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カテゴリー: 日記

日記210429

 ウェザーニュースLiVEの切り抜き動画を観る。以前から、ウェザーニュース、とりわけキャスターの檜山沙耶さんという方がなにやらおもしろいとは耳にしていたのだが、動画はちゃんと観たことがなかった。切り抜き動画を一通り見たのち、ライブ配信も見る。ひとつひとつを取り出せばべつにおもしろくもない(そもそもは天気情報番組だ)のだが、キャスター、スタッフ、視聴者の関係性のなかでそれが行われることでみごとにコンテンツとして成立している。たとえば視聴者の番組参加手段が複数用意されていることは特徴のひとつだ。YouTubeライブのチャット、ニコニコ動画のコメント、アンケートへの投票、ウェザーニュースアプリでの空の写真の投稿、ウェザーニュースLiVE公式ツイッターアカウントへのリプライ──さまざまな形で集められた視聴者の声は、またさまざまな形で番組内で紹介される。キャスターはつねにコメントを見て、それを頻繁に拾っては読み上げるし、ツイッターへのリプライは読み上げるだけでなくツイート画面ごと映像にのる。全国の天気情報としてユーザーのお天気写真を活用する時間もあれば、コメント民とただ雑談をする時間もある(まじめに報道するときと雑談するときとのキャスターの態度の切り替えにはたいへん感心する)。こうした双方向性が担保されたうえで、各キャスターのキャラクターがおもしろがられていることがよくわかる。また、YouTubeライブのチャット欄では、コメント民同士であいさつを交わすことがお決まりとなっているようで、ユーザー間のやりとりからもたのしみが見出されている。これらの側面を見て、ウェザーニュースLiVEという番組を軸にSNS的な空間ができあがっているように感じられ、驚きを覚えた。そして、ウェザーニュースLiVEが毎日、かつ一日中配信されていることが、ウェザーニュース界隈におけるSNS的空間の構築に大きく貢献していると見ていいだろう。いつ開いても何かが行われていて、誰かがいるという状態は、複数の他者とリアルタイムに同期するための条件だ。
 番組側もこうした状況を受け入れていることは、番組のつくりを見ても察せられる。また、切り抜き動画などの動画の二次利用に関しても、今年の四月二十二日にガイドライン(収益化の禁止など)を発表し、公式に容認がされている。ガイドラインの前段には、視聴者が増加している現状に対し「参加者の皆様が、当番組やそれに関連するSNS等の映像や写真(中略)の二次配信によって世界中に拡散されている力も大変大きいと考えています」とも記されていて、切り抜き動画による炎上騒動が後を絶たない昨今においてはめずらしい態度であるように思った。
 しかし他方で、仮にこの調子でスケールが大きくなったとして、いまの番組のゆるさやゆるいコメント民のやりとりが担保されるかは甚だ疑問ではある。いまでは笑いとして扱われているキャスター煽りコメントも、度が過ぎた場合には誹謗中傷になりかねない。そもそもがキャスターが全員女性、気象解説員が全員男性という性別分業や、キャスターという存在自体がルッキズムや女性蔑視などの問題を象徴する立場でもあり、この側面から見た場合にはその構造にはかなりの危うさがある。いまは穏やかなコミュニティでも、視聴者のバランスが乱れた場合にひどくアンコントローラブルな状態に陥ってしまうことは、双方向性を売りにしたコンテンツにおいて発生した事件の前例をいくつか思い浮かべるだけで容易に想像できる。ユーザーが増える、規模が大きくなる、とは場の秩序が崩壊する可能性が高まることでもある。しかしまあ、外部からの勝手な心配はただの余計なお世話であり、これ自体がノイズでしかない。

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日記210428

 日本酒について書かれた本をつまみ読みする。じぶんが秋田県出身であることをひとに伝えると、じゃあ酒に強いんだ、と決まって言われる。「じゃあ」の根拠がいまいちわからずいつも適当に話を流していたが、酒の話を振られる機会が多いことは事実なのだから、地元の酒について少しくらい知っておくか、とは以前から思っていた。吉田元『近代日本の酒づくり 美酒探求の技術史』によれば、秋田はもとは酒造後進県だったという。東北日本海側の高級酒といえば羽前大山(現・山形県鶴岡市)の大山酒であり、そもそもある時期まで東北地方の酒造は全体的に米の質も悪く、精白も未熟で、いい酒をつくるためにはかなりの改良を要したらしい。大正七年に仙台税務監督局鑑定部(酒造業者の指導を行う部署のようだ)に花岡正庸というラディカルな酒造技術者が配属され、花岡の過激な酒造改良論には多くの反発が集まったが、なぜか秋田県の酒造とは気が合った。大正十一年に設立された秋田銘醸株式会社の顧問を務めるほどに秋田酒の指導に熱心だった花岡の功績もあり、酒の品質は向上し、着実に品評会でも入賞するようになったとのことだ。生きていく上であきらかに不要だし、さほど関心もない知識だが、こうしてどうでもいいと思えるような情報を見聞きする時間があることは必要であるように思う。たとえば政治などの長期的で広い視座を持って考えなければいけないようなことも、いまを生きることだけに集中していたらどうでもいいことであり、多忙ゆえにいましか見えなくなってしまっていたら、それはやはり浅薄で短絡的な判断に陥ってしまうだろう。それどころか真面目に身構えるまでもなく、詩や小説を読むことだって、これ以上ないくらいにどうでもいい営みだ。どうでもいいことについて知ったり考えたり話したりできる時間を大事にしたい。
 夜ごはんでもつくろうかという時間に、急な眠気に襲われて、少しだけと思いながら横になった。目を覚ましたら二時間以上も眠っていたようで、こうして変な時間に眠りこけてしまうのもひさしぶりだなと思う。食事をしないまま、日記を書き始める。今日は外出をしなかったから、明日は出かけられるといい。

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日記210427

 郷土愛を仮構しようという意欲があるこの頃だから、図書館で秋田県にまつわる本を適当に三冊借りた。ぱらぱらとめくってみると、一冊はあきらかに意図から外れた内容だった。タイトルだけで判断するのはよくない。ドトールへ行き、借りた本を読む。『種蒔く人』というプロレタリア文学の先駆的雑誌が、秋田を拠点に刊行されていたことを知る。プロレタリア文学を代表する作家である小林多喜二が秋田県出身であることは知っていたが、田舎にありがちな、たんにそのひとの出身地であるだけである著名人を祭り上げる空虚な地域運動としか思っていなかった。秋田で暮らしていた当時は文学にも歴史にも地域にも一切の関心がなかったから、じぶんが無知だったと言えばそれまでではあるが、無知や無関心なままでいれば地域について知ることなく過ごしつづけられてしまうのだから、やはり愛は無理やり立ち上げるよりほかない。それはどこか、同郷であるだけで著名人を応援する態度にも近いように思う。ただし、無理やりに愛があることにしようとするならば、それなりの理由や論理を後付けしていく必要があるだろう。でなければ空虚な愛が空虚なままで消え去ってしまうし、いつまで経っても文化は培われない。

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日記210426

 あすから緊急事態宣言が明けるまで休業です、と伝えられて、じゃあ小説を書こうと思った。小説を書いたことがないから書けるかわからないし、どんな要素を満たせば小説になるのかもわからない。でもそれは日記に対しても同じことで、まいにち書いている文章をとりあえず日記と呼んでいるだけで、これが日記なのかどうか、そもそもここに書き溜められた文章はいったい何なのか、よくわかっていない。ただ、日記の自由さと同等に、ソレルス『ドラマ』とか吉村萬壱『クチュクチュバーン』とか──まあタイトルは何でもいいのだが──を思い返せば小説としてカテゴライズ可能な文章の幅の広さがわかる。小説の懐の深さに甘えれば、ここに書き溜められた日記だって小説と呼ぶことができるのかもしれない。こうした文章の可能性をこそ小説とするならば、じぶんは小説を書きたいのではなく、文章はいかなる姿を現すことが可能なのか、ある程度時間や熱量をかけてみずから探求してみたいというその欲望を、小説という語に託しているとも言える。物書きでもなければ文学などを学んだわけでもないじぶんが、何を偉そうに、とは思うが、偉くないからこそごく自然に言葉を扱えている(少なくとも、扱えていると錯覚している)ことの不思議さに囚われてしまう。せっかく三週間ほど労働せずに済むのだから、生活するうえではまったく役に立たない不思議さと向き合う時間としてはちょうどいいだろう。

 昨日つくった肉じゃがの残りを夜に食べる。食べ終えて、台所まで食器を持っていくと、シンクからあふれるほど蓄えられた洗い物が目についたから、面倒を押し避けてスポンジを手に取る。しばらく食費も抑えなければいけないかなと思いながら、そんなことはどうでもいいような気もする。買い溜めてばかりの本が机上に積み上がってもいるし、読んだり書いたりしながら、適当に過ごせればいい。食器が片付いた台所を見て、広くなったと一瞬思うが、どう見ても十分に狭い。

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日記210425

 昨日に買った味どうらくを使って肉じゃがをつくろうと思い、スーパーで豚こま、じゃがいも、たまねぎ、にんじんを買う。普段はろくに料理などせず、むろん肉じゃがもつくったことなんてないからレシピを調べてみると、味どうらくの公式サイトに肉じゃがのつくりかたが載っていたから、そこに書かれた指示通りにつくる。
1.材料を食べやすい大きさに切り、サッと水にさらします。
──水にさらす時間がわからなかったから、べつで調べた。
2.サラダ油を熱した鍋で玉ねぎを炒めて、全体に油が回ったら鍋の端に寄せ、肉を炒めます。
──鍋が小さく、肉を炒めるのに難儀した。
3.肉の表面に色が付いたら、溶かした※調味料を入れ、肉がチョット赤い部分を残す程度まで炒め煮ます。
──なぜ「ちょっと」がカタカナ表記なのだろう。
4.じゃがいも・にんじん・糸コンを入れ、全体に調味料を絡めます。
──こんにゃくはさほど好きでもないから糸こんは入れなかった。
5.じゃがいもの周りに火が通り、少しだけ透明になったら水を入れて、強火で一気に煮ます。
──鍋が小さく、具材をあたためるのに苦労した。「少しだけ透明」の意味がわからなかったが、やってみたらほんとうにじゃがいもの周りが少しだけ透明になった。
6.グツグツいってきたら、キッチンペーパーで落としぶたをしてアク取りし、蓋をして弱火で十五~二〇分煮込みます。
──キッチンペーパーを鍋からはみ出させていたせいで、吸い込んだ汁が角から滴っていた。
7.(十五~二〇分経ったら)じゃがいもに串を刺し、スーッと通ったら火を止め冷まして味を染み込ませます。
──串がないから箸を刺したらじゃがいもが崩れた。
8.食べる前に温めて召し上がれ!
──冷まさずに食べた。
 はじめて自宅で肉じゃがをつくり、久しぶりに肉じゃがを食べた。レシピをなぞってつくればちゃんとおいしくできあがり、手間はかかるがたまにであれば面倒も気にはならない。煮込んでいる時間は本でも読んでいればいい。またやってみるのも悪くない。残った分をタッパーに入れる。
 
(レシピ部分は「ほっこり肉じゃが – 東北醤油株式会社」(http://www.touhoku-syouyu.co.jp/recipe/detail.php?recipe_id=55)からの引用)

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日記210424

 啓文堂書店府中本店でSFマガジンの最新号と川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』を買う。ドトールへ行き、SFマガジンに掲載された鈴木一平+山本浩貴「無断と土」を読む。退店し、目的もなく駅前の商業施設を歩いていると、「秋田・九州物産展&マルシェ」が催されているのを見つける。「味どうらくの里」という、秋田県大仙市に本社をおく東北醤油株式会社から発売されている、秋田県ではたいへんポピュラーなめんつゆが売られていて、懐かしいなと思いながら買う。秋田の物産展と九州の物産展とでは会計の場所が異なっていて、フロアの隅寄りにレジを構える九州側の販売員は、暇そうにスマートフォンを触っていた。四角に並べた商品陳列用の机の内側でしゃがむ販売員の後方から画面がちらっと見えたとき、ツイッターの画面が表示されているように見えた。アカウントの特定ができないだろうかと思い、意識的に画面を覗き込もうとするが、よく見えなかったからすぐにやめる。電車に乗って新宿に向かい、紀伊國屋書店へ行く。詩の棚を見ると山田亮太『オバマ・グーグル』が置かれていたので手に取る。レーモン・クノー『文体練習』と福沢将樹『ナラトロジーの言語学』を併せて、三冊を買う。今月は本を買いすぎている。無計画な買いもののツケがどこかで回ってくるはずで、未来におそろしさを感じてしまうが、自分自身や世の中に対するどうでもよさが勝ち、すぐに気持ちを切り替える。府中に戻って、スーパーで里芋を買って帰宅する。買ったばかりの味どうらくを使って煮っ転がしをつくってみたがうまくいかなかった。煮っ転がしを食べながら友人と通話をしていたら、いつのまにか朝の四時になっていて、菅義偉のインスタグラムのアカウントを一通り見て笑ったのち、おやすみなさいと言って通話を切断する。

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日記210423

 労働の昼休憩中、この舞台設定だったら小説らしきものが書けるかも、と思いついたことがあり、ささっと二〇〇字程度書き出してみる。思いついただけのことは信用ならない。今週はずっと日記を書くことに負担を感じていて、だけど思いつきを書き出してみたくなる程度には書くこと自体に抵抗は感じてはなく、だからたんに疲れているだけなのだろう。疲れているときには疲れているときに書ける文体があって、ひとつの流れに沿った散文が書けなくとも、たとえば見えたことを羅列するとか、出来事を箇条書きするとか、詩の形式を模倣するとか、その時々の状態における自然な文の形を見つけて書きつづけられればいい。文筆家であれば、日々の状態に応じて文体が変わってしまうようでは仕事にならないだろうが、一個人の日記なのだから、日によって書かれる内容も書かれ方も変容してぐちゃぐちゃしてるということは何もマイナスにはならない。ただ、日記を書きつづけられたところで疲れていることには変わりはなく、世間様を見てもみんな疲れて理性や判断が鈍ってしまっているのではないかと思うようなことだらけで、そんな様子がどうしても視界に入ることが余計に疲れる。繰り返しては持続する日常のはてしなさから生じる目眩への対処もおぼつかないのに、持続する日常自体もおかしくなっているようで、無視できない大きめのなにかが取り返しのつかない終わりを迎えてくれないだろうかと、こういうときはつい漠然とした終末を願ってしまう。
 帰路に着く。道中で、市の職員と思しき、不要不急の外出自粛を訴える夜回り隊を見かける。帰宅する。ぼうっとしながらネットを見る。書店にも休業要請が出されるらしい。気力の尽きた状態で二時間ほどネットを眺めたのち、ようやく立ち上がって夜ごはんをつくる。辛ラーメン。具材に入れた魚肉ソーセージがおいしい。眠る。友人らしきひとたちと旅行に行く夢を見る。夢のなかでアミューズメント風の大浴場に入る。大勢のひとたちがあちこちでおしゃべりをしてたのしんでいる。じぶんも同伴者と話をしながら湯を浴びたり広い施設をうろうろ歩いたりする。湯から上がり、服を着る。館内で知人を探すが、見つからない。目を覚ます。ベットで横になりながら前日の日記を書く。やはりどうも気が重く、日中は外に出かけられたらいいなと思う。

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日記210422

 朝、電車はそこそこ混んでいたけど目の前に座っていたひとが調布で降りたから、笹塚で乗り換えるまで座ることができた。右斜め前に、ロリータファッションに身を包んだひとがいて、衣類で武装できるのはいいかもなと思った。なにがいいのかはわからないけど、なんとなく、いいような気がする。電車に乗る前の、駅に向かう途中でも、赤と黒のストライプが入ったパンツに黒いシャツを着て、彩度が強めの色が何色かべったり塗られたトートバッグを持ち、足元では下駄を模したサンダルを履いた、独特な志向性を感じる服装のひとが歩いていて、同じようにいいなと思った。私はいつもよれよれのスーツを着て勤務をしている。べつに汚れるわけでもないからワイシャツだけ変えればいいやと、週に三、四日は同じジャケットを羽織っている。武装する気のなさによって、労働に対する意欲のなさや世の中に対する期待の低さを示している。逃げて、あきらめるのではなく、規律の内面化を迫る社会に対して、武装しつづけられるひとのバイタリティに励まされたい。
 夕方頃に京王線で人身事故があったらしく、勤務を終えて帰路に着く時間帯もまだ電車が遅延しているようだった。ホームにはいつもより多くのひとが並んでいて、電車が到着し、順番に乗り込んで、みんなでからだを圧迫しあう。うしろにいたひとが、隙間からするっと腕を伸ばして手すりのつかまるようすが、背中を通じて伝わってきて、そんなところから! と思わず驚いた。車内いっぱいにひとが詰まっていたけど、新宿三丁目でぞろぞろと降り、新宿でまたぞろぞろと降り、目の前の座席が空いて、座ることができた。前に立ったひとが持つトートバッグに「BOOKS & COFFEE」とおおきく書かれていて、よく見ると手紙社というお店のグッズであることがわかる。見覚えのある名前だと思って調べてみたら、Googleマップにはすでに「行ってみたい」の旗を立てられていた。でも一度も訪れたことはない。疲れを感じているわりには寝落ちせず、だけどこころなしか頭痛がする。水分が足りていないのかもと思って、セブンイレブンに寄ってルイボスティーを買う。きょうはすこし暑かったから。

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日記210421

 かつてよく聴いていたがここしばらく特別聴いていなかった音楽がとつぜん頭のなかで流れるということがたまにある。それはその瞬間に目にしたり耳にしたりした情報からの連想で想起されることもあれば、まったく何の脈絡もないような状況でふと想起されることもある。音楽にかぎらず、記憶というものはそうした性質をもつものだが、きょう、労働中にとつぜんある音楽を思い出して、そんなことを思った。
 きのうに見た石田英敬、三宅陽一郎、東浩紀の対談イベントで、「身体の記憶」が話題に上がる場面があった。たとえば、私たちが歩くとき、無意識下でなんらかの計算を行なっているはずである。歩く行為の経験の蓄積=記憶が、歩こうとするときに演算されて現れることによって、現に歩くことができる。身体に染み付いた、あるいは経験的に獲得したと呼びうる行為も、身体体験の演算の現出であり、言うなれば無意識下において都度考えながら行動をしている。これはつまり、意識まで上がってこない記憶の想起が、身体において持続的に行われているともいえる。それがたまたまある記号と結びついたときに、ようやく具体的にイメージ可能な記憶として取り出され、思い出したものとして意識する。あらゆる刺激を受けつづけ、あらゆる刺激を蓄積する私たちは、意識せずともつねに予感としての想起に囲まれている。
 こうした考えに基づくと、ある音楽をその瞬間と脈絡なく想起することは、一見脈絡がないようでありながらも、身体感覚のレベルでその音楽を聴いていた当時の体験との類似性や近接性を察知し、ある具体的な記号に紐づく手前の、音楽(という聴覚=身体に刺激を与える媒体)として記憶が顕現している、と捉えることができそうだ。むろん、何かを考える、何かを認識するとは言葉だけで行われていることではない。にもかかわらず、ひとは言葉で考え、言葉で意識しないことには具体的にイメージすることができない。この身体と言葉の中間に位置するものとして、たとえば絵=視覚イメージや音楽=聴覚イメージがある。とするならば、絵画や音楽という形で記憶が現れるということもまた、具体的な記憶の想起のあり方として位置付けられるように思う。
 ちなみに、きょう思い出した音楽というのは、GARNETCROWという音楽グループでギターを弾いていた岡本仁志というひとの一枚目のアルバムに収録されている「Res-no」という曲だった。たまに聴いている(年に一回くらい?)アルバムではあるから、長らくまったく縁がなかった曲だということもないのだが、それにしても急に思い出したことが不思議だった。図らずもこの曲の歌詞には「どれくらい出会えた人達/覚えているのだろう」「落ちていく太陽に/言葉失いながら/感じてた儚さと/流れゆくもの/此処に留まるもの きっと/他愛もないことで」など、記憶にまつわるフレーズがある。上記のような原理を適用するとすれば、落ちていく太陽に言葉を失いながら儚さを感じる、という記述はいくらか誤っている。まず主体の身体に儚さを抱えうる経験の蓄積があり、落ちる太陽がその経験を演算した結果として儚さが顕現する。太陽から受け取った刺激は儚さという感覚のみを呼び起こし、記号化される以前の領域に留まる。したがって、言葉を「失っている」とはあとから振り返ったときに喩えとしてのみ言えることであり、その最中に行われている状態としては、予感としての身体の記憶だけが現れていて、記号として連想するには至っていない、とするのが適切だろう。失うどころか言葉に到達すらしていないということだ。そう解釈するのであれば、かつて出会えたひとたちのことも、そのひとの具体的な名前や顔、言動として記憶が呼び起こされないとしても、身体感覚やその予感として記憶しているということも、同時に想定できるかもしれない。

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日記210420

 嵐が来たら漁師は漁へ出るのをやめるだろうが、都会で働くひとたちはたとえ台風が来て電車が止まってもどうにか勤務先へ出向こうとする。前者は自然の脅威を前に日常の営みを休止せざるをえない状態であり、後者は自然の脅威にも怯むことなく多少のトラブルこそあれど日常を営みつづけることができる状態であるが、この場合、どちらが自然と共生しているといえるだろうか。不都合な事象を文明で乗り越えて、人間が抱える都合や欲望を満たしつづける人間中心主義的な世の中が、多様性を排除した息苦しいものになってしまっているのだとしたら、人間の意思や欲望とは異なる論理で動く生命(のようなものも含めて)が住環境に介入できるよう社会を開こうとすることは、人間の営みの風通しをよくするためのひとつの手ではないかとかつて考えたことがある。
 たとえば、猫。犬は従順、猫は気まぐれとはよくいうが、その実態はともかくとして、そうした他種別の生物を飼う者は生物の気ままさに自身の生活を振り回される。ヒトと他種別の生物とでは温度感などの快適に感じる環境は異なるだろう。また、じぶん以外の、それも自立していない命を身の周りにおくのだから、飼い主にはエサを与える責務がある。よって、エサを与える時間帯には猫の近くにいなければならない。つまり、猫の習慣に飼い主は時間や環境を合わせる必要があり、そこでは飼い主自身に帯びる社会的な事情は後回しとなる。いまどきは一定の時間になると自動でエサを供給するアイテムなどもあるようだが、その利便性は自己都合を高める要因になる。
 たとえば、エイリアン。もし地球外知性体が地球に到来したとすれば、おそらく人類は、人類とは何か、と自己批判せずにはいられないだろう。地球人と同等、あるいはそれ以上の知能をもつ生命体(と地球人が呼びうる何か)は、きっと地球人とは異なる論理によって生態系を育み、みずからの振る舞いを決定し、他の個体とのコミュニケーションを図るだろう。それは人類が自明としていた文化、理念、言動などを相対化し、その自明性を脅かし、問いを与えるに違いない。そもそもその地球外生命体が、論理や生態系や個体やコミュニケーションなどといった理念、理念という語が示そうとするものも含めて、それらに合致する何かを有しているのかも不明であるし、確かめようもない。ただそうした未知の生命体の導入によって、私たち自身を見つめなおすことを促す物語が複数あることは言うまでもない。私たちが私たちとは何かを考えるための手っ取り早い手段は、私たち以外の並列可能な対象を設定することだ。
 人間が育んだ現代社会には、人間と並列可能な対象があまりに少ない。言い方をかえれば、人間以外の生命体が育む生態系が入り込む余地があまりに少ない。街を歩けば動物はいる。ハトやカラスは飛んでいる。スーパーに行けば食肉が売られている。犬を連れる散歩者が歩いている。しかし、ハトやカラスは街ぐるみの駆除の対象となり、食肉となる以前の牛や豚は家畜として人工的に管理され、飼育される犬や猫もペットとして飼い主の支配下におかれる。上記の通りペットを支配することは、他方でペットに支配されることでもあるが、少なくとも、ペットとして扱われる動物は独自の社会を築いていない。むろん、あしたエイリアンが訪れるなんてこともない。人間中心社会はどこまでも人間中心だ。その独我的共同体へ介入可能な数少ない希望として、たとえば人工知能があるとしたら。
 シラスで配信されていた石田英敬、三宅陽一郎、東浩紀の対談イベントで、人間とまったく異なるロジックで動きながら(縦の主従関係ではなく)横のつながりをもつ人工生命の生態系への憧れについて熱く語る三宅氏を見て、そんなことを思った。クマノミとイソギンチャクが、各々が勝手に生存した結果、自然と共生しているみたいな他/多生物間の関係が、人間が築く社会にもあるといいなとたびたび思う。

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