よほど強くなければ外から雨音も聞こえてこない。カーテンの半分は日中も閉めていて、開けているもう片方も窓越しにくっきり外の様子が見えるということはなく、意識的に覗き込みでもしなければ日差しが出ているかそうでないかくらいしか判別できない。空調をつけていれば外が寒いのか暖かいのかでさえ判断できず、つけていずとも駐車場の真上に位置する部屋は熱がこもらないからただでさえ冷えやすく外に出たほうが暖かいということはざらにある。降雨についても同様で、外に出てはじめてその日そのとき雨が降っていたことを知るなんてことはしょっちゅうであり、きょうも出かけようとドアを開けてからだを外に出した瞬間に、雨が降っているとわかってすぐさま身をひっこめた。そもそもろくに外に出ないと気もふさぐからという、ややうしろむきな理由で外出を決めたくらいだからやる気もなく、時刻は夕方、日はすでに沈んでいて、行くあてといえば駅近くのカフェくらい、わざわざ傘を差しからだを濡らしてまで済ませるような用事ではない。宛先のない屁理屈をうだうだと並べながらも結局カフェに向かうことにはなるのだが、カフェが入ったビルの二階の催事場で東北物産展が行われていたりそこで稲庭うどんと迷いながら白石温麺を買ったりと、外出を迷っていた時点では想像しえなかった事態が起きるものだから、外に出ないと気がふさいでしまうのはからだが偶然に晒されないことからくるのかなとかなんとか思わなくもない。一時間ちょっとカフェに滞在して、帰り道は雨がほとんど止んでいた。
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カフカ『審判』を読んでいた。冒頭の窓ごしに好奇の目をむける老婆やドアの向こうから監視人が現れる描写からはじまり、以後繰り返し(執拗に?)ドアや窓を挟むように主観人物であるヨーゼフ・Kを含む誰かと誰かが配置されるという構図が描かれる。その点が気になり始めたのは中盤からであったため、ドアや窓のモチーフに重点を置きながら読んだり細かにメモをつけたりはできなかったのだが、終盤に「法の掟」という挿話もあり、これが「掟にたどり着くにはいくつかの門を進む必要があり、それぞれの門には門番がいて、門番は侵入をぜったいに許さない」といった逸話のようなもので、書き振りからして作品の主題に関わる類のものであるとみてよさそうだ。となると、ドア・窓・門といった空間をさえぎると同時に橋渡す領域(とそこへの立ち入れなさ)を半ばスルーして読んでしまったのはなおさら惜しいことで、しかしこの一回性こそが小説を読む、とりわけ長編小説を読むということなのかもしれない。気になった箇所が気になったまま残り、けれど再読するのもやや億劫で、せめてひとに話してみようと思ってみてもうろ覚えでままならず、せいぜいいつかまた読むときには注視しようという脆い希望にすがるくらいだ。テキストは確かにここにある。何度も読み直すことができる。ただここにあるのはあくまで可能性であって、わたしにとってはこの小説を読んだ一回の経験がこの小説をこの小説たらしめてしまう。
コメントは受け付けていません前髪が長くて邪魔だから整髪料をつけて横やら後ろやらに流してしまおうと思い、普段は使いもしない整髪料をわざわざ買ってきて髪の毛につけてみたが、普段使わないものだから勝手がわからない。結局横に流した前髪が何度も顔のまえに落ちてきて、いつも以上に邪魔で苛立ってしまった。落ち着こうと思って漢方薬を飲んだ。何かと苛立ちやすい傾向があるから気休め程度でも気分を切り替えられる対処があるとこの先も何かと助かりそうではある。
カフェイン入りのグミを食べながら、そういえばさいきんアルコール入りのグミが出荷停止になったという報道があったことを思い出した。カフェイン入りのグミを食べながら読書をしていたらあまり眠くならずに済んだ。ただそれがグミのおかげなのかはわからない。日中うとうとせずに過ごした疲れが夜にきたのか、晩ごはんのあとにかなりしっかりと眠ってしまった。知らないひとに挑発されて苛立った自分が相手の口に粉唐辛子を詰め込んで呼吸困難に陥らせる、という夢を見て、夢のなかのじぶんは怖いことをするもんだなと思った。
わけあって、ということもないのだが、なんとなく鏡でじぶんの顔を眺めていて顔が左右非対称だと思った。証明写真を撮ったときもいつも顔の歪みが気になってしまう。左右の顔がどれほど異なるかを検証すべく、iPhoneで正面から自撮りをして左右を半分ずつ順番に隠してみると、なんだか右の方が疲れて見える。左はなんとなくキリッとしていて、そういえば高校生くらいのときはこっちの顔だったななんて気がしてくる。
左右の歪みはおそらく視力のバランスの悪さに起因していて、左はほとんど見えないくらい視力がわるいから無意識で使用を避けており、そのせいで眼周辺の筋肉に弛むような疲労感が出ていないのだと思われる。視力のバランスが悪いからとうぜん眼鏡のレンズの度も左右で大きく異なり、だから眼鏡をかけると余計に目の大きさが不均衡になる。なんだかんだ言っても顔面が整っている方が何かとウケはよいという現実はあって、顔面が整っているとは左右の均衡がとれているということであって、要するに顔面が不揃いなじぶんはそれだけで他人にあまりよい印象を与えてない可能性が多分にあるということである。そんなことを考慮しても仕方がないのだが、ただパッと見でよい印象を与えられていないのだという自覚がなければないでコミュニケーションの目測を誤ってしまうおそれも否めない。少なくとも履歴書には左右非対称な顔写真を貼らなければならないのだから。
しかしいずれにしても、どちらかといえば、じぶんの顔を見るのはもっぱら他人であり、じぶんはじぶんの顔を見る機会も少ないし実際じぶんの顔がどうなっているかなんてよくわかっていないということの非対称性の方がおもしろい。これはこれで、じぶんの顔を見る機会が少ないと思うのは鏡をまじまじと見る習慣がないというある種のジェンダーバイアスに由来しているのではないかとか指摘もできるのだが、鏡で見るじぶんの顔は実物ではないし、証明写真に写っている顔がじぶんであることをじぶんは確認しようがないのは誰だって同じであるはずだ。証明写真と本人の顔を並べて見比べるのは他人にしかできない。ではじぶんにとってじぶんの顔とはいったいなんなのだろうかと、なんとなく鏡でじぶんの顔を眺めてみる羽目になるわけで。
ロールズのルソー論を読んだが、一般意志の概念のよくわからなさは相変わらずだ。ただ、一般意志とは社会全体の意思ではなく、あくまで各人が持つものであるというロールズの指摘は重要だと思った。一般意志を持つのは各人である、したがって市民の利害関心が共有されていないとき一般意志は失われる。のであれば、特殊意思とは利害関心が共有されていない意思であるのだと裏返すように言うこともできるのかもしれず、ひいてはいまネットでみかける「政治的言説」の多くはしょせん特殊意思の縄張り争いに過ぎないと見立てるのはいささか乱暴か。
カルディで粉唐辛子がずっと品切れだったからAmazonで注文していたのが今日届いた。それを使って晩ごはんにキムチチゲをつくった。韓国産の唐辛子は甘みが強く、大量に入れてもあまり辛くならない。一向に辛くならないからつい入れすぎて、見た目がドロドロになってしまう。ドロドロで真っ赤なものは辛いという先入観から、粉唐辛子を入れすぎたキムチチゲをおそるおそる口に運ぶが、やはりぜんぜん辛くはない。色に騙されてはいけない。そういえばマグロが人気なのは赤い身が広告映えするからだと聞いたことがある。赤に騙されてはいけない。
兄から年賀状の返事が届いていた。昨年も年賀はがきで返事がきていて、母からの返事は去年も今年もLINEだった。兄から送られてきたはがきには、今年東京に行くかも、と書かれていた。じぶんは東京に住んでいる。今年で8年目になる。逃げるように上京したが、逃げた先でどうするかをまるで考えていなかったのだといまになって思う。令和4年度11月1日時点で東京都の人口推計は14,044,538人と発表されていて、そのうち何名が知り合いで、何名とすれ違い、何名と一切の縁を持たないのだろう。昨日の新型コロナウイルス新規感染者数は8,199名と公表されている。昨年の秋以降リモートワークが続いていて、先月末で就いていた職を辞めた。しばらくまともにひとと会っていなかったが、年末は集まりに呼ばれる機会が何度かあった。ひさしぶりに会うひとやはじめて会うひとがいた。兄とはしばらく会っていない。母ともしばらく会っていない。ひとと会わない生活は無責任でいられて気もらくで、感染症のリスクも限りなく低いが、同時に生活への執着が失われる。執着しないから職もあっさり辞める。そして執着があるひとから怒られる。
コメントは受け付けていません朝の目覚めがやたらによかった。これも漢方薬とか首筋のストレッチとかのおかげだろうか。いつもよりはやい時間に目が覚めてしまって二度寝もできず、仕方がないから起きて本を読んでいた。心なしか文字もすらすら読める気がして、やはりこの頃はすごく疲れていたのだと実感する。けれど昼過ぎに急激に眠くなり、20分くらい寝ようと思って横になったが、その程度では起きられるはずもなくて結局2時間くらい寝た。ここのところ書いていた小説の締め切りは実質明後日で、今日になってさすがに酷すぎると判断したひとパートを書き直そうと思ったが直すあてもなく、テキストファイルの途中に数行のスペースが空いたまま夜になった。むろん寝てばかりでは何かが書けるはずもないのだが、去年書いたやつのほうがよかったなあと思いながら取りかかっている時点でどうにかすべきであったのだこれは。
コメントは受け付けていません朝起きるとひどい眠気とだるさがあって、だるいので今日は休みますと上司に連絡を入れてまた寝た。つぎに目を覚ましたのは13時30分頃だった。上司からあしたも休みにしたらと返信がきていたから、じゃあそれでとさらに返事をした。その後もしばらく眠かった。昨晩寝る時間が特別遅かったわけでもなく、どうしてこんなに眠いのだろうと思い返しても心当たりはきのうから飲み始めた漢方薬くらいしかない。「抑肝散加陳皮半夏(よくかんさんかちんぴはんげ)」というこれは自律神経に作用するらしく、ならば眠気も誘発するかもしれぬと調べてみると、漢方薬自体に眠くなる成分は含まれてないが自律神経が乱れているひとは飲み始めの時期に「めんげん」と呼ばれる好転反応が起こることがあるようだ。不調が回復する過程は一時的な悪化を経由するらしい。何がどこまで根拠を持つ情報なのか定かでないが、実際ものすごく眠いからとりあえずそういうものだと思うことにする。夕方以降は眠気が解消されて、夜は神保町で校正の講義を受けた。今年のはじめから通っている校正の夜間講座も今日が最後の受講日で、何か身についたのかもわからなければ、今後役に立つのかもわからず、半年間特に声を交わすこともなければ名前も知らないまま週に数日顔を合わせ続けた十数名のひとらとも今後会う機会はないのだろうという薄い感傷が残るくらいがせいぜいのところだといっては寂しすぎる気もするが、しかし勤務後に講義を受けたり宿題に励んだりすることは大変だったが職場以外に通う先があることにけっこう救われていたのはたしかで、あるいはひとからものを教わる機会が貴重であることに気付かされたこともあり、それがいかに還元されるかとかそういうことはあまり関係なしに、また興味のあることを学びにどこかへ通いたい気持ちがある。あてがなくとも学びに金を使うことはたのしいということを知れただけでもよかったのかもしれない。まあでも、だけ、というのも大袈裟で、本づくりの講義を受けてまた本をつくりたいなあと思えたこともよかったし、なんだかんだ得られたことは多々あるのだろう。
コメントは受け付けていません後頭部から鎖骨付近にのびる筋肉をほぐすとわりとあご周りの力が抜ける。胸鎖乳突筋というらしい。血管が集中しているこの辺が凝っていると自律神経の乱れにもつながるらしいとネットで見かけた情報がどこまで信頼できるものなのかは知らないが、ちょっとあごも肩も疲れてきたしなんとなく全身がだるいし声もかすれて出しにくいし……みたいな状態に陥るまえに、休憩がてら胸鎖乳突筋を何度か伸ばしているととっても調子がよい!ということはむろんないのだが、まあかろうじてぎりぎり平常といえなくもないかなというラインを下回らないくらいにはいられる。少なくともいまのところは。最近飲んでいた鎮静剤がなくなったからイライラを主とする神経症やら何やらに効くと書かれた漢方薬を買った。
コメントは受け付けていません今朝、出勤時間に叩きつけるような雨が降っていてびしょ濡れになった。ほとんどのひとが軒下に集まって雨宿りをしていた。傘を持っているひとが雨宿りしていて、傘を持たないじぶんが雨を気にせず歩いているのがおかしかった。濡れずに済むための道具の使用が濡れることへの抵抗を育んでいるのか、濡れることへの抵抗があるから濡れずに済むための道具を使用しているのか、判断をつけることは難しいように思う。地震が起きたら揺れを感じるように、雨が降ったら濡れるのだというくらいの気持ちでいると気は楽で、では濡れることへの抵抗がないのかといわれるとそうでもなく、今日は靴と靴下がずっと濡れたままで不快だったし、職場は冷房が効いているから余計に体が冷えて体調もすぐれなかった。濡れずに済むための道具が普及していなければ濡れたあとの適切な対応が文化として醸成されていたはずで、それもひとつの濡れることへの抵抗である。たとえば当たり前のようにあらゆる出先に乾燥機があったらおもしろいなどは思うが、そんな大ごとでなくとも傘を持たないと決めてしまえばじゃあ着替えを用意しておこうとか、濡れても支障がないように下駄でも履いてみようかとか、身近な範囲で策はいくつか思いつく。濡れを回避するのではなく濡れたら乾かすとか濡れても気にならないようにするとかいった方向に向いていたならば、それはそれで、傘を持ちながら雨宿りするみたいな抵抗する手段を持ちつつなお恐れをなすような状況もまた変わった形で現れるのだろうけど、そもそも濡れて困ることってさほどないよねと思いながらリュックを開けると本が濡れていたのが笑えた。
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