労働。眠気に耐えながらじっとする。気を失っていつの間にか十数分ほど経過している。これで何度目か。「ナルコレプシー」で検索。症状名を与えられて安心したいという卑しさ。たぶんたんに朝の起きる時間が早すぎるだけだ。じっとするだけの労働に従事していると今後が不安になる。この先もずっとじっとしているだけなのだろうか。だとすれば、もっと穏やかにじっとしていられる環境を探したほうがいい。じっとしていることは嫌ではない。じっとしていればいい状況で出しゃばる輩のほうが嫌いだ。ただこんな場所で、こんな状況で、こんな目的でじっとしていると、ついここではないどこかを夢想してしまう。
日記
日記210611
じぶんの手首を見て、細いな、と思った。手首に沿って指を回すともうひとつ手首が入りそうな隙間ができるが、これはさすがに誇張がすぎるか。でもシャーペンが四、五本は入るかもしれない。視線をずらすと腕の皮膚にできた赤い斑点。毎年暑い時期になると身体中の皮膚が赤くなる。主に首回りや脇や背中、鳩尾周辺、肘の裏を中心に腕全般。皮膚科でも受診をすれば何らかの症状名が与えられるのかもしれないけど一度も診察を受けたことがない。湿疹とか汗疹とかたぶんそんな類いの名前をもらいにいっても損ではないのだろうが、少なくとも中学生のころから赤い斑点(点どころか面と呼ぶほうが適切に思われるくらいその赤みは広範だ)はあらわれていて、そのせいでいままで困ることがあったわけでもないから医者にかかるだけ無駄である気もする。真夏には汗をかいたときに首の後ろや背中に針を刺されたみたいな痛みを感じることもあるが、基本的には皮膚が部分的に赤くなるだけで、皮膚の状態がどうであろうと生活上一切の支障は感じない。たしか兄の身体にも同様の現象が起こっていたはずで、兄は一度、親の手により皮膚科に連行されていた覚えがある。一度行ったきりで定期的な通院はせず、もらった薬も面倒だとほとんど使用していなかったから、特に症状は変わらずいまも同じ状態にあるのだろうと思う。兄とは二〇一八年の四月に会って以来、特に連絡はとっていない。母とは二〇一八年の七月以来会っていない。二〇一八年七月以来、帰省というものをしていない。帰省。生まれ育った地はいつまで帰る場所でいるのだろう。さほど馴染みを感じていなくても、さほど愛着を覚えていなくても、たとえば海産物を食べたいと思ったときに、真っ先に想起するのは男鹿半島だ。もしくは秋田市民市場や道の駅岩城にある活魚センターやかつてそこで食べた岩牡蠣のことだ。知っている固有名がそこに集中していて、他方でそこ以外の固有名に疎く、全国的に有名であっても知らなかったり訪れたことがなかったりするということが、秋田のみに帰巣性が立ち上がり、他の地域には立ちがらないことの働きとなっているのだろう。思い入れの有無にかかわらず、ある地域にある程度の期間住み続けることは、その地に訪れた際の来訪の感触を喪失させる。来訪の地でないことが逆説的に帰る場所として地元を縁どるとするならば、この先もおそらくは生まれ育った地は帰る場所であり続けるように思われる。それがたとえ今後足を踏み入れる機会に恵まれなかったとしてもだ。
日記210610
生のたこを食べたい。出汁に溶いた小麦粉で包んで焼くより刺身で食べたほうがたこはおいしい。おいしそうなたこをおいしそうに食べる動画を観る。軽く茹でたたこをひと口サイズに切って青いねぎと大葉を散らして黒胡椒としょうゆとオリーブオイルをかけて食べている。おいしさは食材に宿ってはおらず、食べるひとが勝手においしいと感じているだけだ。だから調理されたたこの映像を観るよりそれをおいしそうに食べるひとを観るほうがおいしさが伝わってくる。たこを食らった男のひとがうまいと言う。新鮮なたこを食べたい。食べてうまいと言い合いたい。
日記210609
毎度のごとく気づけば言葉を発する機会から遠ざかり、かぎりなく音のみに接近した声ばかりが宙に埋もれる。近くにあった文章を音読する。小説を読む。現代詩を読む。論文を読む。利用規約を読む。文字に居心地をよくした言葉をドアのそとにひきずりだす。頭蓋骨が震える。句読点や改行の挿入が準備するひと呼吸。見慣れない読み慣れない文字をイメージで発音する。血液が脳に循環する。近くの小学校から聞こえるリコーダーの音の群れのした、教師がドレミファソラシドで歌っている。音楽をかけると金属を叩き、弾き、擦り合わせ、押しこんだみたいな硬い音が鳴る。周辺で細かなノイズが散っている。曲が終わるとゴミ収集車が近づいていた。
買ったばかりのコーヒー豆で淹れたコーヒーの甘さに驚いて、午前中に干した洗濯物が昼過ぎにはほとんど乾いていたことにまた驚いた。その一、二時間後に昼寝をする。目を覚ましてドラッグストアへ。あれとこれとそれを手に取ってレジへ向かうくらい簡単にあれとこれとそれを整然とさせつつ貫通させられたらどれだけ楽か。容器包装プラスチック用のごみ袋を買おうと思ったときはいつもほしいサイズが売り切れている。自宅に戻る途中の空の青さに雲が伸びていたからiPhoneのレンズを向ける。カップラーメンにお湯を注ぐ。ペプシコーラの栓を開ける。一発だけ思い切りぶん殴られたみたいな地震。地震くらいしか殴ってくれない。あとは虫。デカイ虫。デカイ虫に驚いて何もできなくなることの麗しさ。耳周りで伸びた髪の毛が不要な気がしたからすきバサミを箱から取り出す。肩周りに髪の毛が溜まる。浴室に髪の毛が散らばる。どこもかしこも散らかっている。あすも暑くなるから水分と塩分をこまめに補給しましょうねと動画の音声。日記210608
あらかじめはたらきかけることをやめよ、/さきぶれを送ることをやめよ、/そのなかにただくるみこまれて/立っていよ──
(パウル・ツェラン/訳・飯吉光夫「あらかじめはたらきかけることをやめよ」)見ること、たえず見つづけること──しかし、この眼が見ているものは、そのすべてがではないとはいえ、しばしば、あるいは鏡──それもおそらくは一枚以上の──に映ったイマージュではないかと思わせることがある。
(宮川淳『鏡・空間・イマージュ』)わたしは手に遠めがねをもつて居ります、/につける製の犬だの羊だの、/あたまのはげた子供たちの歩いてゐる林をみて居ります、/それらがわたくしの瞳を、いくらかかすんでみせる理由です。
(萩原朔太郎「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」)オレンジ色に染まりながら、爪を立てて生きてみたい。けれど、本日はお日柄もよい埋葬日。砂をかける誰もが、埋もれゆく私を愛おしげに見つめている。この視線こそがわたしを殺す。だが一度死せようとも、この身体はむくむくと力を蘇らせるのだ。五感を防ぐほどの砂に息を詰まらせても、屈しはしない。砂から身をもたげるとき、私は生まれかわるのだから。さぁ、この身に砂を)
(文月悠光「戯び」)僕はそれを見つめたまま立っていた。羞恥からのほてりが皮膚の奥の根深いところで、しこりのように固まり、そのまま熱くひそんでいた。僕は顔を半ば隠してしまう広いマスクの上から両頬に掌を押しあててみた。息をつめて彼らを、僕の肩ごしに女子学生は見つめ、それから敏捷に小さい身震いをした。
(大江健三郎「死者の奢り」)「夜になると、なんでもいい匂いがするね」とモンドは言った。
「それはものが見えないからよ」とティ・シンが言った。「ものが見えないときの方が、よく匂うし、よく聞こえるものよ」
(ル・クレジオ/訳・豊崎光一、佐藤領時「モンド」)日記210607
入浴や睡眠の心地よさに騙されるな ごみは溜めずにさっさと捨てられたらいいのに すぐ横にいる燃えないごみもまとめて全部放り込める焼却炉なんてなくても構わず燃やしてしまえばいいのに夜ばかり燃えている 暖かい と差し出した手は大切な遺骨だからさっさと捨てる 数値の背景に花を添える 満足した気でいる耳をひきちぎる 独り言に上塗りする独り言を誰にも聞かせないし誰にも操作させない 食パンを丸めて食べると指先ではちみつがべたつく 血糖値の上昇に腹を立てる 笑い声と賑やかに覆われた罪を直視する 再生するたびごとに許してしまう甘さを許さないと便器に吐く 汚れている 氷点下の汚れを肌に溶かす 皮膚の焦げる痛みに神経を委ねたまま溺れてしまえ
日記210606
横になって本を読んでいたら強烈な眠気を感じて、眠いと思った次の瞬間くらいにはもうたぶん寝てしまっていたのではないか。まだ眠いながらに目を覚まし、もしかしてほんらい寝ようと思っていた時間を過ぎているのではないかと時刻を確認すると二十一時すぎで、深々と眠ったような感覚があったからさほど時計が進んでいなかったことに安堵した。ひょっとして丸一日経ってしまったのではと疑いもしたが、それはさすがにないだろうと日付は確認しない。脳が痺れて縮みこむような感触を抱えながらからだを起こし、シャワーを浴びる。シャワーを終えて、またベッドの上に横になる。二十三時前と、いつもよりはやい就寝時間。就寝というより気絶に近い。一日労働をしていたとはいえべつに重労働でもなく、妙なからだのだるさはどこからきているのだろう。あるいはだるさとは関係なしに眠気が湧き上がっているようでもある。眠れる時間に眠るしか眠気を解消する手段はないが、眠りが許されている時間は思いのほか少ない。
日記210605
朝の五時半に目を覚まして、ちょっと早いなと思って六時まで寝る。カーテンを開けたまま寝ると日の出に合わせて自然と目が覚めてくれる。六時にふたたび目を覚まして、ベッドのうえで横になったまま枕元に積んである本を読む。区切りのいいところで読むのをやめて、また眠る。つぎに目を覚ましたのは八時過ぎだった。パソコンを持って近所のマクドナルドへ行く。途中まで書いて放置していたものを書き進め、なんかいまいちだなと思って読書に切り替える。近代において天皇とは陸海軍を統帥する大元帥、平たく言えば軍人であり、明文化されるより以前に天皇の軍人としての機能が経験的に周知のものとして了解されていたために、大日本国憲法が成立する際には軍隊に関する条項は細かく規定されなかったとのことだ。また、一九一〇年に制定された皇室身位令には第十七条「皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス」とあるが、ここに適合する者は昭和天皇しかおらず、条項通りに十歳から軍に入り、着々と昇進して二十四歳で大佐に、二十五歳で天皇、つまり軍の大元帥となった昭和天皇は、天皇とは軍人であるというテーゼを体現した唯一の皇族であったという。店内には家族連れの客が増え、すこし混雑してきたから、アイスラテを飲み干して店を出る。
山田亮太の新詩集を買いに明大前の七月堂へ行く。店内には珍しく五名もの客がいて、人数制限とかあるのだろうかと様子をうかがいながら入店すると、若い男女二人組は入れ替わるように退店し、客は四名になった。邪魔にならないようにリュックをからだの正面で持つ。古本の詩集の棚から一冊と、詩誌『Aa』の最新号、山田亮太『誕生祭』、山田亮太氏も参加している詩誌『権力の犬』を手に取って、この辺でやめとこうかと思ったときは歳下くらいに見える女のひとがちょうど会計の最中で、その後ろには歳上くらいに見える男のひとが本を持って並んでいたから、また古本の詩集の棚を眺めてレジがあくのを待つ。女のひとは約四〇〇〇円の会計額で、男のひとは領収書をもらっていた。待っている間に一冊増えた本の会計を済ませると、七月堂がフェアとして制作した無料の冊子をいっしょに渡してくれた。直前に会計を終えた男のひとは店内で同伴者と話をしている。店を出ると、右手向こうの曲がり角手前に、男のひとの前に会計をした若いひとが直立してスマートフォンを操作しているのが見えた。詩を読むようになってまだ日が浅いが、詩を読む、特に現代詩を読むひとの数はたぶんそう多くはない。しかし詩集を出版するちいさな会社が、こうして主に詩を扱うちいさな古書店を営んでいるおかげで、そのちいさな店舗ゆえに互いの顔がはっきりと見える距離で詩を好んで読むひとたちの姿を確認できて、また、ああこんなひとがこの詩集を買っているんだなと読者の雰囲気を感じられて、そういう詩を読む上ではまったく不要な体験や情報が文化のためにはじつは重要であるようにも思えて、詩を求めてひとが行き交う場所がこの先も守られてほしいと切に思う。文化はひとよりえらいが、ひとがいなくてはむろん文化は育まれないし生まれすらしない。そもそも文化それ自体がひとびとの交差のあらわれである。交差をもたらす拠点のような場所──かならずしも物理的空間としての場所でなくてもよい──は、あらゆる文化、あらゆる生活を豊かにするうえではきっと無視できないはずだ。
つつじヶ丘の柴崎亭でラーメンを食べる。ツイッターによると、開店前から昼過ぎまで、ウニがのった限定ラーメンが提供されるとのことで大盛況だったらしい。祭りのあとの、しかも昼時をとうに過ぎた中途半端な時間で空いている店内でいつものラーメンを食べる。ラーメン界隈にもひとが集う場所があり、いつものラーメンがいつもおいしいことも、そういう共同性に支えられている面があるのだと思う。日記210604
暑いからって水分をがぶがぶ摂るとそのまま筒の内側を伝うみたいにすぐに排出されるから水分を摂れているのかいないのか心配になって内臓のなかはからだの外側なんだってむかし読んだ本やさいきん読んだ本に書かれていたことを思い出してじゃあからだの内側ってどこなんだろうって気になって見たこともない骨と筋肉を思い浮かべてみるけどむずかしいひとのからだの六割くらいは水分でできているっていうけれどその水分はどこに蓄えられているのだろう内側なのか外側なのかそれとも内とか外とかはどうでもよくていずれにしても水分を蓄えて持ち運べて入れ替えられる仕組みになっていることが重要な特性であるのかもしれないとか思いながらまたお茶の入ったベットボトルに口を当てていたのはきのうのこと、きょうは空一面に広がる雲から重そうな水滴が絶えずこぼれ落ちているのを眺めている、轟く風に雨滴は流されている、眠くなってきたから立ち上がって辺りをうろうろしてみる、窓ガラスががたがた揺れている。ペットボトルのお茶ってお茶の香りがする水みたい。ほのかにレモンの風味がするあまくて黄色い水を飲む。レモンを連想させる黄色。黄色いくつをはいているひとが黄色いカーディガンを羽織っていた。雨で冷えた空気に風が吹く。窓際は肌寒い。二階の窓から手を伸ばしてペン回しをして遊んでいたころミスをしてペンをおっことして中庭まで取りに行く同級生を見て笑っていたコンパスの針で机を削って穴をあけてうしろの席のひとと笑っていた笑っていたら教師にやめろと言われて熱心に掘るのはやめたけどあいた穴は元に戻せないしたまに癖で掘ってしまうのも仕方がないじゃないと開き直ってみせる自宅まで歩いて帰る時間にはちょうど雨がやんでいる。
日記210603
電車で、隣に座るひとが眠っていて、お好み焼きのうえで踊るかつお節みたいにあたまやからだがゆらゆら揺れている。首からうえがぐにゃぐにゃ動く様子は、意識のある状態よりも動きが豊かで、かえって生き生きとしているようでもある。時折、逆隣のひとにぶつかって一瞬だけしゃきっとしながらも、変わらず眠りつづけていた。桜上水に到着したところで目を覚まし、先ほどまでのふらつきが嘘かのように、筋肉の緊張が目に見えて(といっても横目ではあるが)感じられる。スマートフォンを操作している。電車が千歳烏山に着くと、さっと起立して、そのひとは降車していった。どこにも到着せずに走りつづける電車があったら、ずっと眠りつづけていられるのかもしれない。