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カテゴリー: 日記

日記210409

 電車でとなりにいた、この春からの大学生と思しき二人組が談笑をしている。話のなかに共通の友人と思しき人物が登場して、その友人の名前はナオヤくんだという。かくいう私も、戸籍上は「ナオヤ」という(読みの)名が登録されていて、十代の頃までは周囲の同級生などから「ナオヤ」と呼ばれていた。いま付き合いのあるひとたちはもっぱらネットで知り合ったひとだから、名を呼ばれるとすれば、「むーさん」だとか「むーくん」だとか、「むぅむぅさん」だとか「むぅむぅくん」だとか、敬称なしで「むぅむぅ」だとか、まあだいたいはそんな感じだ。人間らしい名前から離れて久しい。サブカルチャーの批評家にさやわかさんという方がいるが、さやわかさんが出演するトークイベントを見ると対談相手から「さやわかさん」と自然に呼ばれていて、それをいつもなんとなくいいなと思っていた。「むぅむぅ」という個人の名前としてはあまりに腑抜けた名前で名指されることは、人間らしさから逃れることを許されているような、かつ、名前のキャラ化によって、しかも記号化される以前のキャラとして現実に風変わりな層を重ねているような、そんな感覚がありおもしろく、気分的にも悪くない。ツイッターを主とするインターネット上での言動から仮構され、発見される「むぅむぅ」なる主体は、私自身がおもしろがりながら鑑賞できる対象でもある。
 ちなみにネットを介さない相手の場合は「ムトウさん」か「ムトウくん」と呼ばれる。したがって「ナオヤ」で名指される機会は、ここ数年ではメイド喫茶で「ナオヤ」と名乗ってしまったときの一回くらいしか心当たりはなく、要するにこの名が使用される場はほとんどない。しかし、「ナオヤ」が形骸化した現状でありながら、近くで「ナオヤくん」と連呼するひとたちがいるとやはりそちらに注意を引かれてしまうことに、当たり前と驚きが混在したような居心地の悪さを感じた。そして、妙に親しみのある「ナオヤ」を聞き流しながら、今後も引きつづき「ナオヤ」と呼ばれる機会からは遠ざかる一方なのだろうと思った。こうして表明すると冷やかしで呼ぶひとが現れそうでもあるが、じぶんとしても「ナオヤ」で呼ばれることにはもう抵抗があるし、呼ばれたらやめてくれと制止してしまいそうな予感もする。親しみの態度として、ファーストネームで呼ぶことを好むひとも一般には多いのだろうが、私自身はそれもあまり好きな風潮ではない。たんなる記号といってしまえばそれまでで、べつにこだわることでもないとは思うが、ある主体が対象をいかに名指すかは、その主体が対象をどのような姿として現前化しようとしているかということでもあり、いかに対象がまなざされているかということの現れでもある。そのような過程によって私を経由して見つめられた私の姿や、その距離を、私が引き受けられたり引き受けられなかったりすることは、日常でよく見られることである気もする。

 府中に着いて、グミが食べたいと思い、おかしのまちおかに寄った。ペタグーというグミのメロンソーダ味を買った。数年前は、コンビニに行けばおかし売り場でも群を抜いてグミのコーナーが充実していたが、いつからかグミの新商品が出るペースは遅くなり、グミ売り場もしばらく寂しげな光景が続いている。グミの情勢が落ち着いたこのご時世において、わりとあたらしめに出た商品のなかでもペタグーはヒット作といってよいだろう。グミが盛り上がっていた当時はとりわけハード系のグミが強い存在感を発揮していたが、ペタグーはその名のとおりぺたんとしていてひらべったく、その食感はかつてのグミブームでは見られなかったものだ。味もいくつか種類が出ているようで、たぶん売れ行きもそれなりなのだと思う。ピュレグミやタフグミもおいしいが、それだけではつまらないから、こうした新勢力が着々と地位を得ようする様子が見受けられると、グミ好きとしてはうれしいかぎりだ。

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日記210408

 労働をおえて、電車に乗る。ふたつとなりに、手話で談笑する二人組がいる。横目には見えないが、こぼれる笑い声と俊敏に動く腕に伴って衣服が擦れる音が絶えず聞こえてきて、たのしそうな気配が感じられる。声や音だけでなく、手話を担う身体運動から発生する空気の振動が、周囲に波及しているようでもいて、会話の外側にいながら、こちらまでどこか気分がよくなるような安らぎがある。手話を交わすふたりを除けば、じぶんも含めて車内にいるひとたちはみなほとんど身体をじっとさせている。せいぜい電車の揺れにあわせてふらつく程度で、基本的には姿勢を維持しながら、眠っていたり、スマートフォンでネットをしていたり、本を読んでいたりする。そんな環境だから、動きこそちいさいが、友人との愉快な会話に興ずるなかで行われる発話行為が醸すダイナミックな情動が、余計に印象的だった。

 言語と身体に対する関心が主にある。いつからどうして関心をもったのかは覚えていないが、日常的に言葉を用いて生活していながら、文章を読むときにあきらかに文を読めていない感覚があったり、同様に、文章を書くときにあきらかに文章を書けていない感覚があったりすることの不可解さや不可思議さを気になりだしたことは、ひとつの要素としてあるように思う。一方では言葉と身体のそれぞれに対して個別の事象として興味を持ちながら、他方で、書くことや読むことを通じて得た「言葉をうまく扱えず理解もまったく及んでいない、にもかかわらず、ごく自然に言葉を用いている(ように振る舞う)私の身体」への疑問、また、記号と肉体という一見相容れないかのような両者がいかにかかわっているのか(手話の例をみれば、むしろ記号と身体とは同値的でもあることは明白だ)、その両者のいかなるかかわりあいのなかで私たちは生活を営んでいるのか、という問いが、じぶんが今後向き合いつづけるべき大きな主題としてなぜか掲げられてしまっている。あるいは、言語と肉体によって象られる「私」という存在が、いかなる性質をもっているのかについて、つい目を奪われてしまう。言語と肉体に立脚しながら捉える主体観は、私(の身体)という原因と私(の行動)という結果が単一で直線的に結びついたような現代一般的に扱われている主体観とは、大きく異なるように思う。ポスト構造主義以降の現代思想の議論を見れば、「私」の不確かさに対する一定の共通理解はなされているようだが、それはあくまで現代思想の域を越えてはなく、私たちが普段身をおく社会においては、私はどうしようもなく私であることを強いられてしまう。一方では断絶的な経験を統括する記号として「私」が機能していながら、他方では連続的であることを強制する記号として「私」が機能してしまうことがある。後者を退けるために前者を、つまり私が同一の私でいられずに済むように「私」について考えようという、内なる意欲に、この頃は意識的でいる。ひとりの人間が所有するたったひとつの肉体と、複数の身体が侵入することで機能を有する記号とに、もうしばらく頭を抱えつづけていたい。

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日記210407

 笹塚で都営新宿線に乗り換える。普段よりひとが多く、座席も埋まっている。シートの前に立ち、吊り輪につかまる。新宿で、ななめ前に座っていた男のひとが降車して、隣に立っていた女のひとが入れ替わりで着座する。女のひとが、座った直後に足をすこし前に出したので、爪先がぶつかった。驚いた表情で「すみません」と謝られ、会釈を返す。容姿がやけにきれいなひとで、この春からの新入社員を思わせるスーツとどこか辺りをきょろきょろしているような動作の馴染まなさも手伝って、そのひとに注意を惹きつけられてしまい、読書が疎かになる。意識的に読書に集中しようとする。他人の見た目に対し、直感的かつ感情的に何らかを判断するような、主に美醜に関する思いがよぎってしまったとき、その判断の如何を問わず、同時に罪の意識が伴う。ひとの肉体を記号的に処理してしまうことや一方的な欲望の視線を向けてしまうことの暴力性、もしくは、性欲に由来する暴力的挙動が反射的に現れてしまう自身の身体への嫌悪や不信感、また、相対的に浮き彫りになる自らのみすぼらしい容姿に対する恥辱。その他。理性をもって倫理的であろうとする態度と理性的態度から乖離していく身体。私が他者に向ける視線と私が私に向ける視線。それらが相反しながらも一点において同時的に発生する混沌とした状態に、憎しみや腹立たしさを感じる。いまなんとなく気になるこのひとは、どちらかが電車を降りればもう会うことがなく、その刹那にのみ、わずかな安心を覚える。

 電車のなかにはしらないひとがたくさんいる。その一度きりしか見かけず、どこか別の場所で遭遇したりしていたりするのかもしれないが、互いを認識することはなく、その意味において一度も見かけることのないひとたちがたくさんいる。他方で、出勤時に乗る電車では、ほぼ毎朝見かけるようなひともいる。ただ、ほぼ毎朝見かけるようなひとも、その時間の、その場所以外で偶然すれ違えば、きっと気づくことはないように思う。乗る電車を一本遅らせたり、乗る車両をひとつとなりに変えたりするだけで、もう二度と会うことのない、会っても気づくことのないひとたちが、朝の駅のホームや車内に集っている。ひとと会うことやひとを覚えることの条件には、なにが必要なのだろうか。ひとのなにを見て、なにを覚えて、なにをそのひととしているのか、よく不思議に思う。
 昨年、下高井戸へ映画を観に行ったとき、観る予定だった作品の監督を駅前で見かけた。好きな映画監督だったから顔を覚えてこそいたが、そのとき相手はマスクとサングラスを着用していて、連日会うような親しい友人であればとにかく、何度か一方的に顔を眺めたことがあるひとを、ほとんど顔が隠れた状態でもそのひとだと判断できてしまえたことに驚いた。一般には、顔や目から受け取る印象は大きいと思われているが、実はもっと広く、抽象的なレベル、もしかしたら不可視の領域で、他人や他人の身体を認識しているのかもしれない。

 数日前に、真空メロウというバンドの「空っぽワンダー」という曲をひさしぶりに聴いてから、頭のなかを反復して離れない。この曲が収録された『魔9』というCDを立川のディスクユニオンで買ったことを、なぜか覚えている。

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日記210406

 春寒し弾む烏のあしおとと

 朝、家を出ると、黄色い旗を持ったひとたちがあちこちに立っていた。旗の動きに誘導されて、集団登校するこどもたちが道路を渡っている。自宅のちかくには小学校があり、この時間はいつも、こどもたちが列をつくっている。見慣れた光景を見守る任務を背負って現れたPTAのひとたちの春らしさを裏切るように、きょうはずいぶんと寒い。辺りを見わたすと、通学路の見守りをしているのは、みな女のひとのように見えた。革ジャンを着たひとの、ポケットに手を入れながら肩をすぼめる姿を横目に、駅へ向かう。途中の十字路では、今度は府中交通安全協会と書かれたベストを着た男のひとたちが、おなじように黄色い旗を振りながら、自動車や歩行者を誘導していた。
 労働をおえて、駅へ向かう道中に、若者の集団をたくさん見かける。若者たちは、折り目がまっすぐ引かれた立体感のあるスーツを揃って着ていた。にぎわいの傍らを通りすぎながら、東京都庁に入庁したときの、新規職員研修がおわったあと、飲み会へ向かう準備をする同期のひとたちから声をかけられないように、早々に会場を後にした記憶を思い出す。東京都職員だったころ、職場で知り合ったひととまともにひと付き合いをしたことがなかった。退職してからも、当時の知り合いと会う機会は一度もない。勤務先のひとたちとの付き合いがないのは、いまもかわらない。
 キャベツを買おうと思いスーパーへ寄ると、豚こまが安く売られていて、今晩も焼きうどんにするかと思い、買った。ここ一週間ほどは焼きうどんばかり食べている。会計に並ぶ前に、きのうの日記で、コーラを買えばよかったと書いたことを思い出して、飲料売り場に向かった。

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日記210405

 入浴中に日記を書くことが多い。湯の温もりで緊張のほどけた身体で指を動かし、気の抜けたあたまのなかに現れた言葉を出力している。それは額から滲みだす汗にも似ていて、ほほをつたうように文は連なっている。デトックスとしての作文というものがあってもいいのかもしれない。
 風呂にはいつもバスソルトを入れている。クナイプなどの香りがついたものではなく、入浴用のヒマラヤ岩塩一キロを毎月買って使用している。ほんとうにヒマラヤの岩塩なのかは知らないし、ヒマラヤの岩塩だったとして非ヒマラヤ岩塩と比べてなにか入浴効果が変わるのかも知らない。興味がないから調べようとも思わない。だけど、塩であることは間違いなく、浸透圧で汗が出やすくなることも使用した感触として確からしく感じる。その岩塩を昨晩の入浴で使い切ってしまい、すぐにAmazonで注文したが、今日は届かなかった。ただの湯に浸かっている。ただの湯のなかでこの日記は書かれている。湯があたたかいからただの湯でも汗は流れるし、おかげで塩の効果が若干あやしくも思えてくる。
 Amazonで買いものをするとき、つい古本を一冊か二冊ほどカートに追加してしまう。そしてそのまま注文してしまう。部屋には未読の本が溜まり、クレジットの支払額もかさんでいく。この買い物が近所のドラッグストアで済んでいたのならついでに本を買うことはなかったはずだ。Amazonのない世界では、じぶんも貯金ができていたかもしれない。しかし、ドラッグストアで買いものをしていたならば、今度は余計なお菓子やジュースやお酒などを買ってしまう可能性もある。お菓子やジュースやお酒などを買う代わりに本を買っていると思えば、前者に比べて後者は耐久性があり、長期的にためになるものだから、消耗品を買うついでに本が買えてしまう環境をむしろ積極的に肯定していくべきであるようにも思う。インスタントコーヒーを買いに立ち寄った近所のスーパーで、目に入った歌舞伎揚げをかごへと放り込んだことの言い訳はあとで考えよう。でも、歌舞伎揚げより柿の種のほうがよかったかもしれない。いっそのことコーラも買えばよかった。ドデカミンでもいい。ほかに買い忘れたものはなかっただろうか。以前からR.ローティの著作を買おうと思ってずっと買っていない、一昨日行った古本屋にあったのに。武富健治『鈴木先生』を全巻まとめ買いしようと思って注文カートに入れたところでやめにしたのは何日前だったか。買おうと思ったものほど買わなかったり、買おうと思っていないものほど買ったりする。なにが自分の手元にきて、手元にあり続けるのか、これはもう最終的にはその時々の気分だとか偶然だとかに委ねるしかない。

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日記210404

 昨日、美容室へ行くとき、家を出発する時間を遅れてしまったから駅まで走った。たかだか徒歩七、八分の距離を軽く走っただけであるにもかかわらず、そのダメージは大きかったようで、今朝は身体を起こすのに苦労した。目を覚ましたあとも、しばらくは横になったままiPhoneでプロ野球関連の記事を適当に眺めてた。贔屓にしている福岡ソフトバンクホークスは四連敗中らしく、先発投手の高橋礼は六回を投げて八四死球、前回の登板でも九四死球と制球が安定していない模様。自宅にはテレビがないため、野球速報やスポーツ誌の記事を通じて文字情報から描き出されるプロ野球をたのしむ。ほかのプロ野球ファンやスポーツファンがどうなのかは知らないが、少なくともじぶんがスポーツを見るときの態度は競技自体を軽視する傾向にあるように思う。選手や球団はキャラクターであり、好きなキャラクターが活躍しているとうれしい。それだけの感情で見ている。とりわけ野球は、球技のなかでも動きの少ない種目であり、ワンプレーにおける個人の運動がくっきりとしていて、それがはっきりと結果に現れる。サッカーやバスケットボールのような流動的に行われる種目であれば、ゲームのなかで個々の選手がいかにバランスをとりながら動いているかという生態系を見つめる視点があるが、野球にはそれがない。だからワンプレーにおける身体の躍動や戦略、集団の動きなどはさほど重要ではなく、実はそれ以上に、ある選手がシーズンで何本のホームランを打っているだとか、昨日と比べて打順がどう変わっているだとか、成績が落ちていたベテラン選手がまた活躍しだしているだとか、長いシーズン、長いプロ野球史において経験的に蓄積された物語のうえでプレーがいかにあるかということのほうがおもしろかったりする。
 そんなことを思いながら身体を起こし、朝食を摂ったあとに読書をするが、やはり疲労感に負けてすぐに眠ってしまった。結局だるさを抱えながら十六時過ぎまで過ごして、だけど外に出たほうが気分がよくなることがわかっているから外出した。ダイソーでカラーループとループエンドを買った。伴走ロープをつくろうと思う。つくったところで伴走する相手も機会もないけど。そのあとドトールへ行ってまた読書。途中でプロ野球速報を開くとホークスが負けていた。こうして適当に外出していると、たまたま近くにいる見知らぬひとに突然話しかけたくなる。ただ怖がらせると悪いから自重する。なにか話したいことがあるわけでもない。狭い大衆居酒屋なんかに行くと、隣の席で飲んでいるグループがこちらに話しかけてくる、というかいわゆるだる絡みをしかけてくることがあるが、あれがけっこう好きだったりする。知らないひとと意味の関与しないコミュニケーションのためのコミュニケーションが交わされるとたのしい。ただただ無意味で伝達される情報はなく、その瞬間かぎりで、あとになにも残さない騒々しさ。普段であればむしろ鬱陶しく思ってしまうはずのそれも、酒盛りの場ではよろこんで受け入れてしまう。狭い大衆居酒屋で友人と小さな卓を囲みながらお酒を飲むという機会から遠ざかって久しい。
 帰るころには予報通り雨が降っていて、雨粒にやさしく叩かれながら自宅まで歩いた。雨に濡れることはべつにきらいではない。一日のどこかで外へ出て、ひとの姿をみて、ひとびとが生活する動きをこの目できちんとみて直接身体で感じるとやはり気持ちが安定するように思う。ひとりでいる時間に落ち着きを感じている一方で、つねにだれかの存在を求めてしまう身勝手さを、いまは可笑しく感じられる。

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日記210403

 髪の毛を切った。正しく言えば、美容室へ行って美容師さんに髪の毛を切ってもらった。このような表現の冗長さが重要であると考えている。日常的な言い回しに無意識に含まれている省略や言い換えを、それ以前の姿に戻すこと。それは言語上の操作としての意味だけではなく、私が自分の生活の中で見落としているものに改めて目を向けさせることである。「髪の毛を切った」という言い回しは美容師の存在を消し去っている。美容師と私との間に生じる関係もまた同様に。しかし、そうした理念とは別に、髪の毛が切られることや美容師の存在について語る際においてはさほど重要な話でもない気がする。このようなあえて冗長さを取り戻す行為が重要なときもあるだろうが、それはおそらく今ではない。
 そもそも文章を書くときにこのように思いついたことをとにかく書いてしまう乱雑さは排除されるべきだ。排除という言い方が正しくなければ、操作されるべきだ。文章は非常にシンプルな線的構造をしているが故に、脱線・複線あるいは分裂などはごくわずかしか許容されない。絵画や映像や音楽がいかに同時に複数のテーマを示しえるかを考えれば文章の貧弱さは明らかである。したがって、書き手はつねに、文章の貧弱さをそのままに受け入れるか、貧弱さを補強する技術を身につけるかのいずれかの選択を迫られている。貧弱な構造の中でどのように意味や音、あるいはレイアウトを操作し示すかということは、もはやいかにして文章を書くかということのほぼ全てを覆う問題である。たとえばマラルメの「賽の一振り」が象徴するように、詩においては改行や韻律を代表とする文字の配置の手つきによって行の隣接関係を直線的に書かれた散文のそれとは異なるものとして提出しようとする傾向が多くみられる。つまり、一見線的でしかいられないかのような文章も、書き手の操作によって脱線・複線、分裂はいかようにでも可能である。少なくとも、そこに操作の余地があると考え、試行に努める者は少なくない。
 府中に引っ越して三年目になるが、この間ずっと同じ美容師さんに髪の毛を切ってもらっている。美容室に行くと毎回はじめに「今回はどうしますか?」と訊かれるが、じぶんの見た目にさほど関心のない私は明確な要望を伝えることがない。私の髪型に私の意図はさほど介入しておらず、実際に手を加えているのは美容師さんである。仮に私の髪型がいい感じに整えられたとしてそれをみた者に「髪型いい感じですね」と指摘されたとしても、その指摘はどちらかといえば美容師さんに伝えるべき内容であり、少なくとも私の功績ではなく私が聞いて喜ぶ事柄でもない。ある小説が素晴らしいと感じたのなら、それは作者に伝えるべきであり作品に対して語りかけても仕方がない。
 髪の毛を切った翌日などに周囲のひとから「髪切ったね」とか「さっぱりしたね」とか言われることを幼少期から苦手に感じている。だからなんだ、うるせえ、と思ってしまう。髪の毛が短くなったことを指摘する者の表情はなぜかニヤニヤしていることが多く、それが妙に腹立たしく不快だ。何か恥を指摘されているようでもあり、それゆえにある時期までは髪を切ることは恥ずかしい行為なのだと思っていたほどだ。いくらその髪型に自身の意図がさほど介入していないとはいえ、自らの肉体と直結していることでもあり、他人の肉体に対して侮蔑的(に見えてしまう)態度でものを言うことは端的に暴力だ。髪の毛という部位は自分の肉体でありながらその形状にかなり可塑性があり、所有者による介入が可能であることは事実ではある。しかし、その土台を整えるのは自分ではなく美容師という他人に委ねるしかないという状況を無視して他人から指を刺されること、これが恥を産むのは当然であると思う。ここで最初の冗長さを取り戻す話に戻る。
 「髪を切った」という文を「美容師に髪を切ってもらった」と言い直すことは、私が私の操作できなさを見つめなおすことだ。たしかに自分の足で美容室にいき自分で散髪を依頼してはいる。しかし、結局切るのは私ではない。にもかかわらず「髪を切った」という指摘によって、髪を美容師に切ってもらった時の他者に身を委ねた時間が消去されてしまい、他者に身を委ねたことによるままならなさを、自分のものとして抱えなければならなくなる。これは嫌なことだ。だから私は髪を切った翌日にそのことを指摘されると、この身体を強固な境目とした独立した存在として「私」でいなければならないと言いつけられているようで、とにかく不快に感じてしまう。散髪だけではない。食べるもの、着る服、習慣、振る舞い、感情、態度、言語──私にかかわるあらゆるものが他者の関与なしには成立していない。私は他者の存在をけっして消去できない。他者の存在という操作不可能な要素が「私」をそうでいさせてしまっていると自覚すること。それが一般に「理性」と呼ばれるものではないだろうか。私はたんに「私」であった方が合理的で都合がよい。独立した「私」による行動の責任のすべてを「私」に背負わせられるからだ。そうした割り切りによって社会は動いているが、割り切っているということ自体は忘れてはならない。
 同様に、関与する主体に線的であることを強いられてしまう文章についても、言葉が本来抱える多義的で曖昧な性質を消去しようとする合理主義の弊害といえる。つまり、言語を意図的に操作しようとすることで言語の複数性を回復させようとする営みは、言語を扱う人間の複数性を回復させようとすることでもある。「私」は合理的でなどいられず、いつだって冗長な存在である。手のひらに収まりきらない「私」を見つめる技術の習得が求められている。

※ 今日の日記はGoogleドキュメントをTwitterで共有し、不特定の者が匿名で自由に閲覧、編集が可能な状態で書かれた。感覚的には半分以上は他者によって書き出された文字列であるように思うが、最終的な編集、調整をしたのは私であり、したがって当初その文を書いた者の意図や意味がどこまで保存されているかは定かでない。なお、米印以下の本文字列はワードプレスのエディタから書かれている。

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日記210402

 先週の土曜日に勤務を行った代わりにきょうは労働がなかった。順番が回ってきている交換日記を書かなくてはと思い、マクドナルドでパソコンを開いて文章をつくった。平日午前中のマクドナルドは空いていた。交換日記を書くにあたり、前回に自分が書いた日記以降に書かれた日記の文章を大量に引用しながら書くという試みをした。筆者ではない誰かが書いた言葉が引用されて、しかも目に見える形で大量に引用されて書かれた文章は、書く主体、書かれた主体、読まれた主体、読む主体をいかに立ち上げるのだろうか。引用によって(書く行為を相対化しながら)言葉を配置すること、また、引用によって他者を組み込むことを念頭に置かれた言語表現の手法は、現代詩を中心にたびたび見受けられる。いうまでもなく私もその手法を明確に模倣しており、第一に手法自体が引用であるのだが、真似をしてみて気づいたことがいくつかある。
 まず、思っていることを書くために言葉を自らの身体から出力する行為と、他人によってすでに出力された言葉のなかからフレーズを探す行為とでは頭や身体の使い方、また言葉の現れ方がまったく異なる。書かれた文章からほしい言葉を探すとき、言葉は具体的なオブジェクトとして眼前に現れる。文章を書くことはそもそもがある構造を組み立てる行為に近いが、その組み立てるという意識がより一層強くなる感覚があった。イメージとしてはレゴブロックで遊ぶ行為に近く、無造作に積まれたブロックの山からほしいパーツを探り当てるように言葉を扱う経験はじぶんにとっては新しかった。自然物としての意識で言語を扱うと言ったらよいだろうか。とにかく言葉の扱い方を変えることで、言葉そのものの輪郭も変え、身体と言葉の運動神経にいつもと異なる刺激を与えることができる。あるいは、身体と言葉のあいだにいつもと異なる運動の回路を開発することができる。こうした身体的拡張を見据えた実験的な制作の場は機会としてあまり持てないが、持続的に行うことで気づける発見も多いように思う。
 他方で、その言葉を他者が書いた事実と、他者が書いた言葉を編集するという視点をもつ表現主体が同一平面上に並列されることを、書き手あるいは読み手がいかに認識しうるかという根底的な問いについては不透明な部分が多い。その原因としては、ひとつは私なりの編集の方法論を見出せていない点がある。方法論を見出せていないということは、言い換えればじぶんなりの仮説を設定しきれていないということでもある。あらゆる文章は、たとえば一週間前に書いた文章と今日書いた文章とが同時的に並べられるという、時間的歪みをはらんでいる。その断絶を紙面という支持体と主体が所有する身体や名前の連続性によってつなぎとめようとする。ここに他者の身体、他者の名前が介入するしてくることについて、いままでそれを意識した経験がなかったためにまだまだ思考が浅い。また、実作上の課題として、他者が書いたということの輪郭をどれだけ残すことが望ましいのかもかなり不明だ。文脈から切り離しすぎると個性を無化する暴力となるし、かといって元の形を残し過ぎても引用して編集する意義が失われる。他者の言葉によって私は立ち上がっていると示そうとするときに、他者はどのように、どの程度、私の描出の由来を担っているのだろうか。それを意識的に操作しようとしたときにどこが罠で、どこがタブーで、どこが肝なのか、まったく焦点を当てられていない。しかしこうしたことは実際にやって身体をもって体感してみないと理解度が深まらない。あまり恐れずにもっと試行と検討の循環を回す必要があるように思う。機会があればの話だが。
 いずれにしても、ひとが書いた文章を切り分けて再配置して……という身勝手とも捉えられる文章制作に対して、元の文章を書いたひとたちが好意的に受け取ってくれたことがなによりうれしかった。身近にひとがいて、反応をしてもらえる場はありがたい。こうした経験を身をもって知ると、多くの文化は制作と反応を絶えず往還させられるコミュニティによって育まれてきているのだろうなと強く思う。おもしろかったら褒めればいいし、やりすぎたら叱ればいいし、退屈だったら批判をすればいい。受け手の反応を経て、つまり受け手の介入によってまたつぎの制作が行われる。それは健全なことだと思う。制作と批評を健全に交わせる場や関係がたくさんあるといい。

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日記210401

 昨年の九月からとある非営利団体に契約社員として雇われている。三月三十一日までだった雇用契約が更新され、今日からまた新たに一年間雇われることになった。上司との面談の場で、昇給のタイミングである七月に社員として働いてもらいたいと考えている、と伝えられた。ありがたいとは思いつつも、体調が不安定なのでまともに働くことには懸念がある、ととりあえずは伝えるに留めた。
 一般的な考え方に則れば、正規雇用、つまり無期間の労働契約を雇用主と交わし、長期的な収入源として労働の場を固めることがひとりの社会人として、自立し、まっとうに暮らしていくための前提となる条件といっても過言ではないだろう。よって、契約社員から社員への昇格を持ちかけられたのであれば、迷わずに、喜んで、その話を受け入れることが自然な反応だ。しかし、世が求める「一般的な人間観」に私自身が該当するかといえば、おそらくそうではない。極度に痩身で体力がなく、週に五日外に出るだけで大きく疲弊するし、それどころか一日を活発に過ごすことすらまともにこなせない。いま現在も勤務中に眠気に襲われ労働に支障が出ている。その勤務中における怠惰を補うほどに事務処理能力に長けているわけでもない。まともに労働に従事した経験がないのだから労働力としては計算にならない。経験不足を補うほどの知恵や教養、もしくは社交性などがあるわけでもない。私がただの落ちこぼれであることは、いまに至るまでのみずからの経歴や実績をみれば一目瞭然だ。どうせ落ちこぼれてしまう、仮に落ちこぼれなくてもどうせ苦しい思いをしてしまう舞台のうえにもう一度あがろうだなんて、いまさら思うはずもない。落ちこぼれには落ちこぼれの生き方がある。ないのかもしれないが、落ちこぼれは落ちこぼれの生き方をみずから模索する必要がある。
 加えて、私は、労働と自己実現とを結びつけるような労働の捉え方に強い抵抗がある。上記した「一般的人間観」とは労働中心的な生き方や人間像のことでもある。たとえば「労働」と「休日」という区分について思うことがある。もはや死後になっている「ワークライフバランス」の考え方を見ても明らかなように、休日は労働再生産の場として設定されている。労働から離れ、趣味をたのしむ機会などを経て心身をリラックスし、整えられた身体でまた労働に励む。労働に従事していない時間は、しょせん労働のためのメンテナンスの時間でしかない。もちろん労働は金を稼ぐ場でしかなく、趣味の時間こそが生きがいだという者もいるだろう。しかし現実としてその生きがいの時間は労働に内包されてしまっている。だから、まず「労働」に対し非労働時間を「休日」と呼ぶことを避けることを提案したい。
 休日とは非労働時間であると書いたことからも察せられるように、「休日」は「労働」に従属する概念である。「ワークライフバランス」でいえば、まず「ワーク」があり、「ワーク」にぶら下がるものとして「ライフ」がある。この主従関係があるからこそ、休日が労働「再」生産として機能してしまう。ただし、まず労働が先にある、というのこと自体は当然のことだ。たとえば、ハンナ・アーレントは『人間の条件』において、人間の活動的生活を「労働/仕事/活動」の三要素に区分する。ここで「労働」とは、ひとの生存にかかわる行為として記される。動物が生存するためには何よりも食事をしなくてはいけない。したがって、生存本能としての食欲を満たすための狩猟採集は労働の最たるものである。現代日本において狩猟採集を営む者は少ないだろうが、社会の分業のよってわかりづらくなってこそいるが、稼いだお金の支出先として、まず家賃があり食費があり光熱費があり……と生存に必要な住居や食料やインフラがあげられることを思えば、労働=お金を稼ぐことの第一目的に「生存」があることはイメージしやすいだろう。労働は生命の必要によって行われる。必要性に身体が奪われてしまうということは、つまりそこに自由はないということでもある。そして非労働時間たる余暇は、労働再生産の場として機能することから、端的に言えば、近代以降の社会はすべてが労働の場でありどこにも自由などないということになる。
 労働=生存に必要な営みがなぜ必要かといえば、そこで得られるものの多くが「消費」の対象だからだ。私たちは生きつづけているあいだ、毎日何らかの飲食物を摂りつづけなければならない。一度食べたものは二度と食べることができないから、食べたあとは食料確保に出かけなくてはならないし、ふたたび得た食料もつぎの食事でなくなってしまう。一度の食事でどれだけ満腹になろうとも、時間が経てば腹は減る。生存から食事を排除することはできない。それゆえに、動物は絶えず食料確保のための労働に従事せねばならない。このように労働と消費は無限の循環関係にある。しかし、ただ生存本能に従って消費を繰り返すだけでは動物と同じである。人間が人間として(取り立てて掲げるような「人間」という姿があるとして)振る舞おうとする場合には、アーレントがいうところの「活動的生活」が必要だ。これは、言い換えれば、(動物的生存本能から離れて)人間がいかに自由でいられるか、という話でもある。自由でいるためには生存に不必要な営みが求められる。そこで「仕事」や「活動」という要素があがってくるわけだがこのあたりの話は一旦於くとする。(一点だけ注釈を入れると、ここでいう「仕事」は「ものをつくる営み」のことを指し、よりわかりやすく言い換えるならば「制作」と呼ぶほうがいいだろう。つくられたものは一度の使用で消費されず世界に耐久するという点で、「労働」と「仕事」は大きく異なる。また「仕事=制作」と「活動」は、つまるところ「芸術」と「政治」の話だと捉えることが可能だ。ようするにアーレントの「仕事」は現代日本における就労行為としての「仕事」とは意味合いが異なることをおさえておきたい。)
 私がここで強調したいのは、「労働」が主に置かれている以上、従たる「休日」では自由でいられないということだ。私たちが休むべきはほんとうに「労働」なのだろうか。
 私の考えでは、まず土台として「労働」がある。労働がなければ生存することができない。しかし、この労働は「私」を立ち上がらせるものとしては機能しない。労働はあくまで動物的本能を満たす場でしかないのだから。したがって、労働という土台があるうえで、ようやく「私」が立ち上がる準備が整う。そして「私」を立ち上げるものとして「制作」や「活動」が議論される。これを「休日」に焦点をあてながら捉えると次のように言えはしないだろうか。労働が中心にあって非労働時間として休日があるのではなく、一方に動物としての労働があって他方に人間としての制作や活動がある、ひとりの人間としての「私」を立ち上げるのは後者であり、ゆえに私が労働をしているあいだ私は「私」であることを休んでいる、したがって労働時間こそが休日であるのだと。もちろん、現代における職業のありかたは多様で、すべての労働が生存のみに寄与する行いであるなどということはない。むしろさまざまな業務のなかに、労働的な要素、制作的な要素、活動的な要素が混在していることだろう。よって、単純な整理こそできないが、しかしそれでもなお、人間の活動の中心に仕事=労働があり、仕事=労働こそが自己を形づくるという考え方にははっきりと否定を示したい。労働は必要だから行うことでそれ以上でもそれ以下でもない。生存したうえで「私」が立ち上がる必要があり、「私」を立ち上げるのは必要から離れた場であり、不必要なことをするためには消費サイクルから抜け出る一歩が求められる。消費サイクルから抜け出るための一歩を踏み出すためには、労働以上の負荷をみずからの身体に強いなければならない。それゆえに労働的要素の割合が高い場では効率化や省力化が求められる。業務効率を向上させようとするのはいっそう働いて業務成績をあげるためではなく、業務負担を軽減させ、労働以外の場、つまり制作や活動の場から与えられる負荷をより強めていくためだ。
 たとえばこうして毎日日記を書く。日記をいくら書いたところで私の腹は満たされない。日記の記述は不必要な行為だ。しかし、日記を書くことで私は私の考えを広げたり、私自身を知ったりする。私の限界を知り、私の限界を超えようとする。私にとって文を書くことは重要な営みである。だから、労働の負担が増えて日記が書けなくなるようでは困る。労働の負担の増加に応じていくら給料が増えようとも、私にとって書く行為は、あるいは書くための時間や労力が残されていることはぜったいに守られなければならない。このような思いとその背景は、抽象的な議論をする機会のない職場のひとたちに伝えることはとてもむずかしい。職場だけでない。ひとはごくふつうに労働がない日を「休日」と呼ぶし、就労の営みを「労働」ではなく「仕事」と呼ぶし、初対面のひとなどに(対象を規定しようとする質問として)「お仕事は何をなさっていますか?」と尋ねたりする。その一般的な文脈に抵抗しようとすることの無謀さ、あるいは幼稚さははっきりいってひとびとから受け入れられるものではないはずだ。それでも私は抵抗しなくてはならない。なぜなら、私はすでに落ちこぼれているのであり、抵抗をやめたところでまた落ちこぼれるしかないのだから。落ちこぼれには落ちこぼれの生き方があるのだと、落ちこぼれらしく愚かな夢をみて、愚かなままに手探りをつづけることでようやく、私は私にわずかな期待を抱くことができる。

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日記210331

 適度に無視しあえる関係性や公共圏を希求する思いをひとに話すことがあるが、いまいちピンときてもらえないことが多い。おそらく「無視」という語が与える印象が強いあまりに、どこかネガティヴなイメージを抱かれてしまうのだろう。たしかに無視されてしまうことや応答の不確実さは「私」から存在意義を剥奪してしまうのかもしれない。しかしそれは、私の存在を強化するために他者に応答を期待すること、応答を求めること、より強い言葉を使えば、応答を強いることに近く、これは相手に責任を付すこととも同義である。期待された責任、求められた責任、強いられた責任に応答しようとするとき、期待された、求められた、強いられたとおりに振る舞うことが求められる。相手の期待に応えるためにはまず前提として期待に沿わなければならない。期待を求める側は期待された反応を得られなければ怒ったり、悲しんだり、残念がったりすることだろう。求められた期待に能動的に応えようとする態度の背景には「意志」の概念への強固な信頼がある。そこにはある主体に対する記号化の暴力、このひとはこうあるべきだという抑圧が働く。
 哲学者の國分功一郎は、「意志」の概念は解体するべきだが、「責任」の概念は中動態の議論を経由して新しくつくり直さなければならないという立場から、「帰責性imputabilité」と「責任responsablité」を区別する(参考)。國分によれば、前者は能動態/受動態を前提としており、後者は中動態的なありかたとして解釈が可能だという。ここで例にあげられるのは「善きサマリア人のたとえ」である。半殺しにあったひとが倒れている、それを見て気の毒に思ったサマリア人が助けて、宿代も出して……という場面。ここでは目の前で起こっている酷い事態から、助けなければと思ってしまう姿勢が自然と現れる。目撃した状況のほうから私に応答させてしまうという中動的な態度こそが、ひとが責任を果たしていると呼ぶべきものである。これを踏まえるに、私が「無視」によって言い表そうとしていることは、つまり「応答可能性」によってかかわりが生まれる関係性や公共圏と言い換えることができるようにも思う。ある固有の主体(他者)に対し関係における責任を強いて、かかわりあう固有の主体同士が互いにとっての固有のイメージによって姿を限定するようなコミュニケーションではなく、ある主体がなんらかの状況を前につい反応してしまう、なんらかの状況によってつい「私」が現れてしまう、そうした応答によって成立する関係はいかにして構築可能なのか。
 私がたびたび例にあげるのは、ツイッターでなにかを募るツイートをする行為である。たとえば「こんばんは。ひまです。だれか通話しましょう。」とツイートをする。特定の誰かを誘うのではなくただタイムラインに投下する。おそらくこのツイートを見かけたひとは、私に興味がなければ何事もなく無視するだろう。興味があってもさほど交流がなければやはり無視するだろうし、仲のよいひとでもタイミングが合わない場合や仲がよくてタイミングも問題ないがそういう気分でない場合も無視するだろう。なんとなくそのときたまたま手が空いていて、私と話ができる程度の距離の間柄で、私と話をする程度のエネルギーがあるひとだけが、軽い調子でリプライをくれたり電話をかけてくれたりする。この一連には、個別に「通話しましょう」とメッセージを送り、その宛先にはい/いいえの回答を強いる場合とはあきらかに異なる性質のやりとりが発生している。もちろん「通話しましょう」と連絡を受け取った側はそれを無視することも可能だが、あとにでも「忙しくて返信できなかった」などと詫びを入れなければ、こんどは「既読スルー」と揶揄されることになる。この「既読スルー」ははたしてほんとうに責められるような行いなのだろうか。いや、一対一のコミュニケーションにおいてはそうなのかもしれないが、少なくとも公共圏においては既読だけして反応はしないということは重要なはずである。なぜなら、あらゆるひとの言動に逐一反応を示すことは私たちが有限の存在である以上、たんに不可能だからだ。公共の場においてはまず無視が前提にある。そしてこの無視が前提にある場から特定の相手との交流に移行し、また無視の場に戻ることを繰り返す場があると、なにかおもしろいような気がする。あるいはそうした場として、私はツイッターを捉えていたような気がする。他人との接触が忌避されるこのご時世においては、そうした場として機能することも少なくなってしまったが。
 先日東浩紀が行っていた配信のアーカイブを見ると、コンビニやファミレス、ファストフード店から見る公共圏、あるいは東アジアにおける屋台的な公共圏というアイデアを話していて、とても納得があり、示唆が得られた。日常的に訪れる近所のスーパーやコンビニでは、客は店員の顔を覚えるし、逆もまた然りである。しかし、その顔馴染みの相手に対していちいち親密なコミュニケーションを取ろうとはしない。客は粛々と買い物をするし、店員は粛々とレジ対応をする。顔馴染みでありながら無関心を装うことによって、毎日の買い物が快適に行われる。仮にいちいち会話などしようものなら、私だったらかえって鬱陶しく思うし、べつの店に変えようとすら思うかもしれない。しかし他方で、たとえば決済方法などは覚えられていて、無関心を装いながらも、店員は準備をしていたりする。私も事務的に「支払いはiDで」と毎回伝えるが、慣れた店員であればそう伝える直前からすでにレジの決済方法の画面を選択している。喫煙者であれば、購入する煙草の銘柄を伝えるときなどに同様の経験があるのではないだろうか。
 また、べつの側面から見れば、コンビニやファミレス、ファストフード店は代替可能である。セブンイレブンのおにぎりはどの店舗で買ってもセブンイレブンのおにぎりだし、マクドナルドのテリヤキバーガーはどの店舗で買ってもマクドナルドのテリヤキバーガーだ。その代替可能性は関係に緊張感を生む。あるファミリーマートをよく訪れる客もその店でなにか不快な思いをしたら、向かいのローソンに乗り換えてしまうかもしれない。緊張関係がサービスの質を担保する。そういえば昨日、Discordで「知り合いにはものを頼みやすいが、その親密さは枷にもなる」という旨の書き込みを見た。親密さは「せっかく頼んで受け取ったものだから最後まで使わなくては」といったしがらみをも生じさせる。このしがらみは上記でいうところの帰責性に因っているだろう。似通ったところでは東浩紀も「関係者を客に招待しても、知り合いに招待してもらっている以上は客は褒めることしかできない」と話していた。とりわけ制作行為おいては、演者と観客が緊張関係にあることは守られる必要がある。
 コンビニなどから見てとれる公共性は、公共であることと私的であること、一般であることと固有であることの中間に位置している。私がいうところの「適度に無視しあえる関係や場」も理念的にはそれに近く、話をしたときの共感性の低さに比べて一定の普遍性はあるように思う。いまいち指示されないのは、ただ私の論の組み立てが悪いというだけのことかもしれない。

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