ロールズのルソー論を読んだが、一般意志の概念のよくわからなさは相変わらずだ。ただ、一般意志とは社会全体の意思ではなく、あくまで各人が持つものであるというロールズの指摘は重要だと思った。一般意志を持つのは各人である、したがって市民の利害関心が共有されていないとき一般意志は失われる。のであれば、特殊意思とは利害関心が共有されていない意思であるのだと裏返すように言うこともできるのかもしれず、ひいてはいまネットでみかける「政治的言説」の多くはしょせん特殊意思の縄張り争いに過ぎないと見立てるのはいささか乱暴か。
カルディで粉唐辛子がずっと品切れだったからAmazonで注文していたのが今日届いた。それを使って晩ごはんにキムチチゲをつくった。韓国産の唐辛子は甘みが強く、大量に入れてもあまり辛くならない。一向に辛くならないからつい入れすぎて、見た目がドロドロになってしまう。ドロドロで真っ赤なものは辛いという先入観から、粉唐辛子を入れすぎたキムチチゲをおそるおそる口に運ぶが、やはりぜんぜん辛くはない。色に騙されてはいけない。そういえばマグロが人気なのは赤い身が広告映えするからだと聞いたことがある。赤に騙されてはいけない。
日記
日記230111
日記230110
兄から年賀状の返事が届いていた。昨年も年賀はがきで返事がきていて、母からの返事は去年も今年もLINEだった。兄から送られてきたはがきには、今年東京に行くかも、と書かれていた。じぶんは東京に住んでいる。今年で8年目になる。逃げるように上京したが、逃げた先でどうするかをまるで考えていなかったのだといまになって思う。令和4年度11月1日時点で東京都の人口推計は14,044,538人と発表されていて、そのうち何名が知り合いで、何名とすれ違い、何名と一切の縁を持たないのだろう。昨日の新型コロナウイルス新規感染者数は8,199名と公表されている。昨年の秋以降リモートワークが続いていて、先月末で就いていた職を辞めた。しばらくまともにひとと会っていなかったが、年末は集まりに呼ばれる機会が何度かあった。ひさしぶりに会うひとやはじめて会うひとがいた。兄とはしばらく会っていない。母ともしばらく会っていない。ひとと会わない生活は無責任でいられて気もらくで、感染症のリスクも限りなく低いが、同時に生活への執着が失われる。執着しないから職もあっさり辞める。そして執着があるひとから怒られる。
日記220729
朝の目覚めがやたらによかった。これも漢方薬とか首筋のストレッチとかのおかげだろうか。いつもよりはやい時間に目が覚めてしまって二度寝もできず、仕方がないから起きて本を読んでいた。心なしか文字もすらすら読める気がして、やはりこの頃はすごく疲れていたのだと実感する。けれど昼過ぎに急激に眠くなり、20分くらい寝ようと思って横になったが、その程度では起きられるはずもなくて結局2時間くらい寝た。ここのところ書いていた小説の締め切りは実質明後日で、今日になってさすがに酷すぎると判断したひとパートを書き直そうと思ったが直すあてもなく、テキストファイルの途中に数行のスペースが空いたまま夜になった。むろん寝てばかりでは何かが書けるはずもないのだが、去年書いたやつのほうがよかったなあと思いながら取りかかっている時点でどうにかすべきであったのだこれは。
日記220728
朝起きるとひどい眠気とだるさがあって、だるいので今日は休みますと上司に連絡を入れてまた寝た。つぎに目を覚ましたのは13時30分頃だった。上司からあしたも休みにしたらと返信がきていたから、じゃあそれでとさらに返事をした。その後もしばらく眠かった。昨晩寝る時間が特別遅かったわけでもなく、どうしてこんなに眠いのだろうと思い返しても心当たりはきのうから飲み始めた漢方薬くらいしかない。「抑肝散加陳皮半夏(よくかんさんかちんぴはんげ)」というこれは自律神経に作用するらしく、ならば眠気も誘発するかもしれぬと調べてみると、漢方薬自体に眠くなる成分は含まれてないが自律神経が乱れているひとは飲み始めの時期に「めんげん」と呼ばれる好転反応が起こることがあるようだ。不調が回復する過程は一時的な悪化を経由するらしい。何がどこまで根拠を持つ情報なのか定かでないが、実際ものすごく眠いからとりあえずそういうものだと思うことにする。夕方以降は眠気が解消されて、夜は神保町で校正の講義を受けた。今年のはじめから通っている校正の夜間講座も今日が最後の受講日で、何か身についたのかもわからなければ、今後役に立つのかもわからず、半年間特に声を交わすこともなければ名前も知らないまま週に数日顔を合わせ続けた十数名のひとらとも今後会う機会はないのだろうという薄い感傷が残るくらいがせいぜいのところだといっては寂しすぎる気もするが、しかし勤務後に講義を受けたり宿題に励んだりすることは大変だったが職場以外に通う先があることにけっこう救われていたのはたしかで、あるいはひとからものを教わる機会が貴重であることに気付かされたこともあり、それがいかに還元されるかとかそういうことはあまり関係なしに、また興味のあることを学びにどこかへ通いたい気持ちがある。あてがなくとも学びに金を使うことはたのしいということを知れただけでもよかったのかもしれない。まあでも、だけ、というのも大袈裟で、本づくりの講義を受けてまた本をつくりたいなあと思えたこともよかったし、なんだかんだ得られたことは多々あるのだろう。
日記220727
後頭部から鎖骨付近にのびる筋肉をほぐすとわりとあご周りの力が抜ける。胸鎖乳突筋というらしい。血管が集中しているこの辺が凝っていると自律神経の乱れにもつながるらしいとネットで見かけた情報がどこまで信頼できるものなのかは知らないが、ちょっとあごも肩も疲れてきたしなんとなく全身がだるいし声もかすれて出しにくいし……みたいな状態に陥るまえに、休憩がてら胸鎖乳突筋を何度か伸ばしているととっても調子がよい!ということはむろんないのだが、まあかろうじてぎりぎり平常といえなくもないかなというラインを下回らないくらいにはいられる。少なくともいまのところは。最近飲んでいた鎮静剤がなくなったからイライラを主とする神経症やら何やらに効くと書かれた漢方薬を買った。
日記220726
今朝、出勤時間に叩きつけるような雨が降っていてびしょ濡れになった。ほとんどのひとが軒下に集まって雨宿りをしていた。傘を持っているひとが雨宿りしていて、傘を持たないじぶんが雨を気にせず歩いているのがおかしかった。濡れずに済むための道具の使用が濡れることへの抵抗を育んでいるのか、濡れることへの抵抗があるから濡れずに済むための道具を使用しているのか、判断をつけることは難しいように思う。地震が起きたら揺れを感じるように、雨が降ったら濡れるのだというくらいの気持ちでいると気は楽で、では濡れることへの抵抗がないのかといわれるとそうでもなく、今日は靴と靴下がずっと濡れたままで不快だったし、職場は冷房が効いているから余計に体が冷えて体調もすぐれなかった。濡れずに済むための道具が普及していなければ濡れたあとの適切な対応が文化として醸成されていたはずで、それもひとつの濡れることへの抵抗である。たとえば当たり前のようにあらゆる出先に乾燥機があったらおもしろいなどは思うが、そんな大ごとでなくとも傘を持たないと決めてしまえばじゃあ着替えを用意しておこうとか、濡れても支障がないように下駄でも履いてみようかとか、身近な範囲で策はいくつか思いつく。濡れを回避するのではなく濡れたら乾かすとか濡れても気にならないようにするとかいった方向に向いていたならば、それはそれで、傘を持ちながら雨宿りするみたいな抵抗する手段を持ちつつなお恐れをなすような状況もまた変わった形で現れるのだろうけど、そもそも濡れて困ることってさほどないよねと思いながらリュックを開けると本が濡れていたのが笑えた。
日記220725
メルカリのアプリを開くと4日前に安川奈緒『MELOPHOBIA』が2万2222円で売られていたようで、すでに売り切れていた。どうにか手を出せてしまいそうと思ってしまう絶妙な金額だなと思う。まえにメルカリで同書が6000円で売られていたこともあったし、メルカリもなかなか侮れないと思いつつ利用したことはない。Twitterを見ていると『シン・サークルクラッシャー麻紀』がAmazonや楽天ブックスで品切れているというのでこちらもメルカリで検索をかけてみると「一読しただけです」などの一言を添えてほぼ定価で何件か出品されているようすだった。本を一読してすぐに売るということをしたこともなければ考えたこともなかったから、そういう習慣もあるということにやや驚いたが、それじゃあとわが身を振り返るに、買って一度読んだきり本棚に差しっぱなしの本なんて山ほどある。というか大半がそうだ。たとえ数万出して希少本を手に入れたとしても、擦り切れるほど読み返すなんてことはおそらくせず、せいぜい二、三度読めば御の字で、すぐに新しい未読本に目移りしてしまうことだろう。基本的に飽きっぽい。それを思えば、読み返しもせずただ所有しておくよりほしいひとの手に渡るようにしたほうがよいという考え方は合理的ではある。手放すひとがいるから希少本もかろうじて古本市場に流通してくれるわけだ。それにしてもこの所有権の譲渡によって失われるのはその所有物に立ち戻る可能性であるのだとすれば、著しく低い可能性に夢を見るか、はたまた著しく低い可能性などゼロと同等であると潔く割り切るかという異なる志向性がここにはあり、前者は宝くじを買っているようなものでたしかにあまり賢くはないのだが、それでもたまに500円とか700円とか当たって利益にこそならないが思わぬ喜びに出くわすことだってある。本を読み返すことはあまりできていないが佐川恭一の小説はたびたび読み返している。
日記220724
夜までずっと部屋に座って過ごしていたせいか脚に脱力感があり、筋肉に刺激を与えた方がいいような気がして走りに外へ出た。日頃の運動不足ゆえ、ジョギングでは適度な運動になるほど走り続けられるとは思えなかったから、近所の大きな公園まで軽く走って公園に着いたあとは直線の広めな遊歩道で何本か短距離のダッシュを繰り返した。日常的な運動における走るという行為はもっぱら長距離走を指しているが、それは短距離で瞬発的な走りをすることが身体に対する怪我の危険性と周囲に対する事故の危険性をはらんでいることによる。言い換えれば、気軽に短距離走を行える場所は日常にはなく、せいぜいトラックがあるくらい設備の整った運動場などに足を運ぶしかない。中学から高校まで陸上競技部に所属していたが、長距離走は大の苦手だった。専門でやっていた跳躍競技は持久力よりも瞬発力を要する。その点では短距離選手と性格は近く、跳躍選手は基本的に短距離選手と同じ練習メニューを与えられることも多い。過去にそうした経験があるからか、短距離走であれば嫌いではなくむしろたのしいくらいだ。もし生活圏内に気兼ねなく短距離走に興じられる場所があったなら運動不足も解消できそうな気すらする。そんなことを考えながら走った。いつしか長距離走が占めていた「走る」のイメージを短距離走に転回するだけで走ることへの距離感が大きく変わることがおもしろく感じられた。久しぶりの運動で──といっても外に出ていた時間はわずか20分程度だったとは思うのだが──疲れたのか、夕方に買った5個入りのどら焼きを4個も食べてしまった。少食で一向に体重を増やせない身としては運動するだけで食事量が勝手に増えてくれるのもまたありがたい。
日記220723
髪の毛を短くした。ここ半年くらいおもしろ半分でなんとなく伸ばしていて、何度かカットはしてもらったけど伸ばしていく感じでとお願いしていた。あごの下を過ぎるくらいには伸びた毛をばっさり切るのだから、いっそ美容室も変えようと思い、それに最近切ってもらっていたスタイリストの印象もあまりよくなかったから、6月くらいに新規オープンしたらしい駅近の美容室を予約したのが先週だった。髪の毛の量が多いから切ってもらう量も多くなるのはいつものことだが、無駄に伸ばしている以上は今回はいつもよりも切る毛の量は多かったはずで、通常の1名分をゆうに超える働きを強いてくる新規客の対応をするスタイリストにはやや申し訳なさも感じつつ、それでもていねいに対応してくれたからよかった。カット中にほとんど話しかけてこなかったのも楽でたすかったが、それはこちらが最初に『龍が如く』のキャラクターみたいにしたいと伝えたからかもしれない。初手でゲームのキャラクターの画像を見せつけてくる客がいたとして、そのゲームを知っているならともかく、そうでなければちょっとくらいは引くだろう。相手も『龍が如く』を知っていたらウケたのかもしれないが、そうでないからスベってしまったということだ。出鼻でスベったやつとして髪の毛を切られてきた。前髪が短いと食事のしやすさが断然にちがう。
日記220721
昨晩の帰りが遅かったこともあり、午前は有休をとった。勤務時間が午後だけになるとかなり負担が減るし、なんでいつも9時間拘束8時間労働もさせられているんだという気持ちになる。労働時間は1、2時間減らしたほうが業務効率や持続(勤続)可能性が向上するのではないか。ただ、1日6時間労働になったらなったでそれがあたりまえになって、また拘束時間が長いだの労働の負担が大きすぎるなど言いだすようになることは目に見える。けれど斎藤幸平氏も「脱成長」とかいってるし、持続可能性を優先しながら生産性をゆるやかに低減させることも見ようによってはべつにわるいことではないのだろう。時間を減らせば効率が向上するのではと書いたが、効率がわるかろうと時間と体力の許すかぎり力技で押し切るほうがたぶん結果は出る。現状、力技で押し切るほうが結果は出るのだから競争している以上は力技で押し切るよという考え方が優位であり、しかしその考え方の転回が必要なのだというのならとりあえずガンガン休むとかやればよい。みんながガンガン休みでもしなければその状態でもまわるサイクルだって構築されないだろう。