日記

  • 日記250106

    朝、目が覚める。まだ眠れるはずなのに、まぶたが開く。身体は横たわっているのに、意識はすでに起きてしまっている。休むことと動くことのあいだに挟まれ、どちらにも寄りきれないまま布団の中で時間が過ぎる。

    外は寒い。決まった道を歩き、決まった場所へ向かう。空気は冷たく、光は硬い。倦怠感がゆっくりと積もる。喉がざらつき、身体の芯に鈍さが残る。

    帰宅後、うどんを作る。鶏肉、卵、生姜、ネギ。湯気が立つ。器の上に積もる生姜の香り。温かさが広がる。静かに食べる。味がしみる。

    残りのうどんは冷蔵庫に置かれる。明日の朝にはまた温められるだろう。

    湯船に浸かる。湿度が増し、肌にまとわりつく温かさが広がる。水面の揺らぎ、湯気の動き。流れていくもの。静かに目を閉じる。

    シャワーの音が響く。湯が落ち、流れ、消える。

    布団に横たわる。部屋は暗い。目を閉じる。時間が過ぎる。明日はまた違う日になる。

  • 日記250104

    静かに過ぎる一日。身体を動かそうとジョギングに出るが、思った以上に走れなかった。約五分。足が重く、息が上がる。身体の衰えを自覚する。日々の暮らしの中で、運動は必要不可欠なものではなくなり、意識的に取り組まなければならないものへと変わった。技術の発展によりあらゆる労力が省かれ便利になった世界。その代償として身体を駆使する機会は失われ、肉体は徐々に衰えていく。便利さに包まれながらかえって不安定な心を抱え、生存のためではなく失われた感覚を取り戻すために身体に負荷をかける。身体と精神の均衡を取り戻すための営み。それは何かが転倒しているように思える。

    昨日、多摩霊園を歩いた。並ぶ無数の墓石。そのほとんどは名前というかたちを持ちながらも、私にとっては単なる文字列に過ぎない。しかしいくつかの名だけが何かを想起させる。その名前を知っているからか。その人物の業績を知っているからか。そうした認知を経て私の中にその名前が埋め込まれているからか。名前は記憶を呼び起こし、また記憶に埋め込まれるものだ。個人の生の痕跡が石に刻まれるとき、それはただの識別ではなく記憶の発火装置となる。そこにいるはずのない存在をそこに立ち上げる仕掛けとして機能する。

    文字列が記憶を生み、物語を生成する。それは小説の読書体験とも重なる。文字を目で追い、そこに描かれる世界が自然と広がることもあれば、意味が捉えきれず物語が立ち上がらないこともある。その差はどこから生まれるのか。文字を読んでいるのに、そこに何も見出せない瞬間がある。名前を見ても何も感じない墓石のように。だが、たとえば役者が戯曲を演じるということは、意味を理解せずとも声を発し身体を動かすという経験をもって言葉を立ち上げようとする営みと理解ができるのではないか。テキストは具体的な発話と動作を介して世界に生成される。読むことと演じること。その間には、身体を媒介とした異なる作用がある。

    久しぶりに牛乳を飲んだ。思いのほかおいしかった。静かな午後、窓の外の雲が流れていく。身体を動かし、記憶を巡り、言葉を考え、ただ時間が過ぎていく。

  • 日記250101

    一日が早すぎるほどにゆっくりと過ぎる。遅い時間に目を覚まし、シャワーの熱さで体を起こす。寝ている間、ローカル線の旅をしている夢を見た。崖沿いを走る電車は途中横向きで走った。窓の外に放り出されそうで不安だった。終着駅を降りるとそこは旅館のなかだった。
    シャワーを終えて、講義動画を再生する。内容は難解でよくわからないまま2時間が過ぎた。話された言葉だけでなく記された言葉を適宜確認する必要を感じる。

    夜、近所の神社を訪れる。参道の出店は光を放ち、浮かれた人々のざわめきが響く。やんちゃな雰囲気が目立ち、信仰の静けさよりも消費の活気が漂う。わずかな羨望とともに感じる喧騒への倦怠。横道にそれると、屋台の裏側に隠れる暗闇が現れる。木々が垂れ、鳥居の提灯が遠くでぼんやりと灯る。ざわめきがかすかに届くなか、夜の静けさが頬を撫でる。

    帰宅途中、ローソンに立ち寄り、冷凍のお好み焼きとビーフジャーキーを買う。帰宅してそれらを食べながら、芋焼酎のソーダ割りを傾ける。近くにあった本を読む。「私」という単位が制作においてどのように駆動されるべきか。素朴な私性ではなく、技術として「私」が運用されることで成される表現。その可能性を掴みあぐねていると、また眠りの気配が近づいてくる。

  • 日記241231

    一日を眠りに費やした。体の奥深くで何かが沈殿し、微かな波紋が広がるような感覚が残る。夢は覚えていない。目覚めるたびに窓の外の光が変化し、時間が静かに進んでいることだけが伝わった。

    戯曲は役者に降りかかる権力である。その力に従う身体は、普段の生活で培われた習慣や心理を一時的に放棄し、役を受け入れる必要がある。しかし、習慣を変容させることは簡単ではない。稽古という繰り返しの中で身体が書き換えられ、戯曲が役者に内在化されていく。

    土方巽のテキストを読む。一読すれば隠喩として処理してしまいそうな奇妙な言葉の連鎖は身体を通じて形を得ることで、既存の権力の枠外に存在する新たな表現を可能にしているようにもおもう。戯曲が役者の身体に与える影響と、土方の舞踏が身体から生み出すもの。その対比の中からテキストと身体の相互作用を見出せるのか。

    知が生産され、権力が働き、主体が現れる。戯曲と役者の関係はこの構造に似ている。戯曲は知の一形態として役者に権力を及ぼし、稽古を通じて新たな主体を形成する。それは上演という形で観客に届けられ、観客が受け取ることで新たな知が生まれる。

    眠りの中で身体が休息を得るように、言葉と身体の間にも静かな循環がある。その循環が何を生み出し、どこへ向かうのか。答えはまだ見えないが、ひとまず目を閉じて、また眠りの波に身を委ねることにする。

  • 日記241230

    昼寝から目覚め、街へ出る。空気は年末特有の微かな緊張感を帯びている。店先には赤く鮮やかな蟹が山積みされ、一瞬目を引くが、それ以外に目立つものは少ない。

    耳に残る音楽。スピッツ「ロビンソン」が流れている。軽やかさの中に悲観と楽観が入り混じる。音の風景の中で感情は具体的なかたちを持たず、空気に溶け込むように漂う。その不確かさに想像は掻き立てられる。

    講義動画を視聴する。自然法則、反射、行動の違いは、質の違いではなく程度の違いとして提示されるという。激しさと静けさ、短い旋律と長い余韻。それらが同じ軸上で連続的に並ぶとき、対立ではなく、微妙な関係性が浮かび上がる。

    夜、友人宅を訪れる。懐かしい音楽が部屋を満たす。Led Zeppelin「Whole Lotta Love」。ロバート・プラントの情熱的な声は、炎のように響いたあと、かなしい余韻を残して消えていく。新しい旋律も耳に届く。起伏に満ちた音波が感覚を鋭く刺激する。過去の音楽と現在の音楽が交差する。それぞれのリズムが静かな夜に絡み合う。

    音の流れが空間を満たし、記憶と響き合う。音楽はただ存在し、時間の流れの中で新しい何かを生み出していく。夜は静かに深まっている。

  • 日記241229

    身体が求めるままに眠りがつづいた。昼寝のさなか、耳元でモーター音が微かに鳴っていた。それは意識の奥に滲み込み、夢の中で不確かな音として漂った。どこかで音を探しているような感覚が残り、目覚めたあとも薄く影を落としていた。

    夕方、熱いお湯の中に身を沈め、最果タヒの詩を読む。文字は湯気に混ざり、汗にかき消された。指先や眼球への指示。身体と接続するような錯覚。湯気の向こうで揺れ動く。身体の境界がにじむ。

    書かれた文字という存在が湯気を漂う。それが何を引き起こし、どこへ向かうのかを考える。記された言葉の重なりが、世界を切り分けると同時に新たなつながりを生む。言葉が境界を超える。浴槽の縁においた炭酸水を飲む。泡が口のなかではじける音が耳に届く。

    夜、動画を視聴する。難解な言葉が語られ、それが積み重なる音の層となる。言葉の響きがそのまま問いとなる静かな夜が揺れつづけている。

    手にとれるものの数がすこしずつ増える。書かれた文字、耳に触れる言葉、それぞれが静けさにゆっくりとかたちを変え、沈殿していく。絶えず生まれるであろう新たな問いが不思議といまの時間を満たしている。

  • 日記241007

     きのう朝から映画を観に行ったが上映開始直後から強い眠気に襲われて、動きの多い映像でもなかったからなおさら眠く、けっきょく半分以上の時間を眠ってしまったような気がする。ぐっすり眠ったはずだが映画終了後もすっきりせず、電車移動の時間でまたすこし寝て、おなかがすいてラーメンを食べるなどはさんでみては、帰宅してからもずっと横になっていた。
     どうしてからだを横にするとこうも心身がらくになるのか。課金制でもよいから気軽に横になれるスポットが街のあちらこちらにあるだけで、日々の疲労感も外出前の億劫さも軽減できるはずであろうにお昼寝で一儲けしようという企業家はどうもいないらしい。べつに横になることで公序良俗を乱すということもあるまい。どうにか公共の場でごろごろできる街づくりが進まないものか。
     それはさておきどうも頭はおもいしからだもだるいとおもっていたが、今朝起床したときもやはりだるい。ルーティンの二度寝をしても特に変わらず、通勤電車ではいつものように本を読む気すらおきず立ちながら新宿まで目をつむる。頭がしゃっきりしないまま勤務を開始して、ときおり眠気に屈しながらも業務をこなし、休憩時間は沼にしずんでいくみたいな昼寝をしては、どうにか退勤したあとの帰りの電車でまた沼にしずむ。なんとなく風邪の初期症状めいた気配も漂っている。なんにせよ寝不足はよくない。養命酒を飲んでさっさと寝る。

  • 日記241003

     平日の疲労が尋常でない。朝から晩まで労働への従事を強いられているのだからつかれるのもとうぜんなのであろうが、労働だとか労働に時間を割かれることによる睡眠不足とかを疑う以前にまともな食事をとれていないことのほうが影響が大きいのではという気もしてくる。
     平日の食事はほとんどルーチン化している。朝はベースブレッドをひとつとサプリメントをいくつか、昼はベースブレッドをひとつ、夜はコンビニでグミとラーメンとかうどんとかの主食の類いを買って食べ、寝るまえにサプリメントをいくつか摂取する。ベースブレッドは約250kcal、グミはものにもよるがひと袋100~300kcal、ラーメンとかうどんとかは500~800kcal、その他なにかつまんだとして200kcalくらい多めに見積もって、合計1800kcal。農林水産省は成人男性は1日2200kcalていどの摂取を推奨しており、いざ計算してみると推奨値比で少ないにしては少ないが、とりたててさわぐほど少ないわけでもなさそうではある。そもそもひとより痩身なのだから推奨値よりも少ないくらいがおそらくはちょうどよく、なんなら妥当という見方もできそうなくらいである。
     摂取カロリーに圧倒的な不足がみられるはずだとの思惑がびみょうに外れて途方に暮れかけているのだが、ではどうしてこんなに慢性的に日々ぐったりするというのだろう。ふと総務から健康診断を早く受けろと催促の通知がきていたことがおもいだされる。診断せずとも不健康であることは自明なのであり、仮に健康と診断されようものならそれはそれで困るというか、これが健康と呼ばれるのなら健康であるという状態にはいっさいの有益性はないと断言したくもなる。あるいは不健康であったとしてもひとは不健康者に対して健康を強制してくるのであり、不健康でありながらも生活を送るための技術を提供するでもなければ支援をするでもない。所詮管理する側の連中はひとを労働力としか見なしていないのであり、個別の労働資源に標準を逸されては管理統制の効率悪化を招きかねずこまるのであって、雇われの身であるわたしは不健康である自由をつねにおびやかされている。ひとを不健康に陥れる環境に囲っていながら健康であれとはなにごとかという話である。
     いくら御託をならべてもからだのだるさはなんら解消されない。だるいときにはぐっすりねむるのがもっともなのだと決まっている。養命酒を飲んでさっさと寝る。

  • 日記241002

     愛の言葉は書かれた瞬間に書き手の手を離れ、言葉自体の運命に委ねられる。受け取られることなくだれのこころにも響かずに消え去ることもあれば、予期せぬだれかのもとに流れ着き、おもいもよらない仕方でだれかの胸を打つこともある。その愛の言葉が宛てられた受け手に届いたとしても、書き手が意図したままの感情を伝えられることは稀だろう。しかしだからといってラブレターが無力だというわけでもない。
     おそらく多くの場合にはラブレターは愛を伝えることを目的として書かれるが、その言葉が意図どおりに受け手に届くとはかぎらない。むしろラブレターの言葉は書き手と受け手のあいだに横たわる不確実性と誤解の可能性を孕んだ曖昧な場をつくりだす。その場において愛は固定された概念としてではなく、読み手の解釈と心の状態によって、あるときは強烈な感情として、またあるときはささやかな響きとして立ちあらわれる。たとえおなじ言葉を使っていたとしても、愛がその文字列のなかに潜んでいるかどうかは読み手の状態に左右される。
     愛が発見される瞬間は意図的に生み出せるものではない。むしろそれは、偶然に、あるいは予期せぬタイミングで、受け手のもとに不意に訪れるものだ。たとえば、書かれてから何年も経ちある出来事をきっかけに突然その手紙を読み返すとき、過去には何の響きももたらさなかった言葉が現在の読み手に強く訴えかけることがある。このとき愛は書かれた瞬間に生成されたのではなく再読という行為を通して新たに発見され現前する。ラブレターが愛を伝えるかどうかはけっしてその手紙が書かれた当初の意図や状況には依存しない。愛はつねに読み手に対して開かれた可能性としてそこにあり、その姿を変えながら現れ、あるいは消えていく。

     愛の伝達の不可能性。言葉は書き手の感情そのものを他者にそのまま届けることはできず、伝達を試みる瞬間にその不可能性を露呈してしまう。だからといって愛の言葉が無意味だと結論づけることもできない。伝達の不可能性を認識したうえで書かれたラブレターであるからこそ、読み手がそこに愛を発見したとき偶然にもたらされた奇跡のような体験として記憶にのこることだろう。書き手が意図した愛がそのまま伝わったのではなく、むしろ言葉が不確かに響き、時には誤解されるその過程を経たからこそ、その言葉が最終的に愛として受けとられる瞬間が訪れる。
     ラブレターの言葉は書かれた瞬間に書き手の手を離れ独自の運命を歩みだす。愛は伝えられるものでも理解されるものでもなく、受け手によってその言葉の向こうに発見される。書かれた言葉を手がかりとして、受け手がそれを感じとり、自らの心の中に愛を創り出すプロセス――それこそが愛の発見の瞬間なのだろう。ラブレターは愛の発見を生み出す媒介物にすぎず、ラブレターが持つ本当の力とは、不確実さゆえに受け手が偶然にもそこに愛を見出す可能性を秘めているところにある。言葉が受け手の心をどのように揺さぶりどのような感情を生じさせるかは、書き手の手を離れた瞬間からすべて受け手の内なる心の風景に委ねられることになる。伝えられないからこそ愛は書かれる。伝わらないからこそラブレターは書きつづけられる。愛はその行為のなかでだれかに発見されるのを待っている。

    ラブレターについて語らう茶話会を開催します

    日時:2024年10月19日(土)15時30分から18時00分まで
    場所:府中市内貸し会議室(京王線府中駅から徒歩1分)
    参加費:500円
    定員:8名
    お申し込み:Googleフォーム

  • 日記241001

     原則的に言語活動は複製によって営まれる。日本語話者が発する言葉はたいがい五十音に文節可能であり、それら一音一音が連なって構成する各ユニットはたいがい広辞苑に載っている。知らない単語が混じった分は少なくとも字面だけでは基本的に理解が困難なのであり、会話はたがいが理解できる言葉――たがいが知っている言葉――によって営まれる必要がある。あくまで原則的には。
     「あなたを愛してる」とわたしは発言することができ、あるいは紙面に書くことができる。キーボードやタッチパネルを介してディスプレイに表示させることも可能である。しかし愛するあなたに「あなたを愛してる」と声または文字で伝えたとしても、それはかならずしもあなたに愛を伝えることに結実しない。あなたを愛してる――現にいまわたしがあなたの目に触れるようにそう記述したところで、あなたがそこに私からの愛を感じないように。
     言葉は複製される。わたしはかつてだれかが「あなたを愛してる」と発言することで愛を伝えたであろうことを頼りに、かつてのだれかの愛の表現を模倣するかたちで「あなたを愛してる」と言うことができる。同様に、わたしはわたしが愛しているひとに対して行う愛の表現を模倣するかたちで、愛していないひとに向けて「あなたを愛してる」と発言することができる。あるいはわたしでないだれかはわたしが愛するひとに向けて「あなたを愛してる」と発言することができる。そして言うまでもなく、わたしでないだれかはわたしが愛していないひとに向けて「あなたを愛してる」と日々世界のどこかしらで伝えていることであろう。
     たったひとりのわたしからたったひとりのあなたに向けて発されたはずの「あなたを愛してる」というフレーズは無限に複製されつづけ、無限に複製されつづけている「あなたを愛してる」というフレーズのおかげでわたしにはあなたに愛を伝える可能性を与えられているはずなのだが、それゆえにわたしはわたしにとってただひとつしかないはずの愛をあなたに伝えられずにいる。

    ラブレターについて語らう茶話会を開催します

    日時:2024年10月19日(土)15時30分から18時00分まで
    場所:府中市内貸し会議室(京王線府中駅から徒歩1分)
    参加費:500円
    定員:8名
    お申し込み:Googleフォーム