相変わらずやる気なく時間を過ごしながらインスタグラムを眺めていると、ネット上でいくらかやりとりをしているひとが茶をする相手を募集していたから、じぶん暇ですよとメッセージを送った。じぶんから誘いをするのは苦手だから、募集に手を挙げる方式はとても助かる。さまざまな募集に対し気軽にほいほい手を挙げるのは、それはそれで軽薄な態度にも思えて、そんな軽い輩に思われたくないとかなんとか言い訳してじぶんの重みを守りたくもなるが、少なくともいま現在、重いとか軽いとかの判定をしているのは自分自身以外になく、誰に対してなにを守ろうとしているのかよくわからない。だから手を挙げたくなったらとりあえず挙げるといい。いまのじぶんに求められているのはそうした自然さであり、また、脱ひきこもりを掲げるこの頃において外に出る機会やひとに会う機会は多ければ多いほどよい。疫病の流行りもあって世の潮流としてはひとと会わない方に舵を切るのが正しいのだろうが、ひとにはひとの事情がある。
指定されたカフェに到着すると、じぶんが移動している間に先方は偶然知り合いと出会ったらしく、初めて見る顔のひとが二人いた。不思議な感じがした。軽く挨拶をして、さてどうしようかなと様子を伺っていると、じぶんピン芸人やってるんですよと口を開いたのはネット上でやりとりをしたことがない方だ。そこからの展開がまあ凄まじく、その彼は惜しげなくネタを披露し、惜しげなく制作論を話し、それらがじぶんにとっては逐一深刻なものとして突き刺さるテーマ性を帯びており、怒涛の勢いで繰り広げられる語りを聞きながら、とにかく感動した。刺激を受けた。こんなにすごいひとが世の中にはいるんだなと素直に思った。メディア越しであればすごいひとなんていくらでも目にする機会があるが、間近で、目の前で、というか隣の席で、直に空気の振動が伝達されることによってその存在を体感するという経験はいまだかつてなかったかもしれない。身の回りにも尊敬する知人友人はいるが、ひとと話してここまでの衝撃を受けた経験はざっと思い返すに見当たらない。
正常であること。異常であること。ぼくらは多くの場合、自らは前者であると思い込む。お笑いであれば、異常者を正常者がツッコむことで観客は笑いを誘われる。そこで生じる笑いはじぶんが正常側であることの安心でもある。異常者は正常者につっこまれることで異常的行動がリセットされ、正常世界においてネタが進行する。お笑いという舞台でさえ、ネタという虚構上でさえ、異常者は異常者のままではいられない。その彼は、そこにNOを突きつける。異常者が異常者のままコントを続ける。いや、異常者に寄り添うことによってコントが続けられる。観客=正常者の都合や論理によって(ツッコまれる対象としての)ボケが発言されるのではなく、演じられる人物にとって切実なものとしてたんに言葉が発せられる。一見虚言や妄言にも思える異常的発言を異常的と思いながらも、否定としてのツッコミを入れることなく、あくまで切実なものととして扱う。こうした態度はつまり狂気に対するやさしさであり、それは権威や体制に扱える代物ではなく、オルタナティブな表現ゆえに可能なものだ。このコントで生じる笑いは決して(権威側であることの確認がもたらす)安心に起因していない。この笑いは妙なおかしさによって支えられている。そして、妙なおかしさに寄り添い、妙なおかしさが笑いとして場に共有されたとき、はたして妙におかしいのはどちらなのかと疑心に駆られる。演じられている虚構上の人物とそれを見ている現実の私、どちらにおかしさが帯びているのだろうか。自らの正常性がゆらぐ。正常と異常が反転する。
お笑いに対し、このように御託を並べて解釈しようとする態度は、あまり好まれる類のものではないだろう。ましてや舞台上でのネタを観たわけでもなく、たんにカフェで話を聞いただけである。しかし、それでも私はこのように受け止めた。あまりにも切実で、深刻で、誠実なものと受け止めた。受け止めてしまった。誤読であり、誤解であっても構わない。私はそう受け止めてしまったのだ。虚構を演じることによって、現実を覆う虚構性を一息に剥ぎ取るネタを、笑いではなくやさしさとして受け止めてしまったのだ。これもまたひとつの異常性であるのかもしれない。正常者にとってのツッコミの対象でしかないのかもしれない。しかし彼の異常性への寄り添いに心を打たれ、感銘を受ける者は少なくないのではないだろうか。彼のコントに涙を流してしまうひとがきっといるはずだ。現に私がそうなのだ。彼を知ってしまった以上、私は彼の今後の活躍を応援せざるにはいられない。
外に出て、ひとに会いに行くといいことがあるなと思った。
日記
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日記210313
しばらくゴミを捨てにいけてなく、捨てにいけていないというか面倒で溜め込んでしまっていただけではあるのだが、そのせいで廊下を歩くことが困難になってきたため、ようやっと重い腰を上げてゴミを集積所まで持ち込んだ。自宅と外のゴミ集積所を往復しているあいだに、細かった雨は大粒になり、時間あたりに降る量も増えているようだった。ゴミを捨て終え、ぼんやりしながらインターネットで動画を見ていると雨や風はますます強くなり、本を持ってカフェでも行こうかという思いを断念した。気圧も急落しているようでなんとなく身体がだるかった。
夜にひとと通話をする予定があり、それに向けてkeynoteで作成していたスライドを微調整する。スライドを用意するとどうしても作成者が一方的に話すという構図に陥りやすい。会話とは語り手と聞き手が絶えず交代されるものであり、一方的にしゃべりたいだけなら壁にでも向かって話せばいい。もしくは、インターネットを使えばおしゃべりを配信する手段などいくらでもある。自己言及するようにそのような旨を書いたスライドを見せ、考えを述べたところ、会話は一方的ではなく聞き手も非言語的な反応によって話を聞きながらにして情報を送ってもいると指摘を受け、それは確かにその通りだと思った。
スライドを用意したおかげでこの頃に考えていたことを十分な時間をかけながら話すことができ、いくつかの鋭い指摘を受け、そこから脱線し、どんどん遠退きながら展開された会話の内容も興味深く、じぶんは相当に満足しているのだが、相手の満足度如何については知る由もない。そのことにいつも不安を感じるが、でも、そんなものなのかもしれない。ある劇を観ておもしろいと思ったならまたその劇団による公演を観に行くことがあるだろうし、おもしろいと思わなかったならまあ観に行かないだろう。おもしろいと思っても縁がなくて観に行かないこともあるかもしれず、おもしろいと思わなかったけど縁があって観に行くこともあるかもしれない。たまたま観た劇が以前観た公演と同じ演出家によるものだということもあるかもしれず、そのことに気づいたり気づかなかったりする。瞬間的な「満足度」など気にしても仕方がない。というかそもそも、ひとはそのときに話した内容などあまり気にしていないらしい。
ぼくはじぶんにできることしかできず、できることを愚直にやることしかできない。じゃあぼくにできることってなんなのかといえば、ひとと話す場に合わせてスライドを用意するとかになるわけだが、珍妙な劇を好むひともどこかにはいるだろう。ぼくが珍妙な劇を見たらおもしろいと思うから、ぼくも珍妙な劇を用意しようとする。なるほど、そんなにおかしな話ではない。
週一くらいで考えごとや関心ごとについてひとと自由に話す機会を得られるとかなり救われる感じがある。週一くらいでひとと自由に話す機会が得られるだけで精神的に安定しそうな予感がある。そういうサイクルをどうにかつくりたいと思うし、たぶん、どうにかがんばってじぶんでつくっていくしかないのだろう。日記210312
職場で食パンを一斤もらった。じぶんで食べるには持て余しそうだったから、友人にあげることにした。「食パンいりませんか?」と連絡をしたところ、すぐに快く受け取ってくれると返答があった。貰い物の食パンだけ渡すというのも芸がないなと思い、職場近くの珈琲焙煎所でコーヒー豆を買った。
友人らしい友人もそう多くなく、ましてや労働終わりにひとに会いに行くなんてことは滅多にない。まあでも世の中そんなもんでしょ、とは思っていたが、いざこうしてひとからものを貰ったことをきっかけに、ひとに会う機会を得て、気になりつつも訪れたことのなかった珈琲店に行く機会にもなり、友人宅で飯をごちそうになり、近況を話し、最近の考えを話し、かっこいい音楽を教えてもらい……とかなんとかを経て、ほんのすこしだけ自分の世界が広がったかのような感覚が得られることはおもしろいなと思う。
じぶんは基本、ものに興味がなく、たとえば小学六年生の頃から同じ財布を使っているし、高校三年生の頃に買った靴をいまだに履いている。着るものはとりあえず着られればなんだっていいし、食べるものはとりあえず食べられればなんだっていい。しかし、ひとにあげるとなると事情は変わってくる。お世話になっているひとであればあるほど、食べ物だったらできるだけおいしいものをあげたいし、雑貨だったらかわいいものをあげたい。となると、いざひとにものをあげようとしたときに、自分のために適当に済ませてきたものしか知らないとたいへんに困る。つまり、ひととかかわることがじぶんを関心のない事柄へと進ませるし、かかわってくれているひとがじぶんを関心のない事柄に誘い込んでくれる。
難なく人間関係を育めるひとにとってはきっと当たり前のことなのだろうが、これを新鮮な出来事と思う者もいる。日記210311
先週の土曜日が勤務日だったからその代休で労働がなかった。例によって特にすることもなく、とりあえず外に出ようと考え、まあそういう日だしと思い、日本科学未来館でいま特別展として行われている「震災と未来」展へ行った。場所が場所だし、企画の主催もNHKだし、そこで何かが見れるという期待などむろんあるはずもなく、けれども、10年も経つわけだから何かがあってもおかしくなく、もしかしたら、ひょっとして、何かあるかも……? とどきどきしながら会場を観て回ったがやはり何もなかった。こんなにダメでいいのか。自宅にはテレビもないから、こういう場にでも来なければそれなりにおおきな画面で震災当時の映像をある程度の量でまとめて観る機会は得られないかもしれない。その点では貴重な機会といえばそうなのかもしれず、訪れた意味が一切ないとはいえない。でも、映像だけホイっと投げて、あとは適当に画面観ててくださいね、みたいな展示はべつに展示じゃなくていい。ネットでみれるし。記憶を想起することも、記憶を継承することも、あるいはそうした記憶にまつわる営みが私たちに何をもたらすかだとか、何も考えていないし、考えさせようという気もないし、そんなことは考えなくていいと思っているんじゃないかな。それにしても原発に関する資料がずいぶん淡白ですね。現在進行形で抱えている問題なんですけどね。「被災者アンケート」と書かれたパネルに、「2021年3月で震災から10年となります。当初、あなたが思い描いていた復興と比べて、今の復興の姿をどう考えますか?」という質問に対して48.8%が「思い描いていたより悪い」と回答した結果が載っているけど、こういうのどう受け止めて、どんな思いで掲示しているんでしょうね。そんなことどうでもいいよね。羽生結弦さんの衣装を展示できてよかったね。なんだそれ。くだらねえ。こんな津波に襲われたら真っ先に、かつ、最大級に被害を受けそうな地でよくもまあこんなお気楽で。ほんとうに思想がないんだろうな。ノンポリであることはきっと公平性とはいわないよ。まあ、国に根底となる思想がないのはラッキーなことで、ないのだから私たちでつくってしまえばいい。というか、つくらなきゃいけない。未来は私たちの手にかかっています。ああ、なるほど、「震災と未来」ってそういうことですか?
日記210309
夕方頃になるとなにをやっていても必ず眠くなる。身体の力が抜けて座位を保つことすらままならない。まぶたは重く、眼球は光の受容を拒む。そんな状態で業務を行うことができるはずもなく、眠ってはいけないとウトウトに耐えたり耐えられなかったりしているうちに終業時間を迎える。
こうも眠いと自分の身体を疑ってみたくもなる。べつに夜に眠れていないわけでもないのだから。身長178センチ体重50キロ弱のあまりに貧相な身体では、一日を十分に活動することができないのではなかろうかと思うほうが至極自然である。BMIと呼ばれる肥満度を表す指数がある。Body Mass Indexの略であることは確かだが、そこで算出された結果がどれほどの確かさを有しているのかに関してはどうも確かでない。この指数を用いると、私の体格は16から17のあいだを彷徨うことになる。主に真ん中あたりに位置することが多い。日本肥満学会が定めた基準では18.5を下回ると「低体重(痩せ型)」とされる。むろん、日本肥満学会なる団体がいかなる集団であるかは定かでなく、だからといって調べてみようとも思わない。また、世界保健機関では、16台は「痩せ」とされる。ちなみに16を下回ると「痩せすぎ」と判定され、3年ほど前の、体重が48から49キロほどしかなかったころの数字で算出するとBMIは15.5と弾きだされる。こうした自らの身から出た数字を統計と照らし合わせてみると、男性の低体重者の割合は20代では約一割、全年代で見ると4パーセントほどしかいないらしい。
全体図を見たときに隅に追いやられてしまうほど私の身体は貧弱で、ここのところ強く思うのが、野生動物だったら体力不足によって真っ先に死ぬだろうし、あるいはすでに死んでいるだろうということだ。見方を変えれば、私は人間だからのうのうと生きていられるのであり、人間社会によって生かされているともいえる。それを思えば、いまこの時間はすでに余生と捉えても間違いではなく、その点では気楽に生きることもできるのだが、とっくに死んでいるはずの社会によって強引に生きさせられている個体が、他の標準的に生き延びる体力等の諸々を備えた個体と同列に扱われてしまうというのはなかなか酷でもある。放っておけば死んでいる個体が生きられる、つまり生存能力にかかわらず生きることができるということは、人間が生きることの豊かさを示すだろうし、これ自体が多様性というものだろう。しかし、多様な個体を生かしておきながら、それらの個体を同一の生存競争に並べていては、いくらその競争のロジックが動物的なるものとは異なると主張しようと、結局は元の木阿弥ではなかろうか。
多様な個体が、その多様さを維持したままに生きるためには、多様な環境が必要だ。それでいて、その多様な環境で育まれる生態系が、個々の共同体のなかで完結する閉じたものにならず、それぞれに関与しあうためにはどうすればよいか。そういったことをもっと考えたい。いつも思い出すのは、海洋生物のドキュメンタリー番組を連日熱心に見ていた頃のことだ。海の生物は多様で、かつ、成熟していると感じながら映像を観ていた。番組として作り込むために、そうした切り取り方をしているのかもしれないが、生命の起源は海なのだから、海の生態系に成熟さを感じることもそうおかしなことではないだろう。たとえばよくあるのが、イワシの群れを襲うために、アザラシやイルカやアジや海鳥が四方八方から攻め込む光景。一種の動物だけではイワシの素早さにかわされ、餌にありつくことができないが、共通の目的をもった複数種の動物が同時に、かつ、個々の種別に応じた異なる襲い方をすることで、食を完遂することができる。あるいはこうした話をするときに『ファインディング・ニモ』を引いてもいいのかもしれないが内容をあまり覚えていない。とにかく海は魅力的で、海の生態系は素敵に思える。いちおう、悪い面を知らないだけかもしれないという考慮もしてはいる。
海洋生物の多様性から逆説的に、人間は人間だけで生きようとするから息苦しいのではないかと考えることもある。どこを見渡しても同一種別しかいないから、皆がじぶんと同じであるような錯覚を覚えてしまうのではないか、という仮説はどうだろう。それを踏まえれば、猫を飼って、猫の気ままさに追われる日々を送るひとびとが幸福そうに見えるのも頷けはしないか。人間は、もっと猫に飼われるべきだ。日記210307
フランスの憲法(第五共和国憲法)の冒頭を少し読んでみたら国家、選挙権、政党の順で記述が続いていたので、個人の権利についてはどこに書いてあるんだろうと思いWikipediaを見てみると、1789年のフランス人権宣言ですでに規定されており、加えて前文でその規定が前提であると宣言されているため人権規定に関する記述は省略されているらしい。
フランス国民は、ここに、人間の権利と、1789年の宣言によって定義され、1946年の憲法前文によって再確認され、補完された国民主権の原則、および2004年の環境憲章に定義された権利と義務に献身することを厳粛に宣言する。
「第五共和国憲法」前文日中、特にすることもしたいこともなくネットを見ながらぼーっとしていたら鬱の気配がやってきたから慌てて外出をした。ちょっと外に出るだけでも気分が相当ましになることをようやく覚えた。カフェに行くにもお金がかかるし、なんて思ってはいけない。本を片手に一杯のコーヒーを注文し長居する。それだけでいい。
最近、本を読みっぱなしにすることが多くせっかく読んだ内容もあまり頭に定着していない。読み終えたらすぐ次の本を開く。次の本を開いてまもなく直前に読んでいた本のことは忘れる。本を読む行為が自己目的化していることには気づいている。文字を目で追っている快楽に耽るのも結構だが少しは書かれている情報にも気を配りたい。そういえば以前は読了後にメモを取って引用帳をつくるなどしていたがいつの間にかやめてしまった。引用帳の存在を思い出したことを機に再開してもいいかもしれない。ただ、自分の体力の都合上、本を読む時間とメモをつくる時間の両立が難しい。思い返せばメモをつくっていた頃は無職かフリーターで時間だけはあった。週五で労働に励むとできないことが多くなってくる。たまの休みくらい好きなことをしたい、好きなだけ寝たい、リラックスしていたい、無責任でいたい、なにも頑張りたくない、そんなことを思って徳の低い時間を過ごしてるうちに労働の時間が訪れる。労働するだけのどうしようもない日々を過ごしている。どうしようもない未来を描き出してしまう。そしてまた抑うつ状態に陥る。自分の場合、不調の原因の多くはこのパターンにはまってしまうことにある。どうにか週三労働して、週二勉強して、週二リラックスする、そんな生活を営めないものか。ついでに大きいことをいえば、私たちがよりよく生きていくためには、知らないことに興味を持ち、調べて、学んで、培った知識を周囲のひとと語り合うための時間がもっと必要ではないだろうか。日記210306
土曜日だが勤務があった。夕方くらいに勤務を終えて、スーツ姿のまま映画館へ向かった。通常料金で映画を観るとけっこう金がかかるなと思った。観た映画について安易になにか言葉を並べようとすると、その行為によって一方的に〈観る〉側であることが猛烈に意識されるような気がして、なにかを語る気が失せる。というか、映像についてなにかを語れる言葉などないような気がしてくる。「映像それ自体」なんて映像を神秘化しているだけだと言えばそうなのかもしれないが、映像それ自体が持つ尺度と観ている観客=映像の外側の世界が持つ尺度はやはり異なるのではないだろうか。文化は語りによって育まれることは確かだと思う一方で、観客が観客の論理で作品を抑圧するようなことは文化への冒涜だ。
夜、『CLANNAD AFTER STORY』の第12、17、18話を見返して大号泣した。思ってもいなかったほどに泣いた。物語のカタルシスによって号泣することは身体を日常の抑圧から解放することであると思う。抱えていた抑圧を剥がされたところに、驚きがあり、感動があり、学びがあり、そうして観る者の身体が書き換えられて、観る者にとっての世界の在りようまでもが変わってしまう。それが文化の──とりわけ表現文化の──すばらしさだ。日記210305
昨日の日記を書き忘れてしまったが、別に毎日書こうと決めたわけでもなく、それがどうしたという話ではある。ただ、こうして入力画面を開いてしまえば、あとは適当に文字を並べるだけで日記というていを成した文字列が完成するのだから、日記を書き忘れてしまったことは単に怠惰の現れということでもある。ここ数日にここで書いている文章は、ほんとうに、心の底から何も考えずに書き出されている。思いつくままに書き出されている。はちゃめちゃに適当である。だから、書く労力はほとんど強いられていない。読む価値もない。実際、誰も読んでいない。
文章を書くということがこれほどに負担なく行えることの大部分は、書く行為のテクノロジー化に依っているのだろうと思う。これがペンと紙で書いていたら、何も考えずとも身体的な労力をそれなりに要してしまう。紙の日記を始めようとしたことが何度かあるがどれも数日でやめてしまった。それも書き続けることの大変さ以上に、あるいは、自らの飽きっぽさ以上に、ペンで書くことの大変さに身体が追いつかなかったのだろうと思っている。文章が適当に、雑に、無責任に、投げやりに書けてしまうことが、個人にとって、人類にとって、どれほどの幸を生み、どれほどの不幸を生んでいるのかはわたしにはわからない。なんとなく思うことがあり、二年前に制作した文集を少し読み返した。みんな文章がうまいなと思った。自分にはこうした文章は書けないなと思った。自分が書いた文章を読み返して下手だなと思った。このころに比べていま文章がうまくなっているということも、さらさらないなと思った。自分は文を書くのが下手な人間なんだなと思った。だけど、考えも言葉遣いも表現技術も稚拙でおぼつかなく、それゆえに他者に加害を与えてしまうことや他者から見放されてしまうことに恐怖を抱きながらも、愚かであることや誤ってしまうことを避けていてはそれらを乗り超えられない──愚かさや誤りをまずは自ら受け入れなければならない──のだと強く、希望を見るように、祈るかのように書かれていて、その態度はいま現在も夢みていながら到達できていないと同時に、やはり自分にとっては必要でどうにか得なければならないものであると感じ、まあ、なんというか、つまり平たく言えば、劣等感にどう折り合いをつけて生きていくかについてこの先もずっと悩んで、考えて、試して、失敗して、後悔して、苦しんで、そうやって内にこもって生きていくのだろうという気がした。どうにか外に出たい。
日記210303
わたしが悩んでいるすぐそばでもっと悩むだれかが助けを乞うているのかもしれないと、だれかがいなくなったあとしばらくたって、首元をかすめる風がくすぐったく鳥肌を立てる白んだまちで、だれかの気配を取りこぼしてしまうように、ちょっとうしろをふりかえってみたりするのです。だけど、そこにはなにもないのですから、すぐにまた、まちはいつもの色をとりもどしていくのだと思います。
日記210302
首から上の風船が飛んでいって湧き出る血が肩を背を胸を腹を腰を腿を脹脛を足先の小さく突き出た小指を伝って肘から滴って上腕骨からしたは消えかけている朝がねぼけまなこの昼間に夢へと連れ去る連れ去られた悪夢の洞穴では焚き火が行われていて陽気なひとらが歌ったり踊ったりしている間近で目を回し岩と岩のあいだに埋もれ溶け込み同化していく内臓が痙攣し鍵穴を突き刺すみたいな閃光に引き裂かれた吐き気を伴う風呂上がりの夜