プライムビデオで「ちびまる子ちゃん」を観た。昔に見た「まるちゃん 南の島へ行く」という回をずっと覚えていて、たまに思い出して見返してしまう。プサディという南の島のキャラクターはこのエピソードでしか登場しないにもかかわらず、そしてこの一回のエピソードをたまたま観ただけであるはずが、まる子とプサディの別れのシーンがその後もずっと記憶にとどまり続けていることにはすなおに驚く。本で読んだ知識はすぐに忘れてしまうが、物語は、受容の態度がたとえただなんとなく眺めているだけであっても、図らずしてじぶんの一部になってしまうということはままある。
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九日。だるさがあったから十五分だけと思って横になって四時間も寝た。起きてからは頭痛が続いた。ウェザーニュースのアプリを見ると、天気痛予報が警戒と表示されていて、じゃあ仕方ないかと思いながら、ほぼ一日を何もせずに消化してしまったことが鬱屈とした気分に追い討ちをかける。入浴して、ストレッチをして、寝た。寝たのは一時頃だった。
十日。昨晩寝るのが遅かったから、朝食時間を削って七時頃に起きた。この頃はいつも六時半に起きている。少し前は六時に起きていた。五時半に起きることもあった。それでは──そのせいかはわからないが──勤務中に眠くなってしまうと気づいてやめた。べつに早起きして何かするわけでもない。プロテインを飲んで出勤した。昨日の体調不良が尾をひいたのか、一日中頭が重かった。
十一日。帰宅時の電車で強烈な眠気に襲われて、寝た。時々隣に座ってるひとにぶつかって、何度か頭を下げた。頭を下げてすぐあとにまたぶつかった。左隣のひとが脚を広げたり組んだり、肩幅も広めにとっていて、狭かった。電車で大股開いて座っているのは多くの場合男性で──これは偏見だろうか?──、こういう日常的で些細でなんとなく受け入れられていることから粛々と正されてほしいと思う。
『Draw & Guess』というゲームをやった。ひとりが単語で示されたお題の絵を描き、他のひとたちは書かれた絵のお題が何かを当てるという単純なゲームではあるが、他者を通じて記号・表象・図像を往還することによって生じるずれを前提とするゆえに、描いた絵が伝わった/描かれた絵を理解できたときにうれしさを感じられるというこのゲームの魅力は、日常における言語コミュニケーションにおいても通ずることでありながらついぞ忘れてしまっていることでもある。わかりあえないからこそ意思の疎通に成功したことを喜ばしく思える。しかし当たり前のように他者と関わり生活する日々のなかで、いつからか言葉を適切に用いれば他人と容易にわかりあえるものだと思い込んでしまう。それは端的に誤りで、私たちのコミュニケーションはいつだって齟齬だらけであるにもかかわらずなんとなく成功している(ことになっている)。たとえば至極単純に、「冬」や「12月」と言っても札幌のそれと那覇のそれとではその風景は異なるし、同様に「海」や「海岸」と言っても日本海側と太平洋側とではやはり異なるだろう。同一の記号からなにを想起するかは記号を見る主体の経験に由来しているが、そうした差異を厳密に精査することが求められる場面はおそらく相当に少ない。言うなれば、個々のイメージの解像度を下げ、デフォルメすることによってようやく他者への伝達は可能となる。このようなコミュニケーションにおける原理的とも言える側面について、むしろずれることをおもしろおかしく受け入れながら、そしてズレのおかしさを共有することによって他者と関わることを可能にするという点で、『Draw & Guess』はいいゲームだと思う。
コメントする五日。なにがあったか忘れた。なにもなかったのかもしれない。なにかがある、とはなにかがあったことではなく、なにかがあったことを覚えていることを指しているのだとすると、日々にはあまりになにもない。
六日。スーパーに行ったらエンガワが売られていた。炙ったらおいしいだろうかと思って買った。切って、炙って、食べた。油分が多いから、ひとりで食べるには量が多かった。飲んでいた日本酒が甘めであまり合わなかった。群馬のアンテナショップで買った地酒だった。地酒を買ったのは先週だった。エンガワより勝浦産のマダコの方がおいしかった。マダコは半額だった。刺身が豊富に売られているスーパーが楽しくて、この頃よく足を運んでいる。肉もいろいろで、いつか奮発して買ってみたいと思った。三人組の若者が買い物をしていて、酒や惣菜を見て回っていた。このあと誰かひとりの家に集まって食べたり飲んだりするのだろうかと思って、楽しそうでいいなと思った。
Spotifyで尾崎豊を聴いた。中学生だった頃によく聴いていて、同じ部活動に所属していた八柳くんと、尾崎の曲をよくいっしょに歌っていたことを思い出した。おかげで今でもある程度は歌詞を覚えていて、何も見なくとも歌える曲がいくつかあるほどだ。たしか八柳くんは「Scrap Alley」という曲が好きで、この曲を聞くとサビで歌われる「Say Good-bye おんぼろのギター」の箇所がいまだに彼の声で脳内再生されるから笑えてくる。一般に尾崎豊といえば、「15の夜」や「卒業」に代表される鬱屈した日々を過ごす十代のもがきを歌った曲が思い出されるだろうが、他方で「Scrap Alley」は父となり大人となった男がヤンチャだった若き頃を振り返っては当時と決別しようとする心情を歌った曲であり、中学生だった八柳くんが大人目線の曲のほうを好んでいたことは当時から印象的に思っていた。たしかに賢くて大人びたひとだった。歌もうまかった。その一方で、じぶんは「卒業」が好きだった。尾崎は生徒会副会長を務めるほど真面目だったというエピソードは有名だが、真面目ゆえに抱えた抑圧が歌によって解放され、しかし解放されたとて自由に辿り着くわけではないのだというアイロニカルにも聞こえる歌詞(俺達の怒りどこへ向かうべきなのか/これからは何が俺を縛りつけるだろう/あと何度自分自身卒業すれば/本当の自分に辿り着けるだろう)に、どこか共感めいたものを覚えていたように思う。
気候変動によってマグロの活動域に変化が生じているという記事を読んだ。通常、エルニーニョ現象の起こる年には東の地域に、ラニーニャ現象の起こる年には西の地域に移動する性質を持つが、今後気候を原因に太平洋の熱帯水域がさらに温暖化すると東への移動が大きくなるだろうと見込まれているらしい。環境問題は、人間だけでなく、あらゆる生物に影響を与えるから問題を観察する視点が豊富でおもしろい(深刻ゆえに、おもしろがっていてはよくないのだが)。しかしその視点の多角性が、かえって議論を散漫にするということもあるのだろうか。海外のニュースサイトを眺めると環境問題にまつわる話題は頻繁に見かけるが、国内メディアだと扱いは小さく、あまり情報も入ってこないからわからないことが多い。
一日。美容室へ行き、(たぶん)四ヶ月ぶりに髪を切った。このあとどこかに出かけるんですか、と訊かれ、ぐんまちゃんのポスターをもらいにいくか迷っています、と答えると、せっかく整えたのでぜひ行ってきてくださいと言われた。散髪を終え、銀座にある「ぐんまちゃん家」という群馬県のアンテナショップを訪れると、店内には店員以外のひとがいなくてどきっとした。二〇〇〇円以上の買い物をするとぐんまちゃんのクリアボトルがもらえるとのことだったから、適当な地酒とぐんまちゃんの小さなぬいぐるみを買った。自身の関心の問題なのか、地酒以外にあまり魅力的な商品がなかった。地元の食材を利用したジャムや調味料はとってつけたような印象が否めないし、カミカミこんにゃくというジャーキー風に加工したこんにゃく、ペヤングをモチーフにしたせんべいなどは食べればそれなりにおいしいのだろうけどどうもパッとせず、手に取る気にはならなかった。飲むヨーグルトとか水沢うどんとかはよさそうだったけど、ぐんまちゃん目当てで立ち寄った買い物にしてはちょっと存在感が強いかなと思った。高崎のだるまも売られていて、先日見た映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』を思い出した(作中に登場する街が高崎をモデルにしていた)。地酒は週末にでも飲む。
二日。昼に雨が降り、帰宅することの湿度が高くて不快だった。マスクをしているとろくに呼吸ができず、徒歩で帰宅していたこともあって、さすがにマスクから鼻を出した。別にただ歩いているだけだから近くにひとがいるわけでもないし声を荒げるわけでもなく、無理してまでマスクの着用にこだわる必要はないだろう。たぶん同じように息苦しさからマスクを外しているひとがいくらかいた。一方でマスクの負担感をあらためて感じながら、しかし他方では顔や口元を隠せるのはひとの顔を見ずに/ひとに顔を見られずに済むし、なんとなくしゃべらなくても許される感覚があるしという点で楽ではあり、十代の頃にマスク着用を義務付けられる生活を何年か過ごしたらたぶんその後もずっとマスクを着用することを好んだだろうなと思った。ほっともっとの前を通るとカレーののぼりが立てられていて、夕食をレトルトカレーにすることに決めた。
川又千秋『幻詩狩り』を読んだ。シュルレアリスムを代表する芸術家は自死している場合が珍しくないという事実を題材に、その複数の自死をもたらした共通の原因をフィクションとして描いたSF小説だ。死の原因は、読んだ者に麻薬のような興奮や中毒性、幻覚を与える「詩」にあり、物語終盤には、言葉や文字が持つ複製機能によって被害が広がっていく様子までもが描かれる。本作を読むとおそらく誰もが真っ先に思うだろうことのひとつに「改行の多さ」がある。文中のほとんどが一文ごとに改行されていて、速やかな行の移動は可読性を高くすることは言わずもがなであるが、その過剰に促される眼球の横移動は身体に高揚感を引き起こし、読みの興奮と作中で描かれる詩=ドラッグの効果がリンクしているかのようでもある。改行にどれだけの意図を組み込むか/組み込めるかを考えるとなかなかむずかしく、この頃のじぶんは改行せずにずらずらと書き続けることが多い。
この二日間、アイマスクをつけて眠ったら、そのおかげかどうかはわからないけど深く眠れているような感覚を得られてよかった。数年前はアイマスクと耳栓を装着して睡眠することを常としていたが、耳栓をなくしたりアイマスクが汚れたり面倒になったりでいつからかやらなくなった。たまに思い出したようにそれらをつけて寝てみるとやはり感覚としては悪くないから、資格や聴覚の刺激をなるべく抑えた状態での睡眠はそれなりの効果があるのだと思う。たとえばこうして話題が変わるタイミングでの改行は、文を読む態度を切り替えさせて、読みやすさやわかりやすさを与えるだろう。その点、改行の意図は明快で、挿入に際してさほど迷いは生じない。
一方で、一見関連がないような話題でも、改行して段落というまとまりをつくることなく、地続きで書き続けることで、その散漫さや不安定さを抱えたままにしようということも意図できる。
この頃のじぶんが改行に対して消極的な理由もここにある。
たとえばこの日記にしても、理路整然としているはずのない自らの生活や言動や思考や周辺の環境などを考慮すると、整えられた文章で書き綴ろうなんて気も起きない。
それゆえに、だらだらと雑に書かれているほうが日記としての体裁が保てるような感覚がある。
それに、毎日(ここしばらくはほぼ日状態ではあるが)書こうとするとやはり労力が必要で、その分だけ文や話題を整理することは省力化する流れになる。
しかしこうして一文ごとに改行をしていると、一文単位でまとまりができるから、こちらの方が散漫さをそのままに書き出せるのかもしれないという気にもなってくる。
デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』がまさにそんなような小説だった。
改行によって書き方も変わるような感覚。
たしかに箇条書きのように日記が書かれてもいい。
日記を箇条書きで書くか散文で書くかで、その一日の断片的な要素を書き出すか、その一日にナラティブを与えるかという日記に対する態度の差が現れるように思う。
けれど、そんなことはどうでもいい。
改行していると前の文のことなんかはどうでもよくなってくる。
昨日、夢を見た。
どんな夢だったかは忘れた。
目を覚ますと外で鳥が鳴いていた。
昨年にSoundCloudにアップロードした不可思議/Wonderboy「世界征服やめた」のコピーがたまに再生されている。ラップがうまいわけではないし、録音環境も整っていないから音も割れてるし、後ろで流れている曲は他人の音源だから著作権的にたぶん黒だし、再生してくれているひとに申し訳ないと思いつつ、それでいて、どこの誰かもわからないそのひとに、一緒に世界を征服しにいかないかと声をかけたい気持ちにもなる。
もしも誰かが
「世界を征服しに行こうぜ」って言ってくれたら
履歴書もスーツも全部燃やして
今すぐ手作りのボートを太平洋に浮かべるのに
こういう日に限ってお前からメールは来ないんだもんなあ
──「世界征服やめた」不可思議/Wonderboy
もしも誰かが、ときっと誰もが思ってる。そんな気がする。
もしも誰かが怒りを表明してくれたら。
もしも誰かが悲しみを嘆いてくれたら。
もしも誰かが運動を起こしてくれたら。
もしも誰かが見過ごされている悪を指摘してくれたら。
もしも誰かが無知ゆえの愚かさを叱責してくれたら。
そんな期待を抱きながら、しかしその誰かが現れることはない。誰かが願いを叶えてくれることなど到底なく、何かを引き起こしたければ、見えない誰かに担わせようとしているその役割を自ら先立って担っていくしか手段はない。
二十六日。ウェザーニュースライブで気象解説の山口さんが自身の食生活について話していた。気象番組の気象の話をしない時間がおもしろく、結果的に気象番組を観てしまって気象情報も得てしまうというウェザーニュースライブの番組づくりはやはり普遍性があるように思う。山口さんは暑くなるに伴って一時は連日のように食べていたナポリタンを食べる頻度が下がったらしい。三日に一度程度だったのが週に一度に、それが次第に十日に一度に……とのことだ。いったいなにを観ておもしろがっているのかよくわからなくもなる。
二十七日。自律神経の乱れのせいか一日中声が出なかった。昨日から声が出ないとは思っていたが、さらに悪化したようだ。労働中に発声の必要に駆られたときははささやき声で対応した。重要な発言機会なんてないからさほど問題にはならなかった。そもそもが労働時における対人から生じるストレスを蓄積しての体調の乱れなのだから、それによって労働に差し支えが出ようが別に知ったことではない。労働を終えて、スーパーで買い物をするときも発声の負荷負担がひどかった。帰宅して、物は試しと思って無理矢理ながらにラップをしてみたが、吐き気がしたからすぐにやめた。抗不安薬がまだ残っている。寝る前に飲もう。あすの朝にはぎりぎりのところでどうにかまともを装った(かのようでいてまったく装えていない)からだに戻っていることだろう。
二十三日。新宿の紀伊国屋書店と三鷹のりんてん舎で本を数冊購入する。移動中は、ここ数日読み進めていたフロイトの『精神分析入門』を読んでいた。夢をモチーフに何か書けないかと思って読み始めたが、講義録だからか文自体のおもしろさがあまり感じられず、まだ半分も読んでいないが飽きてきた。買った本を先に読んだ方がいいかもしれない。読む時間も一方で確保しつつ、書いていた小説を書き終えてしまったから、はやく次を書き始められたらいい。自分で決めた何かに取り組んでいないと不安で仕方がない。
二十四日。映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』を観に行く。ひさしぶりに訪れたTOHOシネマズ府中は混んでいたが、『サイダーの〜』が上映するシアターは小さいハコで、客入りも少なかった。ショッピングモールと団地を舞台にした物語。いまの若いひとの原風景は、たとえば自然豊かな海や山だとか地元の商店街を中心とした地域などではなく、そうしたものを脅かす存在として用いられることが多かったショッピングモールや団地にあるという、伝統的なものと資本的なものとの対立があった頃から一周した世代にとってのリアリティが感じられる。街の建物は変わっても地面は変わらないこと、そうして土地の記憶が継承されること、SNSを通じたコミュニケーションにおける感情の機微、i am robot and proudを思わせるポップだけど繊細な劇伴、色彩豊かな画面、などなど、見どころ満載。機会をつくってもう一度観に行きたい。
二十五日。なんとなく頭が痛くてずっと横になっていた。寝れば治るかと思ったけど眠れば眠るほど頭は痛いし重い。水分が足りていないのかと思って炭酸水を飲む。今朝、焼肉屋にいく夢を見て、ホルモンとビールを注文したところで夢が醒めたことがずっと気になっていたから、スーパーでハラミを買った。焼いて食べたらおいしかった。焼きししとうと空芯菜炒めもつくって食べた。どれもおいしい。ごはんもおいしい。食事に満足してなんとなくましになった気分だけど、まだ頭は痛いし、この連休は一冊の本も読まなかったし、小説も書けなかったし、あすから労働だし、やんなっちゃうね。昼に見たアニメ『Sonny Boy』は学校ごと異空間に飛ばされるお話だった。どこかに飛ばされたい。