ハローワークに行って求人の紹介状をもらいに行こうと思っていたが、待機期間が今日までだったからやめておいた。ハローワークに行くついでに家賃を振り込もうと思っていたのも明日にまわすことにした。支払い期限は25日までだが数日遅れてもさほど問題はないはずで、これまでにも1〜2日振り込みが遅れたことは何度もあるがいまのところは問題視されていない。労働をしていないぶん収入がないことを預金残高を見て実感する。今月初めあたりからまいにち韓国語入門のテキストに数分取り組んでいて、数分とはいえまいにち聞いたり書いたり発したりしているとあきらかにハングルがすこしずつ読めてくるのがわかる。同様に生活や労働もすこしずつ積み上げていかないといけないのかもしれない。教養とか交友とかもほとんど積み上がっていない。時間をかけて地道に積み上げてこなかった者に対する風当たりはけっして弱くはなく、生活をしていて快さを感じることはあまりない。仕方ないと思いながらじゃあどうしろというのだと刃向かいたくなる気持ちもある。押しても引いても何も出てこないくらいの身軽さは、じぶんがたどり着く先として妥当であるようでありながら、しかしそれでもからだを持ち名前を与えられている以上は生活がだらだら続いてしまうのだから困ったものだ。生活が続くことが苦痛なのか、苦痛だから生活が続くことへの意識が出るのか。苦痛というより鈍痛というのが感覚的には近い。
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空撮写真のカメラの位置に撮影者(としての権利を有する者)がいないことは、言葉が書いた者や発した者から離れて無限に複製されることとどの程度重なりあるいは重ならないだろうか。ちょっと前に読んだ鈴木忠志の著書に、詩人が詩を朗読するパフォーマンスが流行っているがなぜ書いた当人が朗読しなければならないのか、書いた当人が朗読することがなぜ自明視されているのかと疑問が呈されていた。演劇においては戯曲を書く者と演じる者は異なる場合がほとんどであり、さらには演じる者が多数いる場合がほとんどなのだから書かれた言葉と発される言葉の出どころは見かけ上は異なるのであり、演出家である鈴木忠志がそのように思うのはとうぜんである。ポピュラー音楽は歌詞の書き手と歌手が分業されていることが多く、落語家は師匠の演目を目で見て真似て昔から受け継がれている話を引き継ぐのであり、アニメーションは生き生きと動く絵に合わせて用意された台詞を吹き込む。もとより言葉はすでにあったものを複製することで運用されているのだから始点を辿ることもできまい。
では写真はといえば、従来基本的にはそのときその場所に撮影者がいてシャッターを押したということがある写真の権利所有者としての条件になりえた。けれど写真やカメラのおかしさは、たとえば集合写真の権利はおそらくは被写体である集団にありカメラマンは表に出てこれないのでは、とか考えられる点にある。ああこの集合写真は構図から見てあのカメラマンだねとか、記念写真にそんな作家性は求められていない。もしかしたらネガの所有権とかなんとか細かく部分を見ればある段階までは撮影者の権利、ある段階から集団の権利と境界線があるのかもしれないが、カメラに詳しくないしそこまではわからない。いずれにしても場合によって権利が撮影者だったり被写体だったりする。撮影者はカメラの位置にいるが、被写体はカメラから離れた位置にいる。カメラの位置にいることが権利を絶対的に保障するというわけではなさそうだ。
それで空撮はどうかとなるのだが、撮影者の身体がその場になければシャッターを押したひとが撮影者なのかとか、レタッチまで含むのかとか、撮影に関わる諸工程をディレクションした者なのかとか、どの立場に権利が付与されるのかが気になってくる。もしシャッターを押したひとという単純な条件に由来するのであれば、では最後にシャッターボタンを押すだけのアシスタントを用意しそれ以外のすべてを別のひとりが担ったとして、そこで撮られた写真はアシスタントのものになるわけだがそれはそれで奇妙な感じがする。真上から人物を撮るとその人物の個別性が消失し、老若男女のいずれの属性であるかすら判断が難しくなる。空撮は撮影者と被写体の両者を匿名化する。特定個人に権利が付与されない匿名的な空撮の完成形はやはり地図になるのだろう。だれが見た風景でもないがゆえにだれもが見たことのある風景として共有可能になる。一般的に言葉は共有可能な状態が自然であり、共有可能であるがゆえにわたしたちは言葉を交わすことができるように、写真も匿名化し共有可能な状態を目指すとき、たどり着く図が空撮だとするならば、人間が重力に対して垂直な視線を有するのに対し重力と並行な視線でスキャニングされた面が自然であるというのはこれまた奇妙だ。
ただ公共的な共有財と個人的な文化芸術とはわけて考えるべきなのかもしれない。辛ラーメンにツナを入れたらおいしかった。
昨晩キムチチゲをつくったが、肉なしでもいけるのではないかと思って試したそれはどこか印象に欠くできばえであり、どうにか工夫を凝らせないかとその残りにきょうはツナ缶を入れてみた。ツナでキムチチゲをつくることはわりとポピュラーらしいと韓国料理のレシピ本やネットなどにも書かれている。さて味はどうかというと、食べているときにツナをまったく意識しなかったことをいまになって思い出すほどで、少なくとも劇的な変化はなかったようだ。缶が開いているところを見ると入れわすれてはいないはずであり、おそらくたんぱく質は摂れているはずだからそれだけでもまあよしとしたい。ツナより昨日入れた分のたまねぎがくたくたになっていたのがおいしかった。「おいしすぎる」といったとき、ふつうは「おいしさの度が過ぎる」を意味するはずだが「おいしさが口中を過ぎ去る」という解釈もできるなと思った。うまかったという感慨と物寂しさが口中に漂い入り交じるその刹那、ひとは「おいしすぎる」とつぶやく。おいしが過ぎ去った状態をそのまま表現することが数秒前の喜びの余韻を思わせると同時にいままさに消え去ってしまったことへの哀愁を伝えることになるこの転換はどこから呼び起こされているのだろう。
コメントする自宅から徒歩20分先にあるラーメン屋に行ったら定休日だった。京王線と中央線のちょうどあいだくらいに位置するその店からどこか他の場所へ移動するのはやや面倒で、どうしようかと迷ったが、せっかく歩いたしもう少し歩くのも気持ちよさそうだと思って武蔵小金井駅までさらに30分ほど歩いた。かつて時給1050円でフリーターをしていたお金のなかったころ、高円寺にあるクラブに行くための電車賃を節約するために、自宅最寄りの京王線から新宿経由で中央線に入る常識的なルートではなくわざわざ40〜50分くらい歩いて武蔵小金井駅を利用していたことを思い出した。金がないときには時間があって、時間があると金があるときにはしないようなことをする。環境や状況が変われば行動の動機も変わるのであり、それだけ行動の動機は見えないところであふれているはずで、時間がないときにはそのことにどうしてか気づけない。じぶん自身は特に決まりきったことばかり行なってしまう傾向があり、未知や偶然に身を晒すことをつい避けてしまう。するといつしか生活は停滞し、凪いだ時間にいてもいられなくなって職を辞める。環境や状況に細かく手を入れていくということがおそらくは苦手なのだろう。もしくは職を辞めるみたいな大胆な手段しか身についていないだけだろうか。不器用なのかもしれない。武蔵小金井駅近くに前から行ってみたかったラーメン屋があったからそこに入った。岩のりがたくさんのったラーメンを食べた。食後、きのうツイッターで知った中国空撮写真展を観にいき、人間の視線は重力方向に対して垂直だったんだなあとごくごくとうぜんのことを思った。武蔵小金井駅までの道のりが、川を挟んでかつて土手であっただろうことを思わせる坂道になっていたことを思い出した。
コメントは受け付けていませんラーメンが食べたくなって駅に向かった。ただ駅の近くには食べたい感じのラーメン屋がないから歩きながら微妙な気分でいると、駅に着く頃にはなぜか満腹感が出てきてラーメンを食べる気もなくなっており、かといってUターンして帰宅するのももったいなく、仕方ないから書店に入ってうろうろした。いくつか適当に買ってしまおうかとおもった本はあったが、収入がないくせにこのあいだカフカ全集を買ったばかりの状況で散財するわけにもいかないだろうと踏みとどまった。結局ラーメンを食べるに至らなかったのがやや心残りだからあしたの昼にラーメン屋に行きたいと思っている。昼間にツイッターで見た中国空撮展というのがおもしろそうだったからそれも行けたらいい。そのためには午前の早い時間に起きなければならない。
インプット/アウトプットという表現にずっと抵抗感があって、理由のひとつは主にビジネスの文脈で使われる言葉であることからややマッチョなニュアンスが帯びているように感じられるという点があるのだが、より本質的にはインプット/アウトプットといったときに前提となっている主体性のありようがじぶんの解釈と異なるということなのかもしれないとふと思った。なんとなくインとアウトが逆であればまだ腑に落ちる気がする。とはいえ具体的に主体性の解釈がどのように異なって、じぶんはどう解釈しているのかを説明できるほど意識的かつ論理的には考えられていないからもうちょっととっかかりがほしい。
先週応募した求人の返事が1週間経ってもこないからきっと相手にされていないかもう採用が決まったかしたのだろうなと察する。どこで雇われようと労働時の不満のはけ口がないと長続きしないような気がしていて、親兄弟友人恋人なんでもいいのだろうけど背中を押してくれる他者の存在によって責任感を得つつ弱音も吐きつつしながら生活を駆動させていくということはあるのだと思う。他方、たかが労働に対する不満を話題に時間を費やすというのも不毛であるような気がして、部外者である誰かの耳は汚すことになるし、そもそも文脈を共有していないのだから話もうまく伝わらなければ問題解決にもつながらない。そんな話をするくらいならさいきん読んだ本とかふと思いついたこととかを話したほうが充実した時間を過ごせるだろう。とすると、労働に対する不満をこぼす相手は同じ勤め先のひとがもっとも望ましいように思う。文脈を共有しているから個人的な不満が個人的な問題なのか組織全体の問題なのかも相対的に検討できるし、問題解決にまで話を展開させる可能性もなくはない。ただし前提として誰かの悪口・誹謗中傷にさえ至らなければの話ではあり、えてしてひとは何かの問題を個人に背負わせ誹謗中傷を浴びせることで、正当で善良な立場である「こちら側」にみずからを位置づけては問題から目を逸らしたままなんとなく安心して落ち着いたかのような状態に落ち着いてしまうのだから厄介だ。
夜に酒を飲みながらひととおしゃべりをしたが、勢いに任せて適当なことを言いすぎて失敗したなと思っている。おしゃべりに成功なんてあるのかはわからない。
ようやく離職票が届いたから市役所とハローワークでいくつかの手続きを済ませた。市役所で順番待ちをしているとき、やんちゃな雰囲気の兄ちゃんがずっと通話をしていて、しかもイヤホンをしていたから番号を呼ばれたときに気づけるのだろうかと気になった。待ち時間や隙間時間はスマートフォンで埋めるというのがいまのひとつの様式であり、もしくはイヤホンは常時耳に装着というのもひとつの様式であり、外に出ていながら仮想的なプライバシー空間を保持し没入しているという状態のひとはよく見かける。ただそれゆえに必要以上の待ち時間を過ごし、当初の目的の所要時間が必要以上にかかってしまうということも起こりうるのかもしれない。他方、そんな事態が起きてどうということもなく、実際の感覚としてはスマートフォンでSNSを見たりチャットをしたりゲームをしたりという時間の隙間で生活の必要事項を済ませているという順序のほうが適切なのだとおもう。実際じぶんも同じように、家で本を読んでいたいけど手続きを済ませなきゃいけないしせめて隙間で読めそうな軽めの小説でも持っていくかと思いながら市役所に向かったのだし。はやく離職票送ってくれと思いながら届いたら手続きに行かなければいけないから来なくてもいいのにと思ったり、はやく再就職したいと思いながら再就職したらゆっくり本を読みながらのんびり過ごすことができなくなるからまだ就職したくないとか思っている。目的をどこに置けばいいのかわからずにいる。帰りにコーヒー豆を買った。帰宅後もしばらくコーヒー豆をリュックに入れっぱなしにしてたら取り出すときに香ばしい匂いが広がった。
コメントは受け付けていません午前に面接の予定があったから準備をしていて、出発予定時刻は8時50分、まだ余裕があるなとのんきに着替えを終えたのちiPhoneを手にとると画面に8:50と表示されていて驚いた。部屋に置かれたアナログ時計は8時30分を指している。あったはずの余裕がとつぜん消失し、慌てて歯を磨いて上着を羽織って書類をリュックに入れて外に出た。多少早めに面接予定地の最寄り駅に着くように準備をしていたおかげで電車を一本遅らせてもぎりぎり間に合いそうではあったが万が一それすら逃すと厄介だからと駅まで走ってさっそく疲れる。通勤の時間帯としては多少遅めではあったが電車は混んでいて余計に疲れる。面接を受けてさらに疲れ、たった一時間の面接で疲れていてはまともに勤務などできないのではと思いながらも帰宅後疲れて何もできなかったから夜まで寝た。時計は同期していないと効果を発揮しない。同期を自明のものとしているデジタル時計に慣れてしまってつい忘れてしまうがアナログ時計はずれる。ずれることもあるから何かがずれていたとしてもまあそんなものでしょう、といういいかげんさを育むのにアナログ時計はいいのかもしれない。晩ごはんのあと面接での話をなんとなく思い出しながらまた求人サイトを眺めたり閲覧履歴からのおすすめを見たりカテゴリを入力して検索したりして、仕事をするってこういうことではないんじゃないかと思ってサイトを閉じる。些細なことでいちいちそういうことではなくないかという疑いが生じていろんなことが進展しない。労働者をたんに労働力として扱ったときに切り落とされる何かしらを手探りしたくもなる。
コメントは受け付けていません基本的に怠惰で自宅にいるときは寝転んでばかり、やろうと思っていたことも手つかずのまま日を終えてしまうことが多い。けれどやろうと思っていたことややらなければいけないことを書き起こしてリストにすると意外ときっちりからだが動く。言ってしまったことや書いてしまったことを自分から切り離すことができず、規範として現れてしまったそれらにどうしても従わなければいけない気になる。自分の発言に責任をとろうとする意識が強いといえばなんだか聞こえもよさそうだが、実態はただたんに規範に従順であろうとする哀れな性質が発露しているだけだ。そういえば前職で働いているときは適当な嘘でごまかしや言い訳ができるひとはいいなと思うことが多かった。その場しのぎをその場しのぎで済ませることができるのも一種の技術みたいなものなのだとおもう。じぶんにはその技術がない。そう発言した私が私を私たらしめてしまうと素朴に錯覚してしまう。教育において日記や作文の指導は多くの場合、自意識や内面の形成への働きかけとして行われる。義務教育くらいの段階であればこう言った・こう書いたをベタに自身に引きつけてしまうこともあろうが、逆にいえば、ある程度歳をとればこう言った・こう書いたに対して客観性を持てるようになるのが一般的なのかもしれず、いまだこう言った・こう書いたに主観性の密着を感じてしまうあたりに未熟さがあらわれているとみることもできる。言葉を正しく扱おうとする態度には怖さがある。
とはいえ文字に起こしたおかげか靴を磨いたりシャツのしわを伸ばしたり古い新聞紙をまとめて縛ったりといった雑務を完遂できたことはひとまずよかったとしておきたい。
吉増剛造は石巻市鮎川のホテルの一室で、金華山の見える窓ガラス上にペンで詩を書いた。紙面に詩を書く経験と、窓ガラスという透明の媒体に書く経験とではそれぞれ体感が異なると吉増はいう。紙面は文字(を残すインク)以外の存在を原則的に排するが、窓ガラスはその面の奥にある風景がそのまま見えるだけでなく、面の前に立つ者の姿をうっすらと浮かび上がらせ、透明な面がそこにあることをも意識させる。面を構成する素材の性質を比べるだけでたしかにそのありようは異なるはずであろうと、ガラスに文字を書いた経験がなくとも想像はつく。
吉増は窓ガラスに詩を書く経験を「カメラのなかに入ったようだ」と表現したが、この表現には素直に首肯しがたい点がある。というのも直観的にはどちらかといえば風景越しに字を書く経験はスマートフォンを指で操作するのに近いように思われるからだ。風景が映るのはレンズではなくスクリーンであり、窓越しの風景にペンで触れているのだからガラス面で行われているのは視覚イメージと触覚イメージの交差であるとひとまずいうことはできるはずだ。いうなれば吉増が行う窓ガラスに詩を書くというパフォーマンスはスマホのスクリーンショットと類似的である。空間現代が演奏するなか吉増が詩を朗読するライブ・パフォーマンスにおいて、ガラス面の両側に椅子を置き、場面場面でこちらとあちらを行き来する吉増の姿もさながらインカメラとアウトカメラを切り替えているかのようでもあり、あるいはガラスに萩原朔太郎の写真を貼ったりペンで線を描いたりハンマーで叩いたり録音テープを再生したり唸るように詩を読んだり……とガラスを起点に複数のレイヤーを重層的に配置する様子はマルチウインドウ的であるとも見立てられる。のだが、あえて吉増のいうことを鵜呑みにするとしたらどうだろう。金華山から反射した光の痕跡として詩を記す。光を取り込むレンズであった窓ガラスは同時に光を刻むフィルムとなる。そこで詩人は感光剤の役目を果たす。長大な露光時間を要するカメラで撮られた写真=詩、その鑑賞者もまたカメラのなかに侵入する。としたときに、詩の役割はいったいなんであろうか。ガラスに書くという行為と完成した詩を取り出し、彼の地を離れ、異なる地の室内でライブ・パフォーマンスをすることは何を現前・再現前しているのだろうか。そのライブ・パフォーマンスを撮影した映画『背』に映っていたものはなんだったのだろうか。これらの問いを整理し回答を出すことはむろん容易ではない。いまの時点でぱっと思いつくことといえば、スマートフォンのインカメラで自撮りはできるがインだろうとアウトだろうと自らの背面姿を自ら撮影はできないということくらいか。