メルカリのアプリを開くと4日前に安川奈緒『MELOPHOBIA』が2万2222円で売られていたようで、すでに売り切れていた。どうにか手を出せてしまいそうと思ってしまう絶妙な金額だなと思う。まえにメルカリで同書が6000円で売られていたこともあったし、メルカリもなかなか侮れないと思いつつ利用したことはない。Twitterを見ていると『シン・サークルクラッシャー麻紀』がAmazonや楽天ブックスで品切れているというのでこちらもメルカリで検索をかけてみると「一読しただけです」などの一言を添えてほぼ定価で何件か出品されているようすだった。本を一読してすぐに売るということをしたこともなければ考えたこともなかったから、そういう習慣もあるということにやや驚いたが、それじゃあとわが身を振り返るに、買って一度読んだきり本棚に差しっぱなしの本なんて山ほどある。というか大半がそうだ。たとえ数万出して希少本を手に入れたとしても、擦り切れるほど読み返すなんてことはおそらくせず、せいぜい二、三度読めば御の字で、すぐに新しい未読本に目移りしてしまうことだろう。基本的に飽きっぽい。それを思えば、読み返しもせずただ所有しておくよりほしいひとの手に渡るようにしたほうがよいという考え方は合理的ではある。手放すひとがいるから希少本もかろうじて古本市場に流通してくれるわけだ。それにしてもこの所有権の譲渡によって失われるのはその所有物に立ち戻る可能性であるのだとすれば、著しく低い可能性に夢を見るか、はたまた著しく低い可能性などゼロと同等であると潔く割り切るかという異なる志向性がここにはあり、前者は宝くじを買っているようなものでたしかにあまり賢くはないのだが、それでもたまに500円とか700円とか当たって利益にこそならないが思わぬ喜びに出くわすことだってある。本を読み返すことはあまりできていないが佐川恭一の小説はたびたび読み返している。
コメントは受け付けていませんカテゴリー: 日記
夜までずっと部屋に座って過ごしていたせいか脚に脱力感があり、筋肉に刺激を与えた方がいいような気がして走りに外へ出た。日頃の運動不足ゆえ、ジョギングでは適度な運動になるほど走り続けられるとは思えなかったから、近所の大きな公園まで軽く走って公園に着いたあとは直線の広めな遊歩道で何本か短距離のダッシュを繰り返した。日常的な運動における走るという行為はもっぱら長距離走を指しているが、それは短距離で瞬発的な走りをすることが身体に対する怪我の危険性と周囲に対する事故の危険性をはらんでいることによる。言い換えれば、気軽に短距離走を行える場所は日常にはなく、せいぜいトラックがあるくらい設備の整った運動場などに足を運ぶしかない。中学から高校まで陸上競技部に所属していたが、長距離走は大の苦手だった。専門でやっていた跳躍競技は持久力よりも瞬発力を要する。その点では短距離選手と性格は近く、跳躍選手は基本的に短距離選手と同じ練習メニューを与えられることも多い。過去にそうした経験があるからか、短距離走であれば嫌いではなくむしろたのしいくらいだ。もし生活圏内に気兼ねなく短距離走に興じられる場所があったなら運動不足も解消できそうな気すらする。そんなことを考えながら走った。いつしか長距離走が占めていた「走る」のイメージを短距離走に転回するだけで走ることへの距離感が大きく変わることがおもしろく感じられた。久しぶりの運動で──といっても外に出ていた時間はわずか20分程度だったとは思うのだが──疲れたのか、夕方に買った5個入りのどら焼きを4個も食べてしまった。少食で一向に体重を増やせない身としては運動するだけで食事量が勝手に増えてくれるのもまたありがたい。
コメントは受け付けていません髪の毛を短くした。ここ半年くらいおもしろ半分でなんとなく伸ばしていて、何度かカットはしてもらったけど伸ばしていく感じでとお願いしていた。あごの下を過ぎるくらいには伸びた毛をばっさり切るのだから、いっそ美容室も変えようと思い、それに最近切ってもらっていたスタイリストの印象もあまりよくなかったから、6月くらいに新規オープンしたらしい駅近の美容室を予約したのが先週だった。髪の毛の量が多いから切ってもらう量も多くなるのはいつものことだが、無駄に伸ばしている以上は今回はいつもよりも切る毛の量は多かったはずで、通常の1名分をゆうに超える働きを強いてくる新規客の対応をするスタイリストにはやや申し訳なさも感じつつ、それでもていねいに対応してくれたからよかった。カット中にほとんど話しかけてこなかったのも楽でたすかったが、それはこちらが最初に『龍が如く』のキャラクターみたいにしたいと伝えたからかもしれない。初手でゲームのキャラクターの画像を見せつけてくる客がいたとして、そのゲームを知っているならともかく、そうでなければちょっとくらいは引くだろう。相手も『龍が如く』を知っていたらウケたのかもしれないが、そうでないからスベってしまったということだ。出鼻でスベったやつとして髪の毛を切られてきた。前髪が短いと食事のしやすさが断然にちがう。
コメントする昨晩の帰りが遅かったこともあり、午前は有休をとった。勤務時間が午後だけになるとかなり負担が減るし、なんでいつも9時間拘束8時間労働もさせられているんだという気持ちになる。労働時間は1、2時間減らしたほうが業務効率や持続(勤続)可能性が向上するのではないか。ただ、1日6時間労働になったらなったでそれがあたりまえになって、また拘束時間が長いだの労働の負担が大きすぎるなど言いだすようになることは目に見える。けれど斎藤幸平氏も「脱成長」とかいってるし、持続可能性を優先しながら生産性をゆるやかに低減させることも見ようによってはべつにわるいことではないのだろう。時間を減らせば効率が向上するのではと書いたが、効率がわるかろうと時間と体力の許すかぎり力技で押し切るほうがたぶん結果は出る。現状、力技で押し切るほうが結果は出るのだから競争している以上は力技で押し切るよという考え方が優位であり、しかしその考え方の転回が必要なのだというのならとりあえずガンガン休むとかやればよい。みんながガンガン休みでもしなければその状態でもまわるサイクルだって構築されないだろう。
コメントする先日買った鎮静剤が思いのほか効いている実感がある。からだがゆるむ感覚を覚えるとああ満員電車ってこんなにからだがこわばるんだなあとか職場で座ってるだけで無意識に肩に力が入ってるなあとか緊張状態が常態化していることがいつも以上によくわかる。労働の休憩時間に服薬するとしばらく力が抜けてむだに疲れずに済む。鎮静剤を飲んだからという言い訳がじぶんのなかでできるから、ある程度の適当さも仕方がないのだと適当でありながらも力感ないまま堂々といられる。けれど次第に薬が効かなくなるはずで、近いうちにまた無駄に疲れる状態が戻ってきてしまうのだと思うと億劫だ。幼いころにひとを信用することを覚えないと苦労が増える、とかつい考えてしまう。
コメントするなかなか捨てられず部屋に溜まっていた3ヶ月分の新聞をようやくひもでしばった。かなり部屋が広くなった気がする。今年の2月から新聞をとりはじめたが、読む時間がとれなくてせいぜい労働時の休憩時間に10分くらい目を通すていどだし、まったく読まない日も少なくない。何かが得られたり役に立ったりすることもなく、毎朝毎夕配達してもらっているのはいいが、なんでこれに金を払っているのかわからなくもなる。稼ぎも少ないのだから購読をやめるべきだろうか。だけどそれをいうとこのサイトだってたいした目的もなくなんとなくサーバーをレンタルして毎年金を払っているわけで、個人サイトを設けたことで何も得たり役に立ったりしてはいない。利益目的に使おうと思えば使いようがあるのかもしれないが、むしろそういうのがいやでわざとそっけなく利用しているふしすらある。新聞も同様でなんとなく新聞を購読しておくのが一般的な嗜みかなと思っておもしろ半分で契約したにすぎない。飽きたらやめればよいが、いまのところまだ飽きはきていない。定額制サービスを利用するとき、元をとるとかどうとかではなく、ただ漠然とそこにおいておくことのほうに主眼がある気がする。あえて積極的に目を向ける必要もない。積極的に目を向けなかった結果として部屋が新聞に埋もれているのだからこれはあまりきれいな言い訳ではなく、あした新聞を捨てる日かと思ったらぜんぜんちがう始末で、さすがに少しは目を向けたほうがよい。
コメントは受け付けていません労働がない日が四日続いていたが、一冊の本も読み終えることがなかった。では何をしていたかといえばだるさがとれずほとんど寝ていた。ほとんど寝ていたがだるさがとれなかった。起きている時間は『龍が如く』の実況動画を見ていた。真島吾郎というテクノカットのキャラクターが出ていて、真島吾郎みたいな髪型にしようかなと思い、美容室の予約をした。予約をしたはいいが、当日真島吾郎みたいな髪型にしてくださいとオーダーしろとでもいうのだろうか。一週間後のじぶんが散髪の動機を恨みそうではある。ふつうはテレビに出ている俳優だとか雑誌で見かけたモデルだとか、もしくはいまやSNSで見たこの投稿とかそういう類いになるのかもしれないが、いずれにせよある媒体を通じて目についた現実に存在する人物の髪型を見て影響を受けては自身に投影しようとするのだろう。そこから対比的に考えると、いわゆる「オタク」だとか「陰キャ」だとかと呼ばれる(あるいはそう自称する)ひとたちの髪型は個性的である場合が多いようにも思われるのだが、その理由はアニメや漫画やゲームが参照されているからではないかとかねてから思っている。というかあまり意識はしていないが、たぶんじぶんにその傾向があるのだろう。あまり見た目をどうこうしたいとは思わないが、こういうのだったらかっこいいかもなと思うときのそれはだいたいアニメや漫画やゲームだったりする。そうやってだらだら過ごしたのち、夕食を買いに行ったついでにドラッグストアに寄って「パンセダン」という薬を買った。外箱には「ストレスなどによるイライラ感・緊張感をやわらげます」と書かれている。服薬してみると意外と効果があるのか、たしかに脱力感が感じられ、いつもは力みっぱなしのあごの筋肉にも緩みがある。生活は勝手につづいてしまうから、立ち止まりたいときは薬で誤魔化しながらやりすごすしかない。月末締め切りの書き物があったがここ数日の体調不良でまったく進んでおらず、来年に持ち越しかなと思っている。
コメントは受け付けていません浴室の排水溝がずっと詰まっていて、浴槽にためた湯を流すとその量を流しきれずに水があふれてしまっているのを困ったなと思いながら長らく放置していた。昨日ようやく思いたって排水管を掃除する錠剤をドラッグストアで買った。困りの種だった排水溝にその錠剤を入れてみたが何かがどうにか解消されているのかどうかまだわかっていない。部屋の清掃をほとんどしていない。だから放置されている生活の蓄積、それも垢や膿といった類いのものがいくつもあるのだと思われる。現にベッドのしたを視界に入れると一面にほこりが積もっている。いや、ベッドのしたのほこりなら目につくぶんまだましであり、部屋の隅々や家具の隙間がどうなっているかは神のみぞ知る、ということはないが、少なくとも入居してからの数年ろくに気にしたことがないから考えるだけでもおそろしい。掃除をする時間や労力がないという言い訳はあまり的を射ておらず、どちらかといえばその習慣がないことの方が影響は大きいのだろう。部屋の掃除が生活に組み込まれていない。幼少期から散らかった部屋で育ったから部屋が散らかっていることに何も思わない。掃除の仕方もわからない。掃除だってひとつの文化であり、その文化に触れる習慣がなければせいぜい雑学的に異国の風習を知る程度の距離感でしかいられない。けれど、むろんその逆のひともいるわけで、散らかっている部屋に住んでいるひとは綺麗な部屋にあがることもできるが、部屋がきれいであることがとうぜんなひとの多くは散らかった部屋には抵抗があるのだろうということくらいの想像はできる。部屋が散らかっている以上はそれを嫌うひとが一定数いることへのある種の負い目を抱えてしまうというのなら、散らかっている部屋に抵抗感を抱くひととは公共空間でしか関わりあえず、私的空間から離れたところで生活のにおいみたいなものを隠すことによってもたらされる平等に助けられているのかもわからない。そういう意味では放課後に生徒に掃除をさせる学校の方針というのはただしいのだろう。公共空間における掃除の強制は自宅の散らかりを否定しない。それがどこかで転倒し、居住空間は掃除するものだという認識が浸透した結果として、自宅の散らかりを否定することにさえならなければ。
コメントするたとえば、電車の中で交わされる会話の一端を耳にしたりして、ありさはいまよりももっとかなしみを、あきらめに似た気持ちを強くかんじていたにちがいない、東京がこんなにも変わっていないこと、変わろうという意思が街を変容させるに至るだけの多数のものにはならなかったのだということに。
岡田利規「ブレックファスト」
昨日のだるさが変わらず横たわりつづけていて、閉めっぱなしのカーテンの向こうでは変わらず雨が降りつづけているようだった。頭もいたくて動けない。ネットを見ていると、湿度と頭痛の関連を述べるツイートが注目を集めているらしく、書かれていることを鵜呑みにして冷房を除湿に切り替えた。低気圧と頭痛を含めた体調不良の関連はここしばらくのトレンドだったが、それも少し細分化されてこんどは湿度かと、物事の原因は多面的であるにもかかわらず、どうしてもひとつの事象に定めては、それを理由にこうであるのだというひとことを抱えて安心したがるわたしたちの脆さ、みたいなことを考える。わたしはいかにしてわたしたちとして束ねられるのだろう。せめてリラックスしようと浴槽に湯をためて、からだを温めながら岡田利規『ブロッコリー・レボリューション』を読んでいて、「都市の意思」というフレーズがよぎった。先日の参院選後、例によって右も左も問わず、じぶんが支持する政党に票が集まらないのは民度が低いせいだといった旨の主張がツイッターにはあふれていた。誰もが自らにとっての正当性を抱えていて、それらをぶつけあったところでどちらかが考えを改めるなんてことはおそらく多くはない。そう考えていることにはそう考えるようになっただけの経緯があり、その経緯はその個人の生活そのものに内包されているはずだ。個人の生活を否定することは、他人はもちろんそのひと自身でさえできない、できようがあるのかもしれないが少なくともむずかしいことには間違いない。とはいえひとには考えが変わることも往々にしてあるわけだが、それも結局はAであると思っていたことがBであるのだと「気づく」ということしかきっかけにはならないように思う。そしてその気づきは、Aと思っていたことが誤りであったという理解をもたらすのではなく、Aであると思っていたが実は最初からBを志向していたのだと過去の認識から根こそぎ改めることをもたらすのではないか。個人の意思や生活が一貫性を保とうと努めてしまう性質を持つとするならば、では都市はどうなのだろう。むしろ個人の意思や生活を左右するであろう都市の意思はいかにして変容するのだろう。社会を変えたい、変わってほしいと願うとき、向きあうべきは都市である、という方向があってもよい気がする。というか、相容れない個人を責めても仕方がなく、社会というくらいだからきっと都市を考えることのほうが先立つはずだ。風呂からあがって買いものをしようと外に出ると、思いのほかしっかりと雨が降っていて、閉めっぱなしのカーテンの向こうのようすはわからないものだなと思った。
眠かったしからだがだるかったし雨は降ってたしいいやと思って有休を取った。今月は体調不良を理由にした有休取得が多い。このままいまの勤務先からフェードアウトして、一ヶ月くらいは自宅に閉じこもって睡眠と読書を繰り返すだけのまいにちを過ごしたい。スーパーに夕食の材料を買いにいくと、サントリーの東京クラフトシリーズのビールで夏限定と書かれた見慣れないやつがあったからそれを買った。自宅でひとりで飲酒をするとすぐに眠くなるからあまり酒は買いたくないのだが、気になるものがあるとすぐに買ってしまう。商品が喚起する欲望に屈している。自宅で酒を飲むとすぐに眠くなるのはおそらく周囲の目がないために心身が弛緩しているからで、外に出ると他者の目(を内面化することで立ち上がる自らが身体に課した規律)が心身の弛緩を簡単に許さない状況をつくるからわりと平然を保っていられることも多い。むしろ日頃から周囲を恐れるあまりに過剰にこわばるからだをどうにかゆるめたくて飲酒をするくらいなのに、その緊張が強いがためにゆるめるには飲みまくるしかないというのもなかなかかなしい。たとえば職場にいるときはまったく気が休まらない。いまのところに勤めて二年くらい経つが周囲のひとをぜんぜん信用できていないし、それどころかひとを嘲笑することでコミュニケーションをする場面が散見されるから不快にすら思っている節はある。たぶん向こうからしても、空気を合わせないやつは不快であるだろう。馬が合わないことは自明であって、面倒だから勤務時間中はなるべく声を発さないようにしているし、発話の機会があいさつと電話対応だけで済む日もある。雇用契約の内容におしゃべりは含まれておらず、業務に雑談は不要であるから問題はない。とでも書けば能動的に行動しているようでもあるが、実際はその環境に発話を含めたさまざまな言動やその意識が抑圧されているだけだ。我慢を強いられる日々。そういった状況に疲れを感じるのもとうぜんで、そこに夏の暑さや連日の雨とくれば動かないことを選択したからだの判断は正しいと思う。昨晩から12時間くらい寝て、食後少し読書をしたあとにまた1時間くらい寝た。
コメントする