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カテゴリー: 日記

日記220315

リケンのわかめスープシリーズから「ねぎのピリ辛スープ」をまとめ買いした。「ねぎのピリ辛スープ」にごはんと溶き卵を入れ、電子レンジで温める。納豆をトッピング。この頃は毎朝このスープを食べている。つくるのも食べるのも短時間で済む。食欲がなくても食べやすい。以前は朝食にバナナヨーグルトやフルーツグラノーラを食べていたが、食事量が少ないせいか、体重の減少や体力の衰えが気になった。白米を1食分食べる機会を増やすだけでも何か変化があればよいと思う。

無印良品で購入したお香を焚いている。春の暖かい日が顔を出すこの頃ではあるが、お香を焚いたあとはキンモクセイの香りが部屋中に広がる。労働から帰るころには、そのいい香りも煙くささに変わっている。

ドラッグストアに行った。今までカイロが置かれていた棚は害虫駆除剤売り場に変わっていた。ラムネを2袋とプロテインバーを2本買った。

耳舐めASMR動画を聞いていると、動画の主が「よしよし、いい子、いい子」と声をかけてきた。むろん、動画だから私に向けられたメッセージではないのだが、自分に向けられたものであるかのように錯覚した。
聴覚刺激は神経の調子を整えるのに役立つような気がする。少なくともふだん過剰に緊張しているからだからあきらかに緊張が解ける。聴覚にかぎらず、五感を鈍らせないように努めることは体調に良い影響を及ぼすと思うのだがどうだろうか。しかしざんねんなことながら、現実には鈍感になったほうが楽な場面も多分にあるのだが。

どん兵衛の鴨だしそばを食べた。最近どん兵衛をつくるときは、耐熱のプラスチック容器に移して、電子レンジで温めるようにしている。既存のカップにお湯を注ぐより、麺がぴろぴろになっておいしい。食べている間にごはんを炊いていた。これからあら熱をとり、冷凍庫で保存する。

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日記220314

そろそろ寝ようと思ってから、1時間近くが経過した。そろそろ寝るためにシャワーを浴びようと思ってから45分近くが経過した。その間、何をしていたかというと、特に何もしていなかった。言うまでもないことである。

きのう、アピチャッポンの映画を観た。音についての映画だった。それはまた、記憶についての映画でもあった。私の記憶には、どんなに大切なものでも、音は含まれていないことに気がついた。この文章を書いていて、私は自分にとってどの思い出がいちばん大切なのか、わからないことに気がついた。自分の思い出をふりかえりたいと思っても、外的なきっかけがなければ何も思い出せないことに気がついた。

連日の労働で目を酷使している。そのためつねに目に違和感を感じている。乾いて、痛くて、赤くて、眠くなる。目薬をさすと一時的に症状が和らぐ。そうやって自分をごまかしながら、平静を装っている。なかば強制的に平静を装っている。無理な平静を強いられることで制約を受ける。

京王線がこのほどダイヤ改正を行った。千歳烏山と笹塚に特急列車が停車するようになった。「京王線」で検索すると、昨年10月に京王線の電車内で発生した乗客襲撃事件の容疑者が起訴されたという記事がヒットした。

きょう読んだ東浩紀『弱いつながり』にはこんなことが書いてあった。

そういう非合理性が、人間関係のダイナミズムを生み出している。もし人間に性欲がなかったら、階級はいまよりもはるかに固定されていたことでしょう。ひとは性欲があるからこそ、本来ならば話もしなかったようなひとに話しかけたり、交流をもったりしてしまうのです。その機能は「憐れみ」ととても近い。

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎、2014年、112頁)

自己責任論を批判することと、たんに無責任であることはどこか違うと思う。それとは関係ないのだが、きょう職場のひとの言動に無責任さを感じる場面があった。きょうにかぎったことではないから大きな問題ではない。他人を見放そうとする態度に感じる無責任さは、無責任とは違う呼び方があるのかもしれない。

たまに会うけど知らないひとが妙に気になって話しかけたくなることがある。知らないひとに話しかけられたら怖いし、びっくりすると思うから、話しかけない。話しかけたらどうなるだろうと妄想する。名前を訊いても答えてくれない。

夕食づくりに失敗した。焦げた白菜を食べた。おいしくなかった。残っているので明日も食べる。

そろそろ寝る時間かもしれない。まだシャワーを浴びてない。だから寝るのはもう少し先になりそうだ。明日は労働がない。眼科に行きたいが、きっと行かない。

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日記220113

前略、貴樹くんへ。
わたしはさいきんすごく疲れています。勤務先ではこき使われるし、職場のひとたちも他人の噂話や悪口ばかりでうんざりするし、こころもからだもへとへとです。わたしは契約社員なので、3月までの辛抱だとは思いながらも、雇用主から見れば期限があるからこそそれまでに使い潰そうという考えなのかもしれないし、仮に3月まで耐え忍んだとしてもその後の生活の保障はいっさいありません。それにどうせいまの勤め先を離れても、またべつのところで働く必要がありますから、結局そこでもおなじような思いをするような気がします。
きょうは勤務がなかったのですが、疲れがひどくて朝から動けず、ほぼ一日中を寝て過ごしました。それでも横になりながらちょっとだけでも本を読む時間をとれました。その本のなかに「偉大なる精神は思想を語り合い、平均的な人は出来事について語り合い、小者たちは他人のうわさをする」というエレノア・ルーズベルト(アメリカの元大統領フランクリン・ルーズベルトの妻です)の発言が引用されていました。思想を語り合うひとたちが必ずしも偉大かはわかりませんが、思想を語ることを好むひとと、出来事について語ることを好むひとと、他人のうわさをすることを好むひととの比率は前者から順に多いのだということの比喩だと考えると、根拠こそありませんがどこか納得がいくところがあると思います。そのような傾向が現実にあるのであれば、あるいはそのような傾向は体感として感じるところでもありますから、いくら所属先を変えようと組織の構成員が他人のうわさに興じてばかりということはどこもあまり変わらないのかもしれません。だとすれば、わたしの抵抗もあまり意味も意義もありませんね。ほんとうに抵抗したいのであれば、くじ引きをやりなおすように転々とするのではなく、一か所に身を投じてもがき苦しみながらも闘っていかなければいけないのかもしれません。でもそこまでの気力や知力や体力がわたしにあるとはとうてい思えないのです。
いきなり暗い話を書いてしまいました。貴樹くんの近況はどうですか? 貴樹くんもわたしに似て、どちらかといえば内向的な人柄だと思いますから、おなじような苦悩を抱えているのではないでしょうか。こんなとき、どう思いますか? よかったら貴樹くんの体験とかアドバイスとか聞かせてください。
それはそれとして、近ごろの疲れの原因はからだの弱さにも原因があると考えています。わたしにはまともに直立したり背筋を伸ばして着座したりするほどの筋力もありません。からだは見るからに骨と皮という印象で、どうしたら脂肪や筋肉がつくのか皆目見当もつきません。たまに筋トレをしてみることもあるのですが、つらいしつまらないしで長続きする気配もありません。そんなとき、貴樹くんといっしょにバドミントンでもできたら続けられそうなのに!といつも考えてしまいます(笑)。近くにいたらいっしょにできることがたくさんあると思うとざんねんな気もしますが、だけど遠くにいなければこうして手紙を書くこともなかったのだろうと思うと、いまは手紙を書いたり読んだりする時間を大切にしようという思いも出てきます。
まだまだ寒い日がつづきそうです。会えない貴樹くんが、どうか元気でいますように。

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日記220101

ベッドのなかの凍えるような冷たさに覚醒を促されながらもその冷たさは同時に身動きを抑制してもい、からだをまるめて耐え忍んでいるうちにまた眠りにふける、そんな朝方がつづくこの頃であるから、先を見越して就寝前に腹部に低音タイプの使い捨てカイロを貼る。カイロの包装には「低音やけどに注意」「就寝時の使用不可」と書かれている。数年前までは事故防止という名目で記された免責としての些細な注意書きには忠実に従っていたように思え、そこにはなんらかの規範を内面化したような振る舞いがあらわれていたようにも感じられる。いつ、何を契機に、規範を内面化すること、それは他者の視線を先取りすることと言い換えてもよいのだが、予防線として自らの思考や言動に制限をかけることを多少なりとも軽視できるようになったのかについて、定かな記憶はない。

他人を忌避し、馬鹿にし、嘲笑することを共通項として用いる以外の協調の手段を知らない、もしくは扱えないひとらがいる。そこで馬鹿にされる対象というのは、同調しない者、気を遣ってくれない者、想定どおりに動いてくれない者、感情的でない者、反対に過剰に感情的である者、ある事象に真面目に応対する者、外部のひとに配慮する者、知識が豊富で多角的に物事を考えようとする者、小難しい論理を並べて物事を相対化しようとする者……いうなれば「私たち」と異なる言動をする「変わってるひと」だ。私はこれまで「変わっている者」として扱われることが多かった。「変わってるね」「変なひとだね」そう指摘され、「変わってるひと」ではない「ふつうの私たち」「多数派の私たち」を確認するための材料とされることが多かった。私は多くのひとらに不快感を与え、不快感を感じたひとらはその不快感を共有することで共同体を強化した。いつも周囲のひとらから馬鹿にされてきた。どうせひとを不快にさせ、馬鹿にされるのだからと、ある集団やある組織にコミットすることを放棄した。不快感を与えることで仲間内のつながりを活性化させる役割を担い、そのコミュニティに貢献していたのだという見方もできるが、他人を侮蔑することでしか関係性を確認できないコミュニティなんて消えてしまったほうがよい。そう思うから、もう少し周りに合わせろだとか、もっとコミュニケーションをとれだとか言われたときには心底うんざりした。いままで自分を馬鹿にしてきたようなひとが、自分ではない誰かを馬鹿にしながらコミュニケーションをとる様子が日常的に見られる組織に同調するとは、つまり私も他人を馬鹿にする側にまわるということだ。過去の自分をも含めた仲間内ではない他人を侮蔑するなどということに、そしてたとえそれが組織の主たる目的に付随する要素であったとしても与するつもりは私にはない。これは金の問題ではなく、ひととしての道理の問題だ。私は金を持っておらず、したがって生活も貧しいが、だからといって道理を欠いた選択をすることはない。道理を犠牲に金銭を得ようと、生活の保障を得ようとは思わない。そのことを見失わないでいたい。

偉そうな文体でごくありふれた普通の内容の文章を書いた。やけに偉そうだが、素朴で、単純で、かつて多くのひとらによって散々言われてきたことを反復しているに過ぎない。しかし、にもかかわらず、この素朴で、単純なことが、各個人の生活上の振る舞いにおいては浸透していないのはなぜだろうか。頭で考えることと文章に書くこととそうした営みによって描かれた観念が現実に達成されることとにはそれぞれ距離がある。それぞれに必要な技術は異なり、考えることが得意な者がかならずしも書くことが得意であるとはかぎらず、書くことが得意な者がかならずしも書いたとおりの振る舞いに及ぶことができるとはかぎらず、道義的に素晴らしい振る舞いを日常的に行う者がかならずしも自らの言動の根源たる精神性を客観的に考えることができるとはかぎらない。

先日、ふとグラタンを食べたいと思った。特別グラタンが好きというわけでもなければ、そもそもグラタンを意識的に食べるということをここ何年もしていない。たまたまコンビニで買ったパンがグラタンコロッケパンだったことはあるが、グラタンが食べたくて買ったのではなく、棚に陳列された他のパンと比較して相対的にその時の気分で食べやすそうだったのがそれだったから買っただけだ。だからグラタンを食べたいと思ったことに唐突さを覚えはしたが、時期柄、グラタン的な料理を売り出す広告を気づかぬうちに目にしていたと考えることは容易であり、また、例年よりも厳しいような気がするこの寒さから温かい料理への渇望を喚起されただろうこともあり、この唐突さにも紐解けばそれなりの理屈づけはきっとできるのだろうとも思った。普段はろくに料理らしい料理もしないから、むろんグラタンもつくったことがない。Googleでグラタンの作り方を検索し、必要な材料が記された箇所をスクリーンショットし、その画像を参考にいかにもこれからグラタンを作りますと言わんばかりの買いものをし、記された行程どおりにグラタンをつくった。が、できあがったのはどちらかといえばホワイトシチューの印象に近いものだった。オーブンを所有していないからオーブンなしでつくるグラタンのレシピを参考にしたのだが、オーブンなしのグラタン自体がグラタンの理念から遠く離れた代物だったのかもしれないという留保がある一方で、グラタンという観念を求めて、グラタンの観念に到達するための文章を見つけ、その文章のとおりに実践したにもかかわらず、現前したのはホワイトシチューだったことの衝撃は、日頃文字だけが記された本ばかり読んでいる身としては何か大きなことに気付かされるような経験だった。

いかにもホワイトシチューめいた名ばかりのグラタンはおいしかった。指示どおりに手を動かせばそれなりにおいしいものがつくれるのかもしれないと思い、別の日に手羽元のコンソメスープをつくった。手羽元と野菜に顆粒のコンソメを加えて煮るだけの行程だったが、いままでやったことがなく、コンソメを買ったのもはじめてだった。できるけれどやっていないこと、やろうと思いすらしていないことは無数にあるのだろうと思う。そうした可能性へと駆り立たせ、現に及ぼうとする意識や身体を支持するような文章の代表的なものとして料理のレシピがあるように感じられた。手を動かしたいと思い、それを参考に実際に動かしてしまうような文章をもっと読めたらよい。あるいは欲をいえば、そうした文章を書けるようになれるのであれば、なおのことよいだろうと思う。

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日記211024

 連日発表される数字の増減に飽きもせず嬉々としていた連中も、この頃の著しい減少傾向に倣うように話題の熱量が低下しているようではあるのだが、だからなんだという話である。そもそもがくだらないあれやこれやに斜めから一丁噛みしてじぶんは其奴らとは違うのだといい気になること自体もまたくだらない。低俗な環境で馬鹿者らに囲まれながら愚劣に生きる一愚民たるわたしにも平等に選挙権が与えられていて、来るべく一〇月三十一日の投票日に向けてインターネットは加速する。ネットを見ながらふと、そういえばしばらく髪の毛を切っていないなと思って予約サイトにアクセスすると、府中に住み始めてからのここ四年間ずっと髪を切ってもらっていたスタイリストのひとの名前が消えている。当該人物の氏名で検索をかけるとその美容室と以前勤めていた美容室とがヒットするくらいでめぼしい検索結果は得られず、どこかべつの店に移ったということではなくもしかしたらたんに辞めたのかもしれない。もしくは辞めたばかりでまだつぎの勤め先が決まってないとかそういうこともあるのかもしれない。いずれにしても他人の事情などどうだってよく、憶測を繰り返したところで不毛さが増すだけで、わたしはただこの伸びた髪の毛を切ってくれるひとを失ったことについて憂いていればよい。こんどはインスタグラムを開いて再度氏名を──ローマ字表記で──検索をかけるとそれらしいアカウントが出てきたが非公開だったからどんな投稿がされているかまではわからない。しかしフォロー申請するほどのことでもない。インスタグラムを開いたついでにタイムラインに並んだゆるキャラの画像やラーメンの画像やハムスターの画像や湯に浸かるカピバラの動画やミュージシャンのライブ画像やグラビアアイドルのオフショットやちびまる子ちゃんのグッズの画像や誰かが読んだ本の書影やプロ野球選手の引退セレモニーの画像なんかにいいね!をつける。表示される順に沿ってろくに投稿内容を確認せずにいいね!をつける。いいね!いいね!いいね!いいね! 表示されては消えていくハートマークには何もポジティブな意味などなく、形骸化したいいねの蓄積は知性や理性の欠如の象徴でしかない。福岡ソフトバンクホークス・長谷川勇也選手の引退はじぶんにとってもひとつの時代が終わったような気持ちにさせられた。引退会見を動画で見た。引退試合前の声出しを動画で見た。引退試合の最終打席を動画で見た。最終打席を一ゴロで終え、悔しそうな表情をあらわにする様子を動画で見た。その直後に打席に入った甲斐拓也が打った本塁打を動画で見た。九回表に同点に追いつかれ、結局引き分けで試合を終えたことをプロ野球速報で見た。パソコンやiPhoneからインターネットに接続し、そこですべてが行われ、そこですべてが完結する。家から一歩も出ずに傍観者を気取る。馬鹿馬鹿しさを薬に夜を誤魔化していく。髪の毛は伸びる。季節は変わる。この頃急に寒くなり、からだを動かすのもどこか億劫だ。
 通勤電車がやけに混んでいて、知らないひとらとからだが触れている。駅へ向かう途中はあんなに寒かったのに、いやな熱気がこもっていて気持ちがわるい。眼鏡が曇って視界がぼやける。電車が揺れてあっちに寄りかかりながらこっちから寄りかかられる。揺れる。疲れる。揺れながら本を読む。密着した周囲のひとらの感触を無視して本を読む。けれどやはり疲れる。疲れた。電車を乗り換えた。座席が空いていてから着席する。座るとすぐに眠ってしまった。金曜日のことだった。
 感染症が世にもたらした影響。それは大なり小なりあるはずで、じぶんの目に見えずとも至るところに変化は生じているのだろう。というのも、さいきんのじぶんの業務内容を振り返るととある研修の講義動画のディレクションや編集作業に精を出している状況であるのだが、所属している組織は映像関係の業種からは遠く離れていて、むろん映像制作に係るノウハウが培われているわけでもない。にもかかわらず、業務内容として映像制作と呼びうるものが発生していることは、他ならぬリモートなんとかとかオンラインかんとかとかの波に乗っているからであり、要するにコロナウイルスへの対応というわけである。いくらリモート勤務が推奨されても通勤時の電車がある程度混雑していることもひとつの象徴なのかもしれない。急にリモートでやれと言われても組織はその体制やら設備やらを整えなければならないし、組織に従属するひともまた通信環境やらデスク周りやらを整えなければならないし、それで済めばいくらかましなほうで、デジタルトランスフォーメーションだなんだといくら叫ぼうともひとびとのなかにはまだスマートフォンこそ所持しているがせいぜいLINEで連絡をとるかYouTubeやSpotifyで動画や音楽を流すかソーシャルゲームで暇をつぶすか程度にしか利用していないという層も、肌感覚では多いような気がする。というか、スマートフォンを日常的に使用していることとパソコンを人並みに(オフィスソフトを普通に扱える程度に)使用できることはイコールではなく、リモートなんとかとかオンラインかんとかとかで扱われるのは主にノートパソコンであろう。こと自身の業務に関しても、オンライン上で研修をやるぞと意気込んでいくら運営側が万全の準備を整えたところで、結局のところ受講する側の環境が十分でなければ成功には至らず、物理的な会場に参集する従来の形式と比較すると、電車に乗って会場まで来てしまえばあとは何が起ころうと運営側の責務として気楽に参加できていたものが、自宅や職場からウェブで参加となると例えば使用機材の動作不良や通信状態不良がとつじょ生じた場合もすべて受講者自身の責任として片付けられてしまうのである。そこにまたべつの問題として、Zoomがどうだとか言われてもよくわからないというひともいるのだからとにかく足並みは揃わない。電車の乗り方くらい誰もがわかる、事前に地図を渡して場所を示せば誰でも来れる、というレベルで誰でもインターネットが使えるとはならない。すくなくとも、現状はなっていない。誰でも使えるという確固たる前提がないにもかかわらず、非常時の責任は個人のみに生じるものとして扱われ、当の組織は素知らぬ顔をするどころか蔑むように振る舞うのである。こんな馬鹿なことが当たり前にあってはならないと思うのは、じぶんだけなのだろうか。職場で隣に座るひとはいつも関係者を侮蔑し、嘲笑し、呼吸をするように他者への揶揄や拒絶を繰り返して悦に浸っている。時には隣国へのヘイトをつぶやく。それを聞いたべつの者は適当に同調してへらへら笑っている。こんな馬鹿なことが当たり前にあってしまっている日常があり、そこに他者への配慮なんてものはない。誰もが自らに責任が伴わないことを望んでいる。じぶんが身を置く環境がそんな状態だから、関与者のなかで責任がどう分配され、それに対し関与者がどう反応するかなんて、リモートがどうとか提唱するひとらもろくに考えもせず気にしてもいないのではないかとどうしても思ってしまう。自粛だなんだステイホームだなんだもきっと同様で、ひとを自宅に押し込めるということは個人の周辺で生じた問題を個人の問題として片付けてしまう性質を持つのだと散々指摘されてきたことではある。とりわけ弱い立場にある存在、たとえばこどもの立場を考えれば、家庭の経済格差、経済状況がもたらす学習環境の格差、あるいは親から子への暴力、虐待等々はステイホームによってより顕著となるだろう。個人の境界を強化する動きは弱者を苦しめる。じぶん以外の誰かに対する配慮がないから簡単に家から出るなと言えてしまう。そう思うと、じぶん以外の誰かとは、あるいはいわゆる「社会的弱者」とは、「情報弱者」や「ネット弱者」も含めていくべきなのだろう。隣国へのヘイト発言を真顔で言うようなひともメディアリテラシーやネットリテラシーと呼ばれるような判断力の弱者であるといえばもしかしたらそういう見方もできるのかもしれない。ゆえに、その発言だけを取り上げてこいつの言動は差別的でよくないものだと判断することは安易なのかもしれない。誰もが様々な側面における弱者性を抱えているはずなのだ。しかしもう疲れた。これはダメだろうと思ったことにこれはダメなのではないかと述べた時点ですでにダメだと感じた対象とやっていることは同等だ。また、これはダメなのではないかと述べた時点で、ダメだとされた理念や思考や振る舞いに与する者は自分がダメだと言われたのだと捉えて被害の立場に身を置くことだってある。だとすればもう不毛としか言いようがない。相容れないのならただ相容れない存在なのだと割り切って、関心などもたず、街の風景と同化させ、適当に無視するしかない。むろん世の中にはいろんなひとがいて、ある制度を考える場合などにはいろんなひとを無視するわけにはいかないが、それはそれとして、一個人が一個人と接するときには相容れなさと直面する場合は往々にしてあり、相容れなさと無理に付き合う必要はどこにもない。
 コミュニケーションがゲームだとすれば、一見同じ言語を用いていても、プレイしているゲームが同じとは限らない。プレイステーションでアクションゲームをプレイするひともいればロールプレイングゲームをするひともいる。アクションゲームしかプレイできないゲーム機は不自由だが、さまざまなゲームがプレイ可能ななかでアクションゲームしかプレイしないひとがいるのはなにもおかしなことではない。では仮に、じぶんがプレイするゲームの需要層が少なく、プレイヤーもなかなか見つからず、ゲーム自体がなかなか成立しないと感じるのであれば、やるべきことはただひとつで、たんにじぶんがすきなゲームの需要を広げる努力をすればいいだけのことである。その過程でたとえ失望を感じることがあったとしても、そもそもそこに望みなどなかったはずではないか。
 先週、酒を飲み過ぎて自宅の便器に嘔吐をし、そのまま便器の横で寝た。翌朝は二日酔いがひどくもう金輪際酒など飲むものかと思った。そんなことがあったからきのうは友人宅で酒を飲んだが飲酒量を控えた。適度に酒を飲めば楽しく時間を過ごせ、体内に溜まったアルコールが後を引くこともない。言うまでもなく、酒がよくないのではなく酒を飲みすぎることがよくないのであり、酒を飲むのならつねに節度を保つ必要がある。
 この一週間は空気がよく冷えていて、寒い日が続いた。しかしきのうは空もよく晴れ、あたたかな日差しと冷たい風が心地よく感じられた。広場では複数組の親子がサッカーをしていて、そのすぐ近くで散歩中の犬もよく走っていた。日が沈むとさすがに寒く、寒さにつられるように芋焼酎をお湯で割った。湯気に舞う芋の香りからは冬を想起させられた。まだ十月ではあるが、もう十月でもある。どこに留まることもない移ろいのさなかで時折石を置くような感触に身を委ねている。

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日記210825-29

二十五日。前々日くらいにドライヤーが壊れて、新しいものを買いに行こうと思っていたが、残業で帰りが遅くなり、家電量販店に行く時間もなくなって、結局買うことができなかった。Amazonで注文してもよいのだが、たぶんネットだと多く種類が出過ぎてしまって、選ぶのが面倒になる気がして、調べることもしていない。上京したときに安いものを買って以来ドライヤーなんて買ってないし、日頃ドライヤーに関する新情報が入ってくることもないから、買うのにどれくらいの予算が必要なのかすらわからない。夜、弱い風しか出ないドライヤーで髪の毛を乾かす。

二十六日。退勤後、家電量販店に行ってドライヤーを買った。二千円くらいのものから二万円くらいのものまで幅広い価格帯の商品が並んでいた。安いものと高いものとではどう違うのだろうか。しかし考えてみれば、安物を六年ほど使っていたことを思えば二万円もさほど高い買い物ではない気がする。とはいえ髪の毛に対するこだわりがあるわけではないから、適当に五千円くらいのものを買った。夜、新しいドライヤーで髪の毛を乾かす。以前のものよりも断然乾くのが早いし、心なしか髪の毛がさらさらするような気もする。

二十七日。バッテリー交換で預けていたMac Bookについて、Apple Storeから電話が入った。SSDも劣化しているから交換した方がいいと修理センターから報告があった、とApple Storeのひとは言う。交換代金は六万円で、必ずしも交換しなくても大丈夫です、と話は続いた。いま修理しないとまずいということではなく、いきなり六万円を支払う能力もないから、遠慮なく断った。

二十八日。友人宅で酒を飲んだ。なんとなく盛り上がってしまい、終電の放棄を決める。コンビニで酒と花火を買って、近くの広場で夜を明かすことになった。線香花火にテンションが上がってしまって、酔いの力もあって無駄に騒いでしまった。近所のひとは迷惑に思っただろう。いっしょに花火をやったら楽しかろうに。砂の上で寝転んだら気持ちはよかったが、髪の毛に砂が入り込んでざらざらした。

二十九日。徹夜飲酒が響いて一日中寝ていた。修理に出したMac Bookが戻ってきてよかった。キーボードもきれいでたたきやすくなっている。そろそろ原稿を書かなければいけない。なんとなく今回は書き切れない気がしている。

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日記210822-24

 『ちびまる子ちゃん』をマンガやアニメで観続けているこの頃だが、外国人のキャラクターが出てくる回はどれも印象に残るような(言うなれば感傷的な)エピソードである場合が多い。多いと言っても該当するお話は片手で数えられる程度ではあるのだが、たとえば、まる子が南の島へ行き島に住む少女・プサディーと仲良くなるお話は言うまでもないし、まる子がたまちゃんら同級生数名と花輪くんの家に遊びに行く回では、花輪くんの友人であるアメリカ人のマークが(ふだんはアメリカで暮らしている花輪くんの母といっしょに)たまたま花輪邸を来訪していて、まる子たちといっしょに遊ぶ様子が描かれている。また、二〇一五年に上映された『映画ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』もそのタイトルのとおり、ホームステイで清水にやってきた外国人とまる子たちとのドタバタが物語の主である。ここに挙げた三つのエピソードに共通する点として、仲良くなった相手が母国へ帰ってしまうことがもたらす別れが終幕部分で描かれていると、誰でもあきらかに指摘できる。あるいは、いずれのエピソードも別れをもたらす存在、外側からの来訪者の象徴としてのみ「外国(人)」という記号は用いられている。この点について、ある見方においては、観念的・記号的でしかない「外国(人)」という存在が「日本的なもの」の強化のためにしか働いていないのだとして、安易なナショナリズムに収斂する物語やモチーフへの批判が可能であるだろうし、また裏を返せば、家、親子、町内などといった『ちびまる子ちゃん』を支える舞台である保守的な共同体を更新することの困難さを汲み取ることも可能であろう。ただいずれにせよ、何か言及するにあたってはもっとつぶさに観察する必要はある。

 ここでは備忘として、『ちびまる子ちゃん』と「外国(人)」におけるとっかかりになりそうな要素を、一点のみ記しておく。いくら物語の時代がいまと異なるとはいえ、たとえばまる子が町内会の福引きの商品を当てなければ外国へ行けなかったこと、またそのことが、旅先で仲良くなった友人と再会できないことをも示していることは、現代においても簡単に見過ごせる点ではないのではないか。学研教育総合研究所が二〇一六年に行った調査では、小学生の八割近くが渡航経験なしと回答した結果が出ているようで、また、観光庁から出された「若者のアウトバウンド活性化に関する最終とりまとめ」内の委員提出資料によれば、十八歳から二九歳で渡航経験のない者は約五一.八パーセントと出ている。かくいう私も、日本国内から出たこともなければ日本語しか話せないというありさまで、「外国(人)」という観念やそこに見出してしまう強烈な他者性はおそらく否定できるものではない。つまり、環境や風景こそ変われど、ある点においては『ちびまる子ちゃん』で描かれる生活の様子はけっして古いものではないのではないか。そして、この『ちびまる子ちゃん』がいまだに国民的アニメとしてお茶の間の届けられ、ともすれば大衆に素朴なナショナリズムを促すとするのならば、『ちびまる子ちゃん』を丁寧に読み解こうとすることもさほど馬鹿げた試みでもない気がする。

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日記210819-21

MacBookのバッテリーがどれだけ充電しても1%を超えず、画面上に表示されるアイコンはずっと赤いままで、充電器を抜くとむろんすぐ落ちるという状態になり、さすがに限界かと思ってApple Storeで修理の予約をした。バッテリーが消耗していること自体は以前からだったが、ここまで酷くはなかった。ここのところネットゲームをやったり、動画を再生しながら海外のサイトを巡回したり(海外サイトのページを開くと動作がやけに重くなり、ファンの回る音は大きくなり、端末も何やら熱くなりやすい)、といった行為が続いていて、それらによる負荷が弱りきったバッテリーに追い討ちをかけたのだろうか。何はともあれ、いずれはバッテリー交換に出さなければいけなかったのだし、そのタイミングがたまたま今だったということに過ぎないといえば、まあその程度の話である。Apple StoreへMacを持参したところ、使用していた端末がバッテリー無償交換の対象端末であったらしく、約二万円の修理代金が無料になった。二万の出費は大きいが仕方があるまい……と思っていたが、まさかタダになるとは。すなおにとても助かると思った。

『ちびまる子ちゃん』のコミックスを全巻まとめ買いして読み始めた。ふだんマンガを読まないせいか、一冊読むだけでもけっこう疲れる。小、中学生の頃は、休日は一日中マンガを読み続けていたことを思い出す。同じタイトルを繰り返し読み込んでいたこともあるが、半日で十数冊くらいはサクサクと読んでいたような気もするし、やはりこういうものは慣れに支えられているのだろうかと思う。たとえば文章であっても、慣れた分野だったら多少意味が分からなくてもページをめくっていけるし、逆に不慣れな分野、さいきん読んだものだと気象関係の本なんかは、専門的な語彙が多いという点も一方であるのだが、それを差し引いても文のリズムに抵抗があり、なかなか読むのが難しいなと思った。こうした抵抗を受け入れること自体に、何より慣れなければいけない。

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日記210817-18

 インスタグラムを見ていたら、小平うどんといううどん店の写真の投稿が流れてきた。気になって調べてみると、小平といいつつ聖蹟桜ヶ丘にも分店があるとのことで、近くだし今度行ってみようかと思った。ただ、うどんだったらじぶんでつくれば安く食べられることもあって、おいしいうどんを外に食べに行きたいと思ったときはいつも外で食べるほどのものなのだろうかと思いとどまってしまうから、今回もまた、でもうどんか……とすぐに微妙な気持ちになった。千円くらい出すならもっと他のものを食べられるし、なんでわざわざ外食でうどんを選ばなくてはならないのだ。うどんでお馴染みの香川県では、三百円くらいで讃岐うどんを食べられるらしいし、お店によっては百円台で出しているところもあるようで、大阪におけるたこ焼きもそうだが、栄えているところでもないと相場と感覚が合致しないというのはどうも釈然としない。需要と供給を考えればむろん栄えているところの方が価格が安くなるというのは言わずもがなではあるのだが、ことうどんに関しては、スーパーに行けば五食三百円程度で冷凍うどんが売られているものだから、そしてその冷凍うどんがそこそこおいしいものだから、比較するのは無粋であると分かっていながら冷凍うどんとお店のうどんの価格をどうしたって比べてしまう。こんなことで貧乏性を発揮せずに、食べたいものはお金のことなど気にせずすなおに食べに行けばいいのだが、この数百円を何度か我慢すれば本を一冊買うくらいの機会収益が発生するのでは……?などと考えてしまうのが何よりの元凶ではある。『ちびまる子ちゃん』の全巻セットを買うか迷っている。

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日記210814-16

 「あずきのチカラ」というホットアイマスクを買った。あずきが入ったアイマスクをレンジで温めて目に当てる。レンジで蒸しタオルをつくって目を温めるよりも熱さはなく、しかしそれでいて、ずしりと目の上に乗っかったあずきの束からはじわりじわりと温かさが伝わってきて、目の周りの筋肉が解けていくようで心地がよい。寝る前に目の上に置いていたらそのまま眠ってしまった。朝は目覚めがよく、まぶたの重さも感じなかった。出勤するまでに少し時間があったから、またレンジで温めて、五分ほど目を温めた。使用回数の目安は二五〇回とのことで、毎日朝晩にしようしても四ヶ月程度は使い続けることができる。いままで目の疲れを感じたときは蒸気でホットアイマスクを買ったりもしていたが、それよりよほど安上がりで経済的にも助かる。今回買ったのは目元用だが、顔全体用や首肩用もあるようで、ぜひそれらも使ってみたい。
 『ちびまる子ちゃん』を観ていたら、自家製洗濯石鹸を作る回があり、さくら家一同が順番に液剤をかき回すだけの場面があってよかった。重そうに液剤をかき回す友蔵やおねえちゃんの横で、陽気に応援するまるちゃんが微笑ましい。目が点のキャラクターは何をやっててもかわいいが、ただ点が二つ並んでいるだけでかわいい顔になるのはなぜだろうか。そういえば最近、ひとは三つの点が集まった図形を見ると顔と認識してしまうという話を聞いた。シミュラクラ現象というらしい。
 今年でデビューから三〇周年を迎えるZARDの全オリジナルアルバムのリイシュー盤が出るらしい。ベストアルバム商法もついにやり尽くしてしまったのか、あの手この手でよく飽きもせず阿漕な商売を続けるなと思う。それでもこうしてことあるごとにメモリアルだなんだと理由をつけて、熱心なファン以外誰も見向きもしないような商品を編み出して、なんだかんだで例年話題をつくってくれることは、それをちらっと目にしたタイミングでZARDを聴き返すきっかけにもなるし、虚しさをわかってあえて記念を祝うことも何かの意義があるのかもしれない。「Oh my love」を久しぶりに聴いて、いい曲だなと思った。

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