適度に無視しあえる関係性や公共圏を希求する思いをひとに話すことがあるが、いまいちピンときてもらえないことが多い。おそらく「無視」という語が与える印象が強いあまりに、どこかネガティヴなイメージを抱かれてしまうのだろう。たしかに無視されてしまうことや応答の不確実さは「私」から存在意義を剥奪してしまうのかもしれない。しかしそれは、私の存在を強化するために他者に応答を期待すること、応答を求めること、より強い言葉を使えば、応答を強いることに近く、これは相手に責任を付すこととも同義である。期待された責任、求められた責任、強いられた責任に応答しようとするとき、期待された、求められた、強いられたとおりに振る舞うことが求められる。相手の期待に応えるためにはまず前提として期待に沿わなければならない。期待を求める側は期待された反応を得られなければ怒ったり、悲しんだり、残念がったりすることだろう。求められた期待に能動的に応えようとする態度の背景には「意志」の概念への強固な信頼がある。そこにはある主体に対する記号化の暴力、このひとはこうあるべきだという抑圧が働く。
哲学者の國分功一郎は、「意志」の概念は解体するべきだが、「責任」の概念は中動態の議論を経由して新しくつくり直さなければならないという立場から、「帰責性imputabilité」と「責任responsablité」を区別する(参考)。國分によれば、前者は能動態/受動態を前提としており、後者は中動態的なありかたとして解釈が可能だという。ここで例にあげられるのは「善きサマリア人のたとえ」である。半殺しにあったひとが倒れている、それを見て気の毒に思ったサマリア人が助けて、宿代も出して……という場面。ここでは目の前で起こっている酷い事態から、助けなければと思ってしまう姿勢が自然と現れる。目撃した状況のほうから私に応答させてしまうという中動的な態度こそが、ひとが責任を果たしていると呼ぶべきものである。これを踏まえるに、私が「無視」によって言い表そうとしていることは、つまり「応答可能性」によってかかわりが生まれる関係性や公共圏と言い換えることができるようにも思う。ある固有の主体(他者)に対し関係における責任を強いて、かかわりあう固有の主体同士が互いにとっての固有のイメージによって姿を限定するようなコミュニケーションではなく、ある主体がなんらかの状況を前につい反応してしまう、なんらかの状況によってつい「私」が現れてしまう、そうした応答によって成立する関係はいかにして構築可能なのか。
私がたびたび例にあげるのは、ツイッターでなにかを募るツイートをする行為である。たとえば「こんばんは。ひまです。だれか通話しましょう。」とツイートをする。特定の誰かを誘うのではなくただタイムラインに投下する。おそらくこのツイートを見かけたひとは、私に興味がなければ何事もなく無視するだろう。興味があってもさほど交流がなければやはり無視するだろうし、仲のよいひとでもタイミングが合わない場合や仲がよくてタイミングも問題ないがそういう気分でない場合も無視するだろう。なんとなくそのときたまたま手が空いていて、私と話ができる程度の距離の間柄で、私と話をする程度のエネルギーがあるひとだけが、軽い調子でリプライをくれたり電話をかけてくれたりする。この一連には、個別に「通話しましょう」とメッセージを送り、その宛先にはい/いいえの回答を強いる場合とはあきらかに異なる性質のやりとりが発生している。もちろん「通話しましょう」と連絡を受け取った側はそれを無視することも可能だが、あとにでも「忙しくて返信できなかった」などと詫びを入れなければ、こんどは「既読スルー」と揶揄されることになる。この「既読スルー」ははたしてほんとうに責められるような行いなのだろうか。いや、一対一のコミュニケーションにおいてはそうなのかもしれないが、少なくとも公共圏においては既読だけして反応はしないということは重要なはずである。なぜなら、あらゆるひとの言動に逐一反応を示すことは私たちが有限の存在である以上、たんに不可能だからだ。公共の場においてはまず無視が前提にある。そしてこの無視が前提にある場から特定の相手との交流に移行し、また無視の場に戻ることを繰り返す場があると、なにかおもしろいような気がする。あるいはそうした場として、私はツイッターを捉えていたような気がする。他人との接触が忌避されるこのご時世においては、そうした場として機能することも少なくなってしまったが。
先日東浩紀が行っていた配信のアーカイブを見ると、コンビニやファミレス、ファストフード店から見る公共圏、あるいは東アジアにおける屋台的な公共圏というアイデアを話していて、とても納得があり、示唆が得られた。日常的に訪れる近所のスーパーやコンビニでは、客は店員の顔を覚えるし、逆もまた然りである。しかし、その顔馴染みの相手に対していちいち親密なコミュニケーションを取ろうとはしない。客は粛々と買い物をするし、店員は粛々とレジ対応をする。顔馴染みでありながら無関心を装うことによって、毎日の買い物が快適に行われる。仮にいちいち会話などしようものなら、私だったらかえって鬱陶しく思うし、べつの店に変えようとすら思うかもしれない。しかし他方で、たとえば決済方法などは覚えられていて、無関心を装いながらも、店員は準備をしていたりする。私も事務的に「支払いはiDで」と毎回伝えるが、慣れた店員であればそう伝える直前からすでにレジの決済方法の画面を選択している。喫煙者であれば、購入する煙草の銘柄を伝えるときなどに同様の経験があるのではないだろうか。
また、べつの側面から見れば、コンビニやファミレス、ファストフード店は代替可能である。セブンイレブンのおにぎりはどの店舗で買ってもセブンイレブンのおにぎりだし、マクドナルドのテリヤキバーガーはどの店舗で買ってもマクドナルドのテリヤキバーガーだ。その代替可能性は関係に緊張感を生む。あるファミリーマートをよく訪れる客もその店でなにか不快な思いをしたら、向かいのローソンに乗り換えてしまうかもしれない。緊張関係がサービスの質を担保する。そういえば昨日、Discordで「知り合いにはものを頼みやすいが、その親密さは枷にもなる」という旨の書き込みを見た。親密さは「せっかく頼んで受け取ったものだから最後まで使わなくては」といったしがらみをも生じさせる。このしがらみは上記でいうところの帰責性に因っているだろう。似通ったところでは東浩紀も「関係者を客に招待しても、知り合いに招待してもらっている以上は客は褒めることしかできない」と話していた。とりわけ制作行為おいては、演者と観客が緊張関係にあることは守られる必要がある。
コンビニなどから見てとれる公共性は、公共であることと私的であること、一般であることと固有であることの中間に位置している。私がいうところの「適度に無視しあえる関係や場」も理念的にはそれに近く、話をしたときの共感性の低さに比べて一定の普遍性はあるように思う。いまいち指示されないのは、ただ私の論の組み立てが悪いというだけのことかもしれない。
日記
日記210331
日記210330
労働を終えて自宅へ帰る途中で、マクドナルドに寄って読書をする。川添愛『ふだん使いの言語学』を読み始めた。たとえば言語にはつねに曖昧性がついてまわる。多くの単語が複数の語義を持つように、ひとつの言語表現が明確に異なる複数の意味をもつ場合はあまりに多い。「猫」という一般名詞の解釈を例に挙げる。「猫は動物だ」といえば、ここで「猫」とは「猫一般」のことを指している。したがって「猫は動物だ」は「すべての猫は動物だ」と言い換えることが可能である。もしくは「猫にえさをあげなきゃ!」というとき、この「猫」は発話する主体にとって特定のある個体を指示している。したがって「(飼い猫である)タマにえさをあげなきゃ!」と言い換えることが可能であり、しかし先の例のように「すべての猫にえさをあげなきゃ!」と言い換えると途端に規模が大きくなってしまったような気配を帯び、違和感が生まれる。使用される文脈に応じて「猫」という語は不特定の全体を指したり代替不可能な特定の一を指したりする。さらに「猫が喧嘩していた」というと、一方ではたまたま見かけた匿名性ある猫たちが喧嘩をしていたと想定できるし、他方ではよく知る特定のタマとミケが喧嘩をしていたとも想定できる。ただ少なくともここでの「猫」は単体ではない。喧嘩をするには異なる複数の主体が必要であることから、「喧嘩」の語によって「猫」に複数性が付与されているとわかる。
ここで本の内容から離れてみる。「猫が喧嘩していた」という一文における主語は「猫」である。しかし、「猫が喧嘩をしていた」という一文が書かれるにはその文を書く表現主体が要請される。ある主体が客体として表現したものとして「猫が喧嘩をしていた」という文がある。さらにいえば、「猫が喧嘩をしていた様子を目撃した私」が記述されているのであれば、その「私」もやはり表現主体にとっての客体として扱わなければならない。つまり語る語り手と語られる語り手は異なる位置に存在している。このように、ある文に触れるとき、読み手はその文から表現主体の存在を読み取らずにはいられない。にもかかわらず、表現主体の肉体の不在を抱えている文章の特性ゆえに、読み手は書かれた文章から遡行的に表現主体を仮構せざるをえない。表現主体Aが書いたテクストにはAを起点に語られる主体Bがいて、読み手Cはそのテクストから表現主体A‘を立ち上げる。主体はつねに分割される。メッセージは正しく宛先に到着しないことがつねにありうる。その構造によって書かれた「猫」は一層多重化し、また複数回に渡って異なる宛先に到着する。昨日に読み終えたデリダの『絵葉書』にはそんなようなことが書かれていた。
夜ごはんに焼きうどんをつくって食べた。おいしかった。日記210329
入浴中の手持ちぶさたな時間はもっぱら読書にあてていたが、この頃は日記を書く時間に置き換わっている。湯に包まれて脱力しながら文を書いている。おかげで日記は続いているが読書の時間は減ってしまった。日記によって書くための時間を毎日設ける必要が出てきてしまった以上、読むための時間を同等に確保するにはやはり早起きするしかないのだろうか。ほかの手立てを模索すべく、帰りにマクドナルドへ寄り一時間ほど読書をする。
読書記録としてInstagramに初読の本を投稿し続けて一年半以上経つ。記録を見るに平均して月に五冊から六冊程度しか読めていない。読んだ本をすべて投稿しているわけではなく、再読の本もあれば文芸誌をつまみ読むこともあるしネットで読む文章もある。投稿されたものがすべてではない。しかし、可視化されていないものを見込んだ上でも、やはり読む文章の量が圧倒的に少ないように思う。東浩紀がいつかの配信で、月に十五冊はふつうに読むべきじゃない? と言っていて、たぶんそれを機に、ひとは月に十五冊ほど本を読まなくてはいけないという偏った価値観がインストールされたように思う。ただ、この考えが偏っているのかどうかもかなりあやしい。実際、身近なひとと読んだ本の話をする機会なんてほとんどないから、たとえば電車で横になったひとや道ですれ違ったひと、いつものスーパーの店員や職場で顔を合わせるひとなど、彼ら彼女らは素知らぬ顔をしてしれっと月に十五冊程度の本は読んでいるのかもしれない。たぶん読んでいるのだと思う。私が目一杯時間を費やして五、六冊しか読めないなか、周囲のひとびとはみな平然とその二倍、三倍の量を読んでいる。そういうことにしている。実情がどうであれ、そう思っていた方が、自らの至らなさを直視できるし、もっと己を奮い立たせなければならないのだと追い込まれる気持ちも出てきて、何かと都合がよい。量をこなすことが目的化してしまっては本末転倒だが、量をこなすことはなによりの大前提として必要なことだ。粛々と量を積み上げ、勝手に過剰さができあがってしまう状態を、まずはつくりあげなければならない。
その点でいくと、こうして毎日日記を書くことは、たかだか一日千字程度でこそあれ、そう悪くない行いだとは思う。誰に言われるでもなく、誰に求められるでもなく、誰の期待に応えるでもなく、書きたいことがあろうとなかろうと、毎日勝手に粛々と文を記す。そうすることで、文を書き出すのではなく、文を書いてしまう状態にまで身体や生活を変えていこうとする。わざわざ予定せずとも食事をしたり排泄をしたり睡眠をしたりするように文を書く営みを生存本能に近づけていく。書くことを前提とした身体を育てたうえで、ようやく身体から発露される表現として書くことを扱っていく、扱えるようになる。扱えるようになる? ほんとうに? ここまで流れで書いてみて、じぶんの普段の考えとはやや路線が異なるようにも思えてきた。ここは一度留保して、じぶんにとって生活(が要請されること)と表現(を必要としてしまうこと)とがいかなる関係にあるべきかについて、別途検討することにしたい。
しかしそうしたものとして、本を読む、文を読む行為を身体に馴染ませたいと素朴に欲望している。読書が好きだとか読書家だとか、そうした生ぬるい次元ではなく、生きるうえで必要な営みとして言うまでもなく書を読む営みがあるという状態を、まずはつくらなければならない。月に何冊だとか数値目標を掲げているような段階は、しょせん準備運動の時点にすぎない。数字を超えた向こう側がスタート地点だ。ゆえに私はまだどこにも出発できていない、ウォーミングアップでへこたれてる無様な輩で、だからのんきにうかうかなんてしていられない。そののんきでうかうかを突き破るためには気合とか根性とかも意外と大事なように思ってしまうのは(一応)元体育会系の性だろうか。日記210328
交換日記という名目の共同ブログに参加をさせてもらっている。五人で順番に日記を書いて、前のひとの日記を読んで、また書いて。十日前にじぶんの番が回ってきていたので、それを書くための準備をした。日記を書くための準備というのもおかしな話で、日記なのだからここで書いているような思いつきみたいな雑記をささっと書いてつぎに回してしまえばよいのだが、せっかくの場だからいろいろ試してみたいという思いがある。他人が書いた文章を受け取る文脈のなかだからこそ書ける文章や書く手つきを模索したい。準備をしながら冒頭を書き出してみて、早々に疲れてつらくなり中断した。いまここに書かれている文章がそうであるように、思いついたことをそのまま出力することは比較的楽な行為だ。それに対し、考えがたどり着いていないところに目いっぱい手を伸ばして、指先でぎりぎり届かないところにどうにか届こうとするように文章を書くことは相当の負荷を強いられるし、苦痛も伴う。ただ、いつまでも楽に安住もしていられない。私を象る線を解きほぐし、柔軟で、変容可能なものにしていくためにも、普段と異なる身体の使い方を用いて負荷を与えながらいつもと異なる流れをつくり、その不慣れな流れに身体を合わせようとする、そのような営みがいまのじぶんには必要で、だから書くつらさを、つらさを伴った記述行為を、喜んで引き受けていきたい。できれば、あまりつぎのひとを待たせない程度に。
そんな調子で15時前まで読んだり書いたりを往復して、疲れて飽きてプロ野球中継を見だしているじぶんに気づき、今月の現代詩手帖をまだ買っていないことも思い出し、外出をした。昨年末から月一程度のペースで訪れている七月堂へ行き、詩誌「Aa」と古本などを買った。前橋文学館で行われている「マーサ・ナカムラ展」のフライヤーをもらい、ちょっと気になりつつも、前橋まで行くことの壁に尻込みする。つづいて新宿へ向かい、紀伊国屋書店で現代詩手帖と文庫本二冊を買った。カフカ『ミレナへの手紙』を衝動買いしそうになるがどうにか踏みとどまった。それでも、また本を買いすぎちゃったなと若干の後悔を抱きながら、今後の生活を心配しつつ帰りの電車に乗った。本を買うペースと読むペースの非対称性が気になり、まっすぐ帰らずにドトールへ寄って、デリダ 『絵葉書』を読み進めた。あしたから早起きして、出勤前に読書時間を設けようかなと思いつくが、早起きが苦手だし、ただでさえ日中に眠気に襲われて労働に支障が出ているこの頃だから、たぶんやらない。言葉は意味である前に、まず音である。という至極あたりまえのことをあらためて考える。自身にとっての言葉のルーツを辿ると、自覚しうるかぎりもっとも大きな影響源として音楽の歌詞が挙がる。中学生の頃からGARNET CROWという音楽グループが好きでそればかり聴いていて、全曲の作詞を担うAZUKI七というひとが書く言葉を、ボーカルの中村由利の(歌)声として毎日繰り返し聴いていた。私にとって言葉は意味ではなく、まず声色であり声の響きであった。だから、いまの私は文を読んだり書いたりの方を好み、音楽を聴く頻度が減ってしまってこそいるが、文を読んだり書いたりすることがGARNET CROWというじぶんにとってもっとも音楽らしい音楽からまっすぐに通じているような気がしている。詩に対する関心が強まってきたことも、詩の古典は基本的に読むものであり、音韻がもたらす論理も重視されることにひとつの理由があるのかもしれない。
たまに私が書いた文章を読んだ方から、読み心地がよいとかリズムがよいとか、意味以前に耳の感触について言及していただけることがあり、それがかなりうれしい。音楽のような文章を書いてみたい。書けるようになりたい。Aphex Twinみたいな文章が書けたらおもしろいと思う。Merzbowみたいな文章があったら感動すると思う。音楽のような文章や文章のような音楽がある文化はきっと豊かだ。
早稲田文学の二〇二一年春号はオノマトペ特集で、そのような関心で読むにはちょうどいい。まだほとんど読めていないが、まっさきに読んだ高塚謙太郎さんの論考が興味深く、まさに、言葉は原初的には音声であり、であるならば言語による抽象化は当初すべてオノマトペであったはずだ、と仮説を立てるところから始まる。音韻や音律から意味、あるいは意味以外の何かを立ち上げる表現としての詩。それはやはり音楽とはそう遠くない親縁関係にあるように思う。
オノマトペではないが、私の話し言葉にはフィラーが多い。言い淀み。発語の前やさなかに挿入される「えーと」とか「あー」とか。労働中の、言葉の装備を解除していてろくな言語運用ができない状態でいる私は、より一層フィラーが多くなる。われながら困ったものだなと思いながら、しかし問合せの電話対応をするときに、みずからの感覚としては「えー」や「そのー」とばかり発語しているのだが、なぜか相手が納得してくれるという場面が少なくない。問われたことに対してろくな説明ができていないのに、納得して電話を切った相手は何をどう理解したのだろうか。たいへん不思議に思う。そうした経験もあって、聞き手は言葉の意味をいかに取得していて、あるいは発された言葉からなにを得ているのか、という疑問が生じ、言葉がまず音であることに関心が出てきている。論文のひとつやふたつ読んでみようかと思いながら、思っただけで終わっている。日記210327
嫌いな語がいくつかある。嫌い、苦手、抵抗を感じる、不快に思う、どこに分類してよいものか、とにかく身体に近づけたくない語がいくつかある。語が嫌なのか、語の意味が嫌なのか、語の韻律が嫌なのか、語が持つ文脈が嫌なのか、たぶんその語によって原因はさまざまで、しかしいずれにしても語自体にさほど悪気はないのだろう。きっと語ではなく語を使用する者への嫌悪が語にも浸透してしまっているだけだ。ただ、ひとが語を使用すると同時に、語もまたひとを使用しているはずで、ひとの認識に語が与える影響はきっと大きい。だから、発話する主体を傲慢に奮い立たせてしまう語に対して警戒してしまうことはそう少なくない。
たとえば「汚い」。汚いだとか汚ねえだとか、なにかぐちゃらとした対象などを見て反射的にそう発するひとは多い。「汚い」とひとが言うとき、発話者は対象を蔑視している場合が少なくない。指示した対象から身を遠ざけ、明らかな嫌悪を表情に浮かべながら、蔑み、見下し、嘲笑するように「汚い」と言い放つ。その蔑みが笑いとして場に共感される。「汚い」とひとが言うときの、みずからは綺麗な側であるという揺るぎない自信という名の驕りや慢心、無思考に反射的に何かを侮蔑してしまう態度、それによって同期される集団の排他性、これらをどうしても好意的に受け取ることができない。「汚い」という語が浮き彫りにする発話者やその周辺に現れる感情や感覚や感性に差別的意識を感じ取ってしまう。対象がひとでなければ侮蔑も許されるのか? なぜじぶんは汚くないと思えるのか? その汚さが人間の営みから発生していることをどう思うのか? その物自体が汚さを帯びているのではなくみずからが汚さを付与しているだけだと気づかないのか? 汚いと指摘するひとと汚いと指摘される対象が生じる場に立ち会うと、どうしても後者に肩入れしてしまうのは、その一連にどこか「イジメ」的な雰囲気を感じてしまうからだ。みずからが安心するためになにかを馬鹿にするような態度や言動はやはり好まれるものではない。ひとに対してはそう振る舞わない者でも、ひとでなくなった途端に当然のように排他性が見えてしまうことはたびたびあり、日常におけるその現れの代表が「汚い」だ。
ただ、そう思ってしまうのは、なによりもまずじぶんがじぶんのことを汚いと思っているからかもしれない。自身の容姿に関心がなく、身だしなみは雑で適当、服も靴もよれよれで、不潔でみすぼらしい醜い姿をつねに人目に晒している、部屋は物で散らかり、本棚は溢れかえり、ごみは溜め込み、浴室には黴が生えていて、埃の積もった床ではゴキブリが這い回り、机上に積まれた本のいくつかは表紙が破けている、生まれ育った家庭は下流で、低学歴で、教養に欠き、行儀も悪く、低収入で、ろくに働きもせず、ろくにひと付き合いもせず、他人の関心を引くこともなく、陰気で、根暗で、むろん社交性とも縁がなく、自宅にひきこもり、己の内面にひきこもり、いつ破棄されてもおかしくない存在として、肩身を狭め、息を潜めつづけている、体内にも皮膚の上にも大量の細菌を抱えていて、体臭は鼻をつき、身体中から体液が排出され、排便はするし時には吐瀉もする、垢が、汗が、毛が、フケが、皮脂が、涙が、鼻水が、唾液が、胃液が、精液が、血液が、尿が、糞が、私の身体から発生し体外へと溢れ出ている、そんな汚い存在、だから、汚さによって線が引かれたとき、私はいつだって汚いと指を指されて嘲笑われる側にいる、指を指して嘲笑い、仲間内で同調し安心を確認する側にはいない、いられない、いたくない。
語は悪くない。語に操られる主体が悪い。語を悪役にする物語が悪い。だから、私も「汚い」という語が嫌いと断言はできない。私が嫌いなのは「汚い」という語によって集団の暴力が生まれること、また、「汚い」という語によって暴力を働こうとするひとたちだ。罪はコンテクストにこそあり、コンテクストを担ってきたのは語を運用してきた発語者の方だ。とすれば、自分自身が汚い存在であるからこそ、「汚い」という語に抵抗せず、むしろその語の回復に努めるべきだという考え方もできる。生活を営む以上は汚いより汚くない方が何かといいことは多いだろうが、だからといって「汚い」と嘲笑を結びつけていいとはかぎらず、だからこそ嘲笑と結びつけられてしまった「汚い」を守ってあげなくてはいけない。労働をして、労働を終えて、暖かかったから公園で酒を飲もうと思った。時間にも余裕があったから、いつもは降りない駅で降りて、気になっていたラーメン屋を訪れた。ラーメンを食べて、まあこんなものか、と大して満足もせず、かといって落胆もせず、また電車に乗って府中で降りる。ファミリーマートで缶ビールをひとつ買い、府中公園のベンチで缶を開ける。公園内の木々は花が開いていて、宴会をする親子の集団もいた。ほかにも私と同様にひとり飲酒するサラリーマンや若者、散歩をする男女二人連れ、犬を連れる中年、夜の公園にはさまざまなひとがいた。そのなかに、ビールを口に含みながらこの日記を書いている私のことを、ブログ用の日記を書いているひとだと認識する者はいない。私自身も、夜の公園で酒を嗜むいちサラリーマンとして風景に同化する。転々と光る照明が周りの桜を闇のなかにぼんやりと浮かばせ、顔は見えずただ誰かがいることだけが見える程度の視界に、愉しげな声とこどもたちが走り回る音が響く時間は、ずいぶん穏やかだった。
日記210326
その日の夜に日記を書くと、日記を書いたあとの寝る前までの出来事がまったく記述されなくなってしまう。だからその時間帯での出来事を書く日があってもいい。
昨晩、プライムビデオで『私をくいとめて』という映画を観た。綿矢りさの小説が原作のこの作品は、主人公・みつ子の脳内に相談役のAという存在がいて、その主人公の声と脳内のみで発される声との会話が絶えず行われる点に特徴がある。しかしこのAは内なる声であるにもかかわらず、かなり外側にひらけていて、目の前にある現実に対してもつねに冷静で客観的だ。ゆえに、慣れない飛行機に乗ってパニックに陥ったときも、焦って周囲が見えなくなるみつ子をAはやさしく励ます。いわば自意識でしかないはずのAは、みつ子が現に置かれている状況から離れた神の視点から声を発している。この内なる声かと思いきや神の声たるAはその存在をどこに由来しているのか、解釈に迷う。Aがたんにメタレベルに生じた「私」であれば「私にとってAは私であり、Aにとって私は私である」という等価の関係として扱えるが、『私をくいとめて』では(たとえ台詞上で「私はあなたであり、あなたは私である」という旨が発言されていても描かれ方として事実上)「私にとってAは私であり、Aにとって私は彼女である」という非対称な関係として現れている。神の視点、と書いたが、神はすがる対象でこそあれ、じかに語りかけてくる案内役ではないように思う。私に語りかけてくる内なる三人称(めいた)視点というのはかなり異様だ。この視点が何を示唆しているのか、あるいは現実的に具体例としてどんな状況が挙げられるのか、あまり思い当たらない。原作だとまた異なる表現として書かれているのだろうか。一時間ほど観て、飽きと疲れがきて、観るのを中断した。まだ続きを観ることができていない。最後まで観ればなにか異なる気づきがあるのかもしれない。
テレビのバラエティ番組やお笑いのコントのような演出がされた国内映画をたびたび見かける。隙間を埋めるように劇伴をあててシーンをつないだり、テロップのように文字を文字として画面に映したり、露悪的にいえば過度で派手でわかりやすく(映像の内側と外側の両者にとっての)感情をつくり出そうとする効果が主だ。こうした演出は「映画好き」「洋画好き」のひとたちには揶揄や蔑視の対象として扱われることが多いが、端的に依存する文化文脈の違いでしかなく、インドのカレーと日本のカレーがそれぞれ異なるみたいな話でしかないように思う。理想的な映画像を掲げて、それに該当しないと思われる「映画」を名乗る表現に対し、これは映画ではないと判断をくだすことで、さらに理想像を強化する否定神学的態度はあまり好きではない。そう思う一方で、テレビバラエティ的演出による映像制作ももっと洗練されていてもいい気がする。実際問題、一時間で飽きと疲れを感じた原因の一端はそこにあるのではないか。過度で派手でわかりやすい演出も、数分のコントであれば楽しめるのかもしれないが、二時間もやるようではさすがにうるさい。せっかくテレビバラエティ的とざっくり括れてしまうような表現手段をもっているのだからもっと研ぎ澄ませて驚かせてほしいと、観客としては素直に欲望してしまう。べつにじぶんは映像表現に長けているわけでもなく、こちらからなにかアイデアを出すなどとうてい無理なのだが、制作のプロにそれくらいの期待をしても問題はないだろう。表現に可能性を見出す、表現の可能性を支えるのは、表現者や実作者よりもむしろ観客の側なのかもしれないけど。
以上は昨晩に考えていた話で、今日は何があったか何を考えていたか特に思い出すようなこともなく、ただ朝の目覚めがやけによかったことだけは覚えている。あたたかくなってきたおかげだろうか。
日記210325
出勤のために電車に乗ると、車内はいつもより混雑していた。電車が駅を出発する直前、出入口いっぱいまでひとが詰まった車両にさらにひとり乗り入れてきて、ここからまだ乗り込めると思える気の強さに感心した。いざひとが入ってくると、車内出入口付近のひとたちはわずかに保っていた空間を埋めるようにさらに身を寄せ合い、意外とすんなり追加一名分のスペースができてしまう。出発の時刻がきて、扉が閉まり、出入口前のひとたちは扉に寄りかかり、またわずかにスペースが生まれて、周辺のひとたちは立ち位置や身体の向きを微調整し、ひととひととのあいだに少しだけ余裕ができる。上京したての頃は驚いていた満員電車も、いまではすっかり作法を身につけ、何事もなく適応している。
笹塚で京王線から都営新宿線へと乗り換える。空席があったから着座して、本を開く。新宿三丁目辺りでまぶたが重くなり、手に持つ本の読みかけのページに人差し指を挟んだまま眠ってしまう。九段下に到着して目を覚まし、本をリュックにしまって降車した。身体の重さを感じ、頭はぼんやりする。身体をしゃっきりさせたいと思ってローソンでリポビタンDを購入し、その場で飲んだ。
カフェインが効いたのか午前中はまともに労働ができた。午後は眠かった。一日中まともに起きて活動を続けられないこの身体を改善する手立てはあるのだろうか。利尿作用のせいかやたらとトイレが近い。身体の反応はあきらかにリポビタンDを反映している。しかし眠気だけはどうにもならない。眠気を抱えたまま勤務を終え、眠気を抱えたまま電車に乗った。朝から眠気を抱えつづけている。いつものように車内で本を読む。新宿に着き、目の前に座るひとが降車して、空いた座席に着座し、また本を読む。しかし即座に文字が頭に入らなくなり、電車に合わせて揺れては遠ざかろうとする意識の先で、ひとの出入りや車内アナウンスにかすかに触れつつ、いつのまにか眠りに落ちたようだった。耐え忍んだ眠気が昇華されゆくその最中の、とてつもなく心地よかった感覚を残した身体を起こし、調布で電車を乗り換えた。
府中に着き自宅へ歩を進める途中で、家賃の振り込みを忘れていることに気づく。日記210324
Wordpressを使うとなにがどこまでできるのだろうかと思い、適当にGoogle検索を行うと「集客」「稼ぐ」などのキーワードがセットになった記事がいくつも出てきた。ろくに読みもせず、というか記事を開きもせず、検索結果が表示されたタブを閉じる。見たい風景はこれではない。
いつからインターネットは「集客」して「稼ぐ」場所になったのだろう。たんに見えていなかっただけで、私がネットに触れはじめたときにはすでにそうであったのかもしれない。けれど少なくとも、インターネットと稼ぐこととがつながる回路を、私はもっていない。私にとってインターネットは自由に「遊ぶ」場所だ。この日記を読みにくる読者も利益をもたらす「客」なんかではない。ひとりで好き勝手に遊んでいるところを、気づけばいっしょにたのしんでくれている「友人」や「同志」と呼ぶにふさわしいひとたちだ。この日記が誰かに読まれることは、結果的に私に充実感を与え、その意味では読者は私に利益をもたらしているのかもしれないが、それは定量化不可能な、数字や効率の外側にある幸福であるはずだ。
そもそもこちとら稼ぎにかまける輩のせいで不自由さの増したインターネットに辟易して、好き勝手に遊ぶためだけにわざわざ金を支払って個人サイトを立ち上げている身である。カフェでひと休みするには金がいる、温泉に入るには金がいる、本を読むには金がいる、電車に乗るには金がいる、大学に通うには金がいる、ディズニーランドを訪れるには金がいる、金を支払うことで果たしたい欲望、つまりみずからにとっての自由が叶う。だから私はインターネットで遊ぶために金を払う。ただたのしむために金を払う。誰もが日常的に行っているごく普通の営みだ。ディズニーランドに行って金を稼ごうなんてひとがいるとは思えないし(いるのかもしれないけど)、ディズニーランドに行けば稼ぎを得ずとも満足感を得られるだろうし、また時間をつくって訪れようとすら思うだろう。インターネットだって同じではないだろうか。それともサービスを売る側、稼ぐ側に回りたいと願うひとが、思っている以上に多いというだけのことなのか。勤務中に見知らぬ親子を見て、顔が似ているなと思った。片方だけを見ればただそのひとの顔であるのだが、二人揃って並んでいるとその類似性が主体の奇妙な拡張をもたらすかのようでいて、しかし同時に一方の特徴、言い換えれば、そのひとがそのひとであることが、より際立つようにも見えてくる。それに加えて、たとえば同じ家で十数年二十数年と暮らしているとなれば、おそらくは顔という遺伝的に複製されるような要素だけでなく、表情や身振り手振り、口癖や声の調子、歩き方や立ち姿勢、箸の持ち方、麺の啜り方、ソファでのくつろぎ方、くしゃみの仕方、収納の方法、入浴後の習慣、そうしたあらゆる動作も一方から他方へと伝染してしまうことだろう。子は親の複製物である。というと語弊があるかもしれないが、この考え方を私が重要視していることは間違いない。ここでいう親や子は、けっして血縁関係だけを指示しない。人類が歴史のなかで、歴史に依存しながら文化を育み、その過程で文明を発達させている以上、複製、模倣、真似、伝承、継承、参照、参考といったことは普遍的な事柄で、そのひとつの象徴として親子、あるいは家族がある。親子の関係は一般に親が優位に立つことが多い。抽象的にいえば、オリジナルとコピーを並べたとき、一般にオリジナルが優位であると考えられる。しかし、この両者はほんとうに優劣の関係性にあるのだろうか。前例なくして複製はありえないが、同様に複製こそがオリジナルをつくりだしているのではないか。これを私自身の関心に置き換えると次のようになる。無数の複製が重層した現れとして「私」は仮構されるのではないだろうか。そして、そのことを逆手にとり、多層的主体としての「私」に対して意識的に働きかけ、「私が私であること」を「確固たるたったひとつの存在としての私」とは異なる形式において捉えられないだろうか。地層としての「私」。書物としての「私」。複製に複製を重ねて「私」を浮かび上がらせる層に働きかけ、さらに書き換えようとするその過程で「私」の範囲の操作を試みる、そのような場をつくれないかと考えていて、その理念系をとりいそぎ「共同制作」などと名付けている。まだおぼつかないアイデアだが、親子という複製的関係性を踏まえるに、私が言わんとする「共同制作」とは柔軟に入れ替え(交代)可能な親子のようなものに近いのかもしれない。
労働を終えた帰り道で書店に立ち寄り早稲田文学の春号を購入した。レジには長い列ができていた。並んで会計を待つ間に視界に入った本をなんとなく手に取ってそのまま流れで購入した。コンビニで目についたお菓子に手を伸ばすような感覚で本を買うのはよくないような気がする。なにせコンビニのお菓子と書籍とでは価格が十倍は変わる。書店にいるときの私は、もう少し自らの収入を気にすべきだ。
日記210323
スマートニュースを開くと五輪聖火リレー出発式に関する記事がいくつか並んでいて、あまりに現実味がないが現実であることが確からしいその報道に鳥島伝法『るん(笑)』を読んだときの感覚を思い出す。『るん(笑)』は迷信やおまじないや似非科学などのいわゆる「スピリチュアル」なものを盲信するひとびとを描いたお話で、そこで営まれる異様で異質な生活習慣に笑ってしまったり恐怖を覚えたりしながら読み進められる一方で、突拍子のないような生活様式が現実でもたびたび見かけるような話にも思われ、スピリチュアルな世界を生きる自らに気づかされる、読んでいて頭がクラクラしてくる小説だ。スピリチュアルなフィクションがたんにリアリズムであり、現実からそう遠くない地続きの世界であるという、そのクラクラ感を、この頃の五輪関連の報道から感じてしまう。そもそも開催する気らしい、だけど海外客の観客受け入れは見送るらしい、開会式の演出チームでは統括ディレクターによるパワハラや容姿侮蔑が行われていたらしい、そういえばつい先日もオリパラ組織委員会の会長が女性蔑視発言で引責辞任したらしい、代表選手の選考はもちろん進んでいないらしい、国の首相は聖火リレー出発式を欠席するらしい、その他云々、すべてが銀河の果ての遠い惑星での出来事のようでどこまでも空虚でしかないのだが、これが現実と地続きどころかたんに地であるらしい。各社の記事で昨年二月にリハーサルを行う石原さとみさんの画像が使用されていて、にこやかな表情に居た堪れない気持ちになる。
デリダの『絵葉書』を読み進めている。百ページを超えたあたりからさっぱり付いていけなくなり、テクストからみるみる振り落とされていく。『絵葉書』は精神分析(フロイト)について分析した論文で、そもそも精神分析にまつわるあれこれやフロイトの一冊も読んでいない私にははじめから読み解けるわけがない。頭を抱えながら数年前にフロイトの『精神分析入門』を序盤だけ読んで放ったらかしにしていることを思い出す。しかし理解できずとも粛々と文字を追い続けているとたまにピンとくる部分があったり書簡という形式が提示するおもしろさを見つけたりする。そこに付箋を貼る。まったく理解できないけど文のテンション的に重要らしく思える箇所に付箋を貼る。根気強く、黙々と、粛々と文章と向き合う。読書は我慢に近い。数年前はフロイトを読み切る我慢がなかったが、いまはデリダを読み切る我慢がある。
職場で賞味期限の過ぎたどら焼きをもらう。もらう前に、賞味期限切れだけど大丈夫?と訊かれた。ほんの数日前だから大丈夫だと思うけど、と一言付されて、じぶんもそう思ったから素直に受け取った。賞味期限というのもある側面では似非科学に似ている。帰宅して、もらったどら焼きを食べると、生地がパサパサしていた。
日記210322
いつもより一時間程度早く起きる必要があって前日から憂鬱だったが、すんなり目を覚ませて驚いた。妙に気分がよいのは独自ドメインを取得した高揚感が続いているせいかもしれない。
Twitterにて「ドメイン」でフォロー内検索をかけるとライター/批評家のimdkmさんが2020年11月に「これはお得情報ですが、独自ドメインを自分の名前(ハンドルネームなど)でとるとマジで面白いのでおすすめです。サーバーも借りるとなおよい。」とツイートをしていた。ドメインを取得しただけでおもしろみに溢れてしまうのはじぶんだけではないらしい。実際、私はなにもわからないままドメインを取得し、なにもわからないまま愉快になっている。たんにじぶんにとって馴染みの文字列の末尾に.comなどがつき、そこへアクセスできてしまうというだけで、そんな些細なこととは思えないほどなぜか妙におもしろくなってしまっている。なにもわからなくても大丈夫だから、服を買うくらいの感覚でドメインを取得する嗜みが広がればいいと思う。かっこいい服を着るとたのしい。ドメインを取得するとたのしい。ちなみにこのサイトでも使われている「mu4real」という文字列。元祖はTwitter IDの「mu_4REAL」から誕生し、他のSNSに登録するたびにアンダーバーを増やしたり減らしたりしながら使いまわしている。たまに違うひと感を出したくなってまったく異なる文字列を使用したり、ユーザー名のむぅむぅに合わせて「mumu」にしてみたりもあるが、まあ半分以上はこれだと思う。
高校生の頃、イギリスのロック音楽をよく聴いていて、特にManic Street Preachersが好きだった。通称・マニックス。「二枚組のデビューアルバムをリリースして、世界各国で一位になって解散する」と舐めた口を叩いていたマニックスに、NMEの記者がどこまで本気なのかと問い詰めたとき、ギタリストのリッチー・エドワーズが自らの左腕に「4REAL」と剃刀で刻み込んだ、という有名な話がある。その「4REAL」に、本名の「ムトウ」から抽出した「mu」を加えてつくられたのが「mu_4REAL」であり、べつに深い意味もなく、なんとなくちょうどいいと思ったフレーズを周囲から探して適当に決めたはずだ。そのなんとなく決めた文字列に対し、繰り返し使いまわし、そのIDに紐づいたアカウントを繰り返し使用する日々を経て、いつのまにか自分らしさめいたものを抱えてしまっている。オフラインで「mu4REALさん」と呼ばれたら反応する自信がある。そもそも戸籍上の名前がすでにそうであるのだから、勝手に決められたりなんとなく決めたりしたものが「私」に取り込まれていく様子はいたって普通のことだとは思うのだが、ネット用に身につけた「4REAL」に、ほんとうに「for real」性が帯びているのはどこかおもしろい。あるいは考え方が逆で、適当な記号が何度も何度も反復する過程こそが「私」を仮構していくのだろう。インターネットで「4REAL」を名乗った以上、インターネットで本気になる以外に、私は私でいられない。
自分の体験を思うに、SNSのIDをランダムの文字列にしているひとは小さなたのしみを得る機会を逸していると思うし、そういうひとはドメインを取得してもおもしろくならないかもしれない。どちらかといえば服を買ったりおいしいごはんを食べたりすることをお勧めしたい。