日記

  • 日記220720

     先日買った鎮静剤が思いのほか効いている実感がある。からだがゆるむ感覚を覚えるとああ満員電車ってこんなにからだがこわばるんだなあとか職場で座ってるだけで無意識に肩に力が入ってるなあとか緊張状態が常態化していることがいつも以上によくわかる。労働の休憩時間に服薬するとしばらく力が抜けてむだに疲れずに済む。鎮静剤を飲んだからという言い訳がじぶんのなかでできるから、ある程度の適当さも仕方がないのだと適当でありながらも力感ないまま堂々といられる。けれど次第に薬が効かなくなるはずで、近いうちにまた無駄に疲れる状態が戻ってきてしまうのだと思うと億劫だ。幼いころにひとを信用することを覚えないと苦労が増える、とかつい考えてしまう。

  • 日記220719

     なかなか捨てられず部屋に溜まっていた3ヶ月分の新聞をようやくひもでしばった。かなり部屋が広くなった気がする。今年の2月から新聞をとりはじめたが、読む時間がとれなくてせいぜい労働時の休憩時間に10分くらい目を通すていどだし、まったく読まない日も少なくない。何かが得られたり役に立ったりすることもなく、毎朝毎夕配達してもらっているのはいいが、なんでこれに金を払っているのかわからなくもなる。稼ぎも少ないのだから購読をやめるべきだろうか。だけどそれをいうとこのサイトだってたいした目的もなくなんとなくサーバーをレンタルして毎年金を払っているわけで、個人サイトを設けたことで何も得たり役に立ったりしてはいない。利益目的に使おうと思えば使いようがあるのかもしれないが、むしろそういうのがいやでわざとそっけなく利用しているふしすらある。新聞も同様でなんとなく新聞を購読しておくのが一般的な嗜みかなと思っておもしろ半分で契約したにすぎない。飽きたらやめればよいが、いまのところまだ飽きはきていない。定額制サービスを利用するとき、元をとるとかどうとかではなく、ただ漠然とそこにおいておくことのほうに主眼がある気がする。あえて積極的に目を向ける必要もない。積極的に目を向けなかった結果として部屋が新聞に埋もれているのだからこれはあまりきれいな言い訳ではなく、あした新聞を捨てる日かと思ったらぜんぜんちがう始末で、さすがに少しは目を向けたほうがよい。

  • 日記220718

     労働がない日が四日続いていたが、一冊の本も読み終えることがなかった。では何をしていたかといえばだるさがとれずほとんど寝ていた。ほとんど寝ていたがだるさがとれなかった。起きている時間は『龍が如く』の実況動画を見ていた。真島吾郎というテクノカットのキャラクターが出ていて、真島吾郎みたいな髪型にしようかなと思い、美容室の予約をした。予約をしたはいいが、当日真島吾郎みたいな髪型にしてくださいとオーダーしろとでもいうのだろうか。一週間後のじぶんが散髪の動機を恨みそうではある。ふつうはテレビに出ている俳優だとか雑誌で見かけたモデルだとか、もしくはいまやSNSで見たこの投稿とかそういう類いになるのかもしれないが、いずれにせよある媒体を通じて目についた現実に存在する人物の髪型を見て影響を受けては自身に投影しようとするのだろう。そこから対比的に考えると、いわゆる「オタク」だとか「陰キャ」だとかと呼ばれる(あるいはそう自称する)ひとたちの髪型は個性的である場合が多いようにも思われるのだが、その理由はアニメや漫画やゲームが参照されているからではないかとかねてから思っている。というかあまり意識はしていないが、たぶんじぶんにその傾向があるのだろう。あまり見た目をどうこうしたいとは思わないが、こういうのだったらかっこいいかもなと思うときのそれはだいたいアニメや漫画やゲームだったりする。そうやってだらだら過ごしたのち、夕食を買いに行ったついでにドラッグストアに寄って「パンセダン」という薬を買った。外箱には「ストレスなどによるイライラ感・緊張感をやわらげます」と書かれている。服薬してみると意外と効果があるのか、たしかに脱力感が感じられ、いつもは力みっぱなしのあごの筋肉にも緩みがある。生活は勝手につづいてしまうから、立ち止まりたいときは薬で誤魔化しながらやりすごすしかない。月末締め切りの書き物があったがここ数日の体調不良でまったく進んでおらず、来年に持ち越しかなと思っている。

  • 日記220717

     浴室の排水溝がずっと詰まっていて、浴槽にためた湯を流すとその量を流しきれずに水があふれてしまっているのを困ったなと思いながら長らく放置していた。昨日ようやく思いたって排水管を掃除する錠剤をドラッグストアで買った。困りの種だった排水溝にその錠剤を入れてみたが何かがどうにか解消されているのかどうかまだわかっていない。部屋の清掃をほとんどしていない。だから放置されている生活の蓄積、それも垢や膿といった類いのものがいくつもあるのだと思われる。現にベッドのしたを視界に入れると一面にほこりが積もっている。いや、ベッドのしたのほこりなら目につくぶんまだましであり、部屋の隅々や家具の隙間がどうなっているかは神のみぞ知る、ということはないが、少なくとも入居してからの数年ろくに気にしたことがないから考えるだけでもおそろしい。掃除をする時間や労力がないという言い訳はあまり的を射ておらず、どちらかといえばその習慣がないことの方が影響は大きいのだろう。部屋の掃除が生活に組み込まれていない。幼少期から散らかった部屋で育ったから部屋が散らかっていることに何も思わない。掃除の仕方もわからない。掃除だってひとつの文化であり、その文化に触れる習慣がなければせいぜい雑学的に異国の風習を知る程度の距離感でしかいられない。けれど、むろんその逆のひともいるわけで、散らかっている部屋に住んでいるひとは綺麗な部屋にあがることもできるが、部屋がきれいであることがとうぜんなひとの多くは散らかった部屋には抵抗があるのだろうということくらいの想像はできる。部屋が散らかっている以上はそれを嫌うひとが一定数いることへのある種の負い目を抱えてしまうというのなら、散らかっている部屋に抵抗感を抱くひととは公共空間でしか関わりあえず、私的空間から離れたところで生活のにおいみたいなものを隠すことによってもたらされる平等に助けられているのかもわからない。そういう意味では放課後に生徒に掃除をさせる学校の方針というのはただしいのだろう。公共空間における掃除の強制は自宅の散らかりを否定しない。それがどこかで転倒し、居住空間は掃除するものだという認識が浸透した結果として、自宅の散らかりを否定することにさえならなければ。

  • 日記220716

    たとえば、電車の中で交わされる会話の一端を耳にしたりして、ありさはいまよりももっとかなしみを、あきらめに似た気持ちを強くかんじていたにちがいない、東京がこんなにも変わっていないこと、変わろうという意思が街を変容させるに至るだけの多数のものにはならなかったのだということに。

    岡田利規「ブレックファスト」


     昨日のだるさが変わらず横たわりつづけていて、閉めっぱなしのカーテンの向こうでは変わらず雨が降りつづけているようだった。頭もいたくて動けない。ネットを見ていると、湿度と頭痛の関連を述べるツイートが注目を集めているらしく、書かれていることを鵜呑みにして冷房を除湿に切り替えた。低気圧と頭痛を含めた体調不良の関連はここしばらくのトレンドだったが、それも少し細分化されてこんどは湿度かと、物事の原因は多面的であるにもかかわらず、どうしてもひとつの事象に定めては、それを理由にこうであるのだというひとことを抱えて安心したがるわたしたちの脆さ、みたいなことを考える。わたしはいかにしてわたしたちとして束ねられるのだろう。せめてリラックスしようと浴槽に湯をためて、からだを温めながら岡田利規『ブロッコリー・レボリューション』を読んでいて、「都市の意思」というフレーズがよぎった。先日の参院選後、例によって右も左も問わず、じぶんが支持する政党に票が集まらないのは民度が低いせいだといった旨の主張がツイッターにはあふれていた。誰もが自らにとっての正当性を抱えていて、それらをぶつけあったところでどちらかが考えを改めるなんてことはおそらく多くはない。そう考えていることにはそう考えるようになっただけの経緯があり、その経緯はその個人の生活そのものに内包されているはずだ。個人の生活を否定することは、他人はもちろんそのひと自身でさえできない、できようがあるのかもしれないが少なくともむずかしいことには間違いない。とはいえひとには考えが変わることも往々にしてあるわけだが、それも結局はAであると思っていたことがBであるのだと「気づく」ということしかきっかけにはならないように思う。そしてその気づきは、Aと思っていたことが誤りであったという理解をもたらすのではなく、Aであると思っていたが実は最初からBを志向していたのだと過去の認識から根こそぎ改めることをもたらすのではないか。個人の意思や生活が一貫性を保とうと努めてしまう性質を持つとするならば、では都市はどうなのだろう。むしろ個人の意思や生活を左右するであろう都市の意思はいかにして変容するのだろう。社会を変えたい、変わってほしいと願うとき、向きあうべきは都市である、という方向があってもよい気がする。というか、相容れない個人を責めても仕方がなく、社会というくらいだからきっと都市を考えることのほうが先立つはずだ。風呂からあがって買いものをしようと外に出ると、思いのほかしっかりと雨が降っていて、閉めっぱなしのカーテンの向こうのようすはわからないものだなと思った。

  • 日記220715

     眠かったしからだがだるかったし雨は降ってたしいいやと思って有休を取った。今月は体調不良を理由にした有休取得が多い。このままいまの勤務先からフェードアウトして、一ヶ月くらいは自宅に閉じこもって睡眠と読書を繰り返すだけのまいにちを過ごしたい。スーパーに夕食の材料を買いにいくと、サントリーの東京クラフトシリーズのビールで夏限定と書かれた見慣れないやつがあったからそれを買った。自宅でひとりで飲酒をするとすぐに眠くなるからあまり酒は買いたくないのだが、気になるものがあるとすぐに買ってしまう。商品が喚起する欲望に屈している。自宅で酒を飲むとすぐに眠くなるのはおそらく周囲の目がないために心身が弛緩しているからで、外に出ると他者の目(を内面化することで立ち上がる自らが身体に課した規律)が心身の弛緩を簡単に許さない状況をつくるからわりと平然を保っていられることも多い。むしろ日頃から周囲を恐れるあまりに過剰にこわばるからだをどうにかゆるめたくて飲酒をするくらいなのに、その緊張が強いがためにゆるめるには飲みまくるしかないというのもなかなかかなしい。たとえば職場にいるときはまったく気が休まらない。いまのところに勤めて二年くらい経つが周囲のひとをぜんぜん信用できていないし、それどころかひとを嘲笑することでコミュニケーションをする場面が散見されるから不快にすら思っている節はある。たぶん向こうからしても、空気を合わせないやつは不快であるだろう。馬が合わないことは自明であって、面倒だから勤務時間中はなるべく声を発さないようにしているし、発話の機会があいさつと電話対応だけで済む日もある。雇用契約の内容におしゃべりは含まれておらず、業務に雑談は不要であるから問題はない。とでも書けば能動的に行動しているようでもあるが、実際はその環境に発話を含めたさまざまな言動やその意識が抑圧されているだけだ。我慢を強いられる日々。そういった状況に疲れを感じるのもとうぜんで、そこに夏の暑さや連日の雨とくれば動かないことを選択したからだの判断は正しいと思う。昨晩から12時間くらい寝て、食後少し読書をしたあとにまた1時間くらい寝た。

  • 日記220714

     日本語の表記体系にすこし触れるとこんな言語を採用している国のひとらが論理的な思考なんてできるわけなかろうという気持ちにどうしてもなる。漢字ひらがなカタカナ3種類の文字を混合して使用する点の違和については皆が勘ぐるところだと思うが、やはり厄介なのは漢字であり、常用漢字がどうで新字体がこうで拡張新字体がそれこれでといった変遷を聞けば国も長らく苦慮していることがよくわかる。あるいはその漢字をどう読むか。送り仮名のつけかたもなにやら微妙で明るい・明かるい・明いがどうこうとか。もしくはルビのふりかたは親となる漢字に対してああだこうだとか。そのリソースをもっとほかのことに向けたらどうなんだとキレたくもなる。ラテン文字がうらやましい。ところでTwitterをみていると著名人を火種に仕立てた騒動がいつも起こっていて、事態の詳細を説明して丁寧に誤解を解こうとする渦中のひとに対して話を聞く気もおそらくなければ揶揄を浴びせることをたのしんでいるだけであろう有象無象のアカウントがたえず薪をくべているものだから、真摯に対応する渦中のひとについ同情したくもなる。悦楽的に揶揄をしているだけだと指摘をすれば、さいしょに揶揄をしたのは誰なんだとでも言い返してきそうな輩には、だからそういう振る舞いを揶揄というのだといってもきっとなにも通じないし、たぶん不毛さが募るだけだ。はなから話を聞く気も理解する気もなさそうなごろつきを相手にいっそう丁寧な対応をしているひとを遠目でみていると、なんだろうこれと不思議な気持ちになる。ゴシップはおもしろいがゴシップなんて友人との会話で消費してそれでおしまいでしょうと思うじぶんにとっては、ネットで本人や関係者に凸しよういう発想が出てきたことがないからそれがまた不思議である。しかしネット上で揶揄に興じるアカウントにもそのおくには生身のひとがいて、そのひとにはそのひとの生活があるのだから無下にはできないというのも一理あり、まあひとやひとびとの暮らしなんてこんなものかとあきらめながら、他人のふりをみてわが身を自重することでぎりぎりのバランスをとるくらいがせいぜいじぶんができることなのだろう。

  • 日記220713

     ゲンロンカフェで小川哲さんと佐藤究さんの対談イベントが行われると告知が出ていた。『地図と拳』はまだ買っていないし、『ゲームの王国』は上巻しか読んでいない。『テスカトリポカ』も読んでいなければ、佐藤究さんの短編集が出ていることをこの告知で知った。だからこのイベントが楽しみに感じられるといっても、いま国内のエンタメ小説を代表するふたりの作家の名前のみに反応しているだけだといって間違いではない。とはいえ、小川哲さんが登壇しているトークイベントを何度かみたことはあって、あまり自作の話はせずになんか飄々としゃべってる小川氏の佇まいはけっこうおもしろい。いつも自作について懇切丁寧に話すようなことはないから小説を読んでいる読んでいないはじつはあまり関係がないようにも思う。おもしろいものをつくっているとうわさのひとらがトークをするらしいからたぶんおもしろくなるでしょうというおおざっぱな期待を抱えでもしなければまともに生活だってやっていられない。何かをたのしみにすることに関しては浅すぎる雑すぎるくらいの感性のほうがきっと得られるたのしみも増えるはずだよ、とじぶんに言い聞かせたい。そういう甘えを巧みに使うことができたのなら、へんな苦労も減ったことだろう。わざと利き手と逆の手で文字を書くみたいなことを好んでやっても喜ぶのはじぶんだけで、じぶんすら喜んでいないなんてことだってざらにある。ところで小川哲といえば、先日「小説トリッパー」に掲載されていた「君のクイズ」という中編小説がおもしろかった。クイズプレイヤーの思考法をなぞらえるようなお話の展開、主題されるクイズがそのまま見出しとなるようにお話を呼び込む構成、クイズ大会でのできごととお話としてのミステリの仕掛けとの並行関係等々、有機的に積み上げられた構造の妙が随所で感じられるうえ、部分部分のお話も素朴におもしろくついぐいぐい読み進めてしまう、読みごたえがありつつとても愉快な小説だった。「君のクイズ」に覚えた感動の勢いで、読んでいなかった『ゲームの王国』下巻も『魔術師』も『ユートロニカのこちら側』も『地図と拳』とあわせて買ってしまおうかと思っていたが、どれもまだ買っていない。ほかの本を買いながら、またべつの本を買おうかなと思っているありさまで、できればこの夏にはせめて『ゲームの王国』下巻くらいは買って読み終えてしまいたいところではある。なんなら読まずとも買って積んでおくだけでも決意したことを成し遂げた感は得られそう。

  • 日記220712

     気温があたりまえに30度を超えるようになったころからずっと体調がすぐれない。けさも目を覚ましてからからだが動く気配がなく、このまま無理に出勤してもろくに手は動くまいと思い、午前休みますと上司に連絡を入れて二度寝した。二度寝から目を覚ましてもまだからだにはだるさがのしかかっていて、終日休みにすればよかったと半端な判断を悔やみながらDiscordをみると、冷房をつけたまま寝たときの眠りの浅さに耐えられないという書き込みがある。なるほど原因はこれかもしれない。連日の暑さで体力が云々、もともとからだが細くて虚弱だからなおさら云々、と単純な言い訳を考えていたが、どちらかといえばこのだるさは冷えによるものだとするほうが納得感はある。軽くシャワーを浴びて、小豆のカイロで首肩を温めた。寝るときは冷房をつけっぱなしにしようと決めたのは、汗でベタベタする肌が不快でどうも満足に眠れなかったいつかの朝だったと思うが、冷房をつけたところで満足な眠りを得られていなかったことはなんだかショックだ。さいきんの眠気とだるさがただの睡眠不足によるものだったとはなんだか拍子抜けだ。三日くらいまえから読み始めたマーク・リラ『リベラル再生宣言』をさっき読み終えた。本を読むペースが落ちていると気づいたとき、同時に体調が下降気味であると察することが多い。体重や体温をまいにち測っているひとはその推移でからだの状態を確認しているのだろうかと思うと、本を読むペースによる健康観察はあまりに雑ではあるが、本の読めてなさを判断材料に有休を取得することが意図せずとも自身の健康問題に直結してくれるのであれば、目的と手段を見誤らずにいられるような気もする。

  • 日記220711

     ちょっと前にひとから「ずるい」と言われ、その場面でこの対応をしたことに対して「ずるい」と思われるのかとやや驚くような状況だったこともあり、何度か「ずるい」を思い出しては身の振りようについて考えていた。過去に他人から言われた一言が魚の小骨がのどにひっかかったみたいな印象として尾を引くことはある。そうした事態に見舞われるとき、その言葉はいくつかの考慮を経て真剣に語られたものなんかではなく、その場かぎりでさっと流してしまえるはずの何気ない言葉であることのほうが多いような気がしてなんだか呆気ない。このとき気にかかっているのはその言葉や場面のほうではなく、その言葉を受け止めたときのみずからに生じた異質さのほうなのだろう。ある一言に感じられた強烈な他者性を経由して自身を省みることは、その一言によって分裂してしまったわたしとわたしが向き合っているような感覚をも覚える。しかし所詮はどれも思い過ごしで、馬鹿正直さを思いつきで投じているだけであり、のどにひっかかったと思っていた小骨はのどをひっかいただけであってもうとっくにのどの奥へと消えているはずだ。些細なことにばかり気が向いて、取り組むべきことに頭もからだもついていかない。気温が30度を超え始めたのは6月下旬あたりからだったと思うが、どうもその頃からうっすらと体調が芳しくない。労働時間はつねに眠気との戦いで、眠気と戦えているのであればまだしも戦う気力すらなく、業務の進捗があきらかに遅れている。ろくに本も読めていない。いつまでもうつらうつらとしているから却って些細なことが気になるのかもしれない。目が乾いたからと目薬をさすと乾きがひどくなって埒が明かない。