髪の毛を切った。正しく言えば、美容室へ行って美容師さんに髪の毛を切ってもらった。このような表現の冗長さが重要であると考えている。日常的な言い回しに無意識に含まれている省略や言い換えを、それ以前の姿に戻すこと。それは言語上の操作としての意味だけではなく、私が自分の生活の中で見落としているものに改めて目を向けさせることである。「髪の毛を切った」という言い回しは美容師の存在を消し去っている。美容師と私との間に生じる関係もまた同様に。しかし、そうした理念とは別に、髪の毛が切られることや美容師の存在について語る際においてはさほど重要な話でもない気がする。このようなあえて冗長さを取り戻す行為が重要なときもあるだろうが、それはおそらく今ではない。
そもそも文章を書くときにこのように思いついたことをとにかく書いてしまう乱雑さは排除されるべきだ。排除という言い方が正しくなければ、操作されるべきだ。文章は非常にシンプルな線的構造をしているが故に、脱線・複線あるいは分裂などはごくわずかしか許容されない。絵画や映像や音楽がいかに同時に複数のテーマを示しえるかを考えれば文章の貧弱さは明らかである。したがって、書き手はつねに、文章の貧弱さをそのままに受け入れるか、貧弱さを補強する技術を身につけるかのいずれかの選択を迫られている。貧弱な構造の中でどのように意味や音、あるいはレイアウトを操作し示すかということは、もはやいかにして文章を書くかということのほぼ全てを覆う問題である。たとえばマラルメの「賽の一振り」が象徴するように、詩においては改行や韻律を代表とする文字の配置の手つきによって行の隣接関係を直線的に書かれた散文のそれとは異なるものとして提出しようとする傾向が多くみられる。つまり、一見線的でしかいられないかのような文章も、書き手の操作によって脱線・複線、分裂はいかようにでも可能である。少なくとも、そこに操作の余地があると考え、試行に努める者は少なくない。
府中に引っ越して三年目になるが、この間ずっと同じ美容師さんに髪の毛を切ってもらっている。美容室に行くと毎回はじめに「今回はどうしますか?」と訊かれるが、じぶんの見た目にさほど関心のない私は明確な要望を伝えることがない。私の髪型に私の意図はさほど介入しておらず、実際に手を加えているのは美容師さんである。仮に私の髪型がいい感じに整えられたとしてそれをみた者に「髪型いい感じですね」と指摘されたとしても、その指摘はどちらかといえば美容師さんに伝えるべき内容であり、少なくとも私の功績ではなく私が聞いて喜ぶ事柄でもない。ある小説が素晴らしいと感じたのなら、それは作者に伝えるべきであり作品に対して語りかけても仕方がない。
髪の毛を切った翌日などに周囲のひとから「髪切ったね」とか「さっぱりしたね」とか言われることを幼少期から苦手に感じている。だからなんだ、うるせえ、と思ってしまう。髪の毛が短くなったことを指摘する者の表情はなぜかニヤニヤしていることが多く、それが妙に腹立たしく不快だ。何か恥を指摘されているようでもあり、それゆえにある時期までは髪を切ることは恥ずかしい行為なのだと思っていたほどだ。いくらその髪型に自身の意図がさほど介入していないとはいえ、自らの肉体と直結していることでもあり、他人の肉体に対して侮蔑的(に見えてしまう)態度でものを言うことは端的に暴力だ。髪の毛という部位は自分の肉体でありながらその形状にかなり可塑性があり、所有者による介入が可能であることは事実ではある。しかし、その土台を整えるのは自分ではなく美容師という他人に委ねるしかないという状況を無視して他人から指を刺されること、これが恥を産むのは当然であると思う。ここで最初の冗長さを取り戻す話に戻る。
「髪を切った」という文を「美容師に髪を切ってもらった」と言い直すことは、私が私の操作できなさを見つめなおすことだ。たしかに自分の足で美容室にいき自分で散髪を依頼してはいる。しかし、結局切るのは私ではない。にもかかわらず「髪を切った」という指摘によって、髪を美容師に切ってもらった時の他者に身を委ねた時間が消去されてしまい、他者に身を委ねたことによるままならなさを、自分のものとして抱えなければならなくなる。これは嫌なことだ。だから私は髪を切った翌日にそのことを指摘されると、この身体を強固な境目とした独立した存在として「私」でいなければならないと言いつけられているようで、とにかく不快に感じてしまう。散髪だけではない。食べるもの、着る服、習慣、振る舞い、感情、態度、言語──私にかかわるあらゆるものが他者の関与なしには成立していない。私は他者の存在をけっして消去できない。他者の存在という操作不可能な要素が「私」をそうでいさせてしまっていると自覚すること。それが一般に「理性」と呼ばれるものではないだろうか。私はたんに「私」であった方が合理的で都合がよい。独立した「私」による行動の責任のすべてを「私」に背負わせられるからだ。そうした割り切りによって社会は動いているが、割り切っているということ自体は忘れてはならない。
同様に、関与する主体に線的であることを強いられてしまう文章についても、言葉が本来抱える多義的で曖昧な性質を消去しようとする合理主義の弊害といえる。つまり、言語を意図的に操作しようとすることで言語の複数性を回復させようとする営みは、言語を扱う人間の複数性を回復させようとすることでもある。「私」は合理的でなどいられず、いつだって冗長な存在である。手のひらに収まりきらない「私」を見つめる技術の習得が求められている。
※ 今日の日記はGoogleドキュメントをTwitterで共有し、不特定の者が匿名で自由に閲覧、編集が可能な状態で書かれた。感覚的には半分以上は他者によって書き出された文字列であるように思うが、最終的な編集、調整をしたのは私であり、したがって当初その文を書いた者の意図や意味がどこまで保存されているかは定かでない。なお、米印以下の本文字列はワードプレスのエディタから書かれている。