日記

  • 日記210604

     暑いからって水分をがぶがぶ摂るとそのまま筒の内側を伝うみたいにすぐに排出されるから水分を摂れているのかいないのか心配になって内臓のなかはからだの外側なんだってむかし読んだ本やさいきん読んだ本に書かれていたことを思い出してじゃあからだの内側ってどこなんだろうって気になって見たこともない骨と筋肉を思い浮かべてみるけどむずかしいひとのからだの六割くらいは水分でできているっていうけれどその水分はどこに蓄えられているのだろう内側なのか外側なのかそれとも内とか外とかはどうでもよくていずれにしても水分を蓄えて持ち運べて入れ替えられる仕組みになっていることが重要な特性であるのかもしれないとか思いながらまたお茶の入ったベットボトルに口を当てていたのはきのうのこと、きょうは空一面に広がる雲から重そうな水滴が絶えずこぼれ落ちているのを眺めている、轟く風に雨滴は流されている、眠くなってきたから立ち上がって辺りをうろうろしてみる、窓ガラスががたがた揺れている。ペットボトルのお茶ってお茶の香りがする水みたい。ほのかにレモンの風味がするあまくて黄色い水を飲む。レモンを連想させる黄色。黄色いくつをはいているひとが黄色いカーディガンを羽織っていた。雨で冷えた空気に風が吹く。窓際は肌寒い。二階の窓から手を伸ばしてペン回しをして遊んでいたころミスをしてペンをおっことして中庭まで取りに行く同級生を見て笑っていたコンパスの針で机を削って穴をあけてうしろの席のひとと笑っていた笑っていたら教師にやめろと言われて熱心に掘るのはやめたけどあいた穴は元に戻せないしたまに癖で掘ってしまうのも仕方がないじゃないと開き直ってみせる自宅まで歩いて帰る時間にはちょうど雨がやんでいる。

  • 日記210603

     電車で、隣に座るひとが眠っていて、お好み焼きのうえで踊るかつお節みたいにあたまやからだがゆらゆら揺れている。首からうえがぐにゃぐにゃ動く様子は、意識のある状態よりも動きが豊かで、かえって生き生きとしているようでもある。時折、逆隣のひとにぶつかって一瞬だけしゃきっとしながらも、変わらず眠りつづけていた。桜上水に到着したところで目を覚まし、先ほどまでのふらつきが嘘かのように、筋肉の緊張が目に見えて(といっても横目ではあるが)感じられる。スマートフォンを操作している。電車が千歳烏山に着くと、さっと起立して、そのひとは降車していった。どこにも到着せずに走りつづける電車があったら、ずっと眠りつづけていられるのかもしれない。

  • 日記210602

     「社内ニート」で検索したらあまりの共感性の高さに鳥肌が立った。Google検索をすれば「何も入っていないWordやExcelのファイルを開いたり閉じたりする」と書かれた記事が出て、ツイート検索をすれば「以前はパワポの配置を数ピクセルずらす職人をしていました」と出る。じぶんもおなじことをしているから笑った。与えるほど業務がないなら人手が足りていて業務がないと言ってほしいし、能力的に任せられる業務がないのならおまえは使えないから業務を与えないと言ってほしい。前者であれば開き直ってまったく関係ないことを堂々と行えるし、後者であればさっさと解雇してもらうのがたがいにとってベターだろう。妙な配慮が働くことでかえって苦しい思いをする。だったらじぶんから無配慮に業務がないと訴えてみたらどうなのかと言われそうだが、一ヶ月ほどまえに、今年に入ってからすることがなく何をするためにまいにち出勤しているのかよくわからない、と上司に伝えたばかりではある。特に応答はなかった。そんな状況でさいきん、目標管理シートを作成して提出しろと指令が出て、業務がないのに目標なんてあるわけないだろうと思ってまだ作成していない。業務があったところで指示されたことを粛々とこなす以外に目標などない。これがたとえば、文章を書くとか本をつくるとか、じぶんが好きでやろうとすることであれば、わざわざ立てるまでもなくしぜんと目標めいたものは立ち上がってくる。しかし労働に関してはしょせんは他人が立てた理念に沿った、他人が計画したすべきことがあって、そこになんとなく参入した身で他人の指示になんとなく従っているという以上のことはなく、ただでさえそうであるのに業務すら与えられないありさまなのだから、目標とか言われても困惑するだけだ。強いて挙げるなら社内ニートを脱却して労働力としてまともに機能するか、社内ニートを脱却して失業手当をもらって純粋にニートをやるか、そのどちらかくらいしか思いつかない。経験上は社内ニートよりも純粋ニートの方が生活は充実する。あるいは働かずに給料もらえてラッキーくらいに思えるのがいちばんよいのだが、暇に耐える、それもさも忙しいかのような装いをいちおう保ちながら暇に耐えるには、意外にも強い精神力が要求される。忙しすぎても困るが多少は忙しいくらいにからだを動かしていることのほうがよほど楽である。以前の職場でも似たような扱いだったし、どうせまともに労働できない社会的にはゴミ同然の輩でしかないじぶんは、生活保護などを受給しながらひっそりと暮らしていたほうがいいのだろうとはよく思う。社会的に権威のある競争はすでにことごとく避けてきているから、イライラしながら無理してひとと関わることの利点があるわけでもない。じぶんが苛立っているとき、きっと周囲はじぶんに苛立っているのだろうし、ただただ不毛でくだらないだけだ。だれもじぶんに期待などしないが、あいにくじぶんでじぶんを持ち上げることはそこそこ得意なようだから、いまのじぶんを過去のじぶんが敬い、いまのじぶんは未来のじぶんに期待し、未来のじぶんが過去のじぶんを批判するみたいな狭い世界で生きてもそれなりにたのしめる気がする。中途半端に他人の目を内面化してしまうのもみっともないし、振り切れるなら振り切った方がいい。それはそれとして、業務を与えらてもらうことを目標として立てたとき、いったいなにをがんばれば目標は達成されるのだろうか。積極的に雑務を引き受けて丁寧に実行するとかそういうことだろうか。もしくは資格取得に励むとか。小説や思想書をいくら読んでもひとつの資格も得られない。

  • 日記210601

     ウェザーニュースライブで、予報センターの山口さんがキャスターから眼鏡の話題を振られて、長年ずっとおなじ型の眼鏡をかけている、と話をしている。その理由について、仮に眼鏡を変えたとして変化に気づいた誰かに指摘されたときに説明するのが面倒だ、そっとしておいてほしい、からだという。じぶんもおなじ理由で髪を切るのが苦手だから、よくわかる話だと思った。じぶんがそっとしておいてほしいと思うから、ひとの外見の変化に対して何かを指摘することはあまりない。というか外見自体に対して、よほど仲が良かったり、もしくは一風変わったTシャツなどのわかりやすく戯画化され(ることで相手の肉体との関係が遠く離れ)たアイテムについてだったりしないかぎりは、何かを言及することは可能なかぎり避けるよう努めている。むろん、他人の外見についてなんらかの印象を抱くことは多分にあるが、それは口にしない。ただ思うことと、口にすることとのあいだには、大きな乖離がある。思ったことをそのまま口にすることしかできない者はたんに愚かだ。この愚か者めと思いながら無言で無表情でただうなずいてその場を耐えるばかりの日々に気力を削られている。山口さんはキャスターの無茶振りをまじめに応えることによってかわしていて、じぶんもそうやってていねいに対応できたらと思うが、あれは番組として公開されてお客さんの目線がつねにあり続ける場だから可能なのかもしれない。ダメな発言にははっきりダメだと無責任に言える立場がなければ、ダメなやつほど大きな声で暴言や差別的発言を繰り返す。そう考えると、仲がよいとは無責任な批判をしあえる関係性のことであるようにも思う。ずっと以前から、他人から批判されたいと思っている。きっと批判されることでしか気づけないことばかり抱えているから。批判を受けて、批判に対して応答して、じぶんの視界と他人の視界を照らし合わせながら、じぶんの立ち位置を把握したり確認したり納得したり修正したりしたい。ひとは己だけではどこにもいけない。じぶんがこうして文を書いて誰でも読める場所においているのも批判可能性を高めるためだ。可能性を高めてなお批判をしてもらえないのは批判するほどの相手でないと思われているからで、特に誰からも相手にされないじぶんは低俗で未熟な愚か者でしかない。
     他人を殴るにも、他人から殴られるにも技術や体力がいる。あらゆる物事の外見にしか言及できないことは技術のなさの現れだ。そしていま自分には技術も体力もない。だからできる範囲で殴り殴られる技術を培う、殴り殴られることが許容される場を見つける。そうやって必死になって日々の雑事をごまかしていく。いま必要なのは隣人にマジレスする文化だ。

  • 日記210531

     部屋で本を読んでいたら眠くなってきたから寝た。夕方くらいに起きて、本を持って外出する。ダイソーでふせんを買い、ドトールで本を読む。本を持ってカフェに入ると本を読むくらいしかやることがなくなるし、自室と違って周囲も清潔に保たれていてノイズが少ないから読書が捗る。昨晩まではきょうは小説を書き直そうと思っていたが、結局面倒でやっていない。ここのところ労働がない日はいつもそうだ。労働や疲れを言い訳にやると決めたことをやらない。出来栄えがどうであれ、まずはやると決めたことに取り組み、完成させるべきものを完成させることに到達する困難さを乗り越えなければならない。それができない。毎朝早い時間に叩き起こされて、小説を書けと命令されたい。強引にパソコンを持たされ無理やり部屋の外に出されてしばらくカフェに幽閉されたい。能動的に動きたくないならそう動かざるをえない環境を作り込んだ方が早い。そう思いながらある程度書いた文章を読み返したらずいぶんとがたがたしていて、これはさっさと直さないとまずいなと思った。現状のマズさを確認すると、わりとからだを動かしやすい。寝てばかり遊んでばかり文句を言ってばかりではいられない。

  • 日記210530

     たとえば一見すると気を衒っただけのように見える表現形式をとるならば、あらわれでた表現の実存を支える論理は通常以上に強烈で強固に構築されているべきであり、また、それはうちに秘めたものとして留められるのではなく、結果の近くに横たわっていることが求められるだろう。でなければ、その外見のみにばかり焦点が当てられ、そう現れてしまったことの必然性や、そう現れてしまうことから遡行的に発見される思考には言及されないままに一蹴されて、一瞬の物珍しさだけを灯して消え去ってしまうことにはならないか。ひとつの対象にかけられる労力が同等ならば、均された見た目のものであればすぐに内性の問題に着手可能であるのに対し、見た目の奇抜さに手数が費やされることによってその奇抜さゆえのわかりづらさを解きほぐす段階にまで至りすらしない。とすると、制作者自身の制作ノートや自作解説なのか、批評家や評論家あるいは異なる実作者による読解、検討、批評なのか、観客による思い思いの談話なのか、どのような形態でも構わないがいずれにしてもそこには制作物を中心とした複数の主体の語りの交差が要請される。従来のコンテクストという権威から逃れて自由になった関与者の態度を引き離さない渦として。あるひとつの制作物をひとりの鑑賞者が孤独に嗜むという態度は、制作物を商品=消費物として矮小化する態度に他ならない。制作物を眺めるとき、そこに鑑賞者自身における制作の過程──文化芸術への接触だけが制作ではなく、私たちが生活を営むとき、あらゆる生き方は文化であり、生きることのすべては芸術である。ある生き方を生きるとき、そこには少なからず制作の過程が生じている──が抱え込まれ、制作が制作を呼び起こすことの連鎖が連なることをもって、消費は制作に接続される。何においてもただそれのみがあるということはなく、ただし文化芸術については例外であるということもなく、複数の主体の声を繋ぎ合わせるメディウムとなってこそ、制作物が物であることのひとつの効果が発見されることだろう。よって従来のコンテクストを逸脱しようとするのなら、従来以上に新たなコンテクストの生成や発見に努めることは避けられない。では自由に振る舞うためのしがらみは、いかにして設定可能であろうか。補助線を引き合うための制作物というあり方について。

  • 日記210529

     労働の休憩時間に、公園でおにぎりを食べる。右脚に、おおきめの蚊が止まったから、叩きつぶす。風が吹くと涼しいが、風が止むと暑い。公園内のベンチには、食事をする労働者が数名いる。空には薄い雲がかかっていて、陽射しも適度にやわらぎ、暑いわりに心地がよい。五分ほど目をつむる。目を開くと、すこし先で親子が歩いていた。休憩終了の時間に合わせて勤務場所に戻ったが、眠気があって、気持ちが切り替わらない。陽に当たったせいか頭痛を感じ、お茶を飲む。飲みものを追加で買おうと思い、自動販売機の前まで行く。電子マネーが使えず、財布を持ってきていなかったからあきらめる。退勤後に、ファミリーマートでグリーンダカラを買って飲むと、ようやく気分がすっきりした。

  • 日記210528

     昨晩に焼いた鶏胸肉を食パンにのせて食べたらおいしかった。曇っていたからハロが出ているかもと思って太陽に向けて写真を撮ったらうっすらとハロが写っている。電車で前に座っていたひとが降りて、入れ替わりで座ると、両隣の男のひとが大柄だったものだから、じぶんの一.五倍以上はあろうかという二人に挟まれていくらなんでも狭い。せめて脚を閉じてくれないだろうかとも思うが、大きいから脚を閉じるのにも一苦労要するのかもしれない。うとうとしてきたから本とまぶたをとじる。乗換駅間近で目を覚ますと、右隣のひととひざがわずかに触れていて、生温かさが気持ちわるい。暗い空を見上げても雲の形は見えない。冷蔵庫に入ったたまごが残り一個だったことを思い出してスーパーに寄る。いつもは昼頃に見かけることが多い印象の店員がレジの対応をしている。あすもあさっても労働だけど、土日の勤務は電車が空いている分だけ比較的負担が少ない。左肩がだるく、ぐるぐる回したり、指でごりごり押してほぐしたりすると、かえってだるさが増す。福岡ソフトバンクホークスはバレンティンが二本のホームラン。緊急事態宣言のことを、もう政府しか話題にしていない。ウェザーニュースライブではキャスターがあすは肉の日(二十九日)ですねと笑っている。つられて笑う。きょう発売の現代詩手帖はいつ買いに行けるだろうか、近所の書店には置いていないから新宿まで行かないといけない。七月堂では来月に高塚謙太郎『量』を特集としたフェアが組まれるらしい、はじまったら行ってみよう、『量』はまだ二割くらいしか読めていない、読めていない本がたくさんあり、本を買うお金はまったくなく、それでも新たに本を買ってしまってあーあと嘆きながら前に買った本を手にとって横には返却期限のすぎた図書館の本が置かれている、脱力したくて横になったら眠気、眠ってしまうまえに湯に浸かりに。

  • 日記210527

     早起きしようと思ったが眠気がひどく、きょうは労働もないからいいやと思って二度寝をする。ひとを刃物で刺したり刺されそうになって逃げ回ったりする夢を見た。書きかけの小説を進めようと思ってエディタを開くが続きが書けず、参考にならないかと近くにあった小説をぱらぱら読んでいたらまた眠くなってきたから横になったらぐっすり眠ってしまった。目を覚ますと朝から降っていた雨が止んでいたから、切れかけの消耗品を買いに外へ出る。スーパーに寄ったら鶏胸肉が安かった。薄暗い曇り空の下をあちこち歩いて帰宅する。ずっと眠っていたせいもあって一日の終わりを感じるのがはやい。鶏胸肉を弱火で焼くとこんがりといい香り。梅酒を飲みながら小松理虔『新復興論 増補版』を読む。オリジナル版からの第三部までは、抽象的な部分は東浩紀やゲンロンなどの思想や理念に依拠しながら書かれた実践的エッセイという様相だったが、書き下ろしである第四部は小松理虔による論考としての存在感が増していて、しかしその論考はけっして独立して現れているわけではなく、第三部までの記述から読み取れる数々の体験や様々なひとびととの関わりなどを経由したうえで立ち上がっている主張という印象があり、新著ではなく「増補版」として刊行されたことの意味や意義も強く感じられた。生活を営むうえでは、思想家でなくとも思想は必要であり、批評家でなくとも批評性は必要であり、専門家ではないながらにしかし専門家でないからこそのふまじめさをもって人文知に触れながらたのしむように現実をほぐしていくという、一市民としてあって然るべきであるにもかかわらずきっとほとんど共有されていない態度を、いかに整え、いかに保持するのかというひとつの回答が、「増補版」という構造にもあらわれているようにも思う。制作行為の主たる要素を制作の結果ではなく制作の過程に見ようとするのならば、「増補版」のような形式で一度書き上げた本を省みながらそこに追記していくという制作の手法はむろんありうる。商業的にはありえない、というか損にしかならないと思われることでも、制作という営みにおいてはふさわしい場合もある。こうした判断をおろそかにしてはいけないような気がするし、ここがおろそかになってしまうときは労働/消費を中心にしかものを考えられなくなってしまうときなのだろうと思う。そして、そこに批評性はない。ウェザーニュースライブを見続けているせいでろくに本を読んでいないから、一冊の本の最後までたどり着いたのはひさしぶりな気がする。労働に出るくらいの頻度で本を読む習慣や体力があればよいのだが。

  • 日記210526

     朝のウェザーニュースライブでハロが見えると言っていたから出勤の途中で空の写真を撮る。ハロは天気が下り坂の予兆らしい。きょうの夜は皆既月食が見えるとしばらく話題になっていて、ウェザーニュースでも皆既月食特番を組まれていたのだが、十九時半ころに空を見上げたら曇っていて月は見えない。帰宅して特番を見ると、全国的に曇っているらしく、番組は却って異様な盛り上がりが起こっていた。そうめんを食べる。週末に労働がある代わりにあすはない。腑抜けた気分でだらだら過ごす。だらだらしながら食べるピノがおいしい。おなじ週休二日でも、五連勤二連休より三連勤一休二連勤一休のサイクルのほうが負担が少なく楽な気がする。限界まで身体を酷使し続けるより余裕のあるうちに休息を入れる方がよい。労働がなければじぶんがやりたいことをしたいし、むしろそのための気力や体力が必要だ。労働のない日をつぎの労働に向けた休息日にはしたくない。土日だから休みなどと曜日に固執する意義もどこにもなく、もっと柔軟に、個々のからだの状態や意向や志向性に応じて勤務形態を自由につくりこめたらいいのに。でなければ労働に飲み込まれてしまうだけだ。それがわかっていながら工夫も抵抗も一切せずに侵食されるのをおとなしく待ち続けるなんてあまりに馬鹿馬鹿しくはないか。