昨日に多めの飲酒をしたせいか、べつにだるさを感じるわけでもないのに横になったからだを起こすのが面倒で、ベッドのうえでなんのためにもならないようなまとめサイトの記事を巡回する。眠っているときは頭痛と胃の不快感で何度か目を覚ました。一度吐いたらよく眠れた。酔いは残っていない。なぜか右脚の腿裏に張りと痛みがあり、原因を考えるが、昨日朝にラジオ体操をした以外にまともな運動機会はなく、ラジオ体操で筋肉痛とはあまりに情けない。昼過ぎまで横で居続けて、夕方にようやく外出意欲が出てきた。本を持ってドトールへ向かう。ドトールに行く前に啓文堂書店に寄り、棚を眺めながら店内をうろつく。語学の棚を見て、白水社から出ている「ニューエクスプレスプラス」シリーズから一冊適当に買ってみようかと思い、グルジア語のものを手に取ってみるが、価格を確認したら三〇〇〇円くらいしたのでやめた。中身をぱらぱらと見て棚に戻す。今朝見たまとめサイトで、バイリンガルのひとが失語症になると第二言語だけが残るということがある、と書いていたことを思い出した。
日記
日記210502
午後から友人宅へ遊びに行く予定があり、手土産でも持参しようかと思って駅近くにある青木屋という菓子屋に行くと、柏餅が売っていたから買った。そこで目にするまで端午の節句に柏餅を食べる風習があるなんてことは微塵にも頭になく、ネットで調べてようやく柏餅と「こどもの日」とが関連していることを思い出す。商品として売られていたものをただ買うだけのことは、歴史や文化や風習などにどの程度与することになるのだろう。京王線に乗って、平山城址公園で降車する。空は青く、陽も暑い。友人宅へ向かう途中の橋の上でつい立ち止まり、空の写真を撮った。歩くさなかで一度立ち止まったときに、心なしか生じる違和感が、かえって少し心地よく感じることは多いが、実際に立ち止まる機会はそう多くない。たまには立ち止まって周囲をぐるりと見渡してみたい。そんな思いはいつもすぐに忘れてしまう。空の写真を確認して、ここ数日見ているウェザーニュースの、空の写真投稿コーナーのことを思い出す。
日記210501
早朝に昨日の日記を書く。佐川恭一さんの小説について書き、記事のリンクをツイートすると、佐川さんが引用RTをしてくれた。読んだ小説の感想をネットに書き、それが著者に読まれたような反応があったとき、プロの書き手にじぶんの拙い文章が読まれたことに恥ずかしさを覚える。また、小説をよく読んでもいるはずのプロの作家に対し、じぶんの読みを晒すことにもなる。小説をそれほど読んでいないじぶんの勝手な読みを見て、作家は何を思うのだろうか。みずからの程度を、あきらかに上位の存在に見られることは恐怖を伴う。ましてや作品の作り手である。あなたが書いた小説を読んでわたしはこう思いました、と書いた張本人に(それが結果的にであれ)伝達することは、肝が据わっていなければできることではない。むろん、わたしに肝など据わってはなく、ただのビビりである。しかし小説に対する自身の読み書きのレベルの低さを知りながら、なぜあえて書くのか、それもあえて当人に見つかるように書くのかといえば、本を読んだ感想がいかに見えないかということを、一丁前に同人誌をつくった経験から実感しているからだ。そもそも読むことに時間がかかるだとか、一冊の本に対して述べられることが多分にあって簡潔に記述できないだとか、読むたびに発見される意味があり、読みの層が積み上げられてようやくその本が見えてくるだとか、とりわけSNSとの相性の悪さを指摘するための理由は枚挙にいとまがない。書籍は消費欲求を満たすには都合が悪く、その意味においては読者の反応が見えにくい点は仕方がないというか、むしろそのままであるべきなのかもしれない。では作家が書き、批評家が読み、それを読者が観客として観ているという図式が成立し、保たれていればそれでよいのだろうか。よいかわるいかでいえば、たぶんよいのだと思う。その状態こそ望ましいのではないか。ただ、いまは目立つ批評家は不在であるように見え、それゆえかは知らないが、作家の評価は商業的な部分に依らざるをえない状態にあるということはないか。とするならば、やはり読者は読みの反応を示していくことが求められる。それもたんにSNSでいいねをつけたり、買った本の画像を撮って投稿したり、アマゾンレビューで星をつけたりということではなく、どう読んだか、どう読めたかをきちんと示すことが求められる。そして、どう読んだか、どう読めたかを示すための学びや訓練を日々積むことが求められる。そうでなければ、書籍も瞬間的に消費され、あれよと忘れ去られる存在でしかなくなってしまう。文化が維持され、発展するためには、市井の一読者による応答もきっと必要だ。
書籍は耐久財である。ゆえに近年のインターネットの速度とは馬が合わない。そこで読者がどんな態度をとるべきか。文学の外側で、一介のお客さんとして小説を読む身としては、小説(あるいは表現文化全体)に対する身の振り方の検討はあって然るべきだ。日記210430
予約注文していた佐川恭一『舞踏会』が届く。冒頭の「愛の様式」を読む。一人称の語りは、括弧書きによる文への補足や、職場の後輩・神木が石原慎太郎『太陽の季節』を引用した場面での《しかもその一部を──ここに記述するに当たっては、実際に神木が発した言葉の微妙なぶれを修正し原文どおりとしてはいるが──ほとんど完璧に暗唱してしまったということだ》という箇所などから、語り手の手記であることが察せられる。それにより、作中では、語り手の周辺にいるさまざまな人物が登場し、誰もが過剰に語る場面をもつのだが、このいずれもが現に交わされた会話ではなく、語り手によって想起され書き起こされたものとして読むことになる。周辺人物の語りが過剰さを伴って想起されている点からは、内面化した他者が繰り返される内省によって膨れ上がり誇大化してしまっているような印象を受け、その圧迫的・抑圧的な(内なる)他者の存在に囲まれていることは、語り手の窮屈な人柄や暮らしをも象徴している。そしてその窮屈さがこの手記を生み出していて、書き出されることによってまた抑圧が誇大化する、という内省の悪しきループがそのまま小説として顕現しているかのようでもある。こうした語り手の特性は、語り手の母による「お前は昔からそうだよ、なんでもかんでも自分が被害者、自分が正しくて相手が間違ってる(中略)みたいな被害者面」という発言や入念な下調べのうえで風俗店に訪れるが店の前になって怖気付くという挙動、匿名掲示板でのレスバトルで圧勝していた過去などからも見てとれる。安全な立ち位置から俯瞰的に物事を観察し、それらしい論理を見出して己を正当化する術に長けているが、基本的には奥手であるからなんらかを主張することなど到底できず、勝手に軋轢を感じとってしまうような人物なのだろう。登場人物の多さのわりには視野の狭い鬱屈とした語りに読めたことはこうした点に因るのだと思う。(また、奥手な人物と内面化した他者との葛藤については、『受賞第一作』を代表に同作者による他作品のいくつかにも通ずるように思う。)
作中人物によって書かれた文章という二層構造がもたらす狭く鬱屈とした視界は、しかし終盤に仲違いしていた語り手の妻によって開かれ、その瞬間からはたんに語り手の心中として文が記され(ているように読め)るという展開が起こる。それはあたかもグザヴィエ・ドラン『Mommy』におけるアスペクト比が1:1から16:9に拡張するシーンを彷彿とさせるような開放感があり、ひじょうに驚かされた。読みながら連想した『Mommy』については、作中人物がメディア(アスペクト比という映像のメタ情報)に接触することで開放感が演出されたが、「愛の様式」では自己のなかで無限ループするメタ思考の象徴としての「記述」が切断されることで開放感が生まれていて、つまり視点の階層を上がるか下がるかという違いがある。しかしながら、こうした演出によって立ちあらわれるある語り手内での人格の移行が、こうもシームレスに、かつ、感動的に記述されている点にたいへんな感動を覚え、いやそれは作品への感動を由来するある一点でしかなく、小説の魅力について語る言葉や観察眼が洗練されていない私にはこれ以上を書き記すことができないのだが、とにかくつまるところ「愛の様式」はたいへんな傑作であった。日記210429
ウェザーニュースLiVEの切り抜き動画を観る。以前から、ウェザーニュース、とりわけキャスターの檜山沙耶さんという方がなにやらおもしろいとは耳にしていたのだが、動画はちゃんと観たことがなかった。切り抜き動画を一通り見たのち、ライブ配信も見る。ひとつひとつを取り出せばべつにおもしろくもない(そもそもは天気情報番組だ)のだが、キャスター、スタッフ、視聴者の関係性のなかでそれが行われることでみごとにコンテンツとして成立している。たとえば視聴者の番組参加手段が複数用意されていることは特徴のひとつだ。YouTubeライブのチャット、ニコニコ動画のコメント、アンケートへの投票、ウェザーニュースアプリでの空の写真の投稿、ウェザーニュースLiVE公式ツイッターアカウントへのリプライ──さまざまな形で集められた視聴者の声は、またさまざまな形で番組内で紹介される。キャスターはつねにコメントを見て、それを頻繁に拾っては読み上げるし、ツイッターへのリプライは読み上げるだけでなくツイート画面ごと映像にのる。全国の天気情報としてユーザーのお天気写真を活用する時間もあれば、コメント民とただ雑談をする時間もある(まじめに報道するときと雑談するときとのキャスターの態度の切り替えにはたいへん感心する)。こうした双方向性が担保されたうえで、各キャスターのキャラクターがおもしろがられていることがよくわかる。また、YouTubeライブのチャット欄では、コメント民同士であいさつを交わすことがお決まりとなっているようで、ユーザー間のやりとりからもたのしみが見出されている。これらの側面を見て、ウェザーニュースLiVEという番組を軸にSNS的な空間ができあがっているように感じられ、驚きを覚えた。そして、ウェザーニュースLiVEが毎日、かつ一日中配信されていることが、ウェザーニュース界隈におけるSNS的空間の構築に大きく貢献していると見ていいだろう。いつ開いても何かが行われていて、誰かがいるという状態は、複数の他者とリアルタイムに同期するための条件だ。
番組側もこうした状況を受け入れていることは、番組のつくりを見ても察せられる。また、切り抜き動画などの動画の二次利用に関しても、今年の四月二十二日にガイドライン(収益化の禁止など)を発表し、公式に容認がされている。ガイドラインの前段には、視聴者が増加している現状に対し「参加者の皆様が、当番組やそれに関連するSNS等の映像や写真(中略)の二次配信によって世界中に拡散されている力も大変大きいと考えています」とも記されていて、切り抜き動画による炎上騒動が後を絶たない昨今においてはめずらしい態度であるように思った。
しかし他方で、仮にこの調子でスケールが大きくなったとして、いまの番組のゆるさやゆるいコメント民のやりとりが担保されるかは甚だ疑問ではある。いまでは笑いとして扱われているキャスター煽りコメントも、度が過ぎた場合には誹謗中傷になりかねない。そもそもがキャスターが全員女性、気象解説員が全員男性という性別分業や、キャスターという存在自体がルッキズムや女性蔑視などの問題を象徴する立場でもあり、この側面から見た場合にはその構造にはかなりの危うさがある。いまは穏やかなコミュニティでも、視聴者のバランスが乱れた場合にひどくアンコントローラブルな状態に陥ってしまうことは、双方向性を売りにしたコンテンツにおいて発生した事件の前例をいくつか思い浮かべるだけで容易に想像できる。ユーザーが増える、規模が大きくなる、とは場の秩序が崩壊する可能性が高まることでもある。しかしまあ、外部からの勝手な心配はただの余計なお世話であり、これ自体がノイズでしかない。日記210428
日本酒について書かれた本をつまみ読みする。じぶんが秋田県出身であることをひとに伝えると、じゃあ酒に強いんだ、と決まって言われる。「じゃあ」の根拠がいまいちわからずいつも適当に話を流していたが、酒の話を振られる機会が多いことは事実なのだから、地元の酒について少しくらい知っておくか、とは以前から思っていた。吉田元『近代日本の酒づくり 美酒探求の技術史』によれば、秋田はもとは酒造後進県だったという。東北日本海側の高級酒といえば羽前大山(現・山形県鶴岡市)の大山酒であり、そもそもある時期まで東北地方の酒造は全体的に米の質も悪く、精白も未熟で、いい酒をつくるためにはかなりの改良を要したらしい。大正七年に仙台税務監督局鑑定部(酒造業者の指導を行う部署のようだ)に花岡正庸というラディカルな酒造技術者が配属され、花岡の過激な酒造改良論には多くの反発が集まったが、なぜか秋田県の酒造とは気が合った。大正十一年に設立された秋田銘醸株式会社の顧問を務めるほどに秋田酒の指導に熱心だった花岡の功績もあり、酒の品質は向上し、着実に品評会でも入賞するようになったとのことだ。生きていく上であきらかに不要だし、さほど関心もない知識だが、こうしてどうでもいいと思えるような情報を見聞きする時間があることは必要であるように思う。たとえば政治などの長期的で広い視座を持って考えなければいけないようなことも、いまを生きることだけに集中していたらどうでもいいことであり、多忙ゆえにいましか見えなくなってしまっていたら、それはやはり浅薄で短絡的な判断に陥ってしまうだろう。それどころか真面目に身構えるまでもなく、詩や小説を読むことだって、これ以上ないくらいにどうでもいい営みだ。どうでもいいことについて知ったり考えたり話したりできる時間を大事にしたい。
夜ごはんでもつくろうかという時間に、急な眠気に襲われて、少しだけと思いながら横になった。目を覚ましたら二時間以上も眠っていたようで、こうして変な時間に眠りこけてしまうのもひさしぶりだなと思う。食事をしないまま、日記を書き始める。今日は外出をしなかったから、明日は出かけられるといい。日記210427
郷土愛を仮構しようという意欲があるこの頃だから、図書館で秋田県にまつわる本を適当に三冊借りた。ぱらぱらとめくってみると、一冊はあきらかに意図から外れた内容だった。タイトルだけで判断するのはよくない。ドトールへ行き、借りた本を読む。『種蒔く人』というプロレタリア文学の先駆的雑誌が、秋田を拠点に刊行されていたことを知る。プロレタリア文学を代表する作家である小林多喜二が秋田県出身であることは知っていたが、田舎にありがちな、たんにそのひとの出身地であるだけである著名人を祭り上げる空虚な地域運動としか思っていなかった。秋田で暮らしていた当時は文学にも歴史にも地域にも一切の関心がなかったから、じぶんが無知だったと言えばそれまでではあるが、無知や無関心なままでいれば地域について知ることなく過ごしつづけられてしまうのだから、やはり愛は無理やり立ち上げるよりほかない。それはどこか、同郷であるだけで著名人を応援する態度にも近いように思う。ただし、無理やりに愛があることにしようとするならば、それなりの理由や論理を後付けしていく必要があるだろう。でなければ空虚な愛が空虚なままで消え去ってしまうし、いつまで経っても文化は培われない。
日記210426
あすから緊急事態宣言が明けるまで休業です、と伝えられて、じゃあ小説を書こうと思った。小説を書いたことがないから書けるかわからないし、どんな要素を満たせば小説になるのかもわからない。でもそれは日記に対しても同じことで、まいにち書いている文章をとりあえず日記と呼んでいるだけで、これが日記なのかどうか、そもそもここに書き溜められた文章はいったい何なのか、よくわかっていない。ただ、日記の自由さと同等に、ソレルス『ドラマ』とか吉村萬壱『クチュクチュバーン』とか──まあタイトルは何でもいいのだが──を思い返せば小説としてカテゴライズ可能な文章の幅の広さがわかる。小説の懐の深さに甘えれば、ここに書き溜められた日記だって小説と呼ぶことができるのかもしれない。こうした文章の可能性をこそ小説とするならば、じぶんは小説を書きたいのではなく、文章はいかなる姿を現すことが可能なのか、ある程度時間や熱量をかけてみずから探求してみたいというその欲望を、小説という語に託しているとも言える。物書きでもなければ文学などを学んだわけでもないじぶんが、何を偉そうに、とは思うが、偉くないからこそごく自然に言葉を扱えている(少なくとも、扱えていると錯覚している)ことの不思議さに囚われてしまう。せっかく三週間ほど労働せずに済むのだから、生活するうえではまったく役に立たない不思議さと向き合う時間としてはちょうどいいだろう。
昨日つくった肉じゃがの残りを夜に食べる。食べ終えて、台所まで食器を持っていくと、シンクからあふれるほど蓄えられた洗い物が目についたから、面倒を押し避けてスポンジを手に取る。しばらく食費も抑えなければいけないかなと思いながら、そんなことはどうでもいいような気もする。買い溜めてばかりの本が机上に積み上がってもいるし、読んだり書いたりしながら、適当に過ごせればいい。食器が片付いた台所を見て、広くなったと一瞬思うが、どう見ても十分に狭い。
日記210425
昨日に買った味どうらくを使って肉じゃがをつくろうと思い、スーパーで豚こま、じゃがいも、たまねぎ、にんじんを買う。普段はろくに料理などせず、むろん肉じゃがもつくったことなんてないからレシピを調べてみると、味どうらくの公式サイトに肉じゃがのつくりかたが載っていたから、そこに書かれた指示通りにつくる。
1.材料を食べやすい大きさに切り、サッと水にさらします。
──水にさらす時間がわからなかったから、べつで調べた。
2.サラダ油を熱した鍋で玉ねぎを炒めて、全体に油が回ったら鍋の端に寄せ、肉を炒めます。
──鍋が小さく、肉を炒めるのに難儀した。
3.肉の表面に色が付いたら、溶かした※調味料を入れ、肉がチョット赤い部分を残す程度まで炒め煮ます。
──なぜ「ちょっと」がカタカナ表記なのだろう。
4.じゃがいも・にんじん・糸コンを入れ、全体に調味料を絡めます。
──こんにゃくはさほど好きでもないから糸こんは入れなかった。
5.じゃがいもの周りに火が通り、少しだけ透明になったら水を入れて、強火で一気に煮ます。
──鍋が小さく、具材をあたためるのに苦労した。「少しだけ透明」の意味がわからなかったが、やってみたらほんとうにじゃがいもの周りが少しだけ透明になった。
6.グツグツいってきたら、キッチンペーパーで落としぶたをしてアク取りし、蓋をして弱火で十五~二〇分煮込みます。
──キッチンペーパーを鍋からはみ出させていたせいで、吸い込んだ汁が角から滴っていた。
7.(十五~二〇分経ったら)じゃがいもに串を刺し、スーッと通ったら火を止め冷まして味を染み込ませます。
──串がないから箸を刺したらじゃがいもが崩れた。
8.食べる前に温めて召し上がれ!
──冷まさずに食べた。
はじめて自宅で肉じゃがをつくり、久しぶりに肉じゃがを食べた。レシピをなぞってつくればちゃんとおいしくできあがり、手間はかかるがたまにであれば面倒も気にはならない。煮込んでいる時間は本でも読んでいればいい。またやってみるのも悪くない。残った分をタッパーに入れる。
(レシピ部分は「ほっこり肉じゃが – 東北醤油株式会社」(http://www.touhoku-syouyu.co.jp/recipe/detail.php?recipe_id=55)からの引用)日記210424
啓文堂書店府中本店でSFマガジンの最新号と川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』を買う。ドトールへ行き、SFマガジンに掲載された鈴木一平+山本浩貴「無断と土」を読む。退店し、目的もなく駅前の商業施設を歩いていると、「秋田・九州物産展&マルシェ」が催されているのを見つける。「味どうらくの里」という、秋田県大仙市に本社をおく東北醤油株式会社から発売されている、秋田県ではたいへんポピュラーなめんつゆが売られていて、懐かしいなと思いながら買う。秋田の物産展と九州の物産展とでは会計の場所が異なっていて、フロアの隅寄りにレジを構える九州側の販売員は、暇そうにスマートフォンを触っていた。四角に並べた商品陳列用の机の内側でしゃがむ販売員の後方から画面がちらっと見えたとき、ツイッターの画面が表示されているように見えた。アカウントの特定ができないだろうかと思い、意識的に画面を覗き込もうとするが、よく見えなかったからすぐにやめる。電車に乗って新宿に向かい、紀伊國屋書店へ行く。詩の棚を見ると山田亮太『オバマ・グーグル』が置かれていたので手に取る。レーモン・クノー『文体練習』と福沢将樹『ナラトロジーの言語学』を併せて、三冊を買う。今月は本を買いすぎている。無計画な買いもののツケがどこかで回ってくるはずで、未来におそろしさを感じてしまうが、自分自身や世の中に対するどうでもよさが勝ち、すぐに気持ちを切り替える。府中に戻って、スーパーで里芋を買って帰宅する。買ったばかりの味どうらくを使って煮っ転がしをつくってみたがうまくいかなかった。煮っ転がしを食べながら友人と通話をしていたら、いつのまにか朝の四時になっていて、菅義偉のインスタグラムのアカウントを一通り見て笑ったのち、おやすみなさいと言って通話を切断する。