日本語の表記体系にすこし触れるとこんな言語を採用している国のひとらが論理的な思考なんてできるわけなかろうという気持ちにどうしてもなる。漢字ひらがなカタカナ3種類の文字を混合して使用する点の違和については皆が勘ぐるところだと思うが、やはり厄介なのは漢字であり、常用漢字がどうで新字体がこうで拡張新字体がそれこれでといった変遷を聞けば国も長らく苦慮していることがよくわかる。あるいはその漢字をどう読むか。送り仮名のつけかたもなにやら微妙で明るい・明かるい・明いがどうこうとか。もしくはルビのふりかたは親となる漢字に対してああだこうだとか。そのリソースをもっとほかのことに向けたらどうなんだとキレたくもなる。ラテン文字がうらやましい。ところでTwitterをみていると著名人を火種に仕立てた騒動がいつも起こっていて、事態の詳細を説明して丁寧に誤解を解こうとする渦中のひとに対して話を聞く気もおそらくなければ揶揄を浴びせることをたのしんでいるだけであろう有象無象のアカウントがたえず薪をくべているものだから、真摯に対応する渦中のひとについ同情したくもなる。悦楽的に揶揄をしているだけだと指摘をすれば、さいしょに揶揄をしたのは誰なんだとでも言い返してきそうな輩には、だからそういう振る舞いを揶揄というのだといってもきっとなにも通じないし、たぶん不毛さが募るだけだ。はなから話を聞く気も理解する気もなさそうなごろつきを相手にいっそう丁寧な対応をしているひとを遠目でみていると、なんだろうこれと不思議な気持ちになる。ゴシップはおもしろいがゴシップなんて友人との会話で消費してそれでおしまいでしょうと思うじぶんにとっては、ネットで本人や関係者に凸しよういう発想が出てきたことがないからそれがまた不思議である。しかしネット上で揶揄に興じるアカウントにもそのおくには生身のひとがいて、そのひとにはそのひとの生活があるのだから無下にはできないというのも一理あり、まあひとやひとびとの暮らしなんてこんなものかとあきらめながら、他人のふりをみてわが身を自重することでぎりぎりのバランスをとるくらいがせいぜいじぶんができることなのだろう。
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ゲンロンカフェで小川哲さんと佐藤究さんの対談イベントが行われると告知が出ていた。『地図と拳』はまだ買っていないし、『ゲームの王国』は上巻しか読んでいない。『テスカトリポカ』も読んでいなければ、佐藤究さんの短編集が出ていることをこの告知で知った。だからこのイベントが楽しみに感じられるといっても、いま国内のエンタメ小説を代表するふたりの作家の名前のみに反応しているだけだといって間違いではない。とはいえ、小川哲さんが登壇しているトークイベントを何度かみたことはあって、あまり自作の話はせずになんか飄々としゃべってる小川氏の佇まいはけっこうおもしろい。いつも自作について懇切丁寧に話すようなことはないから小説を読んでいる読んでいないはじつはあまり関係がないようにも思う。おもしろいものをつくっているとうわさのひとらがトークをするらしいからたぶんおもしろくなるでしょうというおおざっぱな期待を抱えでもしなければまともに生活だってやっていられない。何かをたのしみにすることに関しては浅すぎる雑すぎるくらいの感性のほうがきっと得られるたのしみも増えるはずだよ、とじぶんに言い聞かせたい。そういう甘えを巧みに使うことができたのなら、へんな苦労も減ったことだろう。わざと利き手と逆の手で文字を書くみたいなことを好んでやっても喜ぶのはじぶんだけで、じぶんすら喜んでいないなんてことだってざらにある。ところで小川哲といえば、先日「小説トリッパー」に掲載されていた「君のクイズ」という中編小説がおもしろかった。クイズプレイヤーの思考法をなぞらえるようなお話の展開、主題されるクイズがそのまま見出しとなるようにお話を呼び込む構成、クイズ大会でのできごととお話としてのミステリの仕掛けとの並行関係等々、有機的に積み上げられた構造の妙が随所で感じられるうえ、部分部分のお話も素朴におもしろくついぐいぐい読み進めてしまう、読みごたえがありつつとても愉快な小説だった。「君のクイズ」に覚えた感動の勢いで、読んでいなかった『ゲームの王国』下巻も『魔術師』も『ユートロニカのこちら側』も『地図と拳』とあわせて買ってしまおうかと思っていたが、どれもまだ買っていない。ほかの本を買いながら、またべつの本を買おうかなと思っているありさまで、できればこの夏にはせめて『ゲームの王国』下巻くらいは買って読み終えてしまいたいところではある。なんなら読まずとも買って積んでおくだけでも決意したことを成し遂げた感は得られそう。
コメントする気温があたりまえに30度を超えるようになったころからずっと体調がすぐれない。けさも目を覚ましてからからだが動く気配がなく、このまま無理に出勤してもろくに手は動くまいと思い、午前休みますと上司に連絡を入れて二度寝した。二度寝から目を覚ましてもまだからだにはだるさがのしかかっていて、終日休みにすればよかったと半端な判断を悔やみながらDiscordをみると、冷房をつけたまま寝たときの眠りの浅さに耐えられないという書き込みがある。なるほど原因はこれかもしれない。連日の暑さで体力が云々、もともとからだが細くて虚弱だからなおさら云々、と単純な言い訳を考えていたが、どちらかといえばこのだるさは冷えによるものだとするほうが納得感はある。軽くシャワーを浴びて、小豆のカイロで首肩を温めた。寝るときは冷房をつけっぱなしにしようと決めたのは、汗でベタベタする肌が不快でどうも満足に眠れなかったいつかの朝だったと思うが、冷房をつけたところで満足な眠りを得られていなかったことはなんだかショックだ。さいきんの眠気とだるさがただの睡眠不足によるものだったとはなんだか拍子抜けだ。三日くらいまえから読み始めたマーク・リラ『リベラル再生宣言』をさっき読み終えた。本を読むペースが落ちていると気づいたとき、同時に体調が下降気味であると察することが多い。体重や体温をまいにち測っているひとはその推移でからだの状態を確認しているのだろうかと思うと、本を読むペースによる健康観察はあまりに雑ではあるが、本の読めてなさを判断材料に有休を取得することが意図せずとも自身の健康問題に直結してくれるのであれば、目的と手段を見誤らずにいられるような気もする。
コメントは受け付けていませんちょっと前にひとから「ずるい」と言われ、その場面でこの対応をしたことに対して「ずるい」と思われるのかとやや驚くような状況だったこともあり、何度か「ずるい」を思い出しては身の振りようについて考えていた。過去に他人から言われた一言が魚の小骨がのどにひっかかったみたいな印象として尾を引くことはある。そうした事態に見舞われるとき、その言葉はいくつかの考慮を経て真剣に語られたものなんかではなく、その場かぎりでさっと流してしまえるはずの何気ない言葉であることのほうが多いような気がしてなんだか呆気ない。このとき気にかかっているのはその言葉や場面のほうではなく、その言葉を受け止めたときのみずからに生じた異質さのほうなのだろう。ある一言に感じられた強烈な他者性を経由して自身を省みることは、その一言によって分裂してしまったわたしとわたしが向き合っているような感覚をも覚える。しかし所詮はどれも思い過ごしで、馬鹿正直さを思いつきで投じているだけであり、のどにひっかかったと思っていた小骨はのどをひっかいただけであってもうとっくにのどの奥へと消えているはずだ。些細なことにばかり気が向いて、取り組むべきことに頭もからだもついていかない。気温が30度を超え始めたのは6月下旬あたりからだったと思うが、どうもその頃からうっすらと体調が芳しくない。労働時間はつねに眠気との戦いで、眠気と戦えているのであればまだしも戦う気力すらなく、業務の進捗があきらかに遅れている。ろくに本も読めていない。いつまでもうつらうつらとしているから却って些細なことが気になるのかもしれない。目が乾いたからと目薬をさすと乾きがひどくなって埒が明かない。
コメントは受け付けていません調布でラーメンを食べた。ちょっと前から素朴なしょっぱさのラーメンが食べたいと思っていて、いま食べたい感じのラーメンはいわゆる何ラーメンに該当するのだろうかと考えていると、数年前職場の先輩と飲みに行ったときに喜多方ラーメンの店で食べた味を思い出した。あの味はいま食べたい感じかもしれない。麺のタイプとかスープのベースとかいくつか選択すればあなたが希望するラーメンのタイプはこれですと提示してくれる診断サービスみたいなものがいまどきあってもおかしくないし、調べてないからわかっていないだけでその手のサービスはすでにあり、知らぬところで有効に活用されているのかもしれないと思いつつ、記憶から引っ張りだされてきたそれをひとつの選択肢とせずにそのまま選択にしてしまうという素直さで生活を進めるということはそう足蹴にするようなことでもない。意識的な検索でデータベースから取り出すことと、いま投げ出されている環境をトリガーに無意識が記憶から取り出してくることとでは行われていることがまったく異なる。むろんこれはどちらが良くてどちらが悪いという話ではない。ただここのところ素朴なしょっぱさのラーメンが食べたいと思っていたことにおける「素朴なしょっぱさのラーメン」はおそらく過去に食べたラーメンの記憶の集積からイメージされているものであり、そのイメージを統計に照らし合わせて近しいラーメンを食べたいということではなかったように思う。それで記憶を頼りに前に食べた喜多方ラーメンの店名はなにであったか調べてみると、調布にも店舗があるとのことだったからもうそれでよい。近さは選択を容易にする。食堂のような佇まいの店内はさほど冷房も効いてなく、汗をかきながらすすった麺はおいしかった。注文するときに細麺と太麺とどちらか問われ、太麺でと答えたが、麺はさほど太くない。細麺、太麺などと一口にいってもそのひとつのタグに束ねられたひとつひとつには多分に差異がある。
コメントは受け付けていません汗をかいてもすぐに乾く肌着がほしいと思ってモンベルから出ている「ジオライン」という素材のシャツを買ったのはたしか2週間くらいまえで、これが思いのほか要望に答えてくれる代物だったから、ではタイツも買ってしまおうと思って新宿のモンベルに行った。タイツをふたつとパンツをひとつ手にとって、せっかくだからと店内を見てまわったが、2週間まえに見た光景が同じようにあるだけだった。風通しのよさそうな薄手のシャツは肌触りも冷たくて気持ちがよさそうで、一着買ってみようかと思ったが、このお金で分厚めの本が一冊買えると思ってやめた。買いものを終えて駅へ向かうと街頭演説が盛り上がっている。そういえば立ち止まって聞いたことがないと思い、近くで数分眺めていた。滞りなく言葉が語られるようすに新鮮な印象を受けながら、しかし映画や演劇という形式のうえでみる人物が同等のなめらかさで言葉を語っていることを思えばさほど新鮮でもないはずで、だとすればたとえば演者と聴衆の距離のほうに馴染みのなさを感じているのかもしれない。それは物理的な距離でもあるし、舞台の設計上生じる心理的な距離でもある。演説から抜けて、待ち合わせ場所へ向かう。集まったひとたちと大衆居酒屋で数時間話す。ざわめく居酒屋で話すとき、道中で話すとき、店を変えて話すとき、靴を脱いだり脱がなかったり、からだが近かったり離れていたり、姿が見えたり見えなかったり、少人数だったり多人数だったり、オンラインだったりオフラインだったり、パワポが用意されていたり画面の共有がされていたり、話題が設定されていたりその場しのぎの雑談だったり、ただひととおしゃべりをするだけの環境も多様であるなかで、いま言葉を交わしあおうとしている舞台がどのようにあり、その舞台上で演者と聴衆を同時に担うひとらがどのような姿勢を強いられるのか、その辺りをもっと考慮できてもよいのかもしれない。言葉に対し愚直な言葉を素朴に返せばよいというスタンスは楽でこそあるが、どこかで行き詰まるような気もしている。モンベルのジオラインのことを書こうと思って書き始めた日記がそうはならなかった。
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あしたから数日有休消化でしばらく労働がない。雇用契約更新の話に対してあいまいな返事をし続けていたが、なんとなく流されてもう一年雇われることになった。まだ確定ではないのだが、4月1日からまた出社することになるのだろう。自分のことは自分がいちばんよく知っているし、そこですべてを投げ出すような性格でないこともわかっている。それでも、正社員登用の話は断った。断ることになんの意味があるのかわからないが、とにかく断った。だれにも期待されたくない。
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あしたから数日労働をしなくて済むからワインを飲んでいる。帰りにセブンイレブンで買った。飲酒をするとしゃべりたくなるが、しゃべる相手もいないから適当に日記を書いている。
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労働中に作成した覚え書き的な資料の文字数が1万8千字程度になった。作成にかかった時間は1週間足らず。このペースで、これだけの文字数の小説でも書ければよいのだが。
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ゲンロンカフェのイベントアーカイブを見ている。ひとつのイベントが何度も時間延長され、登壇者が突発的に入れ替わるということをゲンロンカフェはたまに当たり前のようにやるが、よくよく考えればかなりめずらしいことだ。そしてなにより観客がその異常さをふつうに受け入れてしまう空間をつくりあげていることがなによりすごいのかもしれない。
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もう一年は労働することになりそうだから、金もいくらか安定して入ることだろうし、眼鏡を新調しようと思っている、ZoffやJinsのような安いメガネが市場を席巻している流れとは手を切りたい。いいメガネを買っても、世の中も私の人生もたぶん何も変わらない。それでもいいメガネを買おう。なにひとつ変わらないという無情な気持ちでいいメガネを買おう。いい眼鏡を買うのだ。何も変わらないという心細さのままでいい眼鏡を買うのだ。
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最近、分析哲学の本を読むことが多くなった。難しいものは読めないから入門書と銘打ったものばかり読んでいる。今日はクワインの入門書を読み始めた。こんなものを読んだところできっとなんの役にも立たない。
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きょうはひとびとが身にまとう布の量が減っているように見えた。たぶん暖かったのだろうが、ずっと室内にいたからよくわからない。たぶん遊びに歩くひとが多かったのだろうが、ずっと労働をしていたからわからない。布が減ったぶんだけ電車で隣に座るひととの間隔が広くなったのがうれしかった。
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「無理をしなくていい」とはここ数年のツイッターにおけるトレンドのひとつだが、「限界まで自分を追い込む」という考え方のほうが性に合っていることはまちがいない。
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酒を飲みながら過剰なほど長々とどうでもいい話をする。そんな機会が失われていることを惜しんでしまうのは、いま酒を飲んでいるからなのか、酒を飲みながら長時間話している動画を見ているからなのか。
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12時過ぎに目が覚めた。昨夜寝た時間は0時だった。何度か目が覚めたが、目が疲れていて開けていられないし、どうせ起きてもすることがないから、何度も寝直した。もっと寝ていてもよかったのだが、なぜか起きることにした。
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労働行為の根源が狩猟採集にあり、つまり生存のためにあるのだとすれば、労働意欲の欠如は生きる意欲の欠如に等しい。
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アニメ『平家物語』の1話から3話までを見た。ロシアのウクライナ侵攻の関連もあってナショナリズムの話題が目立つこの頃だが、かつての日本は民族どころか「家」を問題にして争っていたのだなと感じた。たとえば選択的夫婦別姓に反対する人の多くは「家」の存続を危惧している。それに対し現代に通ずる日本の「家」なり「姓」なりが一般に普及したのは近代以降だという批判もあるが、もしかすると「家」の意識はこうしたところから影響を受けているのかもしれない。
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ここしばらく憂鬱な気分で過ごしている。本も読めない。
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夜に持参しなければならない宿題をやっていないことを思い出し、いそいでとりかかった。
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目的地に行くまえに夕食をとろうと思い、神保町を歩き回った。キッチングランに行こうと思ったが18時前は開店していなかった。うろうろしているうちに18時を過ぎたから再びキッチングランへ向かった。店のまえまで行ったが、どうも入る勇気がでず、結局引き返した。途中で「はなまるうどん」を見たことを思い出して、うどんを食べることに決めた。
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GARNETCROWのアルバム「All Lovers」を聴いた。「CANDY POP」の歌詞はうつ症状を抱えているひとの歌なのだなとふと思った。何年もまえから何度も聴いている曲でも、見えていなかった気づきを得ることはよくある。
コメントするお腹がすいちゃううちは
GARNETCROW「CANDY POP」
大丈夫だってきっとね
眠れずにいるのなら
全部放り出してゆく
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昨夜は22時前に床で寝てしまい、0時過ぎに目が覚めたが、すぐにからだをベッドに移し、また寝た。朝になっても、何度か目を覚ましながら、二度目、三度目と、眠り続けた。午前11時過ぎに尿意を感じ、ようやくベッドから起き上がった。これだけ寝てもまだ眠かった。そのあとも午後3時ころまでなにもする気になれなかった。なにもしたくなかった。なにも考えたくなかった。ただ座ってなにもせず、できるかぎり長い時間、ぼんやりと空間を見つめていたかった。
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働く意欲がない。働く意欲がないから、雇用契約の更新や正社員登用の話をされてもまったく関心をもてない。働く意欲がないから、いつも煮え切らない返答をしている。いまの勤め先に採用されるまえ、感染症の影響でアルバイトをクビになり、家計が苦しくなって家賃を払えなくなり、生活福祉資金貸付制度を利用することになった。つまり、いまの勤め先に就職した当初は「生活が困窮していたから」という理由で労働をする気になっていた。お金がなければ生活は成り立たないが、お金がなくても生は継続する。容赦なくつづく生と、途絶えてしまいそうな生活との狭間がもたらす緊張感が、わたしを労働へと駆り立てた。一年以上働きつづけた結果、家計は今後3カ月はお金を稼がなくても家賃を払えるところまでは落ち着いてきた。それと同時にわたしにはもう働く意欲がなくなっていることに気がついた。困窮した状態に戻ればまた働く意欲が出てくるのだろうか。しかし、働く意欲のためにわざわざ生活を困窮させるというのもおかしな話だ。
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神保町の古本まつりに行った。ポーの全集が3000円で売られていた。買おうかどうか悩んだが、持ち帰るには重そうだからやめた。よく考えたらすでに文庫本のそれを持っている。買わなくて正解だったと思う。ルソー、デリダ、分析哲学に関連する本をそれぞれ購入した。
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東京駅の一番街で開催されている「ちびまる子ちゃん」のポップアップストアに行った。それほど混雑はしていなかったが、感染症対策のため入場制限がかかっていた。若い中国系の女性が大量に商品を買い求めていた。店員は大量の商品のバーコードをスキャンしていた。カゴがいっぱいになったところでその都度会計をしていたようだった。わたしが滞在していたあいだに会計の様子を二度確認したが、聞こえてきた支払額は総額15万円を超えていた。彼女はさらに買い物をつづけていた。インターネットで調べると「ちびまる子ちゃん」は中国でも人気があることはすぐわかる。彼女の買いものがすべて自分のために行われているとしたらあまりに量が多いから、もしかするとそこで買ったものは中国の「ちびまる子ちゃん」フリークたちの手に渡るという予想もできる。それが代理購入だろうと転売されようと、海を渡ってまで海外の文化を持ってきてくれるひとがいるとしたら、それは現地のファンコミュニティにとってはひじょうに貴重でありがたい存在のように思える。
彼女の買い物に圧倒され、買う予定ではなかったTシャツを買ってしまった。胸についたまるちゃんのワッペンがかわいい。
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動画プラットフォーム「シラス」の駅広告を見た。きょうが掲載の最終日とのことだった。有楽町と新宿のふたつの駅を訪れた。帰宅後、駅広告に関連したイベントを見た。ネット広告から権力の変化を考える議論が興味深かった。以前は「おまえはこうしなさい」だったのが、「あいつが自分の意思でやってくれるように、こういう仕組みをつくろう」となり、それが「あなたのようなひとは確率的にこうする」に変わりつつあると話されていた。議論を思い出しながらなんとなく書いたが、まえの文章でしぜんとあらわれた人称代名詞の変容に、なにか意味があるようにも思う。
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スーパーで買ったコロッケがおいしかった。じゃがいもが甘かったのか、甘みが添加されていたのかはわからない。
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ことしはひとと会話をする機会がほとんどない。いちどひととあつまる機会があったが、そのときはゆったりとした時間を過ごしたから、おしゃべりに注力する時間とは性質が異なるものだった。ひとは外から言葉を投げかけられたときにこそ思考をめぐらせる。いや、かならずしもそうではないかもしれないが、少なくともわたしはそういう人間であると思う。にもかかわらず、ひとと話す機会が少ないことが、思考だけでなく、人生をも停滞させている一因かもしれない。
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雨が降っていた。昨日も雨が降っていた。雨のなかを走って帰った。昨日も私は雨のなかを走って家に帰った。雷が鳴った。昨日は雷が鳴らなかった。
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おかしのまちおかでチョコビスケットを買った。会計のとき、店員がおつりを手で渡してくれてびっくりした。また、おつりを手で渡されたことに驚いている自分にも驚いた。お金を受け取るときにトレーの使用を徹底するだけでも、このささいなコミュニケーションの機会は完全に失われている。あったところでなんの足しにもならないのかもしれないが、損失であることは間違いない。
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スーパーで夕食を買おうと思ったが、特に食べたいものが思い浮かばず、好みのものも見つからなかった。仕方なく安いカツオのたたきを買った。最近、夕食の支度が面倒に思えてきた。
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プロ野球速報を見ると、福岡ソフトバンクホークスの新外国人選手であるガルビスが見逃し三振していた。
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帰りの電車で寝てしまった。頭がカクンと落ちてとなりに座るひととぶつかってしまった。寝ぼけながら会釈をしたらそのひとも会釈を返してくれた。反対側の席が空いていたから、座る位置を少しずらしてまた目を閉じた。
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朝、職場の最寄り駅に降り立つと、大学の卒業式に向かうのであろうひとたちが目についた。夕方、駅に降りる階段の手前で長い白髪を束ねた中年男性とすれ違ったとき、朝にも駅で同じひとを見かけていることを思い出した。
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