日記

  • 日記250124

    動き出す体にかすかな疼きが宿る。筋肉の奥深く、まるで忘れられていた記憶が目を覚ますような痛み。それは衰えたものが再び活気を取り戻そうとする抵抗のようでもあるし、失った時間の名残を振り払う一種の証でもある。正座から跳ねる、あるいは重りを携えて地を押し返す、その単純な行為が、日常の平板さをわずかに揺らしている。

    部屋という限られた空間で、身体は壁に向かい、床を押し、天井を見上げる。ブリッジの弧は重力に挑む弾力を持ち、逆立ちの静止は、上下の感覚をあやふやにする。動作の連続は、目的を持たないがゆえに自由だ。労働の時間とは異なる、ただの身体の営みとしての動き。その中で、筋肉と骨が互いに語り合うような感覚が蘇る。

    運動の合間、プロフェッショナルの仕事を見つめる。無感性を自覚する者が選ぶ、自らの無意識を乗り越えようとする行為――ゴミを拾い、コーヒーを淹れ、車を磨く。その細やかな反復の中で、人は社会において微かな痕跡を残そうとする。単なる習慣が持つ残酷な美しさに、自分の身体が呼応するのを感じる。触れた筋肉は固さを失い、指先に宿る熱が少しだけ心を動かす。

    夕暮れ時、湯気が立ち上る鍋の中にささみや春菊を沈める。出汁の香りが空間を満たし、やがてうどんが締めくくる。食卓の余韻に耳を澄ませると、日々の運動とともに、何かが少しずつ形を変えようとしているのを感じる。自己の輪郭が、動きと静止の境界でわずかに揺らぐ。

    生きていることの確認。触れる手の温度、筋肉が語る痛み、そして目を瞑ることで訪れる休息。その一つ一つが、生活のモチベーションを拾い上げ、薄暗いところでそっと光を灯している。

  • 日記250117

    空気が冷たく頬を刺す。電車に乗り込むと、車内は温かく、座席の布地が体を包み込むように柔らかく感じられた。隣に座った人がカバンを膝に乗せ、何かを探している。音も立てず、慎重な手つきで。彼が取り出したのは古びた文庫本だった。ページをめくる動作はゆっくりと、それでも確実なリズムを刻んでいた。その本の表紙に書かれたタイトルは目に入らなかったが、彼の没頭ぶりから本の世界がどれほど濃密であるかが伝わってきた。

    散歩に出る。小道を歩きながら空を見上げると、低く垂れ込めた雲が一面を覆っている。雲の隙間からわずかに漏れる光が、地上の風景に柔らかなコントラストを与えていた。道端の小さな花壇では、咲き残りのパンジーが冷たい風に揺れている。その動きは控えめで、冬の終わりが近づいていることを告げるようでもあった。

    帰宅後、台所に立つ。冷蔵庫から取り出した食材を手際よく切り分け、鍋に放り込む。ゆっくりと沸き立つ湯気が、台所を満たしていく。調理をしながら、ふと考える。人は何かを作り出すとき、その行為自体が過去の記憶や未来の期待と結びついているのではないかと。手元で煮込まれていく具材が形を変え、香りを放つ。完成した料理は単なる栄養ではなく、体と心を包み込む存在へと変わる。

    夜、窓の外を眺める。家々の灯りが点々と浮かび、どれも等間隔で息をしているように見えた。その明かりの一つ一つに生活があり、思いがある。外を歩く人影が見えた。どこか急いでいる様子だった。人が行き交うその様は、街全体が一つの生命体のようでもある。

    その日を通じて、何気ない動作や風景の中に、絶えず変化する何かがあることを感じた。それは記憶の中で形を変え、また新しい形を作り出していく。日々の中で何が重要なのかを知ることは難しい。それでも、その些細な断片が自分の中で再構成され、新しい意味を持つことを期待しているのかもしれない。

  • 日記250109

    目を開けるのも億劫なほど乾いた空気の中、電車の座席に沈み込む。瞼を閉じた瞬間、世界が途切れた。気づけば、時間はすり減り、車両はすでに降車駅に滑り込んでいた。眠りに落ちたというより、時間の継ぎ目が消え去ったようだった。意識の余白に、移動の記憶は何ひとつ残されていない。

    風は冷たく、喉の奥に乾きを残す。鼻の奥は詰まり、かすかに咳が込み上げる。皮膚の表面が一枚ずつ剥がれていくような、ひりつく感覚がある。かといって、風を避けるために屋内に入れば、今度は乾燥に包まれる。どこへ行っても身体の輪郭が滲み、どこにも馴染めない。

    京王線新宿駅。列の先頭に立つ人の肩が揺れたかと思えば、ひとりの男がすっと間をすり抜け、割り込んでいく。鮮やかで無造作な動き。周囲は一瞬の沈黙に包まれるが、すぐに元の流れに戻る。彼にとっては当然のことなのかもしれない。ルールを守る者が不便や不快を引き受け、ルールを逸脱する者が快適に振る舞う。それがこの世界の仕組みなのだろうか。ひとつの線を越えた者は、もはや越えたことすら意識しない。

    家に帰れば、昨日のうどんの残りが待っている。温めるだけの食事。簡素な作業を経て、湯気の立つ器を前に座る。熱が喉を通るたびに、鼻の奥がじんわりと開く。生姜の香りが微かに鼻腔を満たし、体の芯にじんわりと染み込む。夜は静かで、世界のすべてが白んで消えていくようだった。

  • 日記250108

    朝の空気が柔らかく差し込む中、両手の指がゆっくりと動き始める。左手の人差し指と中指は床を這う、滑らかに痕跡を描き出す蛇である。静かに進む痕跡を描く。右手の親指と薬指が小さく開閉し、湯気の存在を空間に浮かび上がらせる。中指が器に触れ、ぽんと音を立てる仕草で温かさを響かせる。薬指と小指が緩やかに揺れ、緑茶の香りを空間に広げ、人差し指がぺろりと舌の動きを写し取る。

    夜の台所。左手の親指が鍋の縁をなぞり、流れる水の輪郭を追いかける。右手の中指と薬指は具材を捉え、次々と鍋に送り込む流れを生み出す。中指が小さく持ち上がり、具材が軽やかに鍋へと運ばれる瞬間を表現する。親指と小指が鍋の中で旋律を奏でるように動き、湯気が薬指の揺らぎで立ち上る。最後に両手の指先が開き、料理の完成を静かに告げる。

    浴室の場面。右手の人差し指と中指が水滴の流れとなり、滑らかな動きを刻む。親指が小さく回転し、湯気を生み出す軌跡を描く。左手の中指と薬指が細かく動き、シャワーの勢いを空間に響かせる。右手の指先がくるくると回り、湯気に触れる鼻先の感触を再現する。水の流れが止まる瞬間、両手の指が静寂を結び、空間を満たす静けさを形作る。

    夜の部屋。右手の薬指と小指が布団に潜り込む輪となり、親指が布団の縁をそっと撫でる。人差し指が温もりを拾い集める軌道を描き、左手の中指が鼻先をかすめる風の流れを作り出す。指先が次第に動きを収束させ、消えゆく記憶が布団に溶け込むように消失する。

  • 日記250106

    朝、目が覚める。まだ眠れるはずなのに、まぶたが開く。身体は横たわっているのに、意識はすでに起きてしまっている。休むことと動くことのあいだに挟まれ、どちらにも寄りきれないまま布団の中で時間が過ぎる。

    外は寒い。決まった道を歩き、決まった場所へ向かう。空気は冷たく、光は硬い。倦怠感がゆっくりと積もる。喉がざらつき、身体の芯に鈍さが残る。

    帰宅後、うどんを作る。鶏肉、卵、生姜、ネギ。湯気が立つ。器の上に積もる生姜の香り。温かさが広がる。静かに食べる。味がしみる。

    残りのうどんは冷蔵庫に置かれる。明日の朝にはまた温められるだろう。

    湯船に浸かる。湿度が増し、肌にまとわりつく温かさが広がる。水面の揺らぎ、湯気の動き。流れていくもの。静かに目を閉じる。

    シャワーの音が響く。湯が落ち、流れ、消える。

    布団に横たわる。部屋は暗い。目を閉じる。時間が過ぎる。明日はまた違う日になる。

  • 日記250104

    静かに過ぎる一日。身体を動かそうとジョギングに出るが、思った以上に走れなかった。約五分。足が重く、息が上がる。身体の衰えを自覚する。日々の暮らしの中で、運動は必要不可欠なものではなくなり、意識的に取り組まなければならないものへと変わった。技術の発展によりあらゆる労力が省かれ便利になった世界。その代償として身体を駆使する機会は失われ、肉体は徐々に衰えていく。便利さに包まれながらかえって不安定な心を抱え、生存のためではなく失われた感覚を取り戻すために身体に負荷をかける。身体と精神の均衡を取り戻すための営み。それは何かが転倒しているように思える。

    昨日、多摩霊園を歩いた。並ぶ無数の墓石。そのほとんどは名前というかたちを持ちながらも、私にとっては単なる文字列に過ぎない。しかしいくつかの名だけが何かを想起させる。その名前を知っているからか。その人物の業績を知っているからか。そうした認知を経て私の中にその名前が埋め込まれているからか。名前は記憶を呼び起こし、また記憶に埋め込まれるものだ。個人の生の痕跡が石に刻まれるとき、それはただの識別ではなく記憶の発火装置となる。そこにいるはずのない存在をそこに立ち上げる仕掛けとして機能する。

    文字列が記憶を生み、物語を生成する。それは小説の読書体験とも重なる。文字を目で追い、そこに描かれる世界が自然と広がることもあれば、意味が捉えきれず物語が立ち上がらないこともある。その差はどこから生まれるのか。文字を読んでいるのに、そこに何も見出せない瞬間がある。名前を見ても何も感じない墓石のように。だが、たとえば役者が戯曲を演じるということは、意味を理解せずとも声を発し身体を動かすという経験をもって言葉を立ち上げようとする営みと理解ができるのではないか。テキストは具体的な発話と動作を介して世界に生成される。読むことと演じること。その間には、身体を媒介とした異なる作用がある。

    久しぶりに牛乳を飲んだ。思いのほかおいしかった。静かな午後、窓の外の雲が流れていく。身体を動かし、記憶を巡り、言葉を考え、ただ時間が過ぎていく。

  • 日記250101

    一日が早すぎるほどにゆっくりと過ぎる。遅い時間に目を覚まし、シャワーの熱さで体を起こす。寝ている間、ローカル線の旅をしている夢を見た。崖沿いを走る電車は途中横向きで走った。窓の外に放り出されそうで不安だった。終着駅を降りるとそこは旅館のなかだった。
    シャワーを終えて、講義動画を再生する。内容は難解でよくわからないまま2時間が過ぎた。話された言葉だけでなく記された言葉を適宜確認する必要を感じる。

    夜、近所の神社を訪れる。参道の出店は光を放ち、浮かれた人々のざわめきが響く。やんちゃな雰囲気が目立ち、信仰の静けさよりも消費の活気が漂う。わずかな羨望とともに感じる喧騒への倦怠。横道にそれると、屋台の裏側に隠れる暗闇が現れる。木々が垂れ、鳥居の提灯が遠くでぼんやりと灯る。ざわめきがかすかに届くなか、夜の静けさが頬を撫でる。

    帰宅途中、ローソンに立ち寄り、冷凍のお好み焼きとビーフジャーキーを買う。帰宅してそれらを食べながら、芋焼酎のソーダ割りを傾ける。近くにあった本を読む。「私」という単位が制作においてどのように駆動されるべきか。素朴な私性ではなく、技術として「私」が運用されることで成される表現。その可能性を掴みあぐねていると、また眠りの気配が近づいてくる。

  • 日記241231

    一日を眠りに費やした。体の奥深くで何かが沈殿し、微かな波紋が広がるような感覚が残る。夢は覚えていない。目覚めるたびに窓の外の光が変化し、時間が静かに進んでいることだけが伝わった。

    戯曲は役者に降りかかる権力である。その力に従う身体は、普段の生活で培われた習慣や心理を一時的に放棄し、役を受け入れる必要がある。しかし、習慣を変容させることは簡単ではない。稽古という繰り返しの中で身体が書き換えられ、戯曲が役者に内在化されていく。

    土方巽のテキストを読む。一読すれば隠喩として処理してしまいそうな奇妙な言葉の連鎖は身体を通じて形を得ることで、既存の権力の枠外に存在する新たな表現を可能にしているようにもおもう。戯曲が役者の身体に与える影響と、土方の舞踏が身体から生み出すもの。その対比の中からテキストと身体の相互作用を見出せるのか。

    知が生産され、権力が働き、主体が現れる。戯曲と役者の関係はこの構造に似ている。戯曲は知の一形態として役者に権力を及ぼし、稽古を通じて新たな主体を形成する。それは上演という形で観客に届けられ、観客が受け取ることで新たな知が生まれる。

    眠りの中で身体が休息を得るように、言葉と身体の間にも静かな循環がある。その循環が何を生み出し、どこへ向かうのか。答えはまだ見えないが、ひとまず目を閉じて、また眠りの波に身を委ねることにする。

  • 日記241230

    昼寝から目覚め、街へ出る。空気は年末特有の微かな緊張感を帯びている。店先には赤く鮮やかな蟹が山積みされ、一瞬目を引くが、それ以外に目立つものは少ない。

    耳に残る音楽。スピッツ「ロビンソン」が流れている。軽やかさの中に悲観と楽観が入り混じる。音の風景の中で感情は具体的なかたちを持たず、空気に溶け込むように漂う。その不確かさに想像は掻き立てられる。

    講義動画を視聴する。自然法則、反射、行動の違いは、質の違いではなく程度の違いとして提示されるという。激しさと静けさ、短い旋律と長い余韻。それらが同じ軸上で連続的に並ぶとき、対立ではなく、微妙な関係性が浮かび上がる。

    夜、友人宅を訪れる。懐かしい音楽が部屋を満たす。Led Zeppelin「Whole Lotta Love」。ロバート・プラントの情熱的な声は、炎のように響いたあと、かなしい余韻を残して消えていく。新しい旋律も耳に届く。起伏に満ちた音波が感覚を鋭く刺激する。過去の音楽と現在の音楽が交差する。それぞれのリズムが静かな夜に絡み合う。

    音の流れが空間を満たし、記憶と響き合う。音楽はただ存在し、時間の流れの中で新しい何かを生み出していく。夜は静かに深まっている。

  • 日記241229

    身体が求めるままに眠りがつづいた。昼寝のさなか、耳元でモーター音が微かに鳴っていた。それは意識の奥に滲み込み、夢の中で不確かな音として漂った。どこかで音を探しているような感覚が残り、目覚めたあとも薄く影を落としていた。

    夕方、熱いお湯の中に身を沈め、最果タヒの詩を読む。文字は湯気に混ざり、汗にかき消された。指先や眼球への指示。身体と接続するような錯覚。湯気の向こうで揺れ動く。身体の境界がにじむ。

    書かれた文字という存在が湯気を漂う。それが何を引き起こし、どこへ向かうのかを考える。記された言葉の重なりが、世界を切り分けると同時に新たなつながりを生む。言葉が境界を超える。浴槽の縁においた炭酸水を飲む。泡が口のなかではじける音が耳に届く。

    夜、動画を視聴する。難解な言葉が語られ、それが積み重なる音の層となる。言葉の響きがそのまま問いとなる静かな夜が揺れつづけている。

    手にとれるものの数がすこしずつ増える。書かれた文字、耳に触れる言葉、それぞれが静けさにゆっくりとかたちを変え、沈殿していく。絶えず生まれるであろう新たな問いが不思議といまの時間を満たしている。