日記

  • 日記210326

     その日の夜に日記を書くと、日記を書いたあとの寝る前までの出来事がまったく記述されなくなってしまう。だからその時間帯での出来事を書く日があってもいい。

     昨晩、プライムビデオで『私をくいとめて』という映画を観た。綿矢りさの小説が原作のこの作品は、主人公・みつ子の脳内に相談役のAという存在がいて、その主人公の声と脳内のみで発される声との会話が絶えず行われる点に特徴がある。しかしこのAは内なる声であるにもかかわらず、かなり外側にひらけていて、目の前にある現実に対してもつねに冷静で客観的だ。ゆえに、慣れない飛行機に乗ってパニックに陥ったときも、焦って周囲が見えなくなるみつ子をAはやさしく励ます。いわば自意識でしかないはずのAは、みつ子が現に置かれている状況から離れた神の視点から声を発している。この内なる声かと思いきや神の声たるAはその存在をどこに由来しているのか、解釈に迷う。Aがたんにメタレベルに生じた「私」であれば「私にとってAは私であり、Aにとって私は私である」という等価の関係として扱えるが、『私をくいとめて』では(たとえ台詞上で「私はあなたであり、あなたは私である」という旨が発言されていても描かれ方として事実上)「私にとってAは私であり、Aにとって私は彼女である」という非対称な関係として現れている。神の視点、と書いたが、神はすがる対象でこそあれ、じかに語りかけてくる案内役ではないように思う。私に語りかけてくる内なる三人称(めいた)視点というのはかなり異様だ。この視点が何を示唆しているのか、あるいは現実的に具体例としてどんな状況が挙げられるのか、あまり思い当たらない。原作だとまた異なる表現として書かれているのだろうか。一時間ほど観て、飽きと疲れがきて、観るのを中断した。まだ続きを観ることができていない。最後まで観ればなにか異なる気づきがあるのかもしれない。

     テレビのバラエティ番組やお笑いのコントのような演出がされた国内映画をたびたび見かける。隙間を埋めるように劇伴をあててシーンをつないだり、テロップのように文字を文字として画面に映したり、露悪的にいえば過度で派手でわかりやすく(映像の内側と外側の両者にとっての)感情をつくり出そうとする効果が主だ。こうした演出は「映画好き」「洋画好き」のひとたちには揶揄や蔑視の対象として扱われることが多いが、端的に依存する文化文脈の違いでしかなく、インドのカレーと日本のカレーがそれぞれ異なるみたいな話でしかないように思う。理想的な映画像を掲げて、それに該当しないと思われる「映画」を名乗る表現に対し、これは映画ではないと判断をくだすことで、さらに理想像を強化する否定神学的態度はあまり好きではない。そう思う一方で、テレビバラエティ的演出による映像制作ももっと洗練されていてもいい気がする。実際問題、一時間で飽きと疲れを感じた原因の一端はそこにあるのではないか。過度で派手でわかりやすい演出も、数分のコントであれば楽しめるのかもしれないが、二時間もやるようではさすがにうるさい。せっかくテレビバラエティ的とざっくり括れてしまうような表現手段をもっているのだからもっと研ぎ澄ませて驚かせてほしいと、観客としては素直に欲望してしまう。べつにじぶんは映像表現に長けているわけでもなく、こちらからなにかアイデアを出すなどとうてい無理なのだが、制作のプロにそれくらいの期待をしても問題はないだろう。表現に可能性を見出す、表現の可能性を支えるのは、表現者や実作者よりもむしろ観客の側なのかもしれないけど。

     以上は昨晩に考えていた話で、今日は何があったか何を考えていたか特に思い出すようなこともなく、ただ朝の目覚めがやけによかったことだけは覚えている。あたたかくなってきたおかげだろうか。

  • 日記210325

     出勤のために電車に乗ると、車内はいつもより混雑していた。電車が駅を出発する直前、出入口いっぱいまでひとが詰まった車両にさらにひとり乗り入れてきて、ここからまだ乗り込めると思える気の強さに感心した。いざひとが入ってくると、車内出入口付近のひとたちはわずかに保っていた空間を埋めるようにさらに身を寄せ合い、意外とすんなり追加一名分のスペースができてしまう。出発の時刻がきて、扉が閉まり、出入口前のひとたちは扉に寄りかかり、またわずかにスペースが生まれて、周辺のひとたちは立ち位置や身体の向きを微調整し、ひととひととのあいだに少しだけ余裕ができる。上京したての頃は驚いていた満員電車も、いまではすっかり作法を身につけ、何事もなく適応している。
     笹塚で京王線から都営新宿線へと乗り換える。空席があったから着座して、本を開く。新宿三丁目辺りでまぶたが重くなり、手に持つ本の読みかけのページに人差し指を挟んだまま眠ってしまう。九段下に到着して目を覚まし、本をリュックにしまって降車した。身体の重さを感じ、頭はぼんやりする。身体をしゃっきりさせたいと思ってローソンでリポビタンDを購入し、その場で飲んだ。
     カフェインが効いたのか午前中はまともに労働ができた。午後は眠かった。一日中まともに起きて活動を続けられないこの身体を改善する手立てはあるのだろうか。利尿作用のせいかやたらとトイレが近い。身体の反応はあきらかにリポビタンDを反映している。しかし眠気だけはどうにもならない。眠気を抱えたまま勤務を終え、眠気を抱えたまま電車に乗った。朝から眠気を抱えつづけている。いつものように車内で本を読む。新宿に着き、目の前に座るひとが降車して、空いた座席に着座し、また本を読む。しかし即座に文字が頭に入らなくなり、電車に合わせて揺れては遠ざかろうとする意識の先で、ひとの出入りや車内アナウンスにかすかに触れつつ、いつのまにか眠りに落ちたようだった。耐え忍んだ眠気が昇華されゆくその最中の、とてつもなく心地よかった感覚を残した身体を起こし、調布で電車を乗り換えた。
     府中に着き自宅へ歩を進める途中で、家賃の振り込みを忘れていることに気づく。

  • 日記210324

     

     Wordpressを使うとなにがどこまでできるのだろうかと思い、適当にGoogle検索を行うと「集客」「稼ぐ」などのキーワードがセットになった記事がいくつも出てきた。ろくに読みもせず、というか記事を開きもせず、検索結果が表示されたタブを閉じる。見たい風景はこれではない。
     いつからインターネットは「集客」して「稼ぐ」場所になったのだろう。たんに見えていなかっただけで、私がネットに触れはじめたときにはすでにそうであったのかもしれない。けれど少なくとも、インターネットと稼ぐこととがつながる回路を、私はもっていない。私にとってインターネットは自由に「遊ぶ」場所だ。この日記を読みにくる読者も利益をもたらす「客」なんかではない。ひとりで好き勝手に遊んでいるところを、気づけばいっしょにたのしんでくれている「友人」や「同志」と呼ぶにふさわしいひとたちだ。この日記が誰かに読まれることは、結果的に私に充実感を与え、その意味では読者は私に利益をもたらしているのかもしれないが、それは定量化不可能な、数字や効率の外側にある幸福であるはずだ。
     そもそもこちとら稼ぎにかまける輩のせいで不自由さの増したインターネットに辟易して、好き勝手に遊ぶためだけにわざわざ金を支払って個人サイトを立ち上げている身である。カフェでひと休みするには金がいる、温泉に入るには金がいる、本を読むには金がいる、電車に乗るには金がいる、大学に通うには金がいる、ディズニーランドを訪れるには金がいる、金を支払うことで果たしたい欲望、つまりみずからにとっての自由が叶う。だから私はインターネットで遊ぶために金を払う。ただたのしむために金を払う。誰もが日常的に行っているごく普通の営みだ。ディズニーランドに行って金を稼ごうなんてひとがいるとは思えないし(いるのかもしれないけど)、ディズニーランドに行けば稼ぎを得ずとも満足感を得られるだろうし、また時間をつくって訪れようとすら思うだろう。インターネットだって同じではないだろうか。それともサービスを売る側、稼ぐ側に回りたいと願うひとが、思っている以上に多いというだけのことなのか。

     勤務中に見知らぬ親子を見て、顔が似ているなと思った。片方だけを見ればただそのひとの顔であるのだが、二人揃って並んでいるとその類似性が主体の奇妙な拡張をもたらすかのようでいて、しかし同時に一方の特徴、言い換えれば、そのひとがそのひとであることが、より際立つようにも見えてくる。それに加えて、たとえば同じ家で十数年二十数年と暮らしているとなれば、おそらくは顔という遺伝的に複製されるような要素だけでなく、表情や身振り手振り、口癖や声の調子、歩き方や立ち姿勢、箸の持ち方、麺の啜り方、ソファでのくつろぎ方、くしゃみの仕方、収納の方法、入浴後の習慣、そうしたあらゆる動作も一方から他方へと伝染してしまうことだろう。子は親の複製物である。というと語弊があるかもしれないが、この考え方を私が重要視していることは間違いない。ここでいう親や子は、けっして血縁関係だけを指示しない。人類が歴史のなかで、歴史に依存しながら文化を育み、その過程で文明を発達させている以上、複製、模倣、真似、伝承、継承、参照、参考といったことは普遍的な事柄で、そのひとつの象徴として親子、あるいは家族がある。親子の関係は一般に親が優位に立つことが多い。抽象的にいえば、オリジナルとコピーを並べたとき、一般にオリジナルが優位であると考えられる。しかし、この両者はほんとうに優劣の関係性にあるのだろうか。前例なくして複製はありえないが、同様に複製こそがオリジナルをつくりだしているのではないか。これを私自身の関心に置き換えると次のようになる。無数の複製が重層した現れとして「私」は仮構されるのではないだろうか。そして、そのことを逆手にとり、多層的主体としての「私」に対して意識的に働きかけ、「私が私であること」を「確固たるたったひとつの存在としての私」とは異なる形式において捉えられないだろうか。地層としての「私」。書物としての「私」。複製に複製を重ねて「私」を浮かび上がらせる層に働きかけ、さらに書き換えようとするその過程で「私」の範囲の操作を試みる、そのような場をつくれないかと考えていて、その理念系をとりいそぎ「共同制作」などと名付けている。まだおぼつかないアイデアだが、親子という複製的関係性を踏まえるに、私が言わんとする「共同制作」とは柔軟に入れ替え(交代)可能な親子のようなものに近いのかもしれない。

     労働を終えた帰り道で書店に立ち寄り早稲田文学の春号を購入した。レジには長い列ができていた。並んで会計を待つ間に視界に入った本をなんとなく手に取ってそのまま流れで購入した。コンビニで目についたお菓子に手を伸ばすような感覚で本を買うのはよくないような気がする。なにせコンビニのお菓子と書籍とでは価格が十倍は変わる。書店にいるときの私は、もう少し自らの収入を気にすべきだ。

  • 日記210323

     スマートニュースを開くと五輪聖火リレー出発式に関する記事がいくつか並んでいて、あまりに現実味がないが現実であることが確からしいその報道に鳥島伝法『るん(笑)』を読んだときの感覚を思い出す。『るん(笑)』は迷信やおまじないや似非科学などのいわゆる「スピリチュアル」なものを盲信するひとびとを描いたお話で、そこで営まれる異様で異質な生活習慣に笑ってしまったり恐怖を覚えたりしながら読み進められる一方で、突拍子のないような生活様式が現実でもたびたび見かけるような話にも思われ、スピリチュアルな世界を生きる自らに気づかされる、読んでいて頭がクラクラしてくる小説だ。スピリチュアルなフィクションがたんにリアリズムであり、現実からそう遠くない地続きの世界であるという、そのクラクラ感を、この頃の五輪関連の報道から感じてしまう。そもそも開催する気らしい、だけど海外客の観客受け入れは見送るらしい、開会式の演出チームでは統括ディレクターによるパワハラや容姿侮蔑が行われていたらしい、そういえばつい先日もオリパラ組織委員会の会長が女性蔑視発言で引責辞任したらしい、代表選手の選考はもちろん進んでいないらしい、国の首相は聖火リレー出発式を欠席するらしい、その他云々、すべてが銀河の果ての遠い惑星での出来事のようでどこまでも空虚でしかないのだが、これが現実と地続きどころかたんに地であるらしい。各社の記事で昨年二月にリハーサルを行う石原さとみさんの画像が使用されていて、にこやかな表情に居た堪れない気持ちになる。

     デリダの『絵葉書』を読み進めている。百ページを超えたあたりからさっぱり付いていけなくなり、テクストからみるみる振り落とされていく。『絵葉書』は精神分析(フロイト)について分析した論文で、そもそも精神分析にまつわるあれこれやフロイトの一冊も読んでいない私にははじめから読み解けるわけがない。頭を抱えながら数年前にフロイトの『精神分析入門』を序盤だけ読んで放ったらかしにしていることを思い出す。しかし理解できずとも粛々と文字を追い続けているとたまにピンとくる部分があったり書簡という形式が提示するおもしろさを見つけたりする。そこに付箋を貼る。まったく理解できないけど文のテンション的に重要らしく思える箇所に付箋を貼る。根気強く、黙々と、粛々と文章と向き合う。読書は我慢に近い。数年前はフロイトを読み切る我慢がなかったが、いまはデリダを読み切る我慢がある。

     職場で賞味期限の過ぎたどら焼きをもらう。もらう前に、賞味期限切れだけど大丈夫?と訊かれた。ほんの数日前だから大丈夫だと思うけど、と一言付されて、じぶんもそう思ったから素直に受け取った。賞味期限というのもある側面では似非科学に似ている。帰宅して、もらったどら焼きを食べると、生地がパサパサしていた。

  • 日記210322

     いつもより一時間程度早く起きる必要があって前日から憂鬱だったが、すんなり目を覚ませて驚いた。妙に気分がよいのは独自ドメインを取得した高揚感が続いているせいかもしれない。
     Twitterにて「ドメイン」でフォロー内検索をかけるとライター/批評家のimdkmさんが2020年11月に「これはお得情報ですが、独自ドメインを自分の名前(ハンドルネームなど)でとるとマジで面白いのでおすすめです。サーバーも借りるとなおよい。」とツイートをしていた。ドメインを取得しただけでおもしろみに溢れてしまうのはじぶんだけではないらしい。実際、私はなにもわからないままドメインを取得し、なにもわからないまま愉快になっている。たんにじぶんにとって馴染みの文字列の末尾に.comなどがつき、そこへアクセスできてしまうというだけで、そんな些細なこととは思えないほどなぜか妙におもしろくなってしまっている。なにもわからなくても大丈夫だから、服を買うくらいの感覚でドメインを取得する嗜みが広がればいいと思う。かっこいい服を着るとたのしい。ドメインを取得するとたのしい。

     ちなみにこのサイトでも使われている「mu4real」という文字列。元祖はTwitter IDの「mu_4REAL」から誕生し、他のSNSに登録するたびにアンダーバーを増やしたり減らしたりしながら使いまわしている。たまに違うひと感を出したくなってまったく異なる文字列を使用したり、ユーザー名のむぅむぅに合わせて「mumu」にしてみたりもあるが、まあ半分以上はこれだと思う。
     高校生の頃、イギリスのロック音楽をよく聴いていて、特にManic Street Preachersが好きだった。通称・マニックス。「二枚組のデビューアルバムをリリースして、世界各国で一位になって解散する」と舐めた口を叩いていたマニックスに、NMEの記者がどこまで本気なのかと問い詰めたとき、ギタリストのリッチー・エドワーズが自らの左腕に「4REAL」と剃刀で刻み込んだ、という有名な話がある。その「4REAL」に、本名の「ムトウ」から抽出した「mu」を加えてつくられたのが「mu_4REAL」であり、べつに深い意味もなく、なんとなくちょうどいいと思ったフレーズを周囲から探して適当に決めたはずだ。そのなんとなく決めた文字列に対し、繰り返し使いまわし、そのIDに紐づいたアカウントを繰り返し使用する日々を経て、いつのまにか自分らしさめいたものを抱えてしまっている。オフラインで「mu4REALさん」と呼ばれたら反応する自信がある。そもそも戸籍上の名前がすでにそうであるのだから、勝手に決められたりなんとなく決めたりしたものが「私」に取り込まれていく様子はいたって普通のことだとは思うのだが、ネット用に身につけた「4REAL」に、ほんとうに「for real」性が帯びているのはどこかおもしろい。あるいは考え方が逆で、適当な記号が何度も何度も反復する過程こそが「私」を仮構していくのだろう。インターネットで「4REAL」を名乗った以上、インターネットで本気になる以外に、私は私でいられない。
     自分の体験を思うに、SNSのIDをランダムの文字列にしているひとは小さなたのしみを得る機会を逸していると思うし、そういうひとはドメインを取得してもおもしろくならないかもしれない。どちらかといえば服を買ったりおいしいごはんを食べたりすることをお勧めしたい。

  • 日記210321

     目を覚まして、雨が降ってるなと思った。そのわりに妙に暖かいのがきもちわるい。天気に対してひとが抱く感情はだいたい似通っていて、同日に同地域で書かれた日記をまとめて読むと、天気によって複数の個人が同期させられる感覚がよくわかる。

     ここしばらくインターネットで文章を書くときは主にnoteを使っていた。さいきんの日記もすべてnoteに書いていた。ただ、noteのSNS的な機能──アプリを開くとまずタイムラインが表示されたり、書いた記事に宣伝目的の「スキ」がついたり──がわずらわしく感じられて、あとサービスがユーザーを「クリエイター」呼ばわりしているのもどこか癪に触り、もっとシンプルにネットで文を書きたいと思い、個人サイトを立てた。たかが日記を書くためだけにレンタルサーバーや独自ドメインの契約をするのはじぶんでも馬鹿らしいと思う。noteとかはてなブログとか、メールアドレスを登録するだけで無料ですぐにブログが書けるしすごかったんだなと思う。正直、wordpressを使うことでなにができるのかもよくわかっていないし、どこまでがはてなブログなどでも代用できる範囲なのかもわかっていない。どうせ文章を書くだけだから、デザインもなるべくシンプルにただ文字が置かれている場をつくりたい。となれば、たぶん他のブログサービスで事足りるように思う。それでも、サービスが親切心で半ば強制的に、これ見よがしにつくりだす他人とのつながりを切断することの意義を信じたい。なんといっても気が楽だ。もとから私のブログなんてどうせ読むひとも一桁人数ではあるが、とりあえず読んでくれるひとにだけ読んでもらえればうれしいし、わざわざ知らないひとの目に着こうとも思わない。だったら最初から、離れに小屋を建てたほうがはやい。
     それに、よくわからないなあと頭を抱えながらあれこれ操作するのはたのしい。独自ドメインもなんかかっこいい。それらしいプロフィールページもつくれて笑える。こうした小さなフェティッシュをくすぐられながら、まあお金を出した甲斐もありそうだなと思っている。これで日記が継続しなかったら苦笑するしかないが、書き続けるモチベーションを保つためにそれなりの負担を負っておくのもよいのではないだろうか。
     巧みにコンテンツ化されていない、ちょっと知っているひとたちが素直に殴り書いた文章を読んだり、そうした文章をじぶんでも書いて読んでもらったりするのが、インターネットに触れ始めたころから好きだった。いまはあまりそういう営みはウケないのかもしれないけど、まだ好きなひとは一定数いるんじゃないだろうか。Twitterのフォロワーが書いたブログを適当に探していくつか読んで、そう思ったのは昨晩のことだ。

     夕方に日暮里へ向かい、九月という名前の芸人の公演を観た。この方を知ったのはつい先週のことだが、こういうものは気になったタイミングで即座に観に行くくらいでちょうどいい。でなければ機会を伺っているうちに面倒になるし、とりあえず一回でも行っておけばその後も観る機会を設けやすくなる。
     全十本のコントと朗読劇が披露され、朗読劇のおかしさは一旦さておき、彼のコントに通底するものとして、観る/観られるの一方向的な関係を崩したり取っ払ったりする凄みがある。現に今回の公演も、劇中劇における観客としてコントのなかに内包されてしまう、コントのなかでの違和感の原因が観客に設定されている、などの仕掛けが効いたネタもあり、笑いを誘われると同時に不気味さにも似た気持ちにもなる。
     たとえば価値の転倒の代表例として私の好きな漫画作品に藤子F不二雄「流血鬼」がある。物語のあらすじはこうだ。主人公は吸血鬼に襲われている。吸血鬼に血を吸われた人間は、自身も吸血鬼になってしまい、すでに主人公以外の人類はすべて吸血鬼になってしまっている。それでも主人公は抵抗して吸血鬼狩りに躍起になり、対して吸血鬼側は主人公の攻撃的な態度を「流血鬼」と称して批難する。物語の最終盤で主人公は吸血鬼に血を吸われ、絶望感のなか人間から吸血鬼に変容してしまうが、吸血鬼となった身体で見た夜の世界の美しさ──人間としての身体では見えなかった価値──を見て、その世界や身体を好意的に受け入れるところでお話は締められる。
     しかし、こうして劇的に価値の転倒を描いたとしても、観られる作品と観ている読者の立場は変わらない。変えられない。せいぜい読書が主人公に自己を投影し、擬似的に体験することしかできない。しかし、生の舞台は異なる。現実にリアルタイムで演じる者と観ている者が成立している場において、その関係性は絶対的に固定されたものではない。なにを演じるか、いかに演じるかによって、場全体における劇の範囲を柔軟に変えられる。範囲を柔軟に変えられてしまうことで、もっともあやうくあいまいな立場に置かれるのは観客だ。一方的に観ていられると思っていたはずが、そんな安心はどこにもないと気付かされる。
     九月さんのコントにはこうした劇の範囲の操作や観客の立場にゆらぎを与える仕掛けが巧みに配置されているように感じられる。(あえて注を付すが、このような話は演劇界では常識なのかもしれない。じぶんは演劇に疎く、この辺りをさらに深く進めることができない。しかし上記のようなことを思うくらいには劇や演じることに対する関心が生じてきたこの頃であり、はやくどうにか疫病の騒ぎが落ち着いて、生の舞台をあれこれ観に行けるようになればいいなと思う)
     そしてなにより、ネタの本筋から離れて小難しく語られる解釈など遥か遠くに置き去るように、たのしくおもしろく観られる。意味がわからないフレーズや振舞いを繰り返し見せられ、何だこれ? と思いながらも笑ってしまう。たのしい夜を過ごせてよかった。

     どうも文が長くなる。千字くらいで書き終えたいと思いながら、思いついたことをあれもこれも書き出してしまうから、こうなってしまう。しかし、全体のバランスなど考えずに思いついたことを適当に書き出せてしまえるのも日記の良さなのかもしれない。

  • 日記210320

     目を覚ましてだらっと身体を起こしたときにめずらしく空腹感を感じたから冷蔵庫のありものを使って焼きうどんをつくって食べた。昨晩の蕎麦よりはおいしく感じられたが、空腹を満たしたことによる満足感のせいかもしれない。朝食に一食として十分な量の食事を摂ることは久しぶりだったが、仮に朝にまともに食べるだけの食欲や体力があったとしても、そもそもゆっくり調理をしている時間がないから朝食の摂りようがないなと思った。十二時くらいから自宅で読書を始めたがあまり集中できなかった。頃合いを見ながら昼食の時間帯を避けて、午後はマクドナルドで本を読んだ。読んだといっても付箋を貼った箇所をパソコンに入力していただけだから、これを読書と呼ぶのかどうかはやや微妙ではある。
     外出にあたって、最近買ったスニーカーをはじめて履いた。革靴を履く機会が多いから、なおさらスニーカーのやわらかさに驚いた。地面から受け取る衝撃が緩和されて伝わる足裏の感覚が新鮮で、歩く動作それ自体に気持ちよさを感じた。じぶんにとって外に出ることはとても億劫なことだ。外に出ると周囲のすべてが他者として迫ってくる。馴染みのものは何ひとつなく、すべてが他者として強烈な抵抗を与えてくる。その抵抗をこそ受け入れるためにひきこもりから抜け出そうとしているわけだが、じぶんにとって必要な抵抗を引き受けるために、まず足元から受ける抵抗を和らげる準備を整えることは大事なことのように思う。抑えるどころか気持ちのよいものとして転換させられたことは、普段は滅多に買うことのない靴という製品を購入してよかったという気にもなる。
     場所をドトールに移して、べつの本を読む。本を読み、メモを取り、考えごとをする。じぶんにとって重要であると思える問題系を一貫した状態である程度把握できていることはひとつの幸福なのかもしれない。ここ二年くらいで考えていること(を実践するための考え)のひとつに、「私」や「あなた」や「彼/彼女」の身体を用いて、各々のアイデアを持ち寄りながら主体や意識や人格の在りようの操作を試みるある種のワークショップのような思考/試行的営みを継続的に行う共同制作の場のような集まりをどうにかつくれないだろうか、というものがある。見てわかるようにすごくぼんやりとしている。ただ、具体的なイメージがあるわけではないが、そうした場を、あるいは同志を欲している。それに際して概念的な背景を論理的に、具体的に構築できているわけではないが、生煮えの断片的な考えをひとに話したり文章に書いたりすることもある。大体はうまく言葉にできず、うまく伝えることができない。それに、かぎりなくぼんやりとした夢を人目に晒せば晒すほどに、あくまで自分の関心ごとでしかない事柄を発端に夢想する活動を、ひとを巻き込みながら実現に漕ぎ着けるなんてことは相当に難しいのだろうなと思う。これがたとえば本の制作であれば、その制作の意図がどれだけ独りよがりであろうと、いざ文を書くときは書き手の自由に委ねられるし、文を書いたら本になるという過程もいたってわかりやすい。じぶんが曖昧に考えていることは、むろんじぶんでもよくわかっていないから、そのじぶんでもよくわかっていないことに対して他人から関心を持ってもらうにはどうしたらよいのだろうか。たぶんだけど、よくわかっていないことを話し合えるひとがいればいいのかもしれない。
     明日の午後は特に用事もないから、たとえばこうしたことを話すために誘えるひとがいればいいのだけど、あいにく誘えそうなひとも思い当たらない。誰にしても声をかければ話を聞いてくれるのかもしれないが、無意識に、なぜか、なんとなく、選べるはずの選択肢を減らしてしまっている。そういえばあのひとと一年くらい会ってないな、と思い出して、時間がつくりだしたありもしない距離に怖気づいたりする。その点、Discordサーバー上のボイスチャンネルは、いつもの部室や馴染みのバーみたいな、誰かいたらいいなあと期待しながら誰も来なければ来ないで気まずい思いをせずに済み、集まったら集まったで気軽に話せる、程よいハードルの低さがある。ひとと話すことに抵抗や負担を求めている最近の私にとって、ひとと話すための場を用意する抵抗はある程度和らいでいるとたいへん助かる。
     昨晩につくって食べた蕎麦がいまいちだったから、スーパーでめんつゆを買った。市販のめんつゆでつくった蕎麦はかなり蕎麦らしさを帯びていて、思っていた以上に納得ができた。

  • 日記210319

     なんか蕎麦を食べたくなってきたな、と思ったのはたぶん勤務先近くに蕎麦屋があるせいだ。出勤の時間帯には仕込みが始まっているのか、店前を通り過ぎるときに出汁の香りがすることもある。朝は食欲がまったくなく、食事の香りを嗅ぐと気持ちが悪くなってしまうからあまりいい気分はしない。昼も食事を摂る気分ではないから昼食にその蕎麦屋へ行く気も起きない。昼食はコンビニで買った適当なパンで十分だ。夜は早く帰宅したい。帰宅して何があるわけでもないが、とにかく自宅で気を緩めたい。毎日そんな感じだから、そして今後もきっとそんな感じだから、勤務先近くの蕎麦屋に行くことはおそらくない。
     近所のスーパーで蕎麦を買って自宅で茹でる。冷蔵庫にうどんが残っていることはわかっていたが、蕎麦を食べたかったので蕎麦を買う。こうして要らぬ出費が増えていく。金銭状況を気にしているうちに蕎麦が茹で上がる。適当に出汁をこしらえ、レンジで温めたほうれん草を乗せ、生卵を落とす。ささっと用意した蕎麦を食べてみると、どうも思っていた蕎麦のイメージからは程遠い。蕎麦らしきものでは満足には至らない。そういえば近所に蕎麦居酒屋を謳った飲み屋がある。何度か足を運んだことがあるが、訪れたのはいずれも友人が遊びにきたときである。流行りの病の影響もあって、ここしばらくは友人が遊びにくる機会もないから、その飲み屋にも行っていない。このご時世だから、いまもまだ営業しているのかすらはっきりしない。ひとりで外食をするのが苦手だから、この先もしばらく行く機会がないかもしれない。
     昨日、図書館からデリダの『絵葉書』を借りてきたので読んでいる。実験的などとよく言われているから警戒していたが、ソレルスやル・クレジオなどの仏小説をいくらか読んでいるおかげか、べつに文体に対する違和感はなく、むしろおもしろく読める。おもしろく読めることと理解できることとはまったく関係がないのだが、それでも内容的に興味深い点も多くある。その傍らで、ユリイカの大林宣彦特集号に載っている山本浩貴さんの論文を読み返している。どこか『絵葉書』に接続する問題系があるようにも思う。というか、山本さんの論文で挿入されている図を念頭に『絵葉書』を読むと、送り手・名宛人・宛先・郵便・遠隔通信などのキーワードを具体的に描ける感覚がある。この頃はかなりざつに本を読んでいたから、こうしてテクストとテクストのネットワークをつくりながら本を読めるのがひさしぶりでたのしい。

  • 日記210318

     毎日飽きずに同じような食事を摂っている。飽きているのかもしれないが、それ以上に食に変化をつけることがわずらわしい。だけど今日はめずらしく、なにか少し気分を変えたいような気分でもあり、帰りにスーパーで〆さばの棒寿司を買った。しょせんはスーパーで買う寿司だから、食べてなにか感動があるわけではないが、食事からいつもと異なる刺激を得ることは鬱の予防とかにもいいんだろうなとなんとなく思いながら、親しみのない味を感じとる。
     一般に、寿司を見定める判断のひとつとして回る/回らないという見方がある。多くの場合、一方で回る寿司は安価で大衆向けとされ、他方で回らない寿司は高価で立派なものとされる。これらは回転寿司店がもたらしたイメージであることは言うまでもなく、寿司に回転のイメージを強固に付与した回転寿司店の影響は何度考えても驚くべきことであるように思う。
     ところでスーパーの寿司は回らない。回らないが、寿司の持つ特性としてはむしろ回る寿司に挙げられるそれに近い。安価、大衆向け、米が硬い、ネタが乾いている、誰が握っているかわからない、たぶん機械が握っている、その他云々。これらはチェーンの回転寿司やスーパーの寿司に共通する。つまり、回る寿司の根幹を支える性質は回ること自体には宿っていない。というか回る寿司において、寿司自体は回っていない。寿司は皿の上に乗せられているだけであり、皿はレールに乗せられているだけであり、レールが円形に沿って動いているだけである。そう、寿司はただ置かれているだけだ。たんにディスプレイされていることを回ると読み替えているだけだ。それゆえに、スーパーに陳列されている寿司もあきらかに回ってはいないのだが、陳列されているという一点に由来して回る=ディスプレイされている寿司と呼んでも差し支えない。どうやらスーパーの寿司は回る寿司だったらしい。
     では回らない寿司の方はどうか。回らない寿司屋には動くレールはない。動くレールはないが、職人の手は絶えず動いている。客から注文を受けるたびに新たに寿司を握る。日々の修行により磨き上げられた技術。研ぎ澄まされた一挙手一投足。寿司を握る動きは、まるで同じ円を何度もなぞるようで一寸の狂いもない。実は回らない寿司は回る寿司以上に強烈なエネルギーの作用から立ち上がっており、円的な運動に支えられている。もうおわかりだろう。つまり、回らない寿司こそが回っているのだ。つい視覚情報ばかりを信頼してしまうが、寿司は不可視の領域でこそ回転をしている。回らない寿司は、回っているからこそ高級なのである。
     などと無茶苦茶なことを、それなりの熱量で、かつ、早口で捲し立てたら妙なそれらしさを帯びてしまい、なぜかひとを納得させてしまうことがある。声によって届けられる言葉はどうも信用がならない。信用できないからおかしくておもしろい。
     何かを回し続けるためには抵抗は少ない方がよい。しかし、つねに同じところを回り続けていたら、やはり飽きてしまう。だから、抵抗を受けながら回し続けるためにはどうするか、あるいは、抵抗を受けながら回し続けることを試すにはどうするか。そんなことばかり考えている。

  • 日記210317

     今朝見た夢にまた東浩紀氏が登場した。これで三日連続だ。しかし夢の話ばかり書いていてもおもしろくないのでこの話はこれでおしまい。

     日記に書くべきこととはいったいなんだろう。一般に日記といえば、その日に起きた出来事を書き連ねることが多いのだろうが、私の場合はその日に思ったことや考えたこと、もしくは感情の浮き沈みばかり書いているように思う。それゆえに「と思う」や「な気がする」などを用いてあいまいに締められる文も繰り返し書かれる。毎日毎日あいまいさのなかを泳いでいる。
     現実に体験した出来事が描写されず、より内面的な思考や感情ばかり書いてしまうのは、たんに記述するような出来事に遭遇していないことに由る。粛々と労働の勤しむ日々にドラマチックな場面などあるはずもなく、平坦な日常にあることないことこじつけて日記の上でだけドラマチックな一日を仕立て上げてもよいのだが、そもそも日々にドラマを求めているわけでもない。仮に誇張した一日を書こうとしても、もとより私は嘘をつくのが苦手で、ありもしないドラマチックな一日をあたかも体験したかのように記述することは難しいように思う。
     ドラマチックな一日。感動的な、劇的な一日。そんな日がみずからに降りかかってくるとしたら、はたしてどんな出来事が起こるだろうか。道端で偶然ばったり東浩紀氏に遭うとか、そういう感じだろうか。それはまあ驚くかもしれないが、ただ著名人に遭遇したところで劇らしさはどこにもない。劇的という以上、一時的な驚きの体験をするだけでなく、それなりに道筋の立ったエピソードであることが求められるし、それなりに道筋の立ったエピソードをわずか一日のうちに求めることは浅ましいように思う。平坦な一日をただ持続する。繰り返す。飽きても続ける。繰り返す。だって繰り返すことしかできないのだから。そういえば、東浩紀氏が先日行った配信でかっこいいことを言っていた。〈必然に時間がかかることを待たなければならない〉。
     とはいえ試しにドラマチックな一日を考えて書き出してみようかと少しばかり考えてみたが、やはりできなかった。想像力のなさはもちろんのこと、己が考えるドラマチックとやらが可視化されてしまうことへの恐怖が書く行為に抵抗を与えてくる。私は私が書けることしか書けない。私が書けることは私が書けることでしかない。書きたくても書けないこと、書こうと思っても書けないこと、書けるけど書かないこと、書けるけど書けないこと、こうした文章は私の手で書けそうであっても、私の手から書かれることはない。私はじぶんにとって抵抗の少ない文しか書くことができない。

     私には書けない文があるように、私には読めない文がある。日頃から見聞きしている日本語で書かれているにもかかわらず、読めない文がある。語彙が難しい、文脈を知らない、知識が及ばない、想像が追いつかない、リズムが合わない。自身の至らなさを原因の大部分に、私には読めない文章が多くある。いま、ボルヘスの『砂の本』を読んでいる。文化的背景や(固有)名詞のわからなさや類型化できないエピソードに戸惑い、本来文字が表象しようとするイメージに到達することができず、ただ文字を文字として漠然と読んでいる。わからないまま文字を追っている。わからない文をわからないものとして読んでいる。こうした情けない読書態度から、みずからの内に類型化された概念や意味情報しか読み取ることができないのならば、いったい何のために本を読んでいるのだろうかと自省することもある。本だけではない。私が目にするあらゆる情報に対して、私は私自身を見ることしかできないのではないか。そんな不安がある。細やかな差異やわからなさを無視して、じぶんにとって類型化可能な性質だけを抽出し、知った顔を装う。そんな暴力的な振る舞いをしてはいないだろうか。いや、きっと何度も、到底数え切れないほど行っている。していないはずがない。というより、おそらくそうでしかいられない。傍若無人なわかった振り。それを思えば、わからない本をわからないまま読み続けることもそれなりに大切なことのように思う。わからないから読み続ける。わからないから手元に置き続ける。わからないまま読み続けていれば、いつか何かをきっかけに少しわかるときが来るかもしれない。そうして生じるわかりというのは、じぶんにとっても重要で必然的な気づきになるんじゃないかと思わなくもない。必然に時間がかかることを、私は待たなければならない。