日記

  • 日記210515

     ニコ生でコメントを書き込みながらウェザーニュースライブを見ていたら、はじめてキャスターにコメントを拾ってもらえた。ニコ生お馴染みの、映像の上をコメントが右から左に流れる構造が好きだ。画面上で、スタジオといち視聴者が、わずか数秒だけ同期する。コメントは数秒で過ぎ去っていくが、複数の視聴者による適当な書き込みは、時に塊のようになる。番組には大枠の台本がありつつ、フリートークの時間帯には、キャスターは波のように動くコメントの群れを読み、それもひとつひとつのコメントを丁寧に読むのではなく、コメントの群れの空気を読むように読み、トークの流れが決まっていく。コメントは時に拾われ、大方は無視され、しかしコメント民のなんとなくのノリがスタジオに影響を与えたり与えなかったりする。ニコ生における出演者とコメント民の関係性は、たとえばYouTube Liveのような映像とコメント欄が別の次元に独立して位置している、ごく一般的なそれとはやはり異なるように思う。出演者と視聴者の群れが一緒くたにされた異様な映像を、離れた場所にいる両者が一緒に見ることによって同期した状態。この異質な視聴環境がコンテンツの双方向性を強化する。特殊なコンテンツ=生態系は特殊なプラットフォーム=環境から生まれるのだと思う。しかしかつてに比べればニコ生もすっかり衰退して、この独特な環境も、どこにも引き継がれることなく近い将来に消えていくのかもしれない。ニコ生、あるいはニコ動の異質さは、じぶんにとって「インターネットっぽさ」の象徴であるのだが、それももう古い人間の考えだ。

  • 日記210514

     帰宅中に寄ったスーパーで、しめさばとタカラ焼酎ハイボールのドライを購入する。帰宅してすぐにしめさばを開封し、バーナーで炙る。ちょうどよい焼き加減がわからなかったから、皮のまんなかあたりが焦げるくらいで炙るのをやめた。炙りしめさばを食べながら、ハイボールを飲む。鯖の油分で酒がすすむ。また近々しめさばを買ってこようと、食べ終わるまえから思う。つぎはもうすこし強めに炙ってもいいかもしれない。食後に、友人と通話をし、ウェザーニュースライブのおもしろさを伝える。昨晩も、べつの友人にウェザーニュースライブの話をした。ここ一週間の日記にはまいにちウェザーニュースライブについて書いている。日々がウェザーニュースに書き換えられている。三時頃まで通話が続き、ひとに話したことのないような経験や欲望なんかも話した。以前斎藤環が、無意識の葛藤や欲望は言葉にすると症状がやわらぐとフロイトの頃から言われていて、症状を言葉にするのは精神療法の基本なんだ、というようなことを言っていたのを思い出す。

  • 日記210513

     朝、ウェザーニュースライブを見ていると、出演しているキャスターが喉の調子を悪くしたらしく、予定よりも早く降板した。その後、八時から出演予定だったキャスターが、予定より早い七時三〇分から登板し、番組が粛々とつづけられる。番組スタッフおよびキャスターの緊急時の迅速な対応を見て、きちんと仕事をしているひとはかっこいいなと思った。八時前のインターバルの時間に、ニコ生の運営コメントで、これからお仕事や学校の方はがんばってください!、とキャスターからのメッセージが表示される。緊急で予定外の出演となったにもかかわらず、あるいはそれゆえに、視聴者へのサービスも行う姿勢が輝いて見えた。じぶんもがんばるか、とめずらしく思って出勤し、ろくな業務を与えられていない職場で何かの作業をしている装いをしながら我慢の時間を過ごし、それがかえってストレスで、からだもこころもへんに疲れて帰宅する。時間は消費されていくばかりでそこから蓄積されるものはなく、これでいいのかと毎日不安になる。かっこよく働けるひととみっともなくしか働けないひととがいて、じぶんは後者でしかいられないのかもしれず、だとすればすこし残念に思う。

  • 日記210512

     休業が明けて約二週間ぶりの出勤で、朝に電車に乗ったらふつうに混雑していて、連日各地の首長が騒いでいるのはいったいなんなんだと思った。どれだけ騒いでも変わらないから余計に騒ぐのだろうか。わかんないけどもう少し黙ってろと思う。でもどうせ誰も耳を傾けていないのだから、べつに黙らなくてもいいのかもしれない。好きにしたらいい。好きに騒いだり好きに黙ったり、好きに従ったり好きに無視したり、そういう気楽さが維持されたらいい。勤務中はウェザーニュースライブが見れなくてつらいなと思ってた。はやく帰りたかった。帰宅してすぐにウェザーニュースライブを再生した。キャスターと気象予報士が天気情報を伝えている画面の上にお決まりのコメントが大量に流れていてホッとした。外出を控えて積極的に自宅で過ごすとはたとえばこういうことで、こんな不健全で荒んだ生活を送るには多少の気の狂いや半ば投げやりな衝動などを必要とする。ダメ人間である。ひとびとの堕落を望むべきではないし、むろん、もっと健全に自宅で過ごす方法もあるだろうことについてはここでは目をつぶっている。

  • 日記210511

     ドトールで作業をする。隣席の男のひとがずっと貧乏ゆすりをしている。脚を小刻みに動かすだけの行為を貧乏呼ばわりすることは未来のどこかで問題視されるのかもしれない。勉強か何かをしながら同時にアニメを観ていて、ましてや脚も動いていたからすごく忙しそうだった。じぶんは複数のことを同時にできない。ドトールに来るまえまでは、部屋でウェザーニュースライブを流しながら読書をしていたが、映像と音に気を取られてろくに文を読めなかった。だからわざわざ本やパソコンを持ってカフェを訪れる。読書や書きものなどのたびにコーヒー一杯分の料金を支払わなければいけないのだから、なにかをなそうとすればするほど金がかかる。じゃあ節約して自宅に引きこもり、一日中ウェザーニュースライブを見ていればいいかと言えば、それはあまりに虚しすぎる。まだそれくらいの判断はできる。ウェザーニュースにのめり込みすぎないように気をつけたい。

  • 日記210510

     丸亀製麺で昼食を摂る。平日の昼すぎということもあり、休憩中の労働者が何組かと、高齢者の客が目立っていた。じぶんと同世代とおぼしきひとは少なく、いたとしてもスーツを着ている。食後にエクセルシオールカフェで作業をしていると、勤務先のひとから十二日から出勤するよう連絡がくる。承知しました、と返信をする。就労に対するじぶんの振る舞いもいい加減考えたほうがいいのだろうか。さいきんウェザーニュースライブをずっと見ていたり、定期的にゲンロンカフェのイベント配信を見たり、たまにYouTubeで配信をしてみたり、そういう影響から、映像配信のスタッフをやってみたいな、と思ったりもする。生配信は緊張感もあるだろうし、緊張感があるということは無駄なおしゃべりなどをする余裕がないことだ。業務に集中できる環境は羨ましい。映像配信の求人がないか探してみようか、あるのだろうか。職業としてではなく、お手伝いでもいいからやってみたい。一生懸命に機材をいじったりしたい。

  • 日記210509

     ウェザーニュースを見ていると、暑いからアイスを食べたくなりますね、といったことをキャスターが繰り返し言うから、そういうものかなと思い、アイスを買った。森永製菓から出ている「フローズンラムネ」。お菓子のラムネをモチーフにした商品で、アイスクリームとラムネ味の氷菓が二層になっており、底にはラムネが入っている。アイスを買って食べたのはずいぶんひさしぶりだったが、その割に感動も懐かしさもなく、淡々と食べ終わる。もっといいやつを買えばよかった。サーティワンアイスクリームがフレーバー総選挙なるものをやっていて、その結果発表が今日だったらしい。一位はポッピングシャワーで、小さいころよく食べていたストロベリーチーズケーキは四位だった。サーティワンのメニューがどれほど変動しているものなのかは知らないが、まずブランドの知名度が変わらず高く、そのうえずっとあるメニューがいまだに人気であることに、すごみを感じる。その辺はミスタードーナツなんかも近いが、サーティワンはどこかイロモノ感がある点で異なる気がする。「コットンキャンディワンダーランド」という商品名が、奇抜なものとしてではなく、あいつはそういうやつだからという了解のもと普通に支持されている。対して「ポンデリング」はいまやスタンダードだ。イロモノがイロモノのまま人気を長年維持しているのにはやはり驚く。サーティワンのアイスクリームもずいぶん食べていない。

  • 日記210508

     何日か前にビリーズブートキャンプをやってから調子がよくない。慣れないことはやるもんじゃない、と決まり文句を言ってみてもよいが、一〇分足らずの運動でだめになってしまうからだはさすがに運動に慣れさせた方がよくないか。いちおうここ数日はラジオ体操第一とビリーズブートキャンプ数分とに取り組んでいる。ただ、疲れのせいか睡眠のリズムも崩れてきた。目を覚ましても二度寝、三度寝と、からだが許すかぎり眠りつづけてしまう。それでいて昼過ぎにはまた眠くなってしまうのだから、一日の活動時間がわずかしかない。そのわずかな活動時間はウェザーニュースライブを見ることに費やされている。疲れているから何も考えずに見ていられる映像につい流れてしまう。かといってほんの少しの運動すらやめてしまえば、それはそれで一日をまともに動けないからだが維持されてしまう。極端にからだの弱いひとびとが権利獲得を訴える運動が、いつか起こってもおかしくないと思う。

  • 日記210507

     七月堂で小野美由紀『ピュア』を買い、帰りの電車ですこし読んで、こんな書き方もいいのか、と思う。図書館で本を借り、カフェで読む。帰りにトーチバーナーを買う。夜ごはんはレトルトのミートソースでパスタを食べる。チーズと生卵をのせて、バーナーで炙る。炙ったチーズのうえに納豆をのせる。きのうのやりなおしみたいな一日。労働しないとひととかかわる機会がお店で会計対応を受けるときくらいしかない。ここ何日かはおそらく、発声した言葉の数よりも書き出した言葉の数の方が多い。声を出さないと調子が悪くなることは経験的にわかっているから、詩の朗読をしたり歌を歌ったりするといいかもしれない。しかし労働をしていても声を発さないことには変わらず、労働時はむしろ言葉に対する抑圧すらあるから、おなじ声を発さないにしてもいまのほうがよほどましだ。労働中くらいレジ対応程度のコミュニケーションで済ませてほしい。上司と部下、先輩と後輩、年上と年下、正規雇用と非正規雇用、さまざまに生じる権力関係が言葉を封殺する。そして権威を有する側は大概そのことに無自覚だ。カフェでアルバイトをしていたときは話をしやすい環境で、働くことへの抵抗感もほとんど感じなかったが、それも同年代や同姓のひとが多かったことに由来していたのだろうと思う。これは世代間や性別間で価値観や考え方に差があるとかないとかいう話ではまったくなく、たんにその場における権威性の問題だ。

  • 日記210506

     図書館へ行くが閉館日だった。京王アートマンという生活雑貨店へ行き、トーチバーナーを探すと、イワタニから出ている商品がひとつ置かれていたが、購入を一旦保留した。ウェルシア薬局へ行き、プロテインを買うか迷った挙句、五〇〇〇円は高いなと思い、買わずに店を出た。何度か外出をしたがどれも空振りで、減給中の身だから余計な買いものせずに済んだことはよかったのかもしれないとは思いつつ、手応えのなさが虚しい。きのうの筋トレの疲労も残っていて、昼寝をしたり、夕寝をしたり、終いには疲れたからだが気だるさをも呼び込んで、どこか気分は晴れない。
     書き始めた小説は一日に四〇〇字程度しか進まない。原因はふたつ。ひとつは作業に集中していないこと。もうひとつはテーマを過度に盛り込もうとしていること。人格、主観性、郷土、酒、災害、天皇──なぜこうなったのか、軽率には扱えない題材を扱おうとしているきらいがある。だが、何かを書こうとすることで、知らないことを知ろうとしたり、考えてこなかったことを考えようとしたり、そうしたことが自分ごととして真に受けざるをえない状況になってしまうことは、制作行為の重要性をそのまま指し示しているようにも思う。
     アーレントは人間の活動的生活を労働、制作、活動の三要素に区分し、多数性や他者性によって規定される「活動」においてようやくそのひとが誰であるかが問題にされる、つまり個人が立ち上がるとした。よって政治的な営みにおいてはこの「活動」が重要視されるのだが、「活動」をするための条件としてまず「制作」が必要ではないか、と私はしばらく言い続けている。アーレントを読み込んでいるわけではないため、アーレント自身の議論において制作から活動へどう接続されているのかはわからない。したがって、あくまで言葉のニュアンスだけを汲み取った話ではあるのだが、制作を経由せずに言論行為に臨んだとして、そこでは凡庸な個人の集合があらわれるだけで、凡庸な政治活動ばかりが目立ってしまうということは昨今のインターネットを見れば明らかだ。では、どうすべきか。たとえば、かつて東浩紀は『日本2.0 思想地図β vol.3』という本を編み、「憲法2.0」と題した章にてゲンロン憲法委員会による「新日本国憲法ゲンロン草案」を提案した。そこでは「天皇」と「総理」という二種の元首を立て、二者で役割を分担することで元首の務め自体を整理したり、現行憲法にはない「住民」という概念を提示し、国籍を有する「国民」と国土に居住する「住民」とで主権者を整理することによって開かれた国家像を解説したりと、憲法がはらむあらゆる問題について大胆な代替案を提示する。それは同時に現行憲法がいかにあるか、いかなる課題を抱えているかをより鮮明にしようともする。つまり、アーレントの話に戻せば、こうして制作の過程で学習、検討、研究され、かつ学習・検討・研究等の(一時的な)結果が制作物として共有されることで、現状がより具体的な姿で顕現し、言論=活動はより活性化するのではないか。制作のために考えるのではなく、何かを考えるために制作をする。あるいは制作行為はつねに思考を要求する。一般に「仕事」とも訳される「制作」が、「労働」といかに異なるかといえば、そうした点にあるのではないか。それゆえに生存の必要(労働)から逃れてものをつくることは人間にとって重要なのではないかと考えている。そしてこの考えもまた、日記を書くことによって要求されたものなのかもしれない。