日記

  • 日記210425

     昨日に買った味どうらくを使って肉じゃがをつくろうと思い、スーパーで豚こま、じゃがいも、たまねぎ、にんじんを買う。普段はろくに料理などせず、むろん肉じゃがもつくったことなんてないからレシピを調べてみると、味どうらくの公式サイトに肉じゃがのつくりかたが載っていたから、そこに書かれた指示通りにつくる。
    1.材料を食べやすい大きさに切り、サッと水にさらします。
    ──水にさらす時間がわからなかったから、べつで調べた。
    2.サラダ油を熱した鍋で玉ねぎを炒めて、全体に油が回ったら鍋の端に寄せ、肉を炒めます。
    ──鍋が小さく、肉を炒めるのに難儀した。
    3.肉の表面に色が付いたら、溶かした※調味料を入れ、肉がチョット赤い部分を残す程度まで炒め煮ます。
    ──なぜ「ちょっと」がカタカナ表記なのだろう。
    4.じゃがいも・にんじん・糸コンを入れ、全体に調味料を絡めます。
    ──こんにゃくはさほど好きでもないから糸こんは入れなかった。
    5.じゃがいもの周りに火が通り、少しだけ透明になったら水を入れて、強火で一気に煮ます。
    ──鍋が小さく、具材をあたためるのに苦労した。「少しだけ透明」の意味がわからなかったが、やってみたらほんとうにじゃがいもの周りが少しだけ透明になった。
    6.グツグツいってきたら、キッチンペーパーで落としぶたをしてアク取りし、蓋をして弱火で十五~二〇分煮込みます。
    ──キッチンペーパーを鍋からはみ出させていたせいで、吸い込んだ汁が角から滴っていた。
    7.(十五~二〇分経ったら)じゃがいもに串を刺し、スーッと通ったら火を止め冷まして味を染み込ませます。
    ──串がないから箸を刺したらじゃがいもが崩れた。
    8.食べる前に温めて召し上がれ!
    ──冷まさずに食べた。
     はじめて自宅で肉じゃがをつくり、久しぶりに肉じゃがを食べた。レシピをなぞってつくればちゃんとおいしくできあがり、手間はかかるがたまにであれば面倒も気にはならない。煮込んでいる時間は本でも読んでいればいい。またやってみるのも悪くない。残った分をタッパーに入れる。
     
    (レシピ部分は「ほっこり肉じゃが – 東北醤油株式会社」(http://www.touhoku-syouyu.co.jp/recipe/detail.php?recipe_id=55)からの引用)

  • 日記210424

     啓文堂書店府中本店でSFマガジンの最新号と川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』を買う。ドトールへ行き、SFマガジンに掲載された鈴木一平+山本浩貴「無断と土」を読む。退店し、目的もなく駅前の商業施設を歩いていると、「秋田・九州物産展&マルシェ」が催されているのを見つける。「味どうらくの里」という、秋田県大仙市に本社をおく東北醤油株式会社から発売されている、秋田県ではたいへんポピュラーなめんつゆが売られていて、懐かしいなと思いながら買う。秋田の物産展と九州の物産展とでは会計の場所が異なっていて、フロアの隅寄りにレジを構える九州側の販売員は、暇そうにスマートフォンを触っていた。四角に並べた商品陳列用の机の内側でしゃがむ販売員の後方から画面がちらっと見えたとき、ツイッターの画面が表示されているように見えた。アカウントの特定ができないだろうかと思い、意識的に画面を覗き込もうとするが、よく見えなかったからすぐにやめる。電車に乗って新宿に向かい、紀伊國屋書店へ行く。詩の棚を見ると山田亮太『オバマ・グーグル』が置かれていたので手に取る。レーモン・クノー『文体練習』と福沢将樹『ナラトロジーの言語学』を併せて、三冊を買う。今月は本を買いすぎている。無計画な買いもののツケがどこかで回ってくるはずで、未来におそろしさを感じてしまうが、自分自身や世の中に対するどうでもよさが勝ち、すぐに気持ちを切り替える。府中に戻って、スーパーで里芋を買って帰宅する。買ったばかりの味どうらくを使って煮っ転がしをつくってみたがうまくいかなかった。煮っ転がしを食べながら友人と通話をしていたら、いつのまにか朝の四時になっていて、菅義偉のインスタグラムのアカウントを一通り見て笑ったのち、おやすみなさいと言って通話を切断する。

  • 日記210423

     労働の昼休憩中、この舞台設定だったら小説らしきものが書けるかも、と思いついたことがあり、ささっと二〇〇字程度書き出してみる。思いついただけのことは信用ならない。今週はずっと日記を書くことに負担を感じていて、だけど思いつきを書き出してみたくなる程度には書くこと自体に抵抗は感じてはなく、だからたんに疲れているだけなのだろう。疲れているときには疲れているときに書ける文体があって、ひとつの流れに沿った散文が書けなくとも、たとえば見えたことを羅列するとか、出来事を箇条書きするとか、詩の形式を模倣するとか、その時々の状態における自然な文の形を見つけて書きつづけられればいい。文筆家であれば、日々の状態に応じて文体が変わってしまうようでは仕事にならないだろうが、一個人の日記なのだから、日によって書かれる内容も書かれ方も変容してぐちゃぐちゃしてるということは何もマイナスにはならない。ただ、日記を書きつづけられたところで疲れていることには変わりはなく、世間様を見てもみんな疲れて理性や判断が鈍ってしまっているのではないかと思うようなことだらけで、そんな様子がどうしても視界に入ることが余計に疲れる。繰り返しては持続する日常のはてしなさから生じる目眩への対処もおぼつかないのに、持続する日常自体もおかしくなっているようで、無視できない大きめのなにかが取り返しのつかない終わりを迎えてくれないだろうかと、こういうときはつい漠然とした終末を願ってしまう。
     帰路に着く。道中で、市の職員と思しき、不要不急の外出自粛を訴える夜回り隊を見かける。帰宅する。ぼうっとしながらネットを見る。書店にも休業要請が出されるらしい。気力の尽きた状態で二時間ほどネットを眺めたのち、ようやく立ち上がって夜ごはんをつくる。辛ラーメン。具材に入れた魚肉ソーセージがおいしい。眠る。友人らしきひとたちと旅行に行く夢を見る。夢のなかでアミューズメント風の大浴場に入る。大勢のひとたちがあちこちでおしゃべりをしてたのしんでいる。じぶんも同伴者と話をしながら湯を浴びたり広い施設をうろうろ歩いたりする。湯から上がり、服を着る。館内で知人を探すが、見つからない。目を覚ます。ベットで横になりながら前日の日記を書く。やはりどうも気が重く、日中は外に出かけられたらいいなと思う。

  • 日記210422

     朝、電車はそこそこ混んでいたけど目の前に座っていたひとが調布で降りたから、笹塚で乗り換えるまで座ることができた。右斜め前に、ロリータファッションに身を包んだひとがいて、衣類で武装できるのはいいかもなと思った。なにがいいのかはわからないけど、なんとなく、いいような気がする。電車に乗る前の、駅に向かう途中でも、赤と黒のストライプが入ったパンツに黒いシャツを着て、彩度が強めの色が何色かべったり塗られたトートバッグを持ち、足元では下駄を模したサンダルを履いた、独特な志向性を感じる服装のひとが歩いていて、同じようにいいなと思った。私はいつもよれよれのスーツを着て勤務をしている。べつに汚れるわけでもないからワイシャツだけ変えればいいやと、週に三、四日は同じジャケットを羽織っている。武装する気のなさによって、労働に対する意欲のなさや世の中に対する期待の低さを示している。逃げて、あきらめるのではなく、規律の内面化を迫る社会に対して、武装しつづけられるひとのバイタリティに励まされたい。
     夕方頃に京王線で人身事故があったらしく、勤務を終えて帰路に着く時間帯もまだ電車が遅延しているようだった。ホームにはいつもより多くのひとが並んでいて、電車が到着し、順番に乗り込んで、みんなでからだを圧迫しあう。うしろにいたひとが、隙間からするっと腕を伸ばして手すりのつかまるようすが、背中を通じて伝わってきて、そんなところから! と思わず驚いた。車内いっぱいにひとが詰まっていたけど、新宿三丁目でぞろぞろと降り、新宿でまたぞろぞろと降り、目の前の座席が空いて、座ることができた。前に立ったひとが持つトートバッグに「BOOKS & COFFEE」とおおきく書かれていて、よく見ると手紙社というお店のグッズであることがわかる。見覚えのある名前だと思って調べてみたら、Googleマップにはすでに「行ってみたい」の旗を立てられていた。でも一度も訪れたことはない。疲れを感じているわりには寝落ちせず、だけどこころなしか頭痛がする。水分が足りていないのかもと思って、セブンイレブンに寄ってルイボスティーを買う。きょうはすこし暑かったから。

  • 日記210421

     かつてよく聴いていたがここしばらく特別聴いていなかった音楽がとつぜん頭のなかで流れるということがたまにある。それはその瞬間に目にしたり耳にしたりした情報からの連想で想起されることもあれば、まったく何の脈絡もないような状況でふと想起されることもある。音楽にかぎらず、記憶というものはそうした性質をもつものだが、きょう、労働中にとつぜんある音楽を思い出して、そんなことを思った。
     きのうに見た石田英敬、三宅陽一郎、東浩紀の対談イベントで、「身体の記憶」が話題に上がる場面があった。たとえば、私たちが歩くとき、無意識下でなんらかの計算を行なっているはずである。歩く行為の経験の蓄積=記憶が、歩こうとするときに演算されて現れることによって、現に歩くことができる。身体に染み付いた、あるいは経験的に獲得したと呼びうる行為も、身体体験の演算の現出であり、言うなれば無意識下において都度考えながら行動をしている。これはつまり、意識まで上がってこない記憶の想起が、身体において持続的に行われているともいえる。それがたまたまある記号と結びついたときに、ようやく具体的にイメージ可能な記憶として取り出され、思い出したものとして意識する。あらゆる刺激を受けつづけ、あらゆる刺激を蓄積する私たちは、意識せずともつねに予感としての想起に囲まれている。
     こうした考えに基づくと、ある音楽をその瞬間と脈絡なく想起することは、一見脈絡がないようでありながらも、身体感覚のレベルでその音楽を聴いていた当時の体験との類似性や近接性を察知し、ある具体的な記号に紐づく手前の、音楽(という聴覚=身体に刺激を与える媒体)として記憶が顕現している、と捉えることができそうだ。むろん、何かを考える、何かを認識するとは言葉だけで行われていることではない。にもかかわらず、ひとは言葉で考え、言葉で意識しないことには具体的にイメージすることができない。この身体と言葉の中間に位置するものとして、たとえば絵=視覚イメージや音楽=聴覚イメージがある。とするならば、絵画や音楽という形で記憶が現れるということもまた、具体的な記憶の想起のあり方として位置付けられるように思う。
     ちなみに、きょう思い出した音楽というのは、GARNETCROWという音楽グループでギターを弾いていた岡本仁志というひとの一枚目のアルバムに収録されている「Res-no」という曲だった。たまに聴いている(年に一回くらい?)アルバムではあるから、長らくまったく縁がなかった曲だということもないのだが、それにしても急に思い出したことが不思議だった。図らずもこの曲の歌詞には「どれくらい出会えた人達/覚えているのだろう」「落ちていく太陽に/言葉失いながら/感じてた儚さと/流れゆくもの/此処に留まるもの きっと/他愛もないことで」など、記憶にまつわるフレーズがある。上記のような原理を適用するとすれば、落ちていく太陽に言葉を失いながら儚さを感じる、という記述はいくらか誤っている。まず主体の身体に儚さを抱えうる経験の蓄積があり、落ちる太陽がその経験を演算した結果として儚さが顕現する。太陽から受け取った刺激は儚さという感覚のみを呼び起こし、記号化される以前の領域に留まる。したがって、言葉を「失っている」とはあとから振り返ったときに喩えとしてのみ言えることであり、その最中に行われている状態としては、予感としての身体の記憶だけが現れていて、記号として連想するには至っていない、とするのが適切だろう。失うどころか言葉に到達すらしていないということだ。そう解釈するのであれば、かつて出会えたひとたちのことも、そのひとの具体的な名前や顔、言動として記憶が呼び起こされないとしても、身体感覚やその予感として記憶しているということも、同時に想定できるかもしれない。

  • 日記210420

     嵐が来たら漁師は漁へ出るのをやめるだろうが、都会で働くひとたちはたとえ台風が来て電車が止まってもどうにか勤務先へ出向こうとする。前者は自然の脅威を前に日常の営みを休止せざるをえない状態であり、後者は自然の脅威にも怯むことなく多少のトラブルこそあれど日常を営みつづけることができる状態であるが、この場合、どちらが自然と共生しているといえるだろうか。不都合な事象を文明で乗り越えて、人間が抱える都合や欲望を満たしつづける人間中心主義的な世の中が、多様性を排除した息苦しいものになってしまっているのだとしたら、人間の意思や欲望とは異なる論理で動く生命(のようなものも含めて)が住環境に介入できるよう社会を開こうとすることは、人間の営みの風通しをよくするためのひとつの手ではないかとかつて考えたことがある。
     たとえば、猫。犬は従順、猫は気まぐれとはよくいうが、その実態はともかくとして、そうした他種別の生物を飼う者は生物の気ままさに自身の生活を振り回される。ヒトと他種別の生物とでは温度感などの快適に感じる環境は異なるだろう。また、じぶん以外の、それも自立していない命を身の周りにおくのだから、飼い主にはエサを与える責務がある。よって、エサを与える時間帯には猫の近くにいなければならない。つまり、猫の習慣に飼い主は時間や環境を合わせる必要があり、そこでは飼い主自身に帯びる社会的な事情は後回しとなる。いまどきは一定の時間になると自動でエサを供給するアイテムなどもあるようだが、その利便性は自己都合を高める要因になる。
     たとえば、エイリアン。もし地球外知性体が地球に到来したとすれば、おそらく人類は、人類とは何か、と自己批判せずにはいられないだろう。地球人と同等、あるいはそれ以上の知能をもつ生命体(と地球人が呼びうる何か)は、きっと地球人とは異なる論理によって生態系を育み、みずからの振る舞いを決定し、他の個体とのコミュニケーションを図るだろう。それは人類が自明としていた文化、理念、言動などを相対化し、その自明性を脅かし、問いを与えるに違いない。そもそもその地球外生命体が、論理や生態系や個体やコミュニケーションなどといった理念、理念という語が示そうとするものも含めて、それらに合致する何かを有しているのかも不明であるし、確かめようもない。ただそうした未知の生命体の導入によって、私たち自身を見つめなおすことを促す物語が複数あることは言うまでもない。私たちが私たちとは何かを考えるための手っ取り早い手段は、私たち以外の並列可能な対象を設定することだ。
     人間が育んだ現代社会には、人間と並列可能な対象があまりに少ない。言い方をかえれば、人間以外の生命体が育む生態系が入り込む余地があまりに少ない。街を歩けば動物はいる。ハトやカラスは飛んでいる。スーパーに行けば食肉が売られている。犬を連れる散歩者が歩いている。しかし、ハトやカラスは街ぐるみの駆除の対象となり、食肉となる以前の牛や豚は家畜として人工的に管理され、飼育される犬や猫もペットとして飼い主の支配下におかれる。上記の通りペットを支配することは、他方でペットに支配されることでもあるが、少なくとも、ペットとして扱われる動物は独自の社会を築いていない。むろん、あしたエイリアンが訪れるなんてこともない。人間中心社会はどこまでも人間中心だ。その独我的共同体へ介入可能な数少ない希望として、たとえば人工知能があるとしたら。
     シラスで配信されていた石田英敬、三宅陽一郎、東浩紀の対談イベントで、人間とまったく異なるロジックで動きながら(縦の主従関係ではなく)横のつながりをもつ人工生命の生態系への憧れについて熱く語る三宅氏を見て、そんなことを思った。クマノミとイソギンチャクが、各々が勝手に生存した結果、自然と共生しているみたいな他/多生物間の関係が、人間が築く社会にもあるといいなとたびたび思う。

  • 日記210419

     昨日、GUのオンラインストアで、労働時に着れそうなジャケット、パンツ、シューズを注文した。指定できる配達時間のうち、いちばん遅い時間帯が十九時から二十一時だったからそれを選んだ。今夜届く予定だった。十九時半頃に帰宅すると、部屋の扉にはすでに不在票が挟まっていた。不在票には、十九時〇一分に訪れたと記録が書かれている。なんとなく二十時頃に届くかなと思い込んでいた。不在票に載ったQRコードから再配達依頼の手続きへと進み、届け日をつぎの土曜日の午前中に指定する。
     その一時間ほど前、帰りの電車のなかでは強い眠気に襲われて、席が空いて、着席した途端に、読んでいた本の文字が見えなくなり、そのまま目をつむるに至った。たまに電車のなかで気を失ったみたいに眠ってしまうことがある。昨晩に、アロマキャンドルに火をつけて、消さずに眠ってしまった。火事の危険があることはもちろんだが、部屋が明るくなってしまったことや部屋の酸素が薄くなってしまったことに影響されて、眠りが浅かったように思う。今朝の目覚めは快調とは言いがたかった。今朝、起きる直前まで夢をみていた。芸人を名乗るひとにネタを叩き込まれ、そのネタをまもなく壇上で披露させられるという夢。二度の出番が用意されていて、一本目を難なくこなす。ほかの何名かの役者の芸を挟んで二本目の出番が近づいてくる。出番待ちのわずかな時間に教わったネタをすっかり忘れてしまい、出番直前に慌ててメモ帳を見返して再暗記をしようとする。焦る気持ちに追い立てられるように目を覚ます。頭が真っ白な状態で舞台に上がらずに済んで安堵した。時計を見るといつも身体を起こしている時間を数分過ぎていて、目覚ましのアラームを設定し忘れていたことに気づく。慌ててベッドを抜け出す。身体を起こす前から掛布団は横にずれ落ちていて、もうあたたかくなってきたのだから、冬用の布団は片付けてもいい頃合いだ。あすからまた気温が高まるらしく、今晩は毛布だけでもいいのかもしれない。インスタグラムを開くと高校の頃の同級生が自撮り画像を上げている。隣の席だったこともあるが在学中にろくに話をした覚えもない。電車で隣に立っている白髪の男のひとは、ソーシャルゲームに熱中している。ゲームが順調に進まないのか、舌打ちをしたり声を荒げたりして苛立ちをあらわにしている。電車を降りたあとも、おおきな怒声をあげていて、周囲のひとたちは音のする方に一瞬目を向けたのち、改札へ向かったり電車を乗り換えたりする。ひとがつくる流れといっしょに改札へ向かう。帰り道、すこし肌寒くて腕を組みながら歩いていると、向こうから歩いてくるひとも腕を組んでいる。あすは気温が上がるらしい。雨が降っていたのはきのうだったかおとといだったか忘れた。自宅のまえに着いて、扉に宅配便の不在票が挟まっているのを見つける。

  • 日記210418

     神保町の古本屋へ行く。演劇関連の本を二冊とSF小説の文庫本を二冊買う。デリダの『グラマトロジーについて』の上下巻が三〇〇〇円で売られていて、すこし迷うが、たぶん読もうとしてもさっぱり理解できないだろうから買わずに店を出る。もともとは、〇〇年代の国内作家が書いた中編小説の単行本が数百円程度で手に入らないかな、なんて思って神保町まで足を運んだのだが、この類いの本は見つけられなかった。代わりになるかと思ってSF小説を買ったが、この頃はSF小説を読むような気分でもないし、さいきんはどうも文庫本のサイズ感に読みづらさを感じてしまっていて、まあおそらくすぐには読まないように思う。これは読むとか、これは読まないとか、読めるとか、読めないとか、ほとんど無意識に無根拠になんとなく判断しているが、こうした振る舞いは食べものの画像を見ておいしそうと思う感覚とは近いのだろうか。天丼屋の前を通るとき、おいしそうな香りが漂ってきて、すれ違った若者二人組も、なんかいいにおいがする!と話していた。すずらん通りを適当に歩き回り、次第に脚が疲れてくる。空腹感もあったから、電車に乗って、つつじヶ丘で降車し、柴崎亭というラーメン屋で鴨中華そばを食べる。柴崎亭には月一回程度のペースで訪れているが、ここ何回かは鴨中華そばが品切れで、塩煮干しそばの注文がつづいていたから、ひさしぶりに鴨中華そばを食べられてうれしい。しいたけの味や香りが強く感じられるが、材料にしいたけが使用されているかまでは知らない。兄がしいたけ嫌いだったことを思い出し、ここ三年ほど会っていない彼がいまだにしいたけを避けているのだとすればこのラーメンは食べられないかもな、と思う。かくいうじぶんもたしか中学生の頃くらいまではしいたけがすこし苦手だったが、いつからか気にしなくなった。小学校の給食に出てくる味噌汁に入ったしいたけの食感が苦手の主な由来だったから、給食から解放されたことでどうでもよくなったのかもしれない。というか、成人してからは、食べものの好き嫌いに対してどうでもよさを感じることが多くなったように思う。おいしいものを食べればもちろんおいしいが、だからといっておいしいと感じないものを毛嫌う必要はどこにもなく、じぶんが苦手に思うことはじぶんに理由があって、対象そのものがなにか悪さをしているわけではない。対象はただそうあればよく、苦手と思うならただ勝手に苦手であればよい。それはそれとして、もうしばらく食べものに対して苦手と思うこと自体も少なくなっていて、へんな味だなあとかいまのじぶんには合わないなあとか思うだけで、むしろあえてその変な味や合わない味に身体のほうを合わせていこうとすることもある。味覚に対する快不快は絶対的ではないのだから、食材の腐敗による異味異臭などでなければ、目の前の食べものと身体感覚とをつど調整すればよい話であり、こうした食べられるものと食べるものの両者のかかわりが、生存行為としての食を食文化として昇華させてきたのではないか。反射的に苦手と一蹴してしまうのはあまりに簡単であり、それによって生まれるのはむしろ悪意だったりするから、そう傲慢にならずに、じぶんをやわらげていこうとする態度の方におもしろみを見ていきたい。

  • 日記210417

     駅前のドトールで読書をする。隣の席に、高齢の男のひとが腰を下ろし、すこしの間をおいて、注文を済ませた配偶者と思しき女のひとが、頼んだドリンクをもってやってくる。手に持っていた二人分のドリンクが載ったトレイを机の上に置くとき、一方のグラスが倒れて、アイスコーヒーがこぼれてしまう。店員は床を拭いたあと、新しいアイスコーヒーを手に老夫婦の前に現れて、中身が半分ほどこぼれてしまったグラスと交換したのちに、女のひとといくつか言葉を交わす。
    ──お召し物は汚れてませんか?
    ──大丈夫、大丈夫。
    ──染みにならないとよいのですが。
    ──気をつけて持ってと言われたのに、さっそくこぼしちゃって。
    ──わたしもたまにやっちゃいます(笑)
    ──あらそう(笑)。ごめんなさいねえ、すぐに帰りますから。
    ──いえいえ、どうぞゆっくりしていってください。
     店員がカウンターへと戻り、飲みものをこぼしてからずっと慌てていた女のひともようやく落ち着く。岩成達也『私の詩論大全』を読みながらメモを取る。筆記時に小さな机がガタガタと揺れる。ノートに書かれた文字を見て、じぶんでも読めないなと思う。一時間ほど居座って退店し、無印良品でレトルトのグリーンカレーを、成城石井で三本のビールを、それぞれ購入する。夜、ビールを飲みながら、ゲンロンカフェの配信イベント「さやわか式☆ベストハンドレッド2020」を見る。五十九位で、テレビ大阪で放送されている「ねじの世界」という番組が紹介される。「ねじの世界」は、芸人の中川家が町工場社長コントをしながら関西圏の町工場でどんなネジをつくっているかをVTRで紹介するという六分程度の番組で、ねじだけでなく、町工場の社長が昼食の蕎麦をどう食べているか(一味唐辛子を蕎麦に直接かけるらしい)などの誰の得にもならない社員の情報も併せて紹介するのがお決まりのようだ。百個のコンテンツが紹介されたなかで、なぜか「ねじの世界」の印象がもっとも強く残っている。

  • 日記210416

     詩や小説を読む。なんとなく、いいな、と思う。そのなんとなくのいいなを言葉にしようとするときのむずかしさは、なぜ生じるのか。たとえば、ある小説を読んでいいなと思い、このお話にすごく感情が揺さぶられて!と声に出したとして、しかし感情が揺さぶられたのはお話のある一部分でしかないだろうし、お話という要素は小説のある一部分でしかないだろう。ここで示されるお話のある一部分や小説のある一部分は、他のお話や他の小説で、あるいは他の文化芸術作品で、代替可能かもわからない。小説の一部分であるお話のある一部分を取り上げることは、その小説をひどく矮小化させてしまう。むろん一方では、ある作品の受け手が作品に刺激されて得た感情や考えはその者が紛れもなくその瞬間にその作品と出会わなければ得られなかったものであり、その者が発露した表現として尊ぶべきではあるが、他方で、ある受け手の一時の感情なんてものは作品にとってはあまり関係のないことである。つまり、前者は受け手の歴史において作品がいかにあるかという問題であり、後者はある文化体系の歴史において作品がいかにあるかという問題であり、これらは一方がなければ他方もなく相互に干渉しあっているはずなのだが、そこには同時におおきな断絶も感じさせる。逆にいえば、ある小説に対する考えを容易に言葉にするためには、小説を包む文化の歴史に接続させることはひとつの手である。小説のある部分を抽出することが小説を矮小化させるのであれば、その小説をその小説よりも大きな体系に組み込んでしまえばよい。著者の経歴のなかでその作品がいかに現れているか、ある文学者の理論を適用することでその小説にいかなる可能性を見いだせるか、近代文学史の流れにおいてその作品はいかに位置付けられるか、現代の国内情勢においてその作品はいかに受容できるか。こうして大きな歴史に接続させることで作品を語りやすくはなるが、その代わりに、作品に対して言葉を発する動機であるはずの一受け手としての感情のゆらぎは、言葉にされることなく消え去ってしまう。だから、個人の歴史と文化の歴史という両者は絶えず往復することが望まれるのではないか。偶然に生じた瞬間の出来事から事を始め、そのうえで瞬間の出来事なんて過信せずにみずからを空虚になるまで削ぎ落として、蓄えられた知恵と技術を駆使して歴史の重みに到達しようとすること。その地点から、瞬間の私を見つめようとすること。これらの往還によってようやく、受け手と作品の関係が明らかになろうとするのではないだろうか。
     詩や小説という言語表現について言葉を発しようとするとき、そのむずかしさは、言葉を言葉で語ることに由来しているのではない。受け手が何を思い、その思いを発した根拠がどこにあるのか、についてならばおそらく誰にでも容易に語ることができ、なぜならそれは受け手のなかに由来するものだからだ。そこで作品が置き去りになること、作品がもつ歴史が無視されることにむずかしさがある。とすれば、詩や小説を語ることがむずかしいのは、小説をひとつ読むことすら時間がかかることや、詩における言語の扱いが日常的なものとは大きく乖離しているおかげで言語の歴史性に距離を感じてしまうことなどによるのではないか。そこを乗り越えさえすれば、言葉を言葉で語ることほど簡単なことはないようにも思う。では、日記が文化芸術として提示されたときに受け手はいかなる語りようがあるのか、また、日記を文化芸術として提示するには書き手はいかなる手続きを必要とするのか。これに関してひとつ言えるのは、そんなことを考えていたら日記を継続することなど到底できないということだ。