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カテゴリー: 日記

日記210608

あらかじめはたらきかけることをやめよ、/さきぶれを送ることをやめよ、/そのなかにただくるみこまれて/立っていよ──
(パウル・ツェラン/訳・飯吉光夫「あらかじめはたらきかけることをやめよ」)

見ること、たえず見つづけること──しかし、この眼が見ているものは、そのすべてがではないとはいえ、しばしば、あるいは鏡──それもおそらくは一枚以上の──に映ったイマージュではないかと思わせることがある。
(宮川淳『鏡・空間・イマージュ』)

わたしは手に遠めがねをもつて居ります、/につける製の犬だの羊だの、/あたまのはげた子供たちの歩いてゐる林をみて居ります、/それらがわたくしの瞳を、いくらかかすんでみせる理由です。
(萩原朔太郎「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」)

オレンジ色に染まりながら、爪を立てて生きてみたい。けれど、本日はお日柄もよい埋葬日。砂をかける誰もが、埋もれゆく私を愛おしげに見つめている。この視線こそがわたしを殺す。だが一度死せようとも、この身体はむくむくと力を蘇らせるのだ。五感を防ぐほどの砂に息を詰まらせても、屈しはしない。砂から身をもたげるとき、私は生まれかわるのだから。さぁ、この身に砂を)
(文月悠光「戯び」)

僕はそれを見つめたまま立っていた。羞恥からのほてりが皮膚の奥の根深いところで、しこりのように固まり、そのまま熱くひそんでいた。僕は顔を半ば隠してしまう広いマスクの上から両頬に掌を押しあててみた。息をつめて彼らを、僕の肩ごしに女子学生は見つめ、それから敏捷に小さい身震いをした。
(大江健三郎「死者の奢り」)

「夜になると、なんでもいい匂いがするね」とモンドは言った。
「それはものが見えないからよ」とティ・シンが言った。「ものが見えないときの方が、よく匂うし、よく聞こえるものよ」
(ル・クレジオ/訳・豊崎光一、佐藤領時「モンド」)

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日記210607

入浴や睡眠の心地よさに騙されるな ごみは溜めずにさっさと捨てられたらいいのに すぐ横にいる燃えないごみもまとめて全部放り込める焼却炉なんてなくても構わず燃やしてしまえばいいのに夜ばかり燃えている 暖かい と差し出した手は大切な遺骨だからさっさと捨てる 数値の背景に花を添える 満足した気でいる耳をひきちぎる 独り言に上塗りする独り言を誰にも聞かせないし誰にも操作させない 食パンを丸めて食べると指先ではちみつがべたつく 血糖値の上昇に腹を立てる 笑い声と賑やかに覆われた罪を直視する 再生するたびごとに許してしまう甘さを許さないと便器に吐く 汚れている 氷点下の汚れを肌に溶かす 皮膚の焦げる痛みに神経を委ねたまま溺れてしまえ

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日記210606

 横になって本を読んでいたら強烈な眠気を感じて、眠いと思った次の瞬間くらいにはもうたぶん寝てしまっていたのではないか。まだ眠いながらに目を覚まし、もしかしてほんらい寝ようと思っていた時間を過ぎているのではないかと時刻を確認すると二十一時すぎで、深々と眠ったような感覚があったからさほど時計が進んでいなかったことに安堵した。ひょっとして丸一日経ってしまったのではと疑いもしたが、それはさすがにないだろうと日付は確認しない。脳が痺れて縮みこむような感触を抱えながらからだを起こし、シャワーを浴びる。シャワーを終えて、またベッドの上に横になる。二十三時前と、いつもよりはやい就寝時間。就寝というより気絶に近い。一日労働をしていたとはいえべつに重労働でもなく、妙なからだのだるさはどこからきているのだろう。あるいはだるさとは関係なしに眠気が湧き上がっているようでもある。眠れる時間に眠るしか眠気を解消する手段はないが、眠りが許されている時間は思いのほか少ない。

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日記210605

 朝の五時半に目を覚まして、ちょっと早いなと思って六時まで寝る。カーテンを開けたまま寝ると日の出に合わせて自然と目が覚めてくれる。六時にふたたび目を覚まして、ベッドのうえで横になったまま枕元に積んである本を読む。区切りのいいところで読むのをやめて、また眠る。つぎに目を覚ましたのは八時過ぎだった。パソコンを持って近所のマクドナルドへ行く。途中まで書いて放置していたものを書き進め、なんかいまいちだなと思って読書に切り替える。近代において天皇とは陸海軍を統帥する大元帥、平たく言えば軍人であり、明文化されるより以前に天皇の軍人としての機能が経験的に周知のものとして了解されていたために、大日本国憲法が成立する際には軍隊に関する条項は細かく規定されなかったとのことだ。また、一九一〇年に制定された皇室身位令には第十七条「皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス」とあるが、ここに適合する者は昭和天皇しかおらず、条項通りに十歳から軍に入り、着々と昇進して二十四歳で大佐に、二十五歳で天皇、つまり軍の大元帥となった昭和天皇は、天皇とは軍人であるというテーゼを体現した唯一の皇族であったという。店内には家族連れの客が増え、すこし混雑してきたから、アイスラテを飲み干して店を出る。
 山田亮太の新詩集を買いに明大前の七月堂へ行く。店内には珍しく五名もの客がいて、人数制限とかあるのだろうかと様子をうかがいながら入店すると、若い男女二人組は入れ替わるように退店し、客は四名になった。邪魔にならないようにリュックをからだの正面で持つ。古本の詩集の棚から一冊と、詩誌『Aa』の最新号、山田亮太『誕生祭』、山田亮太氏も参加している詩誌『権力の犬』を手に取って、この辺でやめとこうかと思ったときは歳下くらいに見える女のひとがちょうど会計の最中で、その後ろには歳上くらいに見える男のひとが本を持って並んでいたから、また古本の詩集の棚を眺めてレジがあくのを待つ。女のひとは約四〇〇〇円の会計額で、男のひとは領収書をもらっていた。待っている間に一冊増えた本の会計を済ませると、七月堂がフェアとして制作した無料の冊子をいっしょに渡してくれた。直前に会計を終えた男のひとは店内で同伴者と話をしている。店を出ると、右手向こうの曲がり角手前に、男のひとの前に会計をした若いひとが直立してスマートフォンを操作しているのが見えた。詩を読むようになってまだ日が浅いが、詩を読む、特に現代詩を読むひとの数はたぶんそう多くはない。しかし詩集を出版するちいさな会社が、こうして主に詩を扱うちいさな古書店を営んでいるおかげで、そのちいさな店舗ゆえに互いの顔がはっきりと見える距離で詩を好んで読むひとたちの姿を確認できて、また、ああこんなひとがこの詩集を買っているんだなと読者の雰囲気を感じられて、そういう詩を読む上ではまったく不要な体験や情報が文化のためにはじつは重要であるようにも思えて、詩を求めてひとが行き交う場所がこの先も守られてほしいと切に思う。文化はひとよりえらいが、ひとがいなくてはむろん文化は育まれないし生まれすらしない。そもそも文化それ自体がひとびとの交差のあらわれである。交差をもたらす拠点のような場所──かならずしも物理的空間としての場所でなくてもよい──は、あらゆる文化、あらゆる生活を豊かにするうえではきっと無視できないはずだ。
 つつじヶ丘の柴崎亭でラーメンを食べる。ツイッターによると、開店前から昼過ぎまで、ウニがのった限定ラーメンが提供されるとのことで大盛況だったらしい。祭りのあとの、しかも昼時をとうに過ぎた中途半端な時間で空いている店内でいつものラーメンを食べる。ラーメン界隈にもひとが集う場所があり、いつものラーメンがいつもおいしいことも、そういう共同性に支えられている面があるのだと思う。

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日記210604

 暑いからって水分をがぶがぶ摂るとそのまま筒の内側を伝うみたいにすぐに排出されるから水分を摂れているのかいないのか心配になって内臓のなかはからだの外側なんだってむかし読んだ本やさいきん読んだ本に書かれていたことを思い出してじゃあからだの内側ってどこなんだろうって気になって見たこともない骨と筋肉を思い浮かべてみるけどむずかしいひとのからだの六割くらいは水分でできているっていうけれどその水分はどこに蓄えられているのだろう内側なのか外側なのかそれとも内とか外とかはどうでもよくていずれにしても水分を蓄えて持ち運べて入れ替えられる仕組みになっていることが重要な特性であるのかもしれないとか思いながらまたお茶の入ったベットボトルに口を当てていたのはきのうのこと、きょうは空一面に広がる雲から重そうな水滴が絶えずこぼれ落ちているのを眺めている、轟く風に雨滴は流されている、眠くなってきたから立ち上がって辺りをうろうろしてみる、窓ガラスががたがた揺れている。ペットボトルのお茶ってお茶の香りがする水みたい。ほのかにレモンの風味がするあまくて黄色い水を飲む。レモンを連想させる黄色。黄色いくつをはいているひとが黄色いカーディガンを羽織っていた。雨で冷えた空気に風が吹く。窓際は肌寒い。二階の窓から手を伸ばしてペン回しをして遊んでいたころミスをしてペンをおっことして中庭まで取りに行く同級生を見て笑っていたコンパスの針で机を削って穴をあけてうしろの席のひとと笑っていた笑っていたら教師にやめろと言われて熱心に掘るのはやめたけどあいた穴は元に戻せないしたまに癖で掘ってしまうのも仕方がないじゃないと開き直ってみせる自宅まで歩いて帰る時間にはちょうど雨がやんでいる。

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日記210603

 電車で、隣に座るひとが眠っていて、お好み焼きのうえで踊るかつお節みたいにあたまやからだがゆらゆら揺れている。首からうえがぐにゃぐにゃ動く様子は、意識のある状態よりも動きが豊かで、かえって生き生きとしているようでもある。時折、逆隣のひとにぶつかって一瞬だけしゃきっとしながらも、変わらず眠りつづけていた。桜上水に到着したところで目を覚まし、先ほどまでのふらつきが嘘かのように、筋肉の緊張が目に見えて(といっても横目ではあるが)感じられる。スマートフォンを操作している。電車が千歳烏山に着くと、さっと起立して、そのひとは降車していった。どこにも到着せずに走りつづける電車があったら、ずっと眠りつづけていられるのかもしれない。

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日記210602

 「社内ニート」で検索したらあまりの共感性の高さに鳥肌が立った。Google検索をすれば「何も入っていないWordやExcelのファイルを開いたり閉じたりする」と書かれた記事が出て、ツイート検索をすれば「以前はパワポの配置を数ピクセルずらす職人をしていました」と出る。じぶんもおなじことをしているから笑った。与えるほど業務がないなら人手が足りていて業務がないと言ってほしいし、能力的に任せられる業務がないのならおまえは使えないから業務を与えないと言ってほしい。前者であれば開き直ってまったく関係ないことを堂々と行えるし、後者であればさっさと解雇してもらうのがたがいにとってベターだろう。妙な配慮が働くことでかえって苦しい思いをする。だったらじぶんから無配慮に業務がないと訴えてみたらどうなのかと言われそうだが、一ヶ月ほどまえに、今年に入ってからすることがなく何をするためにまいにち出勤しているのかよくわからない、と上司に伝えたばかりではある。特に応答はなかった。そんな状況でさいきん、目標管理シートを作成して提出しろと指令が出て、業務がないのに目標なんてあるわけないだろうと思ってまだ作成していない。業務があったところで指示されたことを粛々とこなす以外に目標などない。これがたとえば、文章を書くとか本をつくるとか、じぶんが好きでやろうとすることであれば、わざわざ立てるまでもなくしぜんと目標めいたものは立ち上がってくる。しかし労働に関してはしょせんは他人が立てた理念に沿った、他人が計画したすべきことがあって、そこになんとなく参入した身で他人の指示になんとなく従っているという以上のことはなく、ただでさえそうであるのに業務すら与えられないありさまなのだから、目標とか言われても困惑するだけだ。強いて挙げるなら社内ニートを脱却して労働力としてまともに機能するか、社内ニートを脱却して失業手当をもらって純粋にニートをやるか、そのどちらかくらいしか思いつかない。経験上は社内ニートよりも純粋ニートの方が生活は充実する。あるいは働かずに給料もらえてラッキーくらいに思えるのがいちばんよいのだが、暇に耐える、それもさも忙しいかのような装いをいちおう保ちながら暇に耐えるには、意外にも強い精神力が要求される。忙しすぎても困るが多少は忙しいくらいにからだを動かしていることのほうがよほど楽である。以前の職場でも似たような扱いだったし、どうせまともに労働できない社会的にはゴミ同然の輩でしかないじぶんは、生活保護などを受給しながらひっそりと暮らしていたほうがいいのだろうとはよく思う。社会的に権威のある競争はすでにことごとく避けてきているから、イライラしながら無理してひとと関わることの利点があるわけでもない。じぶんが苛立っているとき、きっと周囲はじぶんに苛立っているのだろうし、ただただ不毛でくだらないだけだ。だれもじぶんに期待などしないが、あいにくじぶんでじぶんを持ち上げることはそこそこ得意なようだから、いまのじぶんを過去のじぶんが敬い、いまのじぶんは未来のじぶんに期待し、未来のじぶんが過去のじぶんを批判するみたいな狭い世界で生きてもそれなりにたのしめる気がする。中途半端に他人の目を内面化してしまうのもみっともないし、振り切れるなら振り切った方がいい。それはそれとして、業務を与えらてもらうことを目標として立てたとき、いったいなにをがんばれば目標は達成されるのだろうか。積極的に雑務を引き受けて丁寧に実行するとかそういうことだろうか。もしくは資格取得に励むとか。小説や思想書をいくら読んでもひとつの資格も得られない。

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日記210601

 ウェザーニュースライブで、予報センターの山口さんがキャスターから眼鏡の話題を振られて、長年ずっとおなじ型の眼鏡をかけている、と話をしている。その理由について、仮に眼鏡を変えたとして変化に気づいた誰かに指摘されたときに説明するのが面倒だ、そっとしておいてほしい、からだという。じぶんもおなじ理由で髪を切るのが苦手だから、よくわかる話だと思った。じぶんがそっとしておいてほしいと思うから、ひとの外見の変化に対して何かを指摘することはあまりない。というか外見自体に対して、よほど仲が良かったり、もしくは一風変わったTシャツなどのわかりやすく戯画化され(ることで相手の肉体との関係が遠く離れ)たアイテムについてだったりしないかぎりは、何かを言及することは可能なかぎり避けるよう努めている。むろん、他人の外見についてなんらかの印象を抱くことは多分にあるが、それは口にしない。ただ思うことと、口にすることとのあいだには、大きな乖離がある。思ったことをそのまま口にすることしかできない者はたんに愚かだ。この愚か者めと思いながら無言で無表情でただうなずいてその場を耐えるばかりの日々に気力を削られている。山口さんはキャスターの無茶振りをまじめに応えることによってかわしていて、じぶんもそうやってていねいに対応できたらと思うが、あれは番組として公開されてお客さんの目線がつねにあり続ける場だから可能なのかもしれない。ダメな発言にははっきりダメだと無責任に言える立場がなければ、ダメなやつほど大きな声で暴言や差別的発言を繰り返す。そう考えると、仲がよいとは無責任な批判をしあえる関係性のことであるようにも思う。ずっと以前から、他人から批判されたいと思っている。きっと批判されることでしか気づけないことばかり抱えているから。批判を受けて、批判に対して応答して、じぶんの視界と他人の視界を照らし合わせながら、じぶんの立ち位置を把握したり確認したり納得したり修正したりしたい。ひとは己だけではどこにもいけない。じぶんがこうして文を書いて誰でも読める場所においているのも批判可能性を高めるためだ。可能性を高めてなお批判をしてもらえないのは批判するほどの相手でないと思われているからで、特に誰からも相手にされないじぶんは低俗で未熟な愚か者でしかない。
 他人を殴るにも、他人から殴られるにも技術や体力がいる。あらゆる物事の外見にしか言及できないことは技術のなさの現れだ。そしていま自分には技術も体力もない。だからできる範囲で殴り殴られる技術を培う、殴り殴られることが許容される場を見つける。そうやって必死になって日々の雑事をごまかしていく。いま必要なのは隣人にマジレスする文化だ。

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日記210531

 部屋で本を読んでいたら眠くなってきたから寝た。夕方くらいに起きて、本を持って外出する。ダイソーでふせんを買い、ドトールで本を読む。本を持ってカフェに入ると本を読むくらいしかやることがなくなるし、自室と違って周囲も清潔に保たれていてノイズが少ないから読書が捗る。昨晩まではきょうは小説を書き直そうと思っていたが、結局面倒でやっていない。ここのところ労働がない日はいつもそうだ。労働や疲れを言い訳にやると決めたことをやらない。出来栄えがどうであれ、まずはやると決めたことに取り組み、完成させるべきものを完成させることに到達する困難さを乗り越えなければならない。それができない。毎朝早い時間に叩き起こされて、小説を書けと命令されたい。強引にパソコンを持たされ無理やり部屋の外に出されてしばらくカフェに幽閉されたい。能動的に動きたくないならそう動かざるをえない環境を作り込んだ方が早い。そう思いながらある程度書いた文章を読み返したらずいぶんとがたがたしていて、これはさっさと直さないとまずいなと思った。現状のマズさを確認すると、わりとからだを動かしやすい。寝てばかり遊んでばかり文句を言ってばかりではいられない。

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日記210530

 たとえば一見すると気を衒っただけのように見える表現形式をとるならば、あらわれでた表現の実存を支える論理は通常以上に強烈で強固に構築されているべきであり、また、それはうちに秘めたものとして留められるのではなく、結果の近くに横たわっていることが求められるだろう。でなければ、その外見のみにばかり焦点が当てられ、そう現れてしまったことの必然性や、そう現れてしまうことから遡行的に発見される思考には言及されないままに一蹴されて、一瞬の物珍しさだけを灯して消え去ってしまうことにはならないか。ひとつの対象にかけられる労力が同等ならば、均された見た目のものであればすぐに内性の問題に着手可能であるのに対し、見た目の奇抜さに手数が費やされることによってその奇抜さゆえのわかりづらさを解きほぐす段階にまで至りすらしない。とすると、制作者自身の制作ノートや自作解説なのか、批評家や評論家あるいは異なる実作者による読解、検討、批評なのか、観客による思い思いの談話なのか、どのような形態でも構わないがいずれにしてもそこには制作物を中心とした複数の主体の語りの交差が要請される。従来のコンテクストという権威から逃れて自由になった関与者の態度を引き離さない渦として。あるひとつの制作物をひとりの鑑賞者が孤独に嗜むという態度は、制作物を商品=消費物として矮小化する態度に他ならない。制作物を眺めるとき、そこに鑑賞者自身における制作の過程──文化芸術への接触だけが制作ではなく、私たちが生活を営むとき、あらゆる生き方は文化であり、生きることのすべては芸術である。ある生き方を生きるとき、そこには少なからず制作の過程が生じている──が抱え込まれ、制作が制作を呼び起こすことの連鎖が連なることをもって、消費は制作に接続される。何においてもただそれのみがあるということはなく、ただし文化芸術については例外であるということもなく、複数の主体の声を繋ぎ合わせるメディウムとなってこそ、制作物が物であることのひとつの効果が発見されることだろう。よって従来のコンテクストを逸脱しようとするのなら、従来以上に新たなコンテクストの生成や発見に努めることは避けられない。では自由に振る舞うためのしがらみは、いかにして設定可能であろうか。補助線を引き合うための制作物というあり方について。

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