「社内ニート」で検索したらあまりの共感性の高さに鳥肌が立った。Google検索をすれば「何も入っていないWordやExcelのファイルを開いたり閉じたりする」と書かれた記事が出て、ツイート検索をすれば「以前はパワポの配置を数ピクセルずらす職人をしていました」と出る。じぶんもおなじことをしているから笑った。与えるほど業務がないなら人手が足りていて業務がないと言ってほしいし、能力的に任せられる業務がないのならおまえは使えないから業務を与えないと言ってほしい。前者であれば開き直ってまったく関係ないことを堂々と行えるし、後者であればさっさと解雇してもらうのがたがいにとってベターだろう。妙な配慮が働くことでかえって苦しい思いをする。だったらじぶんから無配慮に業務がないと訴えてみたらどうなのかと言われそうだが、一ヶ月ほどまえに、今年に入ってからすることがなく何をするためにまいにち出勤しているのかよくわからない、と上司に伝えたばかりではある。特に応答はなかった。そんな状況でさいきん、目標管理シートを作成して提出しろと指令が出て、業務がないのに目標なんてあるわけないだろうと思ってまだ作成していない。業務があったところで指示されたことを粛々とこなす以外に目標などない。これがたとえば、文章を書くとか本をつくるとか、じぶんが好きでやろうとすることであれば、わざわざ立てるまでもなくしぜんと目標めいたものは立ち上がってくる。しかし労働に関してはしょせんは他人が立てた理念に沿った、他人が計画したすべきことがあって、そこになんとなく参入した身で他人の指示になんとなく従っているという以上のことはなく、ただでさえそうであるのに業務すら与えられないありさまなのだから、目標とか言われても困惑するだけだ。強いて挙げるなら社内ニートを脱却して労働力としてまともに機能するか、社内ニートを脱却して失業手当をもらって純粋にニートをやるか、そのどちらかくらいしか思いつかない。経験上は社内ニートよりも純粋ニートの方が生活は充実する。あるいは働かずに給料もらえてラッキーくらいに思えるのがいちばんよいのだが、暇に耐える、それもさも忙しいかのような装いをいちおう保ちながら暇に耐えるには、意外にも強い精神力が要求される。忙しすぎても困るが多少は忙しいくらいにからだを動かしていることのほうがよほど楽である。以前の職場でも似たような扱いだったし、どうせまともに労働できない社会的にはゴミ同然の輩でしかないじぶんは、生活保護などを受給しながらひっそりと暮らしていたほうがいいのだろうとはよく思う。社会的に権威のある競争はすでにことごとく避けてきているから、イライラしながら無理してひとと関わることの利点があるわけでもない。じぶんが苛立っているとき、きっと周囲はじぶんに苛立っているのだろうし、ただただ不毛でくだらないだけだ。だれもじぶんに期待などしないが、あいにくじぶんでじぶんを持ち上げることはそこそこ得意なようだから、いまのじぶんを過去のじぶんが敬い、いまのじぶんは未来のじぶんに期待し、未来のじぶんが過去のじぶんを批判するみたいな狭い世界で生きてもそれなりにたのしめる気がする。中途半端に他人の目を内面化してしまうのもみっともないし、振り切れるなら振り切った方がいい。それはそれとして、業務を与えらてもらうことを目標として立てたとき、いったいなにをがんばれば目標は達成されるのだろうか。積極的に雑務を引き受けて丁寧に実行するとかそういうことだろうか。もしくは資格取得に励むとか。小説や思想書をいくら読んでもひとつの資格も得られない。
日記
日記210601
ウェザーニュースライブで、予報センターの山口さんがキャスターから眼鏡の話題を振られて、長年ずっとおなじ型の眼鏡をかけている、と話をしている。その理由について、仮に眼鏡を変えたとして変化に気づいた誰かに指摘されたときに説明するのが面倒だ、そっとしておいてほしい、からだという。じぶんもおなじ理由で髪を切るのが苦手だから、よくわかる話だと思った。じぶんがそっとしておいてほしいと思うから、ひとの外見の変化に対して何かを指摘することはあまりない。というか外見自体に対して、よほど仲が良かったり、もしくは一風変わったTシャツなどのわかりやすく戯画化され(ることで相手の肉体との関係が遠く離れ)たアイテムについてだったりしないかぎりは、何かを言及することは可能なかぎり避けるよう努めている。むろん、他人の外見についてなんらかの印象を抱くことは多分にあるが、それは口にしない。ただ思うことと、口にすることとのあいだには、大きな乖離がある。思ったことをそのまま口にすることしかできない者はたんに愚かだ。この愚か者めと思いながら無言で無表情でただうなずいてその場を耐えるばかりの日々に気力を削られている。山口さんはキャスターの無茶振りをまじめに応えることによってかわしていて、じぶんもそうやってていねいに対応できたらと思うが、あれは番組として公開されてお客さんの目線がつねにあり続ける場だから可能なのかもしれない。ダメな発言にははっきりダメだと無責任に言える立場がなければ、ダメなやつほど大きな声で暴言や差別的発言を繰り返す。そう考えると、仲がよいとは無責任な批判をしあえる関係性のことであるようにも思う。ずっと以前から、他人から批判されたいと思っている。きっと批判されることでしか気づけないことばかり抱えているから。批判を受けて、批判に対して応答して、じぶんの視界と他人の視界を照らし合わせながら、じぶんの立ち位置を把握したり確認したり納得したり修正したりしたい。ひとは己だけではどこにもいけない。じぶんがこうして文を書いて誰でも読める場所においているのも批判可能性を高めるためだ。可能性を高めてなお批判をしてもらえないのは批判するほどの相手でないと思われているからで、特に誰からも相手にされないじぶんは低俗で未熟な愚か者でしかない。
他人を殴るにも、他人から殴られるにも技術や体力がいる。あらゆる物事の外見にしか言及できないことは技術のなさの現れだ。そしていま自分には技術も体力もない。だからできる範囲で殴り殴られる技術を培う、殴り殴られることが許容される場を見つける。そうやって必死になって日々の雑事をごまかしていく。いま必要なのは隣人にマジレスする文化だ。日記210531
部屋で本を読んでいたら眠くなってきたから寝た。夕方くらいに起きて、本を持って外出する。ダイソーでふせんを買い、ドトールで本を読む。本を持ってカフェに入ると本を読むくらいしかやることがなくなるし、自室と違って周囲も清潔に保たれていてノイズが少ないから読書が捗る。昨晩まではきょうは小説を書き直そうと思っていたが、結局面倒でやっていない。ここのところ労働がない日はいつもそうだ。労働や疲れを言い訳にやると決めたことをやらない。出来栄えがどうであれ、まずはやると決めたことに取り組み、完成させるべきものを完成させることに到達する困難さを乗り越えなければならない。それができない。毎朝早い時間に叩き起こされて、小説を書けと命令されたい。強引にパソコンを持たされ無理やり部屋の外に出されてしばらくカフェに幽閉されたい。能動的に動きたくないならそう動かざるをえない環境を作り込んだ方が早い。そう思いながらある程度書いた文章を読み返したらずいぶんとがたがたしていて、これはさっさと直さないとまずいなと思った。現状のマズさを確認すると、わりとからだを動かしやすい。寝てばかり遊んでばかり文句を言ってばかりではいられない。
日記210530
たとえば一見すると気を衒っただけのように見える表現形式をとるならば、あらわれでた表現の実存を支える論理は通常以上に強烈で強固に構築されているべきであり、また、それはうちに秘めたものとして留められるのではなく、結果の近くに横たわっていることが求められるだろう。でなければ、その外見のみにばかり焦点が当てられ、そう現れてしまったことの必然性や、そう現れてしまうことから遡行的に発見される思考には言及されないままに一蹴されて、一瞬の物珍しさだけを灯して消え去ってしまうことにはならないか。ひとつの対象にかけられる労力が同等ならば、均された見た目のものであればすぐに内性の問題に着手可能であるのに対し、見た目の奇抜さに手数が費やされることによってその奇抜さゆえのわかりづらさを解きほぐす段階にまで至りすらしない。とすると、制作者自身の制作ノートや自作解説なのか、批評家や評論家あるいは異なる実作者による読解、検討、批評なのか、観客による思い思いの談話なのか、どのような形態でも構わないがいずれにしてもそこには制作物を中心とした複数の主体の語りの交差が要請される。従来のコンテクストという権威から逃れて自由になった関与者の態度を引き離さない渦として。あるひとつの制作物をひとりの鑑賞者が孤独に嗜むという態度は、制作物を商品=消費物として矮小化する態度に他ならない。制作物を眺めるとき、そこに鑑賞者自身における制作の過程──文化芸術への接触だけが制作ではなく、私たちが生活を営むとき、あらゆる生き方は文化であり、生きることのすべては芸術である。ある生き方を生きるとき、そこには少なからず制作の過程が生じている──が抱え込まれ、制作が制作を呼び起こすことの連鎖が連なることをもって、消費は制作に接続される。何においてもただそれのみがあるということはなく、ただし文化芸術については例外であるということもなく、複数の主体の声を繋ぎ合わせるメディウムとなってこそ、制作物が物であることのひとつの効果が発見されることだろう。よって従来のコンテクストを逸脱しようとするのなら、従来以上に新たなコンテクストの生成や発見に努めることは避けられない。では自由に振る舞うためのしがらみは、いかにして設定可能であろうか。補助線を引き合うための制作物というあり方について。
日記210529
労働の休憩時間に、公園でおにぎりを食べる。右脚に、おおきめの蚊が止まったから、叩きつぶす。風が吹くと涼しいが、風が止むと暑い。公園内のベンチには、食事をする労働者が数名いる。空には薄い雲がかかっていて、陽射しも適度にやわらぎ、暑いわりに心地がよい。五分ほど目をつむる。目を開くと、すこし先で親子が歩いていた。休憩終了の時間に合わせて勤務場所に戻ったが、眠気があって、気持ちが切り替わらない。陽に当たったせいか頭痛を感じ、お茶を飲む。飲みものを追加で買おうと思い、自動販売機の前まで行く。電子マネーが使えず、財布を持ってきていなかったからあきらめる。退勤後に、ファミリーマートでグリーンダカラを買って飲むと、ようやく気分がすっきりした。
日記210528
昨晩に焼いた鶏胸肉を食パンにのせて食べたらおいしかった。曇っていたからハロが出ているかもと思って太陽に向けて写真を撮ったらうっすらとハロが写っている。電車で前に座っていたひとが降りて、入れ替わりで座ると、両隣の男のひとが大柄だったものだから、じぶんの一.五倍以上はあろうかという二人に挟まれていくらなんでも狭い。せめて脚を閉じてくれないだろうかとも思うが、大きいから脚を閉じるのにも一苦労要するのかもしれない。うとうとしてきたから本とまぶたをとじる。乗換駅間近で目を覚ますと、右隣のひととひざがわずかに触れていて、生温かさが気持ちわるい。暗い空を見上げても雲の形は見えない。冷蔵庫に入ったたまごが残り一個だったことを思い出してスーパーに寄る。いつもは昼頃に見かけることが多い印象の店員がレジの対応をしている。あすもあさっても労働だけど、土日の勤務は電車が空いている分だけ比較的負担が少ない。左肩がだるく、ぐるぐる回したり、指でごりごり押してほぐしたりすると、かえってだるさが増す。福岡ソフトバンクホークスはバレンティンが二本のホームラン。緊急事態宣言のことを、もう政府しか話題にしていない。ウェザーニュースライブではキャスターがあすは肉の日(二十九日)ですねと笑っている。つられて笑う。きょう発売の現代詩手帖はいつ買いに行けるだろうか、近所の書店には置いていないから新宿まで行かないといけない。七月堂では来月に高塚謙太郎『量』を特集としたフェアが組まれるらしい、はじまったら行ってみよう、『量』はまだ二割くらいしか読めていない、読めていない本がたくさんあり、本を買うお金はまったくなく、それでも新たに本を買ってしまってあーあと嘆きながら前に買った本を手にとって横には返却期限のすぎた図書館の本が置かれている、脱力したくて横になったら眠気、眠ってしまうまえに湯に浸かりに。
日記210527
早起きしようと思ったが眠気がひどく、きょうは労働もないからいいやと思って二度寝をする。ひとを刃物で刺したり刺されそうになって逃げ回ったりする夢を見た。書きかけの小説を進めようと思ってエディタを開くが続きが書けず、参考にならないかと近くにあった小説をぱらぱら読んでいたらまた眠くなってきたから横になったらぐっすり眠ってしまった。目を覚ますと朝から降っていた雨が止んでいたから、切れかけの消耗品を買いに外へ出る。スーパーに寄ったら鶏胸肉が安かった。薄暗い曇り空の下をあちこち歩いて帰宅する。ずっと眠っていたせいもあって一日の終わりを感じるのがはやい。鶏胸肉を弱火で焼くとこんがりといい香り。梅酒を飲みながら小松理虔『新復興論 増補版』を読む。オリジナル版からの第三部までは、抽象的な部分は東浩紀やゲンロンなどの思想や理念に依拠しながら書かれた実践的エッセイという様相だったが、書き下ろしである第四部は小松理虔による論考としての存在感が増していて、しかしその論考はけっして独立して現れているわけではなく、第三部までの記述から読み取れる数々の体験や様々なひとびととの関わりなどを経由したうえで立ち上がっている主張という印象があり、新著ではなく「増補版」として刊行されたことの意味や意義も強く感じられた。生活を営むうえでは、思想家でなくとも思想は必要であり、批評家でなくとも批評性は必要であり、専門家ではないながらにしかし専門家でないからこそのふまじめさをもって人文知に触れながらたのしむように現実をほぐしていくという、一市民としてあって然るべきであるにもかかわらずきっとほとんど共有されていない態度を、いかに整え、いかに保持するのかというひとつの回答が、「増補版」という構造にもあらわれているようにも思う。制作行為の主たる要素を制作の結果ではなく制作の過程に見ようとするのならば、「増補版」のような形式で一度書き上げた本を省みながらそこに追記していくという制作の手法はむろんありうる。商業的にはありえない、というか損にしかならないと思われることでも、制作という営みにおいてはふさわしい場合もある。こうした判断をおろそかにしてはいけないような気がするし、ここがおろそかになってしまうときは労働/消費を中心にしかものを考えられなくなってしまうときなのだろうと思う。そして、そこに批評性はない。ウェザーニュースライブを見続けているせいでろくに本を読んでいないから、一冊の本の最後までたどり着いたのはひさしぶりな気がする。労働に出るくらいの頻度で本を読む習慣や体力があればよいのだが。
日記210526
朝のウェザーニュースライブでハロが見えると言っていたから出勤の途中で空の写真を撮る。ハロは天気が下り坂の予兆らしい。きょうの夜は皆既月食が見えるとしばらく話題になっていて、ウェザーニュースでも皆既月食特番を組まれていたのだが、十九時半ころに空を見上げたら曇っていて月は見えない。帰宅して特番を見ると、全国的に曇っているらしく、番組は却って異様な盛り上がりが起こっていた。そうめんを食べる。週末に労働がある代わりにあすはない。腑抜けた気分でだらだら過ごす。だらだらしながら食べるピノがおいしい。おなじ週休二日でも、五連勤二連休より三連勤一休二連勤一休のサイクルのほうが負担が少なく楽な気がする。限界まで身体を酷使し続けるより余裕のあるうちに休息を入れる方がよい。労働がなければじぶんがやりたいことをしたいし、むしろそのための気力や体力が必要だ。労働のない日をつぎの労働に向けた休息日にはしたくない。土日だから休みなどと曜日に固執する意義もどこにもなく、もっと柔軟に、個々のからだの状態や意向や志向性に応じて勤務形態を自由につくりこめたらいいのに。でなければ労働に飲み込まれてしまうだけだ。それがわかっていながら工夫も抵抗も一切せずに侵食されるのをおとなしく待ち続けるなんてあまりに馬鹿馬鹿しくはないか。
日記210525
手首から肘にかけての筋がだるい。おとといに腕立て伏せをして、きのうから肩や胸のあたりに筋肉痛があるのだが、きょうの昼頃になってとつぜんあらわれた腕のだるさもそのせいなのだろうか。夜ごはんにそうめんを食べる。納豆とめかぶと卵黄をのせた。帰宅時の電車のなかで意識を失うみたいに眠ったにもかかわらず、横になったら数秒で入眠できそうなほど眠い。眠すぎるから浴槽に湯はためずシャワーだけにした。早く眠りたいから早く日記を終わらせたい。シャワーする前に、『徳島文學 volume 4』収録の佐川恭一「受験王死す」を読んだ。「愛の様式」でも登場した浜崎あゆみ『LOVEppears』がまた出てきて笑った。佐川恭一の小説を読むと思い出すのは、ジャック・デリダのことだ。『弔鐘』でヘーゲル論とジュネ論を同一平面上に並列し、『絵葉書』では断片的な擬似書簡という奇妙な形式で論考が記述される。論理的な読みを退けるかのような七〇年代のデリダの著作における文体の奇怪さは、テクストにどんな効果を働かせているのかと考えたとき、ひとつは、ある形式におけるテクストの表象可能性の限界を解きほぐすことにあるのではないかと思いつくことは容易い。文体は形式=環境に左右される。手紙、メール、チャット、事務文書、詩、小説、その他なんでもよいが、いかなる媒体のうえに記述されるかという前提がそこで記述されるテキストの方向性をある程度定めてしまう。たとえばこのテキストも、日記という形式に依存することで書かれている。「これは日記である」という枠組みがあらかじめ設定されていることで、文章に付随するメタレベルの情報の遮断が行われる。もし小説であれば、作者が書いた文章に登場する作中人物はこの語りをなぜどうしてどんな手段で誰に宛てて書いているのか、あるいはそれらをどうして読めているのかどのように読めてしまうのか、といったことが、つねについてまわる。しかし日記であれば、「筆者がそう思ったのだからそうなのだ」というこれ以上ないくらい素朴な割り切りゆえに、根拠も論理もなく語気の強いアフォリズムなんかも堂々と書き記せてしまう。その形式ゆえに書ける表現や書けない表現があり、一般的な論文では抜け落ちてしまう何かを描出ために、一時期のデリダも異なる論文を並列したり書簡形式を用いたりなどの舞台設定の再考が要請されたのではないかと妄想することは、見当違いかもしれないが文章のあり方としてはそこまでおかしなことではないように思う。そしてデリダはさておき、佐川恭一の小説を読んだときにいつも同様のことを思ってしまう。音楽の歌詞を例とすると、一時期のJPOPの歌詞は空飛びすぎ翼生えすぎなどと揶揄されることは多いが、JPOPの歌詞における文脈において生じた文体として「翼が生える」という表現があり、「翼が生える」ことを真に受けようとしたとき、そこで必要となる表現は論文でも批評でもなくやはりJPOPの歌詞でなければならない。こうしたさまざまな環境における文体、とりわけ文学的な言語からは避けられるような文体を、分け隔てなく小説のなかで取り扱う志向と技術が佐川恭一からは感じられる。「受験王死す」でも、浜崎あゆみや大塚愛の曲の歌詞の引用があり、試験の問題文を模した文もあり、〈仕事では昨年後輩の上司ができ、一年目は僕が先輩ということもあって向こうも気を遣っていたようだが、二年目になった今年、ボコボコにいかれ始めた。〉という(お得意の?)丁寧な語りの終わりに今風の言葉を使用して急速に描写を片付ける一文もあり、ひとつの小説のなかに多様な文体が入り混じっている。他作品に目を向ければ、「ダムヤーク」では常体と敬体とが混合していたし、「コマネチ」ではネタツイート風の文があったし、「童Q正伝」などではアダルトビデオのタイトルが頻出する。「コマネチ」で〈でもそれは自分が相手を殴り倒すイメージばかり持っているからで、実際に一発でも鼻面にブチ込まれたら即ごめんちゃいだろう。〉という一文を読んだときは、「ごめんちゃい」という語が自然と小説に馴染んだ状態であらわれたことに感動した。こうした例から確認できる、小説らしさという抑圧を横目に、現実に存在する文章/文体を模倣/引用して小説に落とし込んでいくその態度は、言語の可能性の拡張にたゆまず挑み続けているようでもあり、言語表現者としてあまりに真摯であるようにすら感じられる。それでいて圧倒的な可読性の高さと読みのリズムの良さ、読みの中毒性も兼ね備えており、こんなに巧みに日本語を扱えるひとはなかなかいないのではないか。そういえば「愛の様式」の感想を整理してちゃんと書きたいなあと思っていたのだが、ウェザーニュースライブに没入してしまってすっかり忘れていた。どこかで読んだり調べたり書いたりする時間を設けられるだろうか。それはさておき、この日記の締めが一向に思いつかず当てもなく書き進めてしまっているが、はやく眠りたいからもうこのまま終わる。文が荒れている気がするが眠いから推敲もしない。明日の朝にも持ち込まない。眠いし、面倒だから。面倒だけどおもしろいから一丁気合い入れてやるか、みたいな意気込みで臨める目標やそれに取り組むだけの時間がほしい。
日記210524
まいにち出勤するがろくに業務を与えられていないからいつも調べものをしている装いで業務に関係あるのかないのか微妙なサイトを適当に閲覧しながら時間を潰している。普段はこんなことやってておもしろいんですよとかなんとか、もっとひとに言いたくなるようなことをしたい気持ちもありながら、たかが労働にそこまで求めても仕方がない。ここに書き溜めている日記を読めば、いかに労働のさなかに関する記述がないかは明らかで、一方では意識的に書いていない面もあるのだが、他方では書きたいと思わないどころか書き残したくないとすら思ってしまうほど労働中は目に見えるすべてに対してどうでもいいと思いながら過ごしている。しかし雇用されている以上は雇用主に時間や身体の所有権を委ねていることにほぼ近いのだから、他人に身を預けている時間を関係のないものとして取り扱うことはさほど不自然なことでもないように思う。預けている以上はそれなりに活用してほしいのだが、べつにぼうっとしているだけでいいのなら遠慮なくぼうっとさせてもらうだけだ。やってみたい業務とか、就きたい職とか、真面目に考えたことがない。ビデオスイッチャーを触ってみたいけど個人では買う予算も使う機会もないから、映像に関わる業務の求人がどこかで出ていないだろうかとここのところは思いつきのように考えているが、それも思っただけで終わる。要するに本気っぽさがない。
夜ごはんにそうめんを食べようと思ったがめんつゆが切れていたからやめた。代わりに餃子を焼く。焼いた餃子にチーズをかけて炙る。横にキムチを添える。餃子とチーズも餃子とキムチもどちらも合うし、チーズとキムチも発酵食品同士でたぶんそこそこ仲は良い。食べてみたら、目論みどおりにおいしかった。インスタグラムを開くとパグが表示されてかわいい。この頃は詩集も読んでないなあと思って手近にあった本をめくる。本は読まずとも増えていく。このまま読書をする習慣が消えたら積み上がったこの山はいったいどうなるのだろう。文を読めるときと読めないときの状態の差が激しく、読めない状態のほうが長くつづく。こういうときは無理やりにでも一日で一冊を読み切ると多少心持ちが変わったりもする。変わらないときもある。本なんか読まずとも生活をつづけられてしまうことや生きていられてしまうことはとても残酷だと思う。