午前、ビリーズブートキャンプの基本プログラムをやる。一〇分で力尽きる。そうめんを茹でて食べ終わる頃には身体に疲れがあらわれはじめて、あまりのだるさに身動きもとれなくなり、横になって眠る。目を覚ますと四時間ほど経過している。やっとの思いで身体を動かし、本を持ってマクドナルドへ行く。一九三〇年に行われた帝都復興祭という関東大震災復興記念イベントでは、式典に出席する天皇を一目見ようと多くの民衆が集まったという。昭和天皇はこうして表舞台の前面、それも民衆の一段上に立ち、それを見上げる民衆は一斉に万歳をする、そんな光景が目立ったが、他方で明仁は行幸の際に来訪した地方の福祉施設等にも足を運び、高齢者などひとりひとりにひざまずいて声をかける、つまりひとびとの傍らに立ち、その声に耳を傾けるという姿勢に特徴があった。明仁の振る舞いには、カトリックの家庭で育った皇后雅子の影響が大きいとされている。本に書かれている内容を簡単に書き写す。市の図書館のサイトから天皇関連の本をいくつか予約する。帰宅してまだだるさがあったからさらに一眠り。起きてまたそうめんを食べ、食後はウェザーニュースLIVEの切り抜き動画を見る。二時間近く見続けてしまい、時計を見て驚いた。気象センター・山口さんのガスバーナーを使って料理をしているという話を聞いて、ガスバーナーを買ってみようかな、と思う。
日記
日記210504
武者小路実篤の『友情』を読む。
脚本家の野島の恋を描いたこの小説は、野島の親友で作家の大宮と野島の想い人であった杉子の結婚によって無残に失恋するところで終幕する。文庫本の解説には「『友情』は最も健全な恋愛文学である」などと真面目に書かれているが、読んでみるとかなり笑える部分が多く、実際のところはギャグ小説といっても差し支えない。どこが笑えるかといえば、なにより主人公・野島の勝手な思い上がりがあまりに過剰である点に尽きる。結末で明かされるように杉子は野島のことをろくに相手にしていない(傍に一時間以上居たくないとまで言われる)のだが、野島自身は揚々と杉子と結婚することを夢見て、時に結婚生活を妄想する。杉子との結婚によって「自分は精神界の帝王になり、杉子は女王になる。自分の脚本は世界を征服する」とまで考える。この過剰で饒舌な思い上がりはそれだけで笑いを誘い、また次の展開への盛大な振りとしても機能するから余計におもしろい。思い上がっては落ち込み、また思い上がっては落ち込み……を繰り返す野島の言動はいかにも青春と言ってしまえばそうなのだが、一度フリとボケと思ってしまったらもう笑わずにはいられない。元より恋によって周りが見えなくなってしまい、あなたとわたしの存在が誇大化してしまう様子は滑稽さを伴うものであり、とりわけ片思いのさなかにおける一喜一憂とくればなおさらではあるのだが、野島によるそれは脚本家という設定に支えられることでより強烈に描かれる。十分に発達した恋愛はギャグと見分けが付かない。
もちろん笑いだけでなく、たとえば人称に焦点を当てると、一人称に置換可能な三人称で記述される本作は、大宮と杉子の結婚が明かされる終盤で、大宮が同人誌に寄稿した小説の全文引用という形式をとり、主観の移行が行われる。また、この作中小説の内容は、大宮と杉子が密かに交わしていた往復書簡を引き写したものとなっている。つまり終盤では、作中作の一読者となって大宮、杉子が作品世界で実際に書いた手紙から個々に表現主体を立ち上げると同時にそれらを束ねる単一の小説としての表現主体をも立ち上げ、かつその読みは作品世界で同作を読む野島へと接続し、そうして顕現する野島からようやく『友情』の記述者が立ちあらわれる、という主体の多層化が図られる。
こうした側面を読み解こうとすれば、小説ゆえのおもしろさもいくらでも見出せるはずだ。しかしまず直感的に笑える文章であることには違いなく、最後まで楽しみながら読み終えた。日記210503
昨日に多めの飲酒をしたせいか、べつにだるさを感じるわけでもないのに横になったからだを起こすのが面倒で、ベッドのうえでなんのためにもならないようなまとめサイトの記事を巡回する。眠っているときは頭痛と胃の不快感で何度か目を覚ました。一度吐いたらよく眠れた。酔いは残っていない。なぜか右脚の腿裏に張りと痛みがあり、原因を考えるが、昨日朝にラジオ体操をした以外にまともな運動機会はなく、ラジオ体操で筋肉痛とはあまりに情けない。昼過ぎまで横で居続けて、夕方にようやく外出意欲が出てきた。本を持ってドトールへ向かう。ドトールに行く前に啓文堂書店に寄り、棚を眺めながら店内をうろつく。語学の棚を見て、白水社から出ている「ニューエクスプレスプラス」シリーズから一冊適当に買ってみようかと思い、グルジア語のものを手に取ってみるが、価格を確認したら三〇〇〇円くらいしたのでやめた。中身をぱらぱらと見て棚に戻す。今朝見たまとめサイトで、バイリンガルのひとが失語症になると第二言語だけが残るということがある、と書いていたことを思い出した。
日記210502
午後から友人宅へ遊びに行く予定があり、手土産でも持参しようかと思って駅近くにある青木屋という菓子屋に行くと、柏餅が売っていたから買った。そこで目にするまで端午の節句に柏餅を食べる風習があるなんてことは微塵にも頭になく、ネットで調べてようやく柏餅と「こどもの日」とが関連していることを思い出す。商品として売られていたものをただ買うだけのことは、歴史や文化や風習などにどの程度与することになるのだろう。京王線に乗って、平山城址公園で降車する。空は青く、陽も暑い。友人宅へ向かう途中の橋の上でつい立ち止まり、空の写真を撮った。歩くさなかで一度立ち止まったときに、心なしか生じる違和感が、かえって少し心地よく感じることは多いが、実際に立ち止まる機会はそう多くない。たまには立ち止まって周囲をぐるりと見渡してみたい。そんな思いはいつもすぐに忘れてしまう。空の写真を確認して、ここ数日見ているウェザーニュースの、空の写真投稿コーナーのことを思い出す。
日記210501
早朝に昨日の日記を書く。佐川恭一さんの小説について書き、記事のリンクをツイートすると、佐川さんが引用RTをしてくれた。読んだ小説の感想をネットに書き、それが著者に読まれたような反応があったとき、プロの書き手にじぶんの拙い文章が読まれたことに恥ずかしさを覚える。また、小説をよく読んでもいるはずのプロの作家に対し、じぶんの読みを晒すことにもなる。小説をそれほど読んでいないじぶんの勝手な読みを見て、作家は何を思うのだろうか。みずからの程度を、あきらかに上位の存在に見られることは恐怖を伴う。ましてや作品の作り手である。あなたが書いた小説を読んでわたしはこう思いました、と書いた張本人に(それが結果的にであれ)伝達することは、肝が据わっていなければできることではない。むろん、わたしに肝など据わってはなく、ただのビビりである。しかし小説に対する自身の読み書きのレベルの低さを知りながら、なぜあえて書くのか、それもあえて当人に見つかるように書くのかといえば、本を読んだ感想がいかに見えないかということを、一丁前に同人誌をつくった経験から実感しているからだ。そもそも読むことに時間がかかるだとか、一冊の本に対して述べられることが多分にあって簡潔に記述できないだとか、読むたびに発見される意味があり、読みの層が積み上げられてようやくその本が見えてくるだとか、とりわけSNSとの相性の悪さを指摘するための理由は枚挙にいとまがない。書籍は消費欲求を満たすには都合が悪く、その意味においては読者の反応が見えにくい点は仕方がないというか、むしろそのままであるべきなのかもしれない。では作家が書き、批評家が読み、それを読者が観客として観ているという図式が成立し、保たれていればそれでよいのだろうか。よいかわるいかでいえば、たぶんよいのだと思う。その状態こそ望ましいのではないか。ただ、いまは目立つ批評家は不在であるように見え、それゆえかは知らないが、作家の評価は商業的な部分に依らざるをえない状態にあるということはないか。とするならば、やはり読者は読みの反応を示していくことが求められる。それもたんにSNSでいいねをつけたり、買った本の画像を撮って投稿したり、アマゾンレビューで星をつけたりということではなく、どう読んだか、どう読めたかをきちんと示すことが求められる。そして、どう読んだか、どう読めたかを示すための学びや訓練を日々積むことが求められる。そうでなければ、書籍も瞬間的に消費され、あれよと忘れ去られる存在でしかなくなってしまう。文化が維持され、発展するためには、市井の一読者による応答もきっと必要だ。
書籍は耐久財である。ゆえに近年のインターネットの速度とは馬が合わない。そこで読者がどんな態度をとるべきか。文学の外側で、一介のお客さんとして小説を読む身としては、小説(あるいは表現文化全体)に対する身の振り方の検討はあって然るべきだ。日記210430
予約注文していた佐川恭一『舞踏会』が届く。冒頭の「愛の様式」を読む。一人称の語りは、括弧書きによる文への補足や、職場の後輩・神木が石原慎太郎『太陽の季節』を引用した場面での《しかもその一部を──ここに記述するに当たっては、実際に神木が発した言葉の微妙なぶれを修正し原文どおりとしてはいるが──ほとんど完璧に暗唱してしまったということだ》という箇所などから、語り手の手記であることが察せられる。それにより、作中では、語り手の周辺にいるさまざまな人物が登場し、誰もが過剰に語る場面をもつのだが、このいずれもが現に交わされた会話ではなく、語り手によって想起され書き起こされたものとして読むことになる。周辺人物の語りが過剰さを伴って想起されている点からは、内面化した他者が繰り返される内省によって膨れ上がり誇大化してしまっているような印象を受け、その圧迫的・抑圧的な(内なる)他者の存在に囲まれていることは、語り手の窮屈な人柄や暮らしをも象徴している。そしてその窮屈さがこの手記を生み出していて、書き出されることによってまた抑圧が誇大化する、という内省の悪しきループがそのまま小説として顕現しているかのようでもある。こうした語り手の特性は、語り手の母による「お前は昔からそうだよ、なんでもかんでも自分が被害者、自分が正しくて相手が間違ってる(中略)みたいな被害者面」という発言や入念な下調べのうえで風俗店に訪れるが店の前になって怖気付くという挙動、匿名掲示板でのレスバトルで圧勝していた過去などからも見てとれる。安全な立ち位置から俯瞰的に物事を観察し、それらしい論理を見出して己を正当化する術に長けているが、基本的には奥手であるからなんらかを主張することなど到底できず、勝手に軋轢を感じとってしまうような人物なのだろう。登場人物の多さのわりには視野の狭い鬱屈とした語りに読めたことはこうした点に因るのだと思う。(また、奥手な人物と内面化した他者との葛藤については、『受賞第一作』を代表に同作者による他作品のいくつかにも通ずるように思う。)
作中人物によって書かれた文章という二層構造がもたらす狭く鬱屈とした視界は、しかし終盤に仲違いしていた語り手の妻によって開かれ、その瞬間からはたんに語り手の心中として文が記され(ているように読め)るという展開が起こる。それはあたかもグザヴィエ・ドラン『Mommy』におけるアスペクト比が1:1から16:9に拡張するシーンを彷彿とさせるような開放感があり、ひじょうに驚かされた。読みながら連想した『Mommy』については、作中人物がメディア(アスペクト比という映像のメタ情報)に接触することで開放感が演出されたが、「愛の様式」では自己のなかで無限ループするメタ思考の象徴としての「記述」が切断されることで開放感が生まれていて、つまり視点の階層を上がるか下がるかという違いがある。しかしながら、こうした演出によって立ちあらわれるある語り手内での人格の移行が、こうもシームレスに、かつ、感動的に記述されている点にたいへんな感動を覚え、いやそれは作品への感動を由来するある一点でしかなく、小説の魅力について語る言葉や観察眼が洗練されていない私にはこれ以上を書き記すことができないのだが、とにかくつまるところ「愛の様式」はたいへんな傑作であった。日記210429
ウェザーニュースLiVEの切り抜き動画を観る。以前から、ウェザーニュース、とりわけキャスターの檜山沙耶さんという方がなにやらおもしろいとは耳にしていたのだが、動画はちゃんと観たことがなかった。切り抜き動画を一通り見たのち、ライブ配信も見る。ひとつひとつを取り出せばべつにおもしろくもない(そもそもは天気情報番組だ)のだが、キャスター、スタッフ、視聴者の関係性のなかでそれが行われることでみごとにコンテンツとして成立している。たとえば視聴者の番組参加手段が複数用意されていることは特徴のひとつだ。YouTubeライブのチャット、ニコニコ動画のコメント、アンケートへの投票、ウェザーニュースアプリでの空の写真の投稿、ウェザーニュースLiVE公式ツイッターアカウントへのリプライ──さまざまな形で集められた視聴者の声は、またさまざまな形で番組内で紹介される。キャスターはつねにコメントを見て、それを頻繁に拾っては読み上げるし、ツイッターへのリプライは読み上げるだけでなくツイート画面ごと映像にのる。全国の天気情報としてユーザーのお天気写真を活用する時間もあれば、コメント民とただ雑談をする時間もある(まじめに報道するときと雑談するときとのキャスターの態度の切り替えにはたいへん感心する)。こうした双方向性が担保されたうえで、各キャスターのキャラクターがおもしろがられていることがよくわかる。また、YouTubeライブのチャット欄では、コメント民同士であいさつを交わすことがお決まりとなっているようで、ユーザー間のやりとりからもたのしみが見出されている。これらの側面を見て、ウェザーニュースLiVEという番組を軸にSNS的な空間ができあがっているように感じられ、驚きを覚えた。そして、ウェザーニュースLiVEが毎日、かつ一日中配信されていることが、ウェザーニュース界隈におけるSNS的空間の構築に大きく貢献していると見ていいだろう。いつ開いても何かが行われていて、誰かがいるという状態は、複数の他者とリアルタイムに同期するための条件だ。
番組側もこうした状況を受け入れていることは、番組のつくりを見ても察せられる。また、切り抜き動画などの動画の二次利用に関しても、今年の四月二十二日にガイドライン(収益化の禁止など)を発表し、公式に容認がされている。ガイドラインの前段には、視聴者が増加している現状に対し「参加者の皆様が、当番組やそれに関連するSNS等の映像や写真(中略)の二次配信によって世界中に拡散されている力も大変大きいと考えています」とも記されていて、切り抜き動画による炎上騒動が後を絶たない昨今においてはめずらしい態度であるように思った。
しかし他方で、仮にこの調子でスケールが大きくなったとして、いまの番組のゆるさやゆるいコメント民のやりとりが担保されるかは甚だ疑問ではある。いまでは笑いとして扱われているキャスター煽りコメントも、度が過ぎた場合には誹謗中傷になりかねない。そもそもがキャスターが全員女性、気象解説員が全員男性という性別分業や、キャスターという存在自体がルッキズムや女性蔑視などの問題を象徴する立場でもあり、この側面から見た場合にはその構造にはかなりの危うさがある。いまは穏やかなコミュニティでも、視聴者のバランスが乱れた場合にひどくアンコントローラブルな状態に陥ってしまうことは、双方向性を売りにしたコンテンツにおいて発生した事件の前例をいくつか思い浮かべるだけで容易に想像できる。ユーザーが増える、規模が大きくなる、とは場の秩序が崩壊する可能性が高まることでもある。しかしまあ、外部からの勝手な心配はただの余計なお世話であり、これ自体がノイズでしかない。日記210428
日本酒について書かれた本をつまみ読みする。じぶんが秋田県出身であることをひとに伝えると、じゃあ酒に強いんだ、と決まって言われる。「じゃあ」の根拠がいまいちわからずいつも適当に話を流していたが、酒の話を振られる機会が多いことは事実なのだから、地元の酒について少しくらい知っておくか、とは以前から思っていた。吉田元『近代日本の酒づくり 美酒探求の技術史』によれば、秋田はもとは酒造後進県だったという。東北日本海側の高級酒といえば羽前大山(現・山形県鶴岡市)の大山酒であり、そもそもある時期まで東北地方の酒造は全体的に米の質も悪く、精白も未熟で、いい酒をつくるためにはかなりの改良を要したらしい。大正七年に仙台税務監督局鑑定部(酒造業者の指導を行う部署のようだ)に花岡正庸というラディカルな酒造技術者が配属され、花岡の過激な酒造改良論には多くの反発が集まったが、なぜか秋田県の酒造とは気が合った。大正十一年に設立された秋田銘醸株式会社の顧問を務めるほどに秋田酒の指導に熱心だった花岡の功績もあり、酒の品質は向上し、着実に品評会でも入賞するようになったとのことだ。生きていく上であきらかに不要だし、さほど関心もない知識だが、こうしてどうでもいいと思えるような情報を見聞きする時間があることは必要であるように思う。たとえば政治などの長期的で広い視座を持って考えなければいけないようなことも、いまを生きることだけに集中していたらどうでもいいことであり、多忙ゆえにいましか見えなくなってしまっていたら、それはやはり浅薄で短絡的な判断に陥ってしまうだろう。それどころか真面目に身構えるまでもなく、詩や小説を読むことだって、これ以上ないくらいにどうでもいい営みだ。どうでもいいことについて知ったり考えたり話したりできる時間を大事にしたい。
夜ごはんでもつくろうかという時間に、急な眠気に襲われて、少しだけと思いながら横になった。目を覚ましたら二時間以上も眠っていたようで、こうして変な時間に眠りこけてしまうのもひさしぶりだなと思う。食事をしないまま、日記を書き始める。今日は外出をしなかったから、明日は出かけられるといい。日記210427
郷土愛を仮構しようという意欲があるこの頃だから、図書館で秋田県にまつわる本を適当に三冊借りた。ぱらぱらとめくってみると、一冊はあきらかに意図から外れた内容だった。タイトルだけで判断するのはよくない。ドトールへ行き、借りた本を読む。『種蒔く人』というプロレタリア文学の先駆的雑誌が、秋田を拠点に刊行されていたことを知る。プロレタリア文学を代表する作家である小林多喜二が秋田県出身であることは知っていたが、田舎にありがちな、たんにそのひとの出身地であるだけである著名人を祭り上げる空虚な地域運動としか思っていなかった。秋田で暮らしていた当時は文学にも歴史にも地域にも一切の関心がなかったから、じぶんが無知だったと言えばそれまでではあるが、無知や無関心なままでいれば地域について知ることなく過ごしつづけられてしまうのだから、やはり愛は無理やり立ち上げるよりほかない。それはどこか、同郷であるだけで著名人を応援する態度にも近いように思う。ただし、無理やりに愛があることにしようとするならば、それなりの理由や論理を後付けしていく必要があるだろう。でなければ空虚な愛が空虚なままで消え去ってしまうし、いつまで経っても文化は培われない。
日記210426
あすから緊急事態宣言が明けるまで休業です、と伝えられて、じゃあ小説を書こうと思った。小説を書いたことがないから書けるかわからないし、どんな要素を満たせば小説になるのかもわからない。でもそれは日記に対しても同じことで、まいにち書いている文章をとりあえず日記と呼んでいるだけで、これが日記なのかどうか、そもそもここに書き溜められた文章はいったい何なのか、よくわかっていない。ただ、日記の自由さと同等に、ソレルス『ドラマ』とか吉村萬壱『クチュクチュバーン』とか──まあタイトルは何でもいいのだが──を思い返せば小説としてカテゴライズ可能な文章の幅の広さがわかる。小説の懐の深さに甘えれば、ここに書き溜められた日記だって小説と呼ぶことができるのかもしれない。こうした文章の可能性をこそ小説とするならば、じぶんは小説を書きたいのではなく、文章はいかなる姿を現すことが可能なのか、ある程度時間や熱量をかけてみずから探求してみたいというその欲望を、小説という語に託しているとも言える。物書きでもなければ文学などを学んだわけでもないじぶんが、何を偉そうに、とは思うが、偉くないからこそごく自然に言葉を扱えている(少なくとも、扱えていると錯覚している)ことの不思議さに囚われてしまう。せっかく三週間ほど労働せずに済むのだから、生活するうえではまったく役に立たない不思議さと向き合う時間としてはちょうどいいだろう。
昨日つくった肉じゃがの残りを夜に食べる。食べ終えて、台所まで食器を持っていくと、シンクからあふれるほど蓄えられた洗い物が目についたから、面倒を押し避けてスポンジを手に取る。しばらく食費も抑えなければいけないかなと思いながら、そんなことはどうでもいいような気もする。買い溜めてばかりの本が机上に積み上がってもいるし、読んだり書いたりしながら、適当に過ごせればいい。食器が片付いた台所を見て、広くなったと一瞬思うが、どう見ても十分に狭い。