日記

  • 日記220710

     調布でラーメンを食べた。ちょっと前から素朴なしょっぱさのラーメンが食べたいと思っていて、いま食べたい感じのラーメンはいわゆる何ラーメンに該当するのだろうかと考えていると、数年前職場の先輩と飲みに行ったときに喜多方ラーメンの店で食べた味を思い出した。あの味はいま食べたい感じかもしれない。麺のタイプとかスープのベースとかいくつか選択すればあなたが希望するラーメンのタイプはこれですと提示してくれる診断サービスみたいなものがいまどきあってもおかしくないし、調べてないからわかっていないだけでその手のサービスはすでにあり、知らぬところで有効に活用されているのかもしれないと思いつつ、記憶から引っ張りだされてきたそれをひとつの選択肢とせずにそのまま選択にしてしまうという素直さで生活を進めるということはそう足蹴にするようなことでもない。意識的な検索でデータベースから取り出すことと、いま投げ出されている環境をトリガーに無意識が記憶から取り出してくることとでは行われていることがまったく異なる。むろんこれはどちらが良くてどちらが悪いという話ではない。ただここのところ素朴なしょっぱさのラーメンが食べたいと思っていたことにおける「素朴なしょっぱさのラーメン」はおそらく過去に食べたラーメンの記憶の集積からイメージされているものであり、そのイメージを統計に照らし合わせて近しいラーメンを食べたいということではなかったように思う。それで記憶を頼りに前に食べた喜多方ラーメンの店名はなにであったか調べてみると、調布にも店舗があるとのことだったからもうそれでよい。近さは選択を容易にする。食堂のような佇まいの店内はさほど冷房も効いてなく、汗をかきながらすすった麺はおいしかった。注文するときに細麺と太麺とどちらか問われ、太麺でと答えたが、麺はさほど太くない。細麺、太麺などと一口にいってもそのひとつのタグに束ねられたひとつひとつには多分に差異がある。

  • 日記220709

     汗をかいてもすぐに乾く肌着がほしいと思ってモンベルから出ている「ジオライン」という素材のシャツを買ったのはたしか2週間くらいまえで、これが思いのほか要望に答えてくれる代物だったから、ではタイツも買ってしまおうと思って新宿のモンベルに行った。タイツをふたつとパンツをひとつ手にとって、せっかくだからと店内を見てまわったが、2週間まえに見た光景が同じようにあるだけだった。風通しのよさそうな薄手のシャツは肌触りも冷たくて気持ちがよさそうで、一着買ってみようかと思ったが、このお金で分厚めの本が一冊買えると思ってやめた。買いものを終えて駅へ向かうと街頭演説が盛り上がっている。そういえば立ち止まって聞いたことがないと思い、近くで数分眺めていた。滞りなく言葉が語られるようすに新鮮な印象を受けながら、しかし映画や演劇という形式のうえでみる人物が同等のなめらかさで言葉を語っていることを思えばさほど新鮮でもないはずで、だとすればたとえば演者と聴衆の距離のほうに馴染みのなさを感じているのかもしれない。それは物理的な距離でもあるし、舞台の設計上生じる心理的な距離でもある。演説から抜けて、待ち合わせ場所へ向かう。集まったひとたちと大衆居酒屋で数時間話す。ざわめく居酒屋で話すとき、道中で話すとき、店を変えて話すとき、靴を脱いだり脱がなかったり、からだが近かったり離れていたり、姿が見えたり見えなかったり、少人数だったり多人数だったり、オンラインだったりオフラインだったり、パワポが用意されていたり画面の共有がされていたり、話題が設定されていたりその場しのぎの雑談だったり、ただひととおしゃべりをするだけの環境も多様であるなかで、いま言葉を交わしあおうとしている舞台がどのようにあり、その舞台上で演者と聴衆を同時に担うひとらがどのような姿勢を強いられるのか、その辺りをもっと考慮できてもよいのかもしれない。言葉に対し愚直な言葉を素朴に返せばよいというスタンスは楽でこそあるが、どこかで行き詰まるような気もしている。モンベルのジオラインのことを書こうと思って書き始めた日記がそうはならなかった。

  • 日記220327

    あしたから数日有休消化でしばらく労働がない。雇用契約更新の話に対してあいまいな返事をし続けていたが、なんとなく流されてもう一年雇われることになった。まだ確定ではないのだが、4月1日からまた出社することになるのだろう。自分のことは自分がいちばんよく知っているし、そこですべてを投げ出すような性格でないこともわかっている。それでも、正社員登用の話は断った。断ることになんの意味があるのかわからないが、とにかく断った。だれにも期待されたくない。

    あしたから数日労働をしなくて済むからワインを飲んでいる。帰りにセブンイレブンで買った。飲酒をするとしゃべりたくなるが、しゃべる相手もいないから適当に日記を書いている。

    労働中に作成した覚え書き的な資料の文字数が1万8千字程度になった。作成にかかった時間は1週間足らず。このペースで、これだけの文字数の小説でも書ければよいのだが。

    ゲンロンカフェのイベントアーカイブを見ている。ひとつのイベントが何度も時間延長され、登壇者が突発的に入れ替わるということをゲンロンカフェはたまに当たり前のようにやるが、よくよく考えればかなりめずらしいことだ。そしてなにより観客がその異常さをふつうに受け入れてしまう空間をつくりあげていることがなによりすごいのかもしれない。

    もう一年は労働することになりそうだから、金もいくらか安定して入ることだろうし、眼鏡を新調しようと思っている、ZoffやJinsのような安いメガネが市場を席巻している流れとは手を切りたい。いいメガネを買っても、世の中も私の人生もたぶん何も変わらない。それでもいいメガネを買おう。なにひとつ変わらないという無情な気持ちでいいメガネを買おう。いい眼鏡を買うのだ。何も変わらないという心細さのままでいい眼鏡を買うのだ。

    最近、分析哲学の本を読むことが多くなった。難しいものは読めないから入門書と銘打ったものばかり読んでいる。今日はクワインの入門書を読み始めた。こんなものを読んだところできっとなんの役にも立たない。

    きょうはひとびとが身にまとう布の量が減っているように見えた。たぶん暖かったのだろうが、ずっと室内にいたからよくわからない。たぶん遊びに歩くひとが多かったのだろうが、ずっと労働をしていたからわからない。布が減ったぶんだけ電車で隣に座るひととの間隔が広くなったのがうれしかった。

    「無理をしなくていい」とはここ数年のツイッターにおけるトレンドのひとつだが、「限界まで自分を追い込む」という考え方のほうが性に合っていることはまちがいない。

    酒を飲みながら過剰なほど長々とどうでもいい話をする。そんな機会が失われていることを惜しんでしまうのは、いま酒を飲んでいるからなのか、酒を飲みながら長時間話している動画を見ているからなのか。

  • 日記220324

    12時過ぎに目が覚めた。昨夜寝た時間は0時だった。何度か目が覚めたが、目が疲れていて開けていられないし、どうせ起きてもすることがないから、何度も寝直した。もっと寝ていてもよかったのだが、なぜか起きることにした。

    労働行為の根源が狩猟採集にあり、つまり生存のためにあるのだとすれば、労働意欲の欠如は生きる意欲の欠如に等しい。

    アニメ『平家物語』の1話から3話までを見た。ロシアのウクライナ侵攻の関連もあってナショナリズムの話題が目立つこの頃だが、かつての日本は民族どころか「家」を問題にして争っていたのだなと感じた。たとえば選択的夫婦別姓に反対する人の多くは「家」の存続を危惧している。それに対し現代に通ずる日本の「家」なり「姓」なりが一般に普及したのは近代以降だという批判もあるが、もしかすると「家」の意識はこうしたところから影響を受けているのかもしれない。

    ここしばらく憂鬱な気分で過ごしている。本も読めない。

    夜に持参しなければならない宿題をやっていないことを思い出し、いそいでとりかかった。

    目的地に行くまえに夕食をとろうと思い、神保町を歩き回った。キッチングランに行こうと思ったが18時前は開店していなかった。うろうろしているうちに18時を過ぎたから再びキッチングランへ向かった。店のまえまで行ったが、どうも入る勇気がでず、結局引き返した。途中で「はなまるうどん」を見たことを思い出して、うどんを食べることに決めた。

    GARNETCROWのアルバム「All Lovers」を聴いた。「CANDY POP」の歌詞はうつ症状を抱えているひとの歌なのだなとふと思った。何年もまえから何度も聴いている曲でも、見えていなかった気づきを得ることはよくある。

    お腹がすいちゃううちは
    大丈夫だってきっとね
    眠れずにいるのなら
    全部放り出してゆく

    GARNETCROW「CANDY POP」
  • 日記220320

    昨夜は22時前に床で寝てしまい、0時過ぎに目が覚めたが、すぐにからだをベッドに移し、また寝た。朝になっても、何度か目を覚ましながら、二度目、三度目と、眠り続けた。午前11時過ぎに尿意を感じ、ようやくベッドから起き上がった。これだけ寝てもまだ眠かった。そのあとも午後3時ころまでなにもする気になれなかった。なにもしたくなかった。なにも考えたくなかった。ただ座ってなにもせず、できるかぎり長い時間、ぼんやりと空間を見つめていたかった。

    働く意欲がない。働く意欲がないから、雇用契約の更新や正社員登用の話をされてもまったく関心をもてない。働く意欲がないから、いつも煮え切らない返答をしている。いまの勤め先に採用されるまえ、感染症の影響でアルバイトをクビになり、家計が苦しくなって家賃を払えなくなり、生活福祉資金貸付制度を利用することになった。つまり、いまの勤め先に就職した当初は「生活が困窮していたから」という理由で労働をする気になっていた。お金がなければ生活は成り立たないが、お金がなくても生は継続する。容赦なくつづく生と、途絶えてしまいそうな生活との狭間がもたらす緊張感が、わたしを労働へと駆り立てた。一年以上働きつづけた結果、家計は今後3カ月はお金を稼がなくても家賃を払えるところまでは落ち着いてきた。それと同時にわたしにはもう働く意欲がなくなっていることに気がついた。困窮した状態に戻ればまた働く意欲が出てくるのだろうか。しかし、働く意欲のためにわざわざ生活を困窮させるというのもおかしな話だ。

    神保町の古本まつりに行った。ポーの全集が3000円で売られていた。買おうかどうか悩んだが、持ち帰るには重そうだからやめた。よく考えたらすでに文庫本のそれを持っている。買わなくて正解だったと思う。ルソー、デリダ、分析哲学に関連する本をそれぞれ購入した。

    東京駅の一番街で開催されている「ちびまる子ちゃん」のポップアップストアに行った。それほど混雑はしていなかったが、感染症対策のため入場制限がかかっていた。若い中国系の女性が大量に商品を買い求めていた。店員は大量の商品のバーコードをスキャンしていた。カゴがいっぱいになったところでその都度会計をしていたようだった。わたしが滞在していたあいだに会計の様子を二度確認したが、聞こえてきた支払額は総額15万円を超えていた。彼女はさらに買い物をつづけていた。インターネットで調べると「ちびまる子ちゃん」は中国でも人気があることはすぐわかる。彼女の買いものがすべて自分のために行われているとしたらあまりに量が多いから、もしかするとそこで買ったものは中国の「ちびまる子ちゃん」フリークたちの手に渡るという予想もできる。それが代理購入だろうと転売されようと、海を渡ってまで海外の文化を持ってきてくれるひとがいるとしたら、それは現地のファンコミュニティにとってはひじょうに貴重でありがたい存在のように思える。
    彼女の買い物に圧倒され、買う予定ではなかったTシャツを買ってしまった。胸についたまるちゃんのワッペンがかわいい。

    動画プラットフォーム「シラス」の駅広告を見た。きょうが掲載の最終日とのことだった。有楽町と新宿のふたつの駅を訪れた。帰宅後、駅広告に関連したイベントを見た。ネット広告から権力の変化を考える議論が興味深かった。以前は「おまえはこうしなさい」だったのが、「あいつが自分の意思でやってくれるように、こういう仕組みをつくろう」となり、それが「あなたのようなひとは確率的にこうする」に変わりつつあると話されていた。議論を思い出しながらなんとなく書いたが、まえの文章でしぜんとあらわれた人称代名詞の変容に、なにか意味があるようにも思う。

    スーパーで買ったコロッケがおいしかった。じゃがいもが甘かったのか、甘みが添加されていたのかはわからない。

    ことしはひとと会話をする機会がほとんどない。いちどひととあつまる機会があったが、そのときはゆったりとした時間を過ごしたから、おしゃべりに注力する時間とは性質が異なるものだった。ひとは外から言葉を投げかけられたときにこそ思考をめぐらせる。いや、かならずしもそうではないかもしれないが、少なくともわたしはそういう人間であると思う。にもかかわらず、ひとと話す機会が少ないことが、思考だけでなく、人生をも停滞させている一因かもしれない。

  • 日記220319

    雨が降っていた。昨日も雨が降っていた。雨のなかを走って帰った。昨日も私は雨のなかを走って家に帰った。雷が鳴った。昨日は雷が鳴らなかった。

    おかしのまちおかでチョコビスケットを買った。会計のとき、店員がおつりを手で渡してくれてびっくりした。また、おつりを手で渡されたことに驚いている自分にも驚いた。お金を受け取るときにトレーの使用を徹底するだけでも、このささいなコミュニケーションの機会は完全に失われている。あったところでなんの足しにもならないのかもしれないが、損失であることは間違いない。

    スーパーで夕食を買おうと思ったが、特に食べたいものが思い浮かばず、好みのものも見つからなかった。仕方なく安いカツオのたたきを買った。最近、夕食の支度が面倒に思えてきた。

    プロ野球速報を見ると、福岡ソフトバンクホークスの新外国人選手であるガルビスが見逃し三振していた。

    帰りの電車で寝てしまった。頭がカクンと落ちてとなりに座るひととぶつかってしまった。寝ぼけながら会釈をしたらそのひとも会釈を返してくれた。反対側の席が空いていたから、座る位置を少しずらしてまた目を閉じた。

    朝、職場の最寄り駅に降り立つと、大学の卒業式に向かうのであろうひとたちが目についた。夕方、駅に降りる階段の手前で長い白髪を束ねた中年男性とすれ違ったとき、朝にも駅で同じひとを見かけていることを思い出した。

  • 日記220315

    リケンのわかめスープシリーズから「ねぎのピリ辛スープ」をまとめ買いした。「ねぎのピリ辛スープ」にごはんと溶き卵を入れ、電子レンジで温める。納豆をトッピング。この頃は毎朝このスープを食べている。つくるのも食べるのも短時間で済む。食欲がなくても食べやすい。以前は朝食にバナナヨーグルトやフルーツグラノーラを食べていたが、食事量が少ないせいか、体重の減少や体力の衰えが気になった。白米を1食分食べる機会を増やすだけでも何か変化があればよいと思う。

    無印良品で購入したお香を焚いている。春の暖かい日が顔を出すこの頃ではあるが、お香を焚いたあとはキンモクセイの香りが部屋中に広がる。労働から帰るころには、そのいい香りも煙くささに変わっている。

    ドラッグストアに行った。今までカイロが置かれていた棚は害虫駆除剤売り場に変わっていた。ラムネを2袋とプロテインバーを2本買った。

    耳舐めASMR動画を聞いていると、動画の主が「よしよし、いい子、いい子」と声をかけてきた。むろん、動画だから私に向けられたメッセージではないのだが、自分に向けられたものであるかのように錯覚した。
    聴覚刺激は神経の調子を整えるのに役立つような気がする。少なくともふだん過剰に緊張しているからだからあきらかに緊張が解ける。聴覚にかぎらず、五感を鈍らせないように努めることは体調に良い影響を及ぼすと思うのだがどうだろうか。しかしざんねんなことながら、現実には鈍感になったほうが楽な場面も多分にあるのだが。

    どん兵衛の鴨だしそばを食べた。最近どん兵衛をつくるときは、耐熱のプラスチック容器に移して、電子レンジで温めるようにしている。既存のカップにお湯を注ぐより、麺がぴろぴろになっておいしい。食べている間にごはんを炊いていた。これからあら熱をとり、冷凍庫で保存する。

  • 日記220314

    そろそろ寝ようと思ってから、1時間近くが経過した。そろそろ寝るためにシャワーを浴びようと思ってから45分近くが経過した。その間、何をしていたかというと、特に何もしていなかった。言うまでもないことである。

    きのう、アピチャッポンの映画を観た。音についての映画だった。それはまた、記憶についての映画でもあった。私の記憶には、どんなに大切なものでも、音は含まれていないことに気がついた。この文章を書いていて、私は自分にとってどの思い出がいちばん大切なのか、わからないことに気がついた。自分の思い出をふりかえりたいと思っても、外的なきっかけがなければ何も思い出せないことに気がついた。

    連日の労働で目を酷使している。そのためつねに目に違和感を感じている。乾いて、痛くて、赤くて、眠くなる。目薬をさすと一時的に症状が和らぐ。そうやって自分をごまかしながら、平静を装っている。なかば強制的に平静を装っている。無理な平静を強いられることで制約を受ける。

    京王線がこのほどダイヤ改正を行った。千歳烏山と笹塚に特急列車が停車するようになった。「京王線」で検索すると、昨年10月に京王線の電車内で発生した乗客襲撃事件の容疑者が起訴されたという記事がヒットした。

    きょう読んだ東浩紀『弱いつながり』にはこんなことが書いてあった。

    そういう非合理性が、人間関係のダイナミズムを生み出している。もし人間に性欲がなかったら、階級はいまよりもはるかに固定されていたことでしょう。ひとは性欲があるからこそ、本来ならば話もしなかったようなひとに話しかけたり、交流をもったりしてしまうのです。その機能は「憐れみ」ととても近い。

    東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎、2014年、112頁)

    自己責任論を批判することと、たんに無責任であることはどこか違うと思う。それとは関係ないのだが、きょう職場のひとの言動に無責任さを感じる場面があった。きょうにかぎったことではないから大きな問題ではない。他人を見放そうとする態度に感じる無責任さは、無責任とは違う呼び方があるのかもしれない。

    たまに会うけど知らないひとが妙に気になって話しかけたくなることがある。知らないひとに話しかけられたら怖いし、びっくりすると思うから、話しかけない。話しかけたらどうなるだろうと妄想する。名前を訊いても答えてくれない。

    夕食づくりに失敗した。焦げた白菜を食べた。おいしくなかった。残っているので明日も食べる。

    そろそろ寝る時間かもしれない。まだシャワーを浴びてない。だから寝るのはもう少し先になりそうだ。明日は労働がない。眼科に行きたいが、きっと行かない。

  • 日記220113

    前略、貴樹くんへ。
    わたしはさいきんすごく疲れています。勤務先ではこき使われるし、職場のひとたちも他人の噂話や悪口ばかりでうんざりするし、こころもからだもへとへとです。わたしは契約社員なので、3月までの辛抱だとは思いながらも、雇用主から見れば期限があるからこそそれまでに使い潰そうという考えなのかもしれないし、仮に3月まで耐え忍んだとしてもその後の生活の保障はいっさいありません。それにどうせいまの勤め先を離れても、またべつのところで働く必要がありますから、結局そこでもおなじような思いをするような気がします。
    きょうは勤務がなかったのですが、疲れがひどくて朝から動けず、ほぼ一日中を寝て過ごしました。それでも横になりながらちょっとだけでも本を読む時間をとれました。その本のなかに「偉大なる精神は思想を語り合い、平均的な人は出来事について語り合い、小者たちは他人のうわさをする」というエレノア・ルーズベルト(アメリカの元大統領フランクリン・ルーズベルトの妻です)の発言が引用されていました。思想を語り合うひとたちが必ずしも偉大かはわかりませんが、思想を語ることを好むひとと、出来事について語ることを好むひとと、他人のうわさをすることを好むひととの比率は前者から順に多いのだということの比喩だと考えると、根拠こそありませんがどこか納得がいくところがあると思います。そのような傾向が現実にあるのであれば、あるいはそのような傾向は体感として感じるところでもありますから、いくら所属先を変えようと組織の構成員が他人のうわさに興じてばかりということはどこもあまり変わらないのかもしれません。だとすれば、わたしの抵抗もあまり意味も意義もありませんね。ほんとうに抵抗したいのであれば、くじ引きをやりなおすように転々とするのではなく、一か所に身を投じてもがき苦しみながらも闘っていかなければいけないのかもしれません。でもそこまでの気力や知力や体力がわたしにあるとはとうてい思えないのです。
    いきなり暗い話を書いてしまいました。貴樹くんの近況はどうですか? 貴樹くんもわたしに似て、どちらかといえば内向的な人柄だと思いますから、おなじような苦悩を抱えているのではないでしょうか。こんなとき、どう思いますか? よかったら貴樹くんの体験とかアドバイスとか聞かせてください。
    それはそれとして、近ごろの疲れの原因はからだの弱さにも原因があると考えています。わたしにはまともに直立したり背筋を伸ばして着座したりするほどの筋力もありません。からだは見るからに骨と皮という印象で、どうしたら脂肪や筋肉がつくのか皆目見当もつきません。たまに筋トレをしてみることもあるのですが、つらいしつまらないしで長続きする気配もありません。そんなとき、貴樹くんといっしょにバドミントンでもできたら続けられそうなのに!といつも考えてしまいます(笑)。近くにいたらいっしょにできることがたくさんあると思うとざんねんな気もしますが、だけど遠くにいなければこうして手紙を書くこともなかったのだろうと思うと、いまは手紙を書いたり読んだりする時間を大切にしようという思いも出てきます。
    まだまだ寒い日がつづきそうです。会えない貴樹くんが、どうか元気でいますように。

  • 日記220101

    ベッドのなかの凍えるような冷たさに覚醒を促されながらもその冷たさは同時に身動きを抑制してもい、からだをまるめて耐え忍んでいるうちにまた眠りにふける、そんな朝方がつづくこの頃であるから、先を見越して就寝前に腹部に低音タイプの使い捨てカイロを貼る。カイロの包装には「低音やけどに注意」「就寝時の使用不可」と書かれている。数年前までは事故防止という名目で記された免責としての些細な注意書きには忠実に従っていたように思え、そこにはなんらかの規範を内面化したような振る舞いがあらわれていたようにも感じられる。いつ、何を契機に、規範を内面化すること、それは他者の視線を先取りすることと言い換えてもよいのだが、予防線として自らの思考や言動に制限をかけることを多少なりとも軽視できるようになったのかについて、定かな記憶はない。

    他人を忌避し、馬鹿にし、嘲笑することを共通項として用いる以外の協調の手段を知らない、もしくは扱えないひとらがいる。そこで馬鹿にされる対象というのは、同調しない者、気を遣ってくれない者、想定どおりに動いてくれない者、感情的でない者、反対に過剰に感情的である者、ある事象に真面目に応対する者、外部のひとに配慮する者、知識が豊富で多角的に物事を考えようとする者、小難しい論理を並べて物事を相対化しようとする者……いうなれば「私たち」と異なる言動をする「変わってるひと」だ。私はこれまで「変わっている者」として扱われることが多かった。「変わってるね」「変なひとだね」そう指摘され、「変わってるひと」ではない「ふつうの私たち」「多数派の私たち」を確認するための材料とされることが多かった。私は多くのひとらに不快感を与え、不快感を感じたひとらはその不快感を共有することで共同体を強化した。いつも周囲のひとらから馬鹿にされてきた。どうせひとを不快にさせ、馬鹿にされるのだからと、ある集団やある組織にコミットすることを放棄した。不快感を与えることで仲間内のつながりを活性化させる役割を担い、そのコミュニティに貢献していたのだという見方もできるが、他人を侮蔑することでしか関係性を確認できないコミュニティなんて消えてしまったほうがよい。そう思うから、もう少し周りに合わせろだとか、もっとコミュニケーションをとれだとか言われたときには心底うんざりした。いままで自分を馬鹿にしてきたようなひとが、自分ではない誰かを馬鹿にしながらコミュニケーションをとる様子が日常的に見られる組織に同調するとは、つまり私も他人を馬鹿にする側にまわるということだ。過去の自分をも含めた仲間内ではない他人を侮蔑するなどということに、そしてたとえそれが組織の主たる目的に付随する要素であったとしても与するつもりは私にはない。これは金の問題ではなく、ひととしての道理の問題だ。私は金を持っておらず、したがって生活も貧しいが、だからといって道理を欠いた選択をすることはない。道理を犠牲に金銭を得ようと、生活の保障を得ようとは思わない。そのことを見失わないでいたい。

    偉そうな文体でごくありふれた普通の内容の文章を書いた。やけに偉そうだが、素朴で、単純で、かつて多くのひとらによって散々言われてきたことを反復しているに過ぎない。しかし、にもかかわらず、この素朴で、単純なことが、各個人の生活上の振る舞いにおいては浸透していないのはなぜだろうか。頭で考えることと文章に書くこととそうした営みによって描かれた観念が現実に達成されることとにはそれぞれ距離がある。それぞれに必要な技術は異なり、考えることが得意な者がかならずしも書くことが得意であるとはかぎらず、書くことが得意な者がかならずしも書いたとおりの振る舞いに及ぶことができるとはかぎらず、道義的に素晴らしい振る舞いを日常的に行う者がかならずしも自らの言動の根源たる精神性を客観的に考えることができるとはかぎらない。

    先日、ふとグラタンを食べたいと思った。特別グラタンが好きというわけでもなければ、そもそもグラタンを意識的に食べるということをここ何年もしていない。たまたまコンビニで買ったパンがグラタンコロッケパンだったことはあるが、グラタンが食べたくて買ったのではなく、棚に陳列された他のパンと比較して相対的にその時の気分で食べやすそうだったのがそれだったから買っただけだ。だからグラタンを食べたいと思ったことに唐突さを覚えはしたが、時期柄、グラタン的な料理を売り出す広告を気づかぬうちに目にしていたと考えることは容易であり、また、例年よりも厳しいような気がするこの寒さから温かい料理への渇望を喚起されただろうこともあり、この唐突さにも紐解けばそれなりの理屈づけはきっとできるのだろうとも思った。普段はろくに料理らしい料理もしないから、むろんグラタンもつくったことがない。Googleでグラタンの作り方を検索し、必要な材料が記された箇所をスクリーンショットし、その画像を参考にいかにもこれからグラタンを作りますと言わんばかりの買いものをし、記された行程どおりにグラタンをつくった。が、できあがったのはどちらかといえばホワイトシチューの印象に近いものだった。オーブンを所有していないからオーブンなしでつくるグラタンのレシピを参考にしたのだが、オーブンなしのグラタン自体がグラタンの理念から遠く離れた代物だったのかもしれないという留保がある一方で、グラタンという観念を求めて、グラタンの観念に到達するための文章を見つけ、その文章のとおりに実践したにもかかわらず、現前したのはホワイトシチューだったことの衝撃は、日頃文字だけが記された本ばかり読んでいる身としては何か大きなことに気付かされるような経験だった。

    いかにもホワイトシチューめいた名ばかりのグラタンはおいしかった。指示どおりに手を動かせばそれなりにおいしいものがつくれるのかもしれないと思い、別の日に手羽元のコンソメスープをつくった。手羽元と野菜に顆粒のコンソメを加えて煮るだけの行程だったが、いままでやったことがなく、コンソメを買ったのもはじめてだった。できるけれどやっていないこと、やろうと思いすらしていないことは無数にあるのだろうと思う。そうした可能性へと駆り立たせ、現に及ぼうとする意識や身体を支持するような文章の代表的なものとして料理のレシピがあるように感じられた。手を動かしたいと思い、それを参考に実際に動かしてしまうような文章をもっと読めたらよい。あるいは欲をいえば、そうした文章を書けるようになれるのであれば、なおのことよいだろうと思う。