもそうした状態の変化にまつわる記事は見当たらない。眠気と体温の上昇に苛まれている。眠っているだけで済む労働と思えば楽ではあるが、給料は発生しなくていいから横になりたい。
日記210628
朝起きた段階ですでにからだがだるく、ここ数日はどうも疲れがとれない。インスタントラーメンばかり食べているこの頃を省みて、食事で何か変わるだろうかと思い、夜は豚肉とピーマンを炒めて食べた。久しぶりにピーマンを食べた。緑色の野菜はだいたいおいしい。肉と野菜を食べながら、タコとか貝とかを食べたいなあと思う。いつも使っているスーパーには海鮮ものがあまり置いていないから、魚介を食べたいと思ってもすぐに食べられない。海鮮ものは値段も高いから、食べたいと思ってすぐに買えるようでも困るのだが、ここまで食べたさが持続していると多少は奮発してもいい気がする。近くにある、普段は行かない方のスーパーはたしか海鮮も豊富だった。前に行ったときは、ほっき貝とか売っていたはずだ。そのときも食べたいなと思ったが、捌くのが面倒だなと思ってやめたように記憶している。貝も魚もじぶんで捌いたことがない。海鮮系のお店が近くにあるのがいちばんうれしいのだけど。
日記210627
うとうとしながら小説を読んでいると、小説内の情景をいくらか反映しつつも文章として描写されてはいない光景があたまのなかに投影されることがあり、その勝手に想起した光景が書かれた内容であると思い違えたまま読み終えてしまうこともある。ふと眠気が晴れたときに思い違いに気づいたとしても、どのページから夢を見ていたのかもうわからない。読み直すのが面倒で、本を閉じてしまう。幻想に囚われていた感覚だけが残る。夢を見る装置として小説を読む。そこには一切の批評性はないが、まあたまには心地よさに飲まれてしまうのもいいだろう。たまにでは済まないから困っているのだが。
日記210626
労働後に神保町の古本屋に行く。出勤先が御茶ノ水だったから歩いて向かった。澤口書店に入り、店内近くの棚を少し眺めて、思ったよりも本を買うことになるかもしれないと察し、一度退店してコンビニでお金を下ろす。数ヶ月前に訪れたときに迷って買わなかった本がまだあった。Amazonだと三〇〇〇円くらいするが、ここだと九〇〇円で売られている。定価は一七〇〇円と書かれている。店内をうろついていると、若いひとのすがたが目立つように思った。それもいかにも文系青年という感じではなく、見た目が洗練されていたり肌の露出が多かったりする。本を求めるひとは属性にかかわらずたくさんいるのだと、書店に行くと気付かされる。Amazonでばかり買い物をしていたらたぶん気づかない。四冊の本をレジで渡し、四九〇〇円を支払う。土曜日だからか帰りの電車は空いている。端の座席に腰を下ろして小説を読む。電車が進んでもやはりひとの乗り入れはあまりない。十八時前の外はまだ明るく、時間が引き延ばされているような空気が心地よい。次はつつじヶ丘とアナウンスが聞こえる。いつの間にか寝ていたようだった。
日記210625
勤務先のトイレでいつもどおりに排泄をしていて、トイレットペーパーの位置や洗浄レバーが右側にあることに気づき、これは右利きの多さに由来した設計なのだろうかと考えた。右利きが多いからと右利きのひとが使いやすい環境を設計することは一見合理的であるが、ではそのとき合理性を損ねる要因とされる左利きのひとの権利はどうなるのか。右利きに都合のよい環境で一生を過ごさなくてはならない左利きのひとが、せめてもの思いで私的空間を左利きに都合のよいように整備したところで、結局公共空間は軒並み右利き優位であることは変わらない。ひとの手なしに自然に成形した空間のように、個人や大衆の都合や利便性を前提せずに環境が構築されるのであれば、右利きの多さに由来する群れの行動原理の結果として何らかの変形こそするであろうが、そのような無意識の振る舞いを反映した現れも含めてあるがままに顕現するだけである。しかし、人工的な空間はひとの意図が介入する。個人や大衆の心理をあらかじめ想定したうえで、なるべく多くのひとたちにとって障壁のない空間をつくろうとする。繰り返すが、多くのひとたちにとって障壁の少ない環境は、そこに該当しない少ない──とはいえ数としてはけっして少なくない──ひとたちにとって障壁となる場合がある。あるいは、障壁となっていることに気づかない場合などが。公共空間が人為的な場所である以上、あるひとにとっての不都合はどうしても生じてしまう。それでもなお、だから公共空間なんてものはない方がよい、とはならない。いまのところはなっていない。公共的なるものは社会やひとびとにとって必要であると、おそらく多くのひとが疑いようもなく考えている。人為的な空間ゆえに生じる人為的な格差を目の前にして、なおだ。
もし左利きの者たちが連帯して声を上げでもすれば、左右どちらの手でも公平に持ちやすいはさみが開発されるかもしれない。駅の自動改札機は左右兼用になるかもしれない。いや実際、これら含めて利き手に対するユニバーサルデザインが施された例はいくつかあるようで、しかしそれは逆説的に、右利き優位社会を左利きで生きることが不利であることを示してもいる。その希少さが優位に働く場合もあるが、一般に生活を送る上では、社会は左利きに苦労を与える。そしてむろんのこと、そのひとが左利きであることは、そのひとの意思のあずかり知らぬ事象であり、そのひとには一切の責任はない。
自然由来の人体と人工由来の社会とを遮る障壁は、いかにして乗り越えが可能なのだろうか。効率や合理性、わかりやすさやコストの少なさ、楽であることや負荷が少ないことを社会が安易に求めると、それは大衆にとって、つまり多数派にとっての利点として働くのだとすれば、そして多数派にとっての有益性がひとの固有性をある一点に収斂させてしまうのだとすれば、人間の多数性や多様な社会の形成を帰結先とした場合には少なくとも、先に列挙した項目に対抗する要素を総じたものとしての複雑さや理解しがたさを果敢に受け入れていくことが求められるはずだ。私にとってわからないものこそを喜び、私にとって共感を抱かせるものこそに疑いの目を向ける。そのための指標をいくつも持ち、絶えず更新する。たとえば文化芸術がひとにもたらす喜びや美しさは、そういったことだったりしないだろうか。