ゲーム配信をしてみたが、ゲームをプレイしながらしゃべるのがこんなに難しいとは思わなかった。操作に追われるようなゲームではないにもかかわらず、シーンのいちいちにコメントやつっこみを入れることの面倒や気の利いた一言の思いつかなさ、話しているうちにゲームのストーリーが進んでしまうこととの折り合いなどに頭が追いつかず、出てきた台詞を読み上げるだけで精一杯だった。ふだんから発声機会がさほどないから声を出すこともままならず、中盤からは嗄れた声でしゃべりつづけた。これは回数を重ねれば何かの訓練にもなる気はするが、それ以上に何にもならない気もする。しかしただひとりでゲームをするとすぐに飽きてやめてしまうから、ひと目につくところでゲームをやるということ自体でなんらかの効果が生まれているようにも思う。たとえばこの日記だって公開しているからこそ継続しているわけだし。あと、単純に声を出すのは脳が活性化していい感じがある。少し前に始めた音読もやってみると気持ちがよくて、こちらも意外と続いている。
日記
日記210623
五輪会場で酒を販売するとかしないとかの騒ぎを見て、いつの間に開催自体がおおむね了解されたのだろうと思う。それに、飲食店での酒類提供を制限しながら五輪では可とはなにごとかと反発したくなる気持ちもわかるが、禁止に動かすのではなく自由に酒が飲めるような元の状況へといかに回復させるかという議論をした方がよくないか、などとこっちの議論に釣られてしまうことが既に誤りだ。それはそれとして、たばこと同様にアルコールを忌み嫌うひとは少なくなく、生理的な嫌悪と健康問題と公衆衛生を組み合わせれば民意は容易に動くし、そのうち飲酒は低俗な人間がすることだとかそういう空気もできあがりそうではある。想定しうるひとつの仮説に過ぎない話ではあるが、こちら側に進むのは勘弁してほしい。ひとはそんなに清廉潔白ではないし、清廉潔白になんかきっとこれからもなれやしない。
日記210622
昼食にファミリーマートで買ったぶりの照り焼きのおにぎりを食べたらおいしかった。コンビニのおにぎりにしては高価だったが、味に満足したから出費はあまり気にならない。ぶりとかさばとかほっけとかかつおとか、魚を自宅で調理することもなければ魚を扱う店にもなかなか行かないからさほど食べる機会がないそれらも、可能であれば毎日のように食べたっていいくらいだ。おいしいからと毎日食べたらさすがに食費が気になりそうではあるのだが。
おとといにプロテインを買って、朝と夜に飲んでいる。小学生の頃に一度、中学生の頃に一度、成人してから一度、それぞれ長続きこそしなかったがプロテインを飲んでいたことがある。ひさしぶりに飲んで、かつてに比べて格段に飲みやすくなっていることに驚いた。粉の溶けにくさや独特の匂いなど、おいしいというにはすこし無理があるがからだのために飲むもの、という印象があったが、いま飲んでいるものはふつうにおいしい。これだったら無理なく続けられそうな気もする。
台所に目を向けると、生ごみが溜まる三角コーナー周辺をコバエが飛んでいる。以前、ウェザーニュースで、コバエ対策の記事が出ていて、番組でも紹介されていた。そのときにニコ生で、共存に舵を切る、とコメントを書き込んだら、共存すなw、と知らない誰かが反応していて、関わりあっているのかいないのかよくわからないけどでも確かに影響を与えあっているニコ生の空間はいいなと思った。日記210621
YouTube Liveのチャットをニコニコ生放送のように画面上を右から左へと流す方法があるようだったから、調べながらいろいろいじってみたがうまくできなかった。どうやらWindowsでないと設定できないらしい。調べたり設定したりをしているうちに寝る時間が迫っていて、さっさとシャワーを浴びる。何も成果はなくとも適当に調べて試して頭を悩ませて……と作業することはそれだけでたのしい。与えられたものにそのまま乗っかるのではなく、やってみたいとかおもしろそうとか思ったことを、ネット上の知恵や技術を探って頼って時に騙されながら試行を重ねていく姿勢でひとが関与する。インターネットはいつまでもそんな場所であってほしかった。
日記210620
リズムを乱さずに長い文章を書くことは難しい。少なくともじぶんにとっては。たとえば同じ単語を繰り返し、繰り返し、繰り返し用いることで簡単な音韻はつくれるが、その安直な手法が使えるのは短い文だけだ。単調なリズムを長々と刻み続けられるほどひとの気は長くない。だから、一万字程度の文章があるならば、それをいくつかのパートに切り分けて、文字数や全体における割合を把握しながら文の流れをつくるといったことが必要になるだろう。短距離走とマラソンとではむろん走り方もレースの組み立てもまったく異なるのだなんてことはいまさら言うまでもなく、いまこうして書かれている文章のように、思いついたことから順番に書き連ねるだけの無策が通用する場面は多くない。だがもし工夫なしに書いてしまったのであれば、読み返したときに生じた読みの突っかかりを逐一チェックしてみたらどうだろう。チェックに基づいてあとから書き直してどうにかなる保証はないが、見通しを持たずに書いてしまった以上は、あとからどうにか立て直すほかにできることはない。で、現に見通しを持たずに書いてしまっている身としてはかなり億劫な心持ちであり、今月中にひと段落はさせておきたかったのだが、もしかしたらそれも難しいかもしれない。すべては夜にカフェが開いていないのがいけない。
日記210619
鶏肉を買って親子丼をつくった。二人前と書かれたレシピ通りの量でつくったそれを一度の食事で食べ切ったら満腹感でつらい。めずらしく量を食べたからここぞとばかりに筋トレ。量を食べなくても筋トレは続けなければ意味がない。そういえば賞与が入ったからプロテインを買うくらいの余裕がある。買ってみようか。からだを太くしたい。大谷翔平さんを見ていると、結局からだは大きい方がいいのだろうと思う。高校の頃の部活動で、練習メニューがウェイトトレーニングの日はサボっていた。みんなが平気で持ち上げる重さのバーベルを持ち上げることすらできないのが情けなくていやだった。それでも当時は五六キロくらいはあった。高三の夏以降、部活動が終了して運動する機会が減った同級生たちの顔が軒並み丸くなり、体重が増えたと嘆いているなか、同様に運動する機会を失ったじぶんは筋力の低下に応じて体重が減っていた。努力しなければ標準体重にすら届かない。手軽に筋力を鍛えられるように、いっそ自前のバーベルがほしい。
日記210618
賞与面談。近々正社員として雇用できれば、と話が出る。そちらの心づもりを後日確認させてほしいとのことだった。じぶんの暮らしを続けるために世に迎合しながら労働に従事することと、世の中をひっくり返す、とまでは言わないが、どうにか社会が変わらないだろうかと学び、考え、運動を志すこととをどう折衷すればよいのだろう。もしくは周囲のひとたちは、どう折り合いをつけていまの日々を送っているのだろう。後者に関して具体的に何ができるのか、何をできるのかの見当を定めることからきわめて困難である一方で、前者に関しては与えられた(生活や人生における)タスクを着々とこなすだけでよく、懸命に過ごす日々は他人との関与から保守性を生じさせる(たとえば家族がいるひとなら、自らの人生は家族の人生でもあり、他者との関与が希薄な者と比べて無茶な言動・活動に身を投じづらくはなるだろう)。時間の経過で自然と手懐けられてしまう仕組みである以上、あえてその仕組みのなかでは困窮する立場に身を留めておく方がじぶんには向いているようにも思うが、無謀な反抗心もそれはそれでおそらく何をももたらさない。そしてこうした意識を生じさせているのは反抗心なんて立派なものではなく、根本的な気質が天の邪鬼なだけだ。
日記210617
ビルの敷地を清掃しているおじさんがたぶん通りすがりのおばさんに怒鳴られている。雰囲気から察するに、おそらく言いがかりであるように思われるが、雰囲気だなんて勝手な絵空事を難癖のように当て込んでは一蹴する通行人の言うことなんか微塵も信じるべきでない。書いたことを悔いろ。読まれることの恥を知れ。あらゆる人間に批判的に対峙し、その最たる対象にみずからを置け。たとえ指を失っても書くことを止めない覚悟がないのなら食って寝て老いるだけの生活に身を慎んだほうがいい。頭痛にでも苦しんでいれば幸福だろう。また今日も文を書く真似事ですか、はやくやめたほうがいいですよ、くだらないから。小綺麗に切り貼りした貧しい人生の愚劣な描写を実存を支柱に屹立させようという卑しい魂胆は早急に唾棄する以外に取り扱いようがない。でなければ、日記の残酷さに拮抗する身体状態をかろうじてでも維持してみせたらどうだ。
日記210616
寝転んで、天井を眺めて、雨音に耳を傾け、本をぱらぱらとめくって、目をつむって、その合間合間にキーボードを打ってはやめて、打ってはやめて、打ってはやめる。腑抜けた状態でもなんやかやで千字程度書き進む。一日かけたことを考えれば、むろん進捗はよろしくない。週末にはきちんと手を入れなければならない。もつれてしまって解消したい主題があり、できればそれを誰かに話してしまいたい。壁に向かって話す。コーヒーフィルターが残り一枚だったから外出する。柔軟剤も切れかかっていることを思い出したのは出発時点で、コーヒーフィルターを買う頃にはもう忘れていた。帰宅して、冷蔵庫を開けると、たまごの残りが一個だと気づく。冷蔵庫にしまい忘れていた豚こまを捨てる。ぬれた机を拭こうと思ったらティッシュペーパーがない。ここ数日はやけに買い物が多い。刺身や寿司でまぐろの人気があるのは赤くて写真映えがいいからという話を聞いて納得する。焼き海苔にわさびをつけて食べる。喉元にウォッカを通過させる。見て聞いて体験した出来事を記述するだけの文に締まりを出すにはどんな手立てが考えられるか。とつぜんに説明的で自省的な文が挿入されるのは疑いようもなくルール違反だ。外在的要因に由来する書記行為の主体性は、書くことよりもむしろ書かないことによって立ち上がる。するとここに記述されなかった出来事とは何か。あまりにあたりまえで記すほどでもないと捨象してしまっている習慣やより私的で秘密裏にしていたいこという判然とした事柄ではなく、天井を眺めてから雨音に耳を傾けるまでの間や、雨の音と同時にとつぜんの豪雨に高揚する小学生の声が聞こえていたことや、ぱらぱらとめくった本に何が書かれていたかなど、書くことによって書き落とされ、もしくは感傷的な判断によって恣意的に書かないことが決定され、それともそもそも一般に類型化されていないために流されるままに容易に簡潔に記述できなかったり技術の伴ってなさゆえに書かれなかったりする事柄が、遡行的に記述者の身体を仮構するということはたぶんある。だからこそ、まぐろやえびやかにの写真を彩る赤さなんかで騙そうとしてはいけない。
日記210615
みだりな情動にかき回されるほど私たちは退廃していない。直観的な親しみを好意と錯覚してしまうことの安易さ、無邪気な狂乱を穏やかに繕うなんて馬鹿げた振る舞いはもうしない。それでも愚かなままでいたいのなら、今日の雨にでも一喜一憂していればいい。
眠気に襲われ敗北寸前の状況下でWordをたたく。眠っているのか文書を制作しているのかといえば前者でしかないことは明らかで、意識が戻ってきたときパソコンの画面を見ると、打った覚えがないどころか、いつどのようにどうして喚起されたのか心当たりもない〈隣に立って見ている客〉という文が書かれている。不要だから消去する。覚醒中のかれは睡眠中のかれに対し権威性を有していて、睡眠中のかれはその存在すらも半ば認められていない。整然としたWordファイルを名前をつけて保存。
代々木のアートギャラリーTOHでMES個展「DISTANCE OF RESISTANCE/抵抗の距離」を観る。スペースの片隅には制作ノートと記されたファイルが置かれている。中に綴じられた紙には制作の経緯や過程、モチーフの歴史的背景などが書かれている。本展の台本とも言える書類を片隅に置く一室の、壁には数枚の(レーザーでライティングした街の)写真=制作物が展示され、中央にはある一枚の写真が実際に制作された際の二分程度のドキュメント映像が繰り返し再生されている。この映像は、すなわち実際に上演されたパフォーマンスのアーカイブとして解釈可能だ。レーザーの投射という形を残さないその瞬間かぎりの光景と、そのことによって表象される失われたクラブカルチャーやストリートカルチャーを、それらの痕跡として配置された台本、上演アーカイブ、制作物の三者が再演する。清潔に整備された凪いだ公共空間、ただそこに在り続けては失われた文化の忘却に寄与する傲慢な公共物への抵抗として、複数の記録を並べ、記録の網を舞台にいくつもの語りを交わし、そのことによって文化を、出来事を模倣し、記憶しようとする態度それ自体を見せられているようでもある。
郵便受けにはふたつの郵送物。袋を破って取り出した中古の雑誌をさっそく開き、目当てのページを読む。ひとが死んでも書かれた文章は残るが、参照する者がいなくなればそこに辿り着く者も減る。あるいはいなくなる。言葉と意味の間接性。身体(とそれを包む環境)の経由なくして、言葉は意味を持たない。そうでなくとも、詩の抒情性は詩に内在しているのではなく、詩が身体を喚起することによって生成されている。直線的に情動を愛でたがる素朴な身体への未成熟さとしての信仰心は、不規則な時系列に組み込んで操作可能な対象へと移行させるがいい。そこに働く技術的態度をいかに保持するか、それが問題だ。