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【告知】「忘年にあらがう2024 -おれたちの年間生活報告会-」を開催します

年末なのでいかにも年末っぽい会合を開催します。

今年も年の瀬に突入し、これから社会的・文化的な出来事に関する一年の統括を試みるコンテンツが各種メディアから続々と発表されることでしょう。その一方でわたしたちひとりひとりの生活にも一年のうちにさまざまな出来事があり、そこには統括しうる何らかがあるはずです。
しかし、個人が経験した散り散りの出来事がまとめられるような機会はあまりなく、他人と話し合う場はおそらくもっとありません。それゆえ散り散りの出来事は連関を見出されることもなくただ個別の事象としてとどまるのがふつうのことだとおもいます。というよりも個別の事象を強引にまとめあげようとする行為はむしろ不自然なことかもしれませんが、その不自然が創りだす奇妙な一貫性や関連性には、無視してしまうにはもったいないおもしろさもあるのではないでしょうか。
そこで「2024年」という単位をきっかけに個人的な関心に基づいた個人的な体験を語り、聴き、話し合う場を設けてみる次第です。というと仰々しいですが、なんかいい感じにお話ができればとおもいます。いい感じにお話ししたい方々はぜひご参加ください。

──と記してみたはいいものも、内容がなんだかよくわからないのでAIにわかりやすくしてもらいました。
以下をご参照のうえ、ぜひご参加いただけると幸いです。


開催概要

「忘年会」の賑わいの陰で、1年をただ流してしまうのではなく、自分自身の「記憶」をしっかりと振り返り、語り合う場をつくりたい。そんな思いからこのイベントを開催します。
参加者一人ひとりが2024年の出来事や考えたことを振り返り、それぞれの「アーカイブ」を共有します。他の誰でもない「自分自身」を振り返る時間を通じて、思考を深め、互いにその豊かさを知る時間を過ごしましょう。

このイベントでは、流行の話題やその場しのぎの話題ではなく、話し手が自身の1年をじっくりと語り、聴き手がそれに耳を傾ける空間を大切にします。これまでにどんな出来事があり、どんな考えを持ったのか。語ることで、聴くことで、2024年の最後に少し特別な体験を共有してみませんか。

イベント詳細

  • 日時: 2024年12月28日(土)16:30~19:30(入室開始:16:15)
    ※延長の可能性もあるかも。
  • 場所: 府中市内レンタルスペース(京王線府中駅から徒歩10分以内)
    ※詳細は申込者に後日お知らせします。
  • 参加費: 500円+カンパ歓迎(スペース代ほかに充てさせていただきます。)
  • 定員: 8名

参加方法

事前申し込み制です。以下のGoogleフォームからお申し込みください:
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScHx5gk0geWzoVu22_NS4DitfWTJzIPNbMO3fkjF63vFA_8Kw/viewform?usp=sf_link

※主催者(武藤)に直接DM等していただいても結構です。その場合は申込フォーム記載の同意事項に同意いただいたものとして対応いたします。

発表方法

  • 所要時間の目安はひとりあたり30分を想定しています。希望があれば延ばします。
  • 一方的に発表するのではなく、随時聴き手がコメントを挟んだり質問を入れたりしながら進めるので30分のネタをつくりこむ必要はありません。
  • 発表形式は自由です(スライド、写真、レジュメなどのご用意を推奨しますが口頭のみでも可です。気楽にご参加を。)
  • 投影が必要な場合、HDMI対応のモニターを利用可能です。PCの持ち込みも可能ですが、事前にデータを送付いただければ主催者のPCでの対応も可能です。
  • 主催者のPCから投影したい資料や画像がある場合は、事前にデータのご提出をお願いします。

発表内容例

  • 月ごとの出来事を振り返りながら紹介
    1年間の生活を順を追って振り返り、トピックを整理。
  • ランキング形式での振り返り
    印象深い出来事をベスト3やトップ10で発表。
  • 写真を使った旅行記や思い出の共有
    旅行先での出来事や写真をもとに、その背景やエピソードを語る。
  • 今年の労働事情と苦労話
    職場や仕事で直面した課題、困難を振り返り、経験を共有。
  • 今年挑戦してみたこと
    新たに試みたことや挑戦した分野、そこで得た成長や気づきを語る。
  • 創作や成果物の紹介
    制作・創作した作品や新たに取り組んだプロジェクトを披露。
  • SNSでの投稿をセルフ解説
    自分が今年SNSに投稿した内容を取り上げ、その背景や意図を語る。
  • 印象に残った対話や出来事
    忘れられない会話や面白い人物との出会い、そこで起きた出来事を語る。
  • 今年楽しんだものや熱中したものの紹介
    感情に豊かさを与えてくれたアイテム、習慣、本や映画などを語る。
  • 今年考え続けたテーマやアイデア
    1年を通じて自分の中で温めてきた思考やテーマを深掘り。
  • 今年を象徴するキーワードや1枚の写真
    自分にとって2024年を象徴する言葉や画像を選び、それに基づいて語る。
  • 「何もなかった」という1年を考察
    何も起こらなかった理由や、それが意味するものを掘り下げて発表。
  • 自由形式の提案
    ご自身の関心に基づいた内容であれば、独自の形式・内容で発表していただいて構いません。
  • 簡単な自己紹介
    発表の冒頭で、自己紹介をお願いします。

イベントの趣旨

この報告会では、以下のような価値を提供することを目指しています:

  • 自分自身の一年を振り返る機会
  • まとまった時間を使って、深い思考を引き出す場
  • 他者の人生や考えにじっくり耳を傾け、理解を深める時間

フォーマルな形式の中にも、カジュアルで温かい語り合いの雰囲気を大切にします。

参加者一人ひとりが語る「2024年のアーカイブ」は、この場にしかない特別な体験となります。
ぜひあなたの1年の物語を共有しに来てください!

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【告知】「ラブレターについて語らう茶話会」を開催します

参加申込みはこちらから

2024年10月19日に「ラブレターについて語らう茶話会」を開催します。なぜラブレター?と思うかもしれません。わたしはおもいます。わたし自身のラブレターに対する関心が高まっているからこうした場を準備しているのですが、どうしてラブレターに惹かれているのかわかっていません。しかしわかっていないからこそいろんなひとを交えてお話しする機会をつくりたいとおもった次第です。
愛を書こうとすること、愛を書いて伝えようとすること、書かれた愛を受け取ること、書かれた愛を受け取ってしまうこと、あるいは他人に宛てられた愛を誤って受け取ってしまうこと……テキストに重きがおかれた二者関係においてどのようなコミュニケーションが生成されるのか。もしくはそのような二者関係がいまどのような状況におかれているのか。そんなぼんやりとしたあれやこれやを念頭におきつつ「ラブレター」から連想したことを話し合いながら、ほがらかとお茶をすする会になればよいなとおもいます。

趣旨:
いろんなひとで集まって「ラブレター」をテーマ・きっかけに雑談をする場です。ラブレターにまつわる体験、ラブレターについて考えていること、「ラブレター」から連想すること、「ラブレター」を扱った文化作品等々、言葉をつないであちらこちらに話題を展開させながらラブレターについての思索・見解を深めましょう!

日時:
2024年10月19日(土)
15時30分から18時00分まで(入室開始は15時00分から)

場所:
府中市内貸し会議室
(京王線府中駅から徒歩1分 ※申込者にのみ詳細をお伝えいたします。)

参加費:
500円
(スペース代に充てさせていただきます。)

定員:
8名
(どうにか4〜6名くらい集まってほしい!あなたのご参加をお待ちしてます!)

お申し込み:
Googleフォームからご登録ください。

当日タイムスケジュール(予定):
15:30 アイスブレイク(なんかしら用意します)
15:45 イントロダクション(急にラブレターについて話そうぜとってもむずかしそうなので導入の仕組みをなんかしら用意します)
15:55 ディスカッション開始(みんなでいい感じに話します)
18:00 ディスカッション終了→お片づけ
18:30 完全撤収
19:00 懇親会(参加は任意。適当な居酒屋に流れ込みます)

その他:

  • 会場は飲食可なのでお茶とかお茶菓子とか用意します。持ち込み歓迎。ただしアルコールは厳禁です。
  • お申し込みに際していただいた個人情報は本会の実施に際してのみ利用いたします。
  • メールアドレスや本名の申請に抵抗がある方はSNSのDM等から参加希望をお知らせください。
  • 本会で発された言動は、今後「ラブレター研究会(仮)」の活動において何らかの参考にされる可能性があります。
  • 茶話会終了後に近くの居酒屋で懇親会をやりたいのでお時間ある方はなにとぞ。

主催:
ラブレター研究会(仮) 担当:武藤
※お問い合わせは以下のいずれかからお願いします。
mail: azuki7.08あっとgmail.com
twitter
instagram

【追記:なんとなくブレスト】
日記241001
日記241002
宣伝ツイート

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2 Comments

からだの輪郭──孤独な散歩者の行く末

どうしようと思ったときには心はいつもどうしようもなく
足りないということはかつて満ち足りていたものがあったという証左にほかならないのだが
いつも不在だけがその人の輪郭をかたどるように
いま私が手にしているものなど何もない

映画『おとぎ話みたい』(山戸結希監督)から筆者による書き起こし

 かつて本をつくりました。『孤独な散歩者たちの夢想』と名づけました。本のつくりかたなんてわからなかったのでツイッターを介して協力を募りました。なんとなく見知ったひとやネット上でのみ存在を把握しているほぼ見知らぬひとなどがあつまり、ろくに本など読まずに20代そこそこまで過ごしてきた人間のひょんな思いつきによる制作物にしてはなかなかおもしろいのではと思えるものができあがりました。むろん、その成果はわたしの力によるものではなく、制作に協力してくれたデザイナーや参加してくれた寄稿者の方々のおかげであることは言うまでもありません。

 この『孤独な散歩者たちの夢想』という本のあとがきでわたしはつぎのように書きました。

 瞬間的でしかありえない私が有する偶然を足がかりに、何度となく私(たち)を部分的に死へと置き去りにする。切断された形跡が何重にも交差する地平で、同時に映写された複数のイメージに足を踏み入れる、多重化した主体を形成していく。そうした営みを成熟させていく場所を、技術を、策略を、方法論を、まだ持ちえていない段階において、まず取り組むべきだったこととして本誌を位置づけたい。
 本という物体によって顕在化した理念性。外在化した私。世界に現れたこの新たな結節点に働きかけ(られ)ながら、わたしたちはネットワークをさらに拡充していくことができるはず。根拠なきわずかな希望を頼りに、制作の過程に生じたいくつもの連関を、制作物が引き継ぐ連関の広がりを、いつまでもどこまでも願いつづけてみようと思う。そして、脈々と拡張するその過程に、重厚な厚みを維持したままのわたしを埋め込む手立てを、しばしの間、もがきながら探ってみることにしよう。

むぅむぅ「あとがき」(『孤独な散歩者たちの夢想』)

 恥を忍びながらに威勢よくじたばたしてみたところまではよかったけれど、宣言したとおりにその後ももがきつづけているかと問われるならば苦笑いを浮かべるのがせいいっぱい。いや正直に述べれば、この3年近くはなんとなくの生活に馴化して、波風が立たないように身のまわりだけは平凡に均しながら日々をひっそりやりすごしてきたように思います。
 それもひとつの生き方でしょう。けれど、本棚に目をやると時折くだんの本が目について、ついつい手にとり卒業アルバムをめくるみたいな気分で読みふけってしまうのです。するとそこには上記のような威勢のよい死体が転がっているものですから、死の積みかさねを放棄したみずからの生がみっともなさをともなってぐわんと立ちあらわれてきては、均したはずの生活にまた波を立てられてしまうようなそわそわ感が全身を走りまわります。
 そわそわをふりはらうかのように、このときのわたしはどこに向かって何を意気込んでいたのだろうと考えてみたりもします。
 たとえばそんなに意気込んでいたのならまた本をつくろうとすることだってできたはずです。じっさい『孤独な散歩者たちの夢想』はわたしが企画した2作目の本で、本のつくりかたなんてわからないと泣きごとをいえる季節はもう過ぎた。けれどさてつぎはどんな本をつくろうかとはならなかった。むしろ当時のわたしは、たとえこれをこのままつづけたとしてもみずからの満足には到達できないだろうとすら考えていたはずです。

 みょうにカッコをつけて無意味に観念的に書かれたあとがきですが、上記の引用文はひとことでいえば、あるていどまとまった量の文章を読み書きすることはおしゃべりをすることとは異なる性質のコミュニケーションとなるはずだ、と要約が可能です。そしてそのあるていどまとまった量の文章の交換によるコミュニケーションは世界から消えかかっている、少なくともじぶんのまわりにはない、このままではわたしがおもしろくないではないか!と主張したかったわけです。この主張があとがきという場面で記されていることは、こうしたわたしの欲望は当時の制作過程では満たされることがなく、また刊行後も満たされることはないだろうと予感していた点をあきらかにしています。
 冒頭で記した制作経緯のとおり、この本の制作はほとんど見知らぬひとたちが突発的にあつまって行われた営みです。しかも文を読み書きする行為は基本的にはひとりで行うものですから、各自の作業は各自の範囲でのみ行われ、本としてまとめられるある段階でのみ集合し、本がそれぞれの手元に渡ったその瞬間に集団は解散され各自は散り散りになっていく。いっときのお祭りをたのしみたいだけだったらそれでも満足していたことでしょう。平凡なまいにちのちょっとした刺激として、ストレスフルな労働環境からの逃避先としてこの遊びをとらえるのであればじゅうぶんに効果を発揮していたことでしょう。ただ、お祭りを立ち上げていっときの盛りあがりを生んだとしても、携わったひとたちの生活それじたいが変わることはありません。元来はお祭りも町内で準備をする営みが日々の労働とはべつの層をなして生活に食い込んでいたのかもしれませんが、いまとなっては非日常に身をさらしては手軽に興奮や快楽を得るための装置としての側面ばかりを強調するのがものの例えとしての「お祭り的」というものです。

 おしゃべりをすることとあるていどまとまった量の文章を読み書きすることとではコミュニケーションの性質が異なるはずだと直観したおおきな理由は、時間性のちがいという単純なものによります。一方でおしゃべりはその場で成されてその場で消える、他方で読み書きは行為に時間がかかるし書いたものものこりつづける。ではお祭りはどうでしょう。地元のひとたちにとって地元のお祭りは毎年つづくものであり1年にいちどの本番に向けた準備の営みは持続的ですが、お祭りを求めて外からやってくるお客さんはそのお祭りをその場かぎりのたのしみとして消費してはまたもとの日常にもどっていきます。むろん、外からやってくるお客さんがいなければお祭りはつづきませんが、わたしが複数名との本づくりを通じて試みたかったのはみょうちくりんだけど持続的なお祭り運営であって、労働とはべつのかたちで生活に横たわる制作の営みだったのでした。

 結論として、孤独な散歩者たちはその孤独な道中でさほど交差をしなかった、といえるでしょう。それゆえ孤独であるのだから、書名の時点で答えは出ていたわけですが。

 わたしはみずからの本の制作における意図と実態の乖離の原因のひとつとして自身の文字への過大評価という点を考えています。音声中心主義への抵抗としてエクリチュールの思想を掲げるのもけっこうですが、文字に偏ろうとするがあまり文字と音声の共犯関係を無視してしまってはただの逆張りにしかなりません。つまりほとんどSNSから生じた原動力だけで行われた制作の営みとその成果物にはひとのからだが欠如していたのではないか。ここに大きな反省があるのです。
 そこでわたしは今年2023年に入ってから「文字は文字である以前にまず声であり、声はからだから発されるものである」ということを意識し、文字とからだを密着させられないかと試行錯誤するようになりました。また、2022年の夏ごろから体調がしゃっきりしない日が続いてどうにもならず2022年末に職を辞したということもあり、文字をつかって停滞したからだを再駆動させられないかということも思案していました。
 いまだに続けているこの試行錯誤のなかで特に時間を割いているのが詩の朗読やラップの練習です。エドガー・A・ポーやパウル・ツェラン、萩原朔太郎や田村隆一など本棚にあった著名な詩人の詩集をてきとうに手にとって同じ詩を連日音読しました。また不可思議/wonderboyというラッパーが好きだったのでそのひとのラップをまいにち真似しました。さいしょは言い淀みのあった音読が、繰り返し繰り返し読み上げるなかで声の力点の置きどころがわかるようになり、言葉に口がついていけるようになり、2週間もすればすっかり暗記してしまいページを見ずとも一編の詩を朗読できるようになる。書かれた文字を読み上げるだけの行為から、ピアノを弾けるようになったり100メートル走のベストタイムをとつじょ大幅に更新したりといった例にみられる意識してもできなかった行為が無意識にできるようになっていく過程と近しいものを感じました。ピアノは高価だし置く場所もない、置けたとて近所迷惑になるから鳴らせない、じゃあ走る練習でもしようかと外へ出ても全力ダッシュが許される場所といったらみぢかには市営の陸上競技場くらいしかない。こうした環境の制約がわたしのからだをちぢませる。わたしのからだを硬直させる。わたしのからだに限界をあたえる。だけど文字はそこらじゅうに散らばっていて、わたしは文字を手繰ってからだに働きかけることができる。ちぢまったからだをまた押し拡げることができる。詩の朗読やラップの練習を経てその実感をつよくしたいま、文字はひとを自由にするのでは、とそんなことすら思えてきます。

 他人が書いたテキストをわたしの声が再生する。はじめのころは発声行為に異和を覚える。それでも再生を繰り返すうちにわたしのからだがテキストになじんでいき、いつのまにかテキストの輪郭にわたしのからだはおさまってしまう。言葉がまず声であり声がからだから発されるものであるとするならば、それが文字であろうと声であろうと誰かと言葉を交わすことはからだを交わすことでもあり、じゅうぶんな肉体接触のあとではからだの変化は避けられない。
 たとえばわたしはさきの本に載せた「孤独な散歩者たちの夢想 序説」という文章でつぎのように書いています。

あなたはあなたの境界を見失い、いくつもの文字列に取り込まれ、あなたでない誰かと一時的な同化を果たしたのちに、あなたへ回帰する。

むぅむぅ「孤独な散歩者たちの夢想 序説」

 ひとはみずからのからだを単位として他者との境界をつくる。けれどわたしたちのからだは周囲から独立した自由なものとしてあるのではなく環境からの働きかけに押し出されるように言動や振る舞いを選択する。であるからこそワンルームのアパートではピアノを弾くなんてことはできない。同様にひととひとのコミュニケーションは周囲の環境をも含めたわたしたちの働きかけあいのなかで生じる。それ以前の積み上げを抱えるわたしとまた異なる積み上げを抱えるあなたが互いを押し合いへし合いすることで抱えている積み上げの構成が組みかえられる。あなたとの同期以前と以後とではわたしの姿がわずかなりとも変わってしまう。それが言葉を交わすということである。
 この意味で、ひとは未完の草稿のようなものだと思います。他のテキストを参照しながら書かれたあるテキストは、何名ものひとに読まれ、それぞれ異なる解釈をされ、そのさまざまな解釈は新たに紙面に書き込まれる。新たな書き込みによってすでに書かれていたテキストの文脈は変わり、意味合いは変わり、書き直すことになる。その過程で参照テキストは増える。書きなおしを経たテキストはまた誰かに読まれる。この終わらない書きなおしの過程がひとが関わるということであり、ひとが生きるということなのではないか。

 さて、10月28日に行う予定の集会「からだの輪郭を引きなおす──生きること、模倣すること」では上記したような制作行為(ひいてはコミュニケーション)のありようについて検討していく予定です。また検討のための素材として、今年から取り組みはじめた詩の朗読やラップの練習を中心にわたし自身の経歴を題材としてみていきます。
 第一部ではおおげさな自己紹介という導入を経て、足場となりそうな理論の模索として東浩紀『訂正可能性の哲学』を出発点にウィトゲンシュタインやハンナ・アーレントが提唱した概念を確認します。また表現の分野からアントナン・アルトーを参照して手がかりをさぐります。
 第二部ではわたしの関心から山戸結希、吉増剛造、円城塔といったジャンルもバラバラの作家を取り上げて各作家や作品の性質を実例として挙げながら制作の方法論になりえそうな要素を抽出します。
 さいごにこの数ヶ月にわたる詩の朗読やラップの練習を経た実感をお話しします。
 これらのプレゼンのまえにはプレパフォーマンスとしてじっさいにラップの上演を行う予定です。

 基本的にはわたしがいつか誰かに話したかったけど話す機会もなければ誰も興味をもたなそうだしそもそもじぶんのなかでの詰めもあまいからとずっと胸のうちで抱えていたことをわたしが思うがままに話す場となります。上記した固有名詞もたんに好みから選ばれているだけでまったく脈略がなく、なんの歴史も背負っていません。もしかすると全編通しておおげさな自己紹介の域を超えることもないでしょう。けれどひとが全力で自己紹介をしたらきっとおもしろいはず、というむじゃきな期待を頼りにいろいろ準備に励んでいます。
 あるいはこれは、けっきょくひとりで抱えていても議論は進展しないし新たな回路も開かれないし、というか頭もわるくてろくに学もなければ複雑なことなんてとうてい考えられないわたしでは手にあまることは目に見えているのだからともに考えてくれるひとを頼りたい!という助けを求める叫びのようなものなのかもしれません。
 いずれにせよ、こういう機会があってもよいとおもえるかたや、こういう機会をおもしろがってくれるかたは、ぜひぜひお気軽にご参加いただけますとうれしいかぎりです。困ったことにひとが集まらないと開催できません。どうぞよろしくお願いいたします。

【タイトル】
からだの輪郭を引きなおす──生きること、模倣すること

【開催日】
10月28日(土)14:30〜17:00(終演時刻は予定。開場は14:00から)

【会場】
ジェリージャムスタジオ
東京都府中市美好町3-10-42
JR南武線/京王線 分倍河原駅から徒歩4分

【料金】
入場時に資料代として500円をお支払いいただきます。
※プレパフォーマンスのみご観覧の場合は無料です。

【進行予定】
14:00 開場
14:30 プレパフォーマンス
15:00 休憩
15:10 本編開演:プレゼンテーション
16:10 ディスカッション
17:00 終演

【申込方法】
以下のフォームからご申請いただくか、またはSNSのDMにて参加希望の旨をご連絡ください。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSf6iLd00lpiU8LUxiNFFZ7sK2H_oOVE_ofJhxVw3Bx2pOmisg/viewform?usp=sf_link
※プレパフォーマンスのみ観覧希望の場合はその旨をお知らせください。

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【告知】「からだの輪郭を引きなおす──生きること、模倣すること」を開催します。

 ことしに入ってからほぼまいにちのようにラップ(というかポエトリーリーディングとかスポークンワーズとかまあ詩の朗読の類い)の練習(というかたんに人真似)をしているのですが、そろそろひとりで黙々と練習することに行き詰まりを感じはじめてきたので、ためしに人目に晒すべく謎の会を企画します。
 30分ほどのプレパフォーマンス(所詮は人真似であり権利的にもにょもにょしているので「プレ」扱いです)のあと、なぜラップの練習をはじめたのかやラップの練習をしながら考えたことなどをスライドを利用しながら発表します。
 その後ディスカッションの時間を設けますので、参加者の方からいろいろご意見など伺えればと思っております。さまざまなご指摘を頂戴して迷える人生の方針を定めたい所存です。
 お察しのとおり全面的に主催者が己の圧倒的満足を目指す会。でもちゃんとおもてなしもがんばります。奮ってご参加ください。まじで最低3人は集まってほしい。
 あと「さいきんおれが考えていることを一方的に発表する会」をいろんなひとにやってもらいたいので皆さんもぜひこういう謎の会を企画してください。

【概要】
ラップや詩の朗読みたいなことをしたり、さいきん考えていることを発表したりします。
己を他人にさらけだし、ひとびとから意見を頂戴しながらみずからの今後の身の振りようを検討していきたいという目論み。

※追記:事前テキストを書きました。
からだの輪郭──孤独な散歩者の行く末

【開催日】
10月28日(土)14:30〜17:00(終演時刻は予定。開場は14:00から)

【会場】
ジェリージャムスタジオ
東京都府中市美好町3-10-42
JR南武線/京王線 分倍河原駅から徒歩4分

【料金】
入場時に資料代として500円をお支払いいただきます。
※プレパフォーマンスのみご観覧の場合は無料です。

【進行予定】
14:00 開場
14:30 プレパフォーマンス(※1)
15:00 休憩
15:10 本編開演:プレゼンテーション(※2)
16:10 ディスカッション
17:00 終演

※1 こういうやつです。2年くらいまえのやつなのでこのときよりはうまくなってます。
※2 たぶんこれあれとそう遠くない話にはなるかと思います。

【お申し込み】
申込フォーム
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSf6iLd00lpiU8LUxiNFFZ7sK2H_oOVE_ofJhxVw3Bx2pOmisg/viewform?usp=sf_link
※参加者把握のためメールアドレスとお名前の入力をお願いしております。個人情報を渡したくないという方はお手数ですがSNSのDMから参加希望の旨をご連絡ください。
※プレパフォーマンスのみ観覧希望の場合はその旨をお知らせください。

【備考】

  • お申し込みに際していただいた個人情報は本会の実施に際してのみ利用いたします。
  • お申し込みをキャンセルされる場合には、下記連絡先またはSNS等の手段により主催者まで必ずご一報いただきますようお願いいたします。

【主催】
武藤 尚也
(連絡先:azuki7.08あっとgmail.com)

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Driving Our Kafka──言葉の交換に関するいくつかの思案(フランツ・カフカ『ミレナへの手紙』読書会アフターテキスト)

◆特典

PDF版
(本記事の全文を縦書きで組んだPDFです。セブンイレブンのネットプリントを利用して用紙サイズA4、冊子印刷→右開きを設定のうえ印刷していただくと16ページの小冊子としてお読みいただけます。印刷代は1部160円)

◆出演者

わたし 特権的な視点。漂流する。
参加者A 場の総体。1名あたりの参加費800円。

◆舞台設定

  1. 本テキストは2023年3月25日に行われたフランツ・カフカ『ミレナへの手紙』読書会後に書かれている。
  2. この物語はフィクションであるが、実在の人物および当該読書会との影響関係はかならずしも否定されない。
  3. 『ミレナへの手紙』(池内紀訳、白水社、2013年)からの引用テキストは太字で示される。
  4. 違和感は最大限尊重される。

手紙を書きつづけるために

わたし 2023年3月25日にフランツ・カフカ『ミレナへの手紙』(以下『ミレナ』)の読書会が行われました。その感想戦としてふりかえりをしながら、『ミレナ』の読解、もしくはただこの本を読んだという経験をいかにみずからの身体──生といってもよいのかもしれない──に働きかけられるかといったところまで検討していければと思います。
 ではまずはこの読書会以前のわたしがどのように読んで、どのように感じたかを導入として紹介しましょう。
 『ミレナ』は1920年の6月から1923年12月のあいだにカフカが(書簡開始以前には顔を合わせた機会はおそらくいちどだけである)ウィーン在住のミレナ・イェセンスカーという女性に宛てた手紙をまとめた本です。作家の書簡集といえばよくある資料のひとつにも思えますが、特筆すべき点がおおきくふたつあげられます。
 ひとつは残された手紙がカフカからミレナへ宛てたものだけであり、ミレナからカフカに宛てた手紙はすでに破棄されているという点です。そのため、1920年当時はカフカとミレナは恋人同士であったと考えられますが、ミレナがカフカに対してなにを思いなにを伝えたのかといった情報はいっさい明示されず、読者は一方的なラブレターをひたすら受けとりつづけることになる。
 そしてもうひとつの点は、本に収められた全134通のうち126通は1920年の4月から11月にかけての約8ヶ月のあいだに書かれたものだということです。もっといえば4月から9月の半年で116通が送られているのであって、急速かつ過剰にも思える感情の昂りを少なくない読者が感じることになるでしょう。この過熱ぶりは妄想じみているとすら思えるほどで、片側からの手紙しか読めない点と相まって、いったいなにを読んでいるのか、どこへ連れていかれるのか、といった不穏な影が読みについてまわることになる。現に読書会においても率直な感想として「読むのがつらかった」と述べたかたは何名かいらっしゃったように記憶しています。
 『ミレナ』に帯びるこうした性質は、この本を作家や作品を深掘りするための一資料にとどまらせず、(とりわけ個人的な関心に惹きつけてしまえば)書くこと・書きつづけること/書いてしまった者・書きつづけてしまった者/書かれてしまったこと・書きつづけられてしまったことの三者関係の終わらない循環をまざまざと見せつけてくるひとつの寓話に昇華させてすらいるでしょう。
 手紙を書き、送った手紙が届いたかどうかに慌て、こない返事を催促するようにまた手紙を書き、送った直後に受けとった手紙にさっそく返事を書く……と手紙から与えられる抑圧を敏感かつ過剰に感じていたカフカでしたが、しまいには手紙を書かなくなったあげく「いかにわたしが手紙を憎んでいるか」とまで書いてしまう。書いたことによって顕現したみずからの意識が書く以前からあったのか、それとも書くことによって立ちあらわれたのか、という不確かさの直視をやめられなかったカフカが陥ったのは極度の不安であり、書く行為によって都度自分が書き換えられてしまうという生成現象に耐えきれなくなったカフカは、私が私のまま私でありつづけられること──部屋にひとりで居つづけること──の平穏さを求め手紙を書くことから離れてしまう。この一連こそが『ミレナ』に通底する大きな主題であると、少なくともわたしはそのような方向で読み、この方向での整理の試みとして資料を作成したうえで読書会に臨みました。

生成状態の不安定性

わたし 配布資料については、「手紙」というキーワードからの安直な連想として東浩紀『存在論的、郵便的』がすぐにつながってくれることもあり、その他の著作含め東さんが提示する理論を基盤に整理を行いましたが、ここでは伊藤亜紗『手の倫理』を参照した箇所を確認したいと思います(図1)。

図1

わたし 『手の倫理』ではコミュニケーションの性質を「伝達モード」と「生成モード」に大きく分類しています。わたしたちは言葉を利用するときに、一方では意図されたメッセージを確実に相手に伝えようとする場面もあれば、他方ではメッセージの伝達をさほど重視せず言葉が円滑に交換されることのほうに重きをおこうとする場面もあります。そして後者の場合、メッセージはあらかじめ用意されているのではなく、会話の渦中で自然発生する偶然的なものです。わかりやすく前者を事務連絡、後者をおしゃべりとしてもよいでしょうが、かならずしも状況に応じて明確に性質が分かれているのではなく、そのときどきで両者の比重が変わるものとして考えられます。
 そしてカフカがミレナに書いた手紙の大部分には生成モードが働いているように感じられます。カフカはミレナへの思いが事前に用意された状態ではなく、手紙を書きながら思いに気づき、思いに気づきながら手紙を書いている。ただしその生成の場に生身のミレナは不在であり、あるのはカフカと手紙であって、手紙を書き続けるカフカのなかでは生身のミレナ以上に、不在によって自身のうちに象られたミレナの方がもっと現実的な存在として現れてくることになる。そしてこの過剰生成が不安の根底になってしまう。
 しかし、だからといって生成モードのコミュニケーションは危険なものかといえばそんなことはないはずです。むしろ一方的な指示・伝達は言い換えれば命令やしつけでもあり、場合によってはその強制性から暴力としても扱われます。生成モードは双方で生成状態に陥るためある意味中立であるともいえますが、権威に由来する伝達モードでは一方だけが変化を強いられることになる。こうしたある権威的な立場からの強制的コミュニケーションへの抵抗として、たとえば伊藤さんの身体論などがいま注目されている。
 こうした現代的な背景をもとにするならば、ではカフカはなぜ生成状態に不安を感じたのか、なぜ不安の果てにミレナとの交流を絶つことになってしまったのか、といった疑問も生じてきます。いまわたしたちが関与者の相互関係を尊重したコミュニケーションをめざすうえで、どうすればカフカが踏んだ轍をとおらずにすむかということですね。
参加者A そもそも手紙が生成モードとして機能する点に驚きを感じます。『ミレナ』を読んで思ったことのひとつに手紙ってこんなに自由に書いていいんだっていうのがあって、手紙は近況報告を書くものだと自分が思い込んでいたことに気づかされました。
 前提として文を書く行為自体、何かの規範に則るということでもあり、論文を書くときはこう、事務文書を書くときはこう……といった領域ごとの了解事項を踏まえなければそもそも読んでもらえるかどうかも怪しくなってしまう。段落最初の一字下げに疑問を呈してもしょうがないし、より極端に言えば、日本語話者と英語話者がそれぞれの言語で会話をしても意思疎通はむずかしい。関与者間の共通のお約束(おなじ言語体系を用いる)のうえでコミュニケーションは成立する。だから自分独自の言語は言語とはいえず、その意味で言語はつねに規範的である。
 これは私的なテキストであっても同様でたとえば日記。『眼がスクリーンになるとき』というドゥルーズの解題書でも知られる福尾匠さんという方がいるのですが、福尾さんはあるとき自身の個人サイトを開設して、以降毎日欠かさず日記を書き、サイトに書いた一年ぶんの日記を本にして自主出版されています。この研究者や批評家といった肩書きでは括りきれない一風変わった活動に注目が集まり、たまに日記関連のイベントに出演もしていて、あるトークイベントでは「日記とは自分の行為の規則や論理に自分を晒していくテキスト」なのだと話されていました。1日1日を区切るという考え方が既に規律であることはもちろん、その日のうちにその日のことを書くとか、何もない日であっても「何もなかった」とは書かないとか、日記を書き続けるうちに自分ルールがどんどんできあがっていく。べつに嘘のできごとを書いたっていいはずなのにそうはしない。つまらなくてもなんでもいいはずなのになんでもいいとは思えない。こうして自分で自分を縛りながら、自らに課す規範というある種の超自我と自分の影響関係を確認する側面が日記にはある。
 手紙にも手紙という形式から与えられる規範的なものはきっとあって、その代表的な要素が「近況報告」として言い表せるものだと思う。新海誠監督の『秒速5センチメートル』とかそんな感じですよね。「拝啓 貴樹くんへ、いまこちらではこんなことになっていて、それはこんなことがあったからで、それでこんなことを思っています。あなたはどうですか」みたいな流れが基本のフォーマットとしてある。
 『ミレナ』も大きく見れば同様の流れではあるんだけど、自分が書いた内容への注釈で手紙が続いたり、手紙をいま書いていることについて書いたり、自己言及的な記述がやけに目立つ。これは近況報告というより現況報告ですよね(笑)。
 「ぼくの手紙は苦しめて混乱させるだけ。手紙できみを苛立たせているだけじゃないか。しかし、正しかったところで、それが何なんだ? 手紙が届くと、ぼくはいつも正しくて天地を手にしている。手紙が来ないと、正しくもなく、命もなく、要するに何もない。そうだ、ウィーンへ行きたい!」とか、このひとはいったい誰に向かって何を話しているんだろうみたいな。こちらのことちゃんと見てる?と思ってしまいます。最初の手紙は天気のことを書いたりしているんですけどね。表現もいちいち抽象的というか、小説じゃんみたいな箇所が多くて、やはり伝達に重きが置かれているとは思えない。
わたし たしかに「現実のミレナに書くためのちょっとした暇もなし。さらにもっと現実的なミレナが、一日中ここにいます。部屋にも、バルコニーにも、雲の中にも」とあるように、カフカにとってウィーンに実在するミレナはもはや重要ではなく、手紙を書く過程で得た内なるミレナのほうが重視されているようすがたびたび見受けられます。「きみといっしょに少し散歩してきたところだ」とか。書くことでミレナが内面化されて、いないはずのミレナがそこに見えている。
参加者A まあわたしたちも存在しないわけですが(笑)。
わたし それは言わない約束ですよ。わたしがわたしにわたしとして読まれることもきっとあるはずですから。

テキストを介したまぐわい

参加者A ところで恋愛は片思い中がいちばんたのしいって話ありますよね。カフカの自家中毒ともいえる状態は、一見するとそういう思春期のウブな恋愛的なものに見えなくもないわけですが、やはりどこまでいってもミレナ自身が不在であるという点は気になります。書簡を交わした期間も何度か二人が会っていることはたしかで、その描写も手紙のなかにあるのですが、前傾化しているのは手紙を書くことでミレナと戯れているカフカの虚妄的世界ですよね。
わたし そうですね。わたしが『ミレナ』で特に気に入っている、もっとも官能的だと感じた箇所を引用します。
君は書いている。「ええ、あなたの言うとおり。あの人は好きだけど、でもFもまた、あなたも大好き[チェコ語]」。──一語一語しっかり読んだ。とくに「また」のところに目を据えていた。すべてそのとおり。そのとおりでなければ、きみはミレナではないし、きみがいなければ、ぼくは一体何だろう。きみがプラハで口にするよりウィーンから書くほうが、はるかにいい。すっかり全部よくわかる。きみ以上によくわかっているかもしれない。ただある弱さから、この言葉を終わりにできず、とめどなく読み返して、ここにまた書き写すわけだ。きみが自分でも読んで、いっしょに読めるように。額と額を合わせ(きみの髪が、ぼくの額にあるように)
 ここではミレナからの手紙に書かれていたセンテンスを、ミレナ宛ての手紙にカフカが(ミレナが用いたチェコ語のまま)書き写しています。つまりミレナは言葉をカフカに宛て・ミレナの言葉を何度も読んだカフカが・ミレナの言葉を書き写してミレナに送り・カフカの筆記によるミレナの言葉をミレナが読むという両者の交差が図られ、これが離れたふたりでおなじ文をいっしょに読むことになるのだとされている。便宜的に引用しているのではなく、相手への同一化を企図する行為として相手の言語で忠実に引用するという意識的な態度から、ある意味テキストを用いたまぐわいが試みられているようにも感じられます。愛情表現のひとつに口づけがあることを思えば、相手の言葉(声)をなぞって口にすることがすでにくちびるを交わすことの発展系のようでもあり、主な交流が手紙だったカフカの場合には接触の欲望が言葉のトレースというかたちであらわれた。
参加者A 性的欲望や接触の欲望にかぎらず、たとえば複数人で行うダンスを見たときにそこで生じているであろうコミュニケーションの一端を感じるということはあります。息を合わせるという慣用句があるように、演者同士がたがいを推しはかりながら身体のリズムをつくる。そのためにはあるていどの練習期間が必要でしょうし、その練習の過程で互いに身振りを調整し波長を合わせているのだと思うと、ダンスは生成モードと言えそうですね。ダンスの経験がないので実際のところは分かりませんが。
わたし まさに伊藤亜紗さんが注目するのはその身体の可塑性なのだと思います。個人の身体は確固たるものではなく、関係性のなかで柔軟に調整が図られる。むしろ個々人の身体的条件は異なるのだから都度調整が必要になるはず。にもかかわらず、わたしたちはおなじような身体的条件のひとに対して、おなじ条件であると無意識に抽象化してしまう。もちろん差異に敏感だとコミュニケーションの負担は大きくなるでしょうし、日常的にはあるていど鈍感に差異を無視していく必要はある。というか往々にしてわたしたちは理解不可能な他人の言動をエラーとして処理しては、自らに理解可能なかたちへと勝手に補いながら他人を受け止めているはずですが、習慣化した鈍感をほぐす場面がなければないで他人を支配下におこうとする一方的なコミュニケーションしか取れなくなってしまう。
参加者A それでいくとカフカはかなり一方的ですよね。
わたし そうかもしれない(笑)。
参加者A 繰り返してしまいますがミレナの不在は気になってしまうんですよ。カフカは手紙と向き合うばかりでミレナと向き合えているのでしょうか。もちろんミレナからの手紙がないという本の特徴がミレナの不在感をいっそう高めてしまってはいるのですが、カフカの文章を見てもあまりに内省的で、これを受け取ったひとは何を返事とすればいいのだろうと疑問に思います。
 たとえばいま引用によるまぐわいという話がありましたが、ところどころにチェコ語で書いている箇所がありますよね。このチェコ語の利用がミレナへの距離の近さを示すためだとすればけっこうキショい感じがします。ここはきみへのメッセージだよ感の演出が個人的にはキツいですね。
わたし まあさきの理解でいくとテキスト上での性交を見せつけられているようなものですから、本の読み手が冷めてしまうのも仕方ないのかもしれない……。
参加者A それと8月8日の手紙に奇妙な注釈があって、「ミレナの筆跡と瓜二つの手紙が何人かの人に送られていた」と書かれているんですよ。これってカフカがミレナの筆跡を模写して誰かに手紙を送ってたってことですか? だとしたらいくらなんでも自分の世界に没入しすぎで、まるでミレナ自身のことを考えてなかったんだなという気がします。
わたし さきほどの書き写すことによるまぐわいが書かれていたのは7月14日の手紙ですから、そこから何週間かでさらに暴走してミレナの手紙を完コピ(偽装)してしまうというのはある意味筋は通ってますね。しかもそれを誰かに送りつけてしまう。カフカにとってのもっと現実的なミレナはカフカのそばにいて、もっと現実的なミレナを身体に憑依させながら書いた手紙はやはりカフカにとってはれっきとしたミレナが書いた手紙なのだから、その手紙は誰かに届けなければならない。そう考えると自分的には頷ける話で理にかなってるとは思います。というか、わたしは好きなひとの手紙完コピをやりかねないタイプですね(笑)。
参加者A 迷惑なのでぜったいやらないほうがいいですよ。迷惑なので。
わたし はい、すみません……。
参加者A 冒頭で『ミレナ』を読むときに感じてしまうつらさという話がありましたが、カフカが不安に陥り抜け出せなくなる様子に対して感じる不安がある一方で、この虚妄的な手紙がミレナに事実渡されたものでありながら本にはミレナがあらわれないことに対する読者としてのうしろめたさもあると感じます。
わたし なるほど。『ミレナ 記事と手紙』という本で編訳者の松下たえ子さんは、一般にカフカが自ら処分したであろうと思われているミレナからの「フランクへの手紙」はある時期までカフカの両親のもとに残っていて、しかしマックス・ブロートやヴィリー・ハースがミレナに関心を持たなかったために保存が叶わなかったのだという主張があることを紹介しています。そしてブロートらがミレナに関心を抱かなかった背景として、男性作家の恋人に恋人という以上の意味を見なかった当時の文壇の伝統があるだろうとしている。
 ミレナが軽視されていたという傾向は手紙の保存にかぎる話ではありません。1937年にブロートが書いたカフカの評伝の初版にはミレナへの言及はなかったそうです。しかし1954年に出た改訂版ではミレナの紹介が追加された。この間に何があったかというと、ブーバー゠ノイマン『スターリンとヒットラーの軛のもとで』(1949年)の出版です。この本でミレナが広く知られたことによりブロートはミレナの偉大さをようやく知ることになる。
参加者A ハースが『ミレナ』の出版準備を開始したのも1949年なので、ミレナの知名度上昇を追いかけてということなんですかね。幸せで、感謝いっぱい、なんてことは言えない。いずれにしても、『ミレナ』という本の出版経緯や構成には時代的な偏りが強く織り込まれていて、そのために異質な本になっているという側面がありながら、同時に読むわたしたちに課題を突きつけるようなものにもなってしまっているということですね。
わたし そうですね。ではここからは『ミレナ』を足場にわたしたちが望むことができる地平について考えていきたいと思います。本を読むという経験と読んだ本について話し合うという経験をその場その瞬間かぎりの悦楽に浸るだけで終わらせるのではなく、いかに持続的な営みとしていけるかその方法の芽を探っていきましょう。
参加者A 『ミレナ』という振り付けのもとでどんなダンスを踊れるかということですね。戯曲と上演と言い換えてもいい。

安全な事故を起こすための運転技術

わたし いきなりカフカから遠く離れてしまうのですが、わたしが読書会を終えてから思い出したのは濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』でした。というのも、『ミレナ』にみられた言葉を媒介におこなう(性的にすら感じられる)他者への接触というモチーフとの類似が『ドライブ・マイ・カー』でも頻出しているように思ったからです。
 『ドライブ・マイ・カー』の序盤は舞台俳優兼演出家・家福悠介(以下「家福」)とテレビドラマの脚本家・家福音(以下「音」)の夫妻がメインの話として進みますが、開始冒頭、音の奇妙な脚本制作方法が明かされるところからお話は始まる。ふたりのセックスの最中、音は何者かが憑依したかのような状態に陥り、無意識下である物語を語りはじめる。音自身は話した内容を覚えてなく、それを聞き取った家福が後日音に物語の内容を伝達し、教えられた内容を素材に音は脚本を書く。これが音の脚本制作であり、同時に夫婦の習慣でもあった。つまり音の無意識から生成される言葉は家福の声の経由なくしてテキスト(脚本)にはならない。この設定に言葉の受け渡しが身体接触の隠喩として働いていることが確認できます。
 その一方、演出家である家福は自らテキストを書くことはない。家福は演出家ですから、彼の仕事はあらかじめ用意された戯曲を役者に発言させることです。対比させるなら音は言葉を生成し、家福は言葉を複製する。音の脚本制作においても、家福は音の言葉を反復しているに過ぎません。
 また、家福にはもうひとつ習慣があります。家福は台本を暗記する際に、自分が演じる役の台詞部分を除いて音に朗読させた台本をカセットテープに録音し、愛車の運転中に再生しながらみずからの台詞の該当箇所を口にしていました。ここでも家福の習慣が録音した音声の再生によって成り立っていること、またオリジナルの位置に音の声があるということがわかります。あるいは「習慣」という言葉は作中で家福みずから発言するものですが、ある行為が習慣化することじたいがある行為の反復を意味している。
 そしてお話の序盤で音は急死する。音の急死、すなわちオリジナルを生成する存在の喪失は家福の習慣に新たな素材が供給されなくなることを意味し、新陳代謝は働かなくなる。新たな戯曲を覚えること、いわば身体の可塑性が働く機会を家福は失ってしまいます。過ぎ去るとわかっていたかって? 過ぎ去らないだろうとわかっていた。
参加者A ミレナ不在の状態に陥りながら手紙を書きつづけるカフカみたいですね。名前も似ているし。それにミレナがカフカの作品の翻訳者であったことを踏まえると、家福が音の無意識の言葉を音の意識に橋渡ししたこともまた翻訳的な性質にリンクするようでもあり、『ドライブ・マイ・カー』と『ミレナ』をつなげるのはさほど無理はないように思えてきます。もしかしたらそういう批評とかすでに書かれているのかも。
 家福という人物の特徴的な点は彼の演出方法にもあります。家福の舞台では母語を異にする役者が同時に複数名出演し、役者はそれぞれの母語で役を演じる。舞台の背後にはスクリーンが設置されていて、そこに複数の言語の翻訳が字幕として表示される。日本語話者が「おはようございます」と言えばスクリーンには「Good morning」と表示され、英語話者が「Good morning」と言えばスクリーンには「おはようございます」と表示される。これを例えば日本語と英語とロシア語と韓国語の4つの言語で行うみたいな感じの、かなり前衛的な劇を上演しています。
 これはまさに言葉の受け渡しの象徴としての「翻訳」があり、言葉を受け渡すことで言葉の意味には還元できない身体接触的な何かを表現しているように感じられます。それはたとえば濱口監督の『ハッピーアワー』でも見られていたことで、『ハッピーアワー』ではあるワークショップの一場面としてメインの登場人物らが他人のおなかに耳を当てて内臓の音を聞くというくだりがあります。言葉を介さない身体接触によるコミュニケーションをひとつのきっかけにメインの登場人物らの関係性は崩壊に近いまで揺れ動くことになるのですが、ある意味手紙との過剰接触で極度の不安に陥ったカフカのようでもあり、接触と生成の果てを見守るというのは濱口監督の作品にどこか通底する主題なのかもしれません。
わたし 『ドライブ・マイ・カー』では、音が脚本を担当するドラマの主演を務める役者・高槻が音の不倫を匂わす存在として登場しますが、音の不倫相手が音の書いた言葉を身体化する役者であるというのも示唆的です。こうした言葉と身体の関係性を頼りに、オリジナルの供給元を失い硬直した家福の身体はいかに柔軟さを取り戻しその姿を変形させるのか、より単純化すれば他者に向けていかにみずからを開いていくのか、という過程が『ドライブ・マイ・カー』のお話の軸にはある。
参加者A 音が急死したあと、お話の舞台は2年後の広島に移ります。突発のことで、いずれは過ぎていくし、一部は過ぎていった。
 広島でのお話は家福が演出する多国籍な舞台がどのようにつくられていくかという疑似ドキュメントのような雰囲気も帯びていますよね。劇中劇の制作過程とでもいうか。オーディションがあって、本読みをして、稽古をして、その過程で事件が起きて、という感じです。わたしはオーディションの場面で役者の方々のドアの開け閉めや椅子の座り方に文化的差異があらわれるのが好きでした。たぶんヒスパニック系の方だと思うんですが、そのひとは部屋を出るときドアを開けたら自分はすぐ退出せずに、まずうしろを歩く女性を先に出るよう促すエスコートの身振りが見られる。対照的に日本人である高槻は自分でドアを開けたらそのまま自分から退出する。日本にはレディーファースト的な文化や風習は根づいていませんからね。また、高槻は台湾人のジャニスと一緒に入室しますが、ジャニスが椅子の前に立ったらすぐに着席するのに対し、高槻には着席の指示を待つかのような間が見られる。高槻の着席指示待ちの姿勢からは、就職面接における面接官の許可を得てから座りましょうというお約束が思い出されます。
 言語が規範であるのと同じように、その国や地域ごとに共有される振る舞いの良し悪しが身振りを習慣化する。異なる地域で育ったひとが並んで同じ動作をするときにその差異は顕著となり、みずからのしたがっている規範に気づかされるということはありますよね。
わたし 家福が自分の車を他人に運転させたがらないことも、運転の身振りのちょっとした違いが気に食わないからでしょう。ましてや車はなかに身体ごと乗り込んで操作するものだから他の道具と比べても拡張的身体という感じがある。よくあるハンドルを握ると性格が変わるという話も身体が大きくなったと錯覚することで態度が横柄になるみたいなことなのだと思います。だから雇われドライバーのみさきが家福の車を運転することになって、はじめは拒絶していながらすぐにみさきの運転技術を認めることになった家福が、最終的にはみさきに向けて積年の心情を吐露することになったのも、運転技術という身体性の近さを感じたことがきっかけになっていると考えられる。ただし、みさきの運転技術は暴力によってしつけられた同乗者を阻害しないための技術であることが映画の後半で明かされるのですが。
参加者A 親の暴力的なしつけによって得られた身体性が家福との出会いによって肯定されるというのは、単純にハッピーなものではなく、素直に喜べない感じがありますよね。みさきが母から暴力を受けていたという過去は変わらないわけですし、その修得した技術の良し悪しとしつけの善し悪しはべつの問題としてある。ただこう言ってはなんですが、これもまた確率的複数性としか言いようがなく、ただそこには環境からの影響が色濃く残ってはあらわれてしまう身体の特性だけがある。
わたし であるからこそ、作中に手話の話者が登場するのだと思います。手話の性質を抽出するなら、発話者の身体と発話が密接である点に他言語と比較した際の特異性があるといえるでしょう。手話を用いる相手の話を聴くためには相手の身振りを見つめなくてはならない。ながら聞きはできない。見ることと話すこと、あるいは見ることと聞くことを切り離すことはできない。
 一方では無意識にあらわれる身体動作にはそのひとをとりまいた環境含めた過去の経験が蓄積されていて、他方ではあるていど意識的に話したり書いたりする言葉はいま現在にほとんど近いそのひとの表現としてあり、結局のところわたしたちが誰かと関わり合おうとするときにはこの両者が同時に交換されなくてはならないのかもしれない。だから見て話す、見て聞くということが原則に敷かれることになる。いつもくり返される誤解だ。いや、すごくふつうのことを言っていますが、わたし自身が極端にひとの目を見て話せないタイプなので耳の痛い話ではあります。
参加者A きみはたしかに表面は正しく理解しているとしても、ここには解ることと解らないこととがある。『ドライブ・マイ・カー』終盤の演劇シーンは、手話の話者であるユナが椅子に座る家福を背後から抱きかかえながらさいごの台詞を言って終幕する。このときユナと家福はおなじ方向を向いていて、家福はユナが手話で発話する台詞をユナの視点から聴く/視ることになる。つまり、たがいに向き合うことからおなじ方向を向くことへの移行をもって『ドライブ・マイ・カー』の終わりが近づくわけですが、ユナと家福がおなじ方向を向くのは劇中演劇のさなかですから、舞台上から正面を視るユナと家福は観客と向き合うことになる。だから途中に客席で観劇するみさきを真正面から撮ったカットが入る。向き合うこととおなじ方向を見ることの終わらない連続を見せられているようでもあります。
 カフカに話を戻せば、カフカは手紙を書いてばかりだったために自分の無意識とミレナを混同してしまったのではないかという気もしてきました。ほんらいならミレナから手紙が届いてその応答として新たに手紙を書いてまた外に送り出すはずですが、この代謝の原理がうまく働かず、なぜか手紙と書き手(カフカ)のあいだでだけ循環が起きてしまう。実際としてはカフカは届いた手紙をよく読んでいるはずなのでそうは言い切れないのですが、ただ自閉的な姿が印象としてどうしても拭えないのは、カフカがミレナからの手紙ではなくミレナへの手紙にミレナを見てしまっているから。現実のミレナともっと現実的なミレナという対比がされているということは先ほど確認しましたが、これは手紙を読むことよりも手紙を書くことに比重が傾いていたとも言い換えられる。カフカが向き合い、おなじ方向を見ようとしていたのは結局のところカフカ自身でしかなかったのではないでしょうか。するとぼくはいつも同じだし、いつも同じことをしている。
わたし カフカはあくまで書いてばかりいた、書くために読んでしまっていたという指摘ですね。『ドライブ・マイ・カー』でみられる演出の技法は感情を排した本読み(読むこと)の徹底にありましたが、作家のカフカと演出家の家福とでは読む・書くの態度が異なりますよね。その点、書くことで自分と鏡合わせのような状態だったのはやはり書く仕事をする音の方だった。この新しい、でも懐かしい自由のなかで、直視すべき対象をわたしたちはつい見誤ってしまいますが、ある言葉、ある身体、ある場面、ある状況等々にみられる複数の時間性の衝突がもたらす揺さぶりを誤魔化して見ないふりをするわけにはいかないのかもしれない。ほんとうだろうか? ほんとうなのか?
 全体が不可解になってしまうのでいったんここまでの話を整理してみましょう。
 『ドライブ・マイ・カー』で高槻は家福の舞台に参加するなかで、チェーホフのテキストがからだのなかに入ってくるそのときの気持ちをおおよそ、こんなふうに述べています。動かなくなった身体を動かしてくれる、チェーホフの本を演じることで知らなかった自分を発見できるのだと。ただ、チェーホフであろうとシェイクスピアであろうと、誰かの言葉を取り入れることで新たに発見したみずからに耽溺するあまり、その言葉に執着してしまってはまた身体は硬直してしまう。硬直した身体をもっていたのが家福でありカフカであるわけですが、両者に欠けていたのはからだのなかに入ってくる他者の存在であり、あるいは他者をからだのなかに受け入れる態勢であり、その不足を鑑賞者に気づかせる要素として「翻訳」があった。
 翻訳はある言語をある言語に受け渡す行為であり、もっと広義には、ある主体からある主体に言語を受け渡す行為であるともいえます。つまり他者に言葉を伝えるためにみずからをトランスフォームする。あるいは見方を変えれば、この変形の過程は知らない言語を用いる相手のことを知ろうとして相手の言語を覚えるという場合も同様に生じるでしょう。
 そしてこの変形に適応し、また変形を連続させることを示唆するものとして今度は「手話」がある。相手を見て聞く/見て話すことはたがいを知ろうとすることであり、たがいを知ろうとした先にはおなじ方向を見て聞く/見て話す段階への移行がある。その視線の先にはまた誰かがいて、あらたな誰かとの向き合いが発生する。
 『ドライブ・マイ・カー』から抽出可能なコミュニケーションと変容の過程を『ミレナ』に適用すると、カフカは手紙を書くことで自分と向き合う一方、読むことでミレナと向き合うことを軽視した。みずからとのみ向き合うカフカは孤独であり、孤独な変形の渦中で不安に陥る。遠くで何か動くだけでもうわめいている。いつしか手紙を拒むようになり、やはり閉じられたまま、手紙を書くことを放棄する、それがやむと、ぼくの終わりでもある。という解釈になりますね。
参加者A かなり強引ですが、今日はまだくわしく書けないし、大掴みの読解としてはまあまあじゃないでしょうか。べつの目で読み直してみるのはまた今度にしましょう。デリダの詩論を参照したくもありますが紙幅の限界もあるので。でも、言葉どおりにとらないこと。
わたし このテキストにわたしたちが登場しとびきりの先入観にとらわれたままのおしゃべりをさせられていること自体、生成・変形が意図されていることはあきらかで、かりに論理的で分析的な論考を書きたいとか、もしそうなら、ちがったふうに書くでしょう。一日中、窓の鎧戸を閉めきって、眠りと夢と不安にひたっていた人が夜に窓を開けたとき、むろん、驚いたりはせず、もう暗いこと、すばらしい深い闇であることを知っているように、まさにそのように。
参加者A 自己言及はしない約束ですよ。

愛とケアをめぐって

参加者A そういえば配布資料の終わりの方には愛とケアの対比がありましたがあれはどう繋がってくるんですか?(図2)

図2

わたし 高度に発達した純愛はストーカーと見分けがつかないとでもいいますか、愛が暴力に転じたり暴力を愛と思い違えたりすることってありますよね。『ミレナ』はある意味そういう側面もあるような気がしていて、だからミレナの不在を考慮におきたくもなるのだと思います。卑近にいえばカフカがミレナに書いた手紙は現代だったらネットに晒されるか週刊誌に売られるかしそうだよねという話でもあるのですが。
参加者A というかLINEだったら即ブロックでしょうね(笑)。怒涛の返事の催促が警報の鐘を聞いているようにふるえ出し、読むことができない。
わたし またカフカから離れてしまうのですが『君に届け』という漫画がありますよね。あれ個人的には好きになり、驚嘆し、誇りに思い、さらに共鳴するのですが、あれもまた時代の遺物というか、いわゆる「恋愛」的なものを素朴に受け入れられるほど2020年代を生きるわたしたちは単純ではないと思うんです。
 『君に届け』は第1話からもうきみに届いていることでお馴染みなのですが、にもかかわらずメインの主人公格である爽子と風早くんは揃いも揃って相手に対する好意を自分勝手な感情と判断してものすごく自制するんです。苦しみ、身をよじり、離れられないうじうじした関係がだらだらと続いて、親友キャラはぜったい二人とも好き合ってるじゃん、早く付き合いなよみたいな感じで見守る。8巻から9巻あたりで爽子と風早はおびえながらも近づいてようやく好意を伝えることになり、その決心の際に爽子の心情として「……もういい、風早くんがだれを好きでももういい!」という台詞がある。ここには相手を考慮しているといつまで経っても告白できず、どの時間も、あらゆる時間も、きみのために、ひたすらきみのことを思うために、きみのなかに息づくために、すべてを忘れ、まるきり自分も忘れ、立ち上がり、みずからの欲望に背中を押されることが他者への接近に結実するのだということが読み取れる。そういうものだろうと思うひともいるとは思う一方で、『君に届け』では潜在的に双方の好意に対する合意があったがためにトラブルにならなかっただけで、どうしても顕微鏡の目をもつことになり、ひとたびその目になると、まわりの区分けがつかなくなる恋の渦中では特に、状況が違えば一方的な好意を伝えられることの不快さが顕現することもあるだろうし、両者の立場次第ではハラスメントや性加害にもつながる。やさしい手でぼくを撫でてくれたときも、きみは奇異なものを感じていたにちがいない。以前も以後も、ぼくの生存、ぼくの生存はこのようなこの世ならない威嚇からできていて、それでも何ごともなくことが進むのが、ふしぎでならなかった。そんなぐあいにならなくとても、もっとひどいことになりかねない。
 こうした事故可能性を前提に、一方では事故を回避しながら出会う場としてのマッチングアプリ(需要供給の一致/統計的な相性判定/出会う相手の代替可能性)があり、ぼくの本体には彼らの世界に入る何もなく、あなたがいないのがさみしいと言えば嘘になるそれをまず強調します。他方ではこちらからあちらへの一方的な愛情自体を忌避するものとして他者の必要性に応答するものとしてのケアがある、という現況についてたえず昼も夜も自問し、あなたの返答におどおどし、甲斐もなく自分に問いかけ、気持ちが落ち着かず、つぎには泣き出してしまいそう。
参加者A 一方的な愛情の忌避という点では「好き」が「推し」と表現されるようになったのも、ある対象に感じる自分の好意は他人と共有可能である(おすすめできる)ということから転じて、感動し、恥じもし、悲しくも、うれしくもなる情緒のいちいちを公共的な第三者から承認を得なければ不安の領域になるというニュアンスが帯びていますよね。それでも悪いことはなかったし、これからも、やむをえないのなら、たとえ成功しても、燃えさかる灼熱のかたまりに呑まれて焼け死ぬだけで、地獄はその荘厳のままに変わらないのです。自分の気持ちのありようすべてからして、あのとおりでなくてはならず、いや、まだずっとやさしすぎ、ずっとごまかしがありすぎ、うんときれいごとじみていることが、あなたにはわかったかどうか。
わたし あれやこれやの体験で分かったのですが、以前は多く見られた「愛」の話型に慣れ親しんでもいるわたしたちは、こまかいことまで同じにしようというのではなく、中身が過去のものになりかかっていますから、こうした状況下で他者と親密さを築くための新たな話型をつくりあげるところから何を自分が願い、何をしようというのか、あるいは話型の制作が同時進行した、死ぬために、やすらかに身を寄りそわせるようなコミュニケーションが始められなければならないのではないか、ということが個人的な関心としてあります。傷ついた心の底からすでに用意され与えられたものを嵐の威嚇のもとにそのまま受け取り漠然と消費するのではなく、しょせん、誰にもどうにもならないことであって、意見を述べ合っているだけなんだとしても、何を用意すべきかという地点からぼくの世界が崩れ落ち、ぼくの世界が建設されるための制度設計を始めたい。相互変容と生成を循環させるコミュニケーションとしての制作の場、とでも言いましょうか。わたしとしてはその制作の場においては死の傷をもって舞台に横たわり長いテキストを書くことがキーとなるのではないかとずっと考えていたのですが、何が問題なのか、何が問題だったのか、単純に書いてばかりだとカフカのような不安の連続で、家具の下にもぐりたいほどで、片隅でふるえながら祈り、そしてきみがうなりをあげて部屋に舞いこんで、そのようにしてまた、どうか窓から飛び去ってくれるように願ったりするのかもしれないなと『ミレナ』を読んで思ったので、こういったことはすべてたいしたことじゃない。誤解はほとんどなく、つねに力強い、明快な理解、それもぼくの本来の不安になってくる。いつになったら、でんぐり返った世界を少しでも元に戻せるのでしょう? 傷つけたのはわたしです。このわたしがあなたを傷つけた一撃のもとに、わたしは棒のように倒れ、あなたの看護があろうとも、二度と立ち上がれないでしょう。たしかに驚くべきことではあれ、ぼくの味方をしてくれるわけではない。きみを少しでも笑わしたいと思っただけだ。不安のために、われわれは双方で誤解し合っている。だから、きみがいま生きている困難が、他人の不思議よりも他人のまちがいの方を(わたしにかかわるかぎりであって、ほかのことはべつにして)信じるという論理的な精神状態の眠れぬ夜から自分を、少しでも引き出そう。

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辿るほどに埋もれてしまう「私」の在り処──新原なりか『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』から読みとれること

 文章にまつわる自営業をなさっている新原なりかさんが自主制作された『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』(以下、『私みたいな』とします。)という本を読みました。本記事はこの『私みたいな』の感想を書くことを目的としています。
 しかし感想といってもなかなかむずかしい面もあります。まずは本の概要を紹介しながらそのむずかしさについて記していくとしましょう。

書影。表紙にトレーシングペーパーが使われている。
新原なりか『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』 - 目次

はじめに ―はい、わたしの感想です。
ありがとう g.o.a.t
niina’s blog 2019年12月〜2022年4月 奈良の鹿のよさ / 日記 / やっていけるのか、私 / ひとの日記を読んで泣く / ぬるっとフリーランス /たばこと母性 / 明日のごはんを用意する / クリスマスだ、いったん全部忘れよう / クリスマスはつづく / 自意識過剰、それでも / 年末年始、ライブ、インフルエンザ / 私のまま、仕事をしたい / 地獄に日が差す土曜日 /「わたしたちがもちうる “まじめさ” について」/ 筆をすべらせろ / 褒める作戦 / 立ち竦む / クリスマスにゆるされる / サインをしたことがある人生 / クセのない文章 / 花を口実に / たとえばいま『構造と力』を読んでいること / 嫌いなものがつくる輪郭 / 小さい歌集を作っています / my史観プロジェクト
離婚しました
noteより 自分のために書くということ / 「人間として当たり前」とは(遅刻魔の言い分) / 本質でないほうで呼ぶ / The World Will Tear Us Apart、夜中にひとりで街を歩かなければならない私たちのための / 本が読めない
かつて「妻」だった私へ、そしてryuchellと、わたしたちへ
短歌連作「 Loveless Yellow 」
おわりに ―ねことプール

 『私みたいな』は日記、エッセイ、短歌が収められている本です。なかには書き下ろしの文章もありますが、まえがき(「はじめに ─はい、わたしの感想です。」)に「キラキラしたフリーランスのイメージとは程遠い私の仕事と生活と内省を綴ったブログの記事が本書の中心となっている」(p2)とあるように、主軸は筆者がかつてブログに書いた日記におかれています。つまり『私みたいな』はあるコンセプトや主張にしたがって構造的に書かれた本、というよりかは、時間的にも場所的にもばらばらに書かれたさまざまなテキストを無理に形を整えることなく一箇所に集めて生(なま)の感覚を記そうとした本、といった趣きがあります。
 ただし、「はじめに」の冒頭で宣言されたはずの「リアルを感じることができる」(p2)本であるというカテゴライズは筆者によって即座に留保されます。なぜならこうした大雑把な名付けは所詮売り文句に過ぎず、その時点でリアルからは遠ざかってしまっているからです。ましてや言葉なんてものはつねに限定的な表現でしかなく、受け手は限定的な表現から見出されるさらに限定的な観念を好き勝手に受け取ることしかできません。一個人の限定的な表現を客観的な視座から「データやロジックなどと無理矢理引き比べて貶め」(p3)ようとするなんてもってのほかです。
 ではわたしが本記事で行おうとしていることは何でしょうか。本記事の目的はこの本の感想を記すことであるとうえに書きました。それは言い換えれば、文章という限定的な表現を第三者の立場から恣意的に読み、恣意的に抽象化しながら強引に理念を仮構し、ありもしない理念と本の内容とを無理矢理引き比べようとすることにほかなりません。このようなやり方で述べられた感想は、本の内容や筆者の実感からは乖離したものにしかならず、本を素材にしただけの無責任な二次創作にしかならないでしょう。
 しかし、このまえがきは個人の感想を肯定するかたちで締め括られています。だとすれば、本の感想を好き勝手に述べることが許される可能性も残されていそうです。この先を書き進めるためにも、個人の感想はよしとされているという点をとりあえずの拠り所にしていくことにします。

 ではわたしがこの記事で試みることをもう一度確認します。
 この記事は『私みたいな』の紹介ではありません。どこそこに共感したなどの素朴な感想も書きません。ここで記す文章は、この本を乱暴に抽象化することでどのような構造や態度を取り出すことができるのか試みるという、ある種の二次創作です。実際の本が具体的にどうであるかは『私みたいな』を手にとって読んでくださいということ以外にわたしからいえることはありませんので、具体的にどうであるか気になる方は実際に読んでみてください。

 前置きもそこそこに、二次創作にとりかかっていきましょう。手がかりを掴むべくまずは本のタイトルに注目してみるとします。
 『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』という長々とした印象的な書名は、「ある夜コンビニの前でひとり缶チューハイを飲みながら」(p47)思いついた言葉であり「意味は特に解説するまでもな」(p47)くそのままであると、本には書かれています。しかし、本を読んでみるとこの書名には本に通底するテーマがはっきりと書かれていることがわかります。
 このタイトルには「私」と「私みたいなやつ」が登場しています。さらに「私」が「私みたいなやつのまま」であろうとすることが宣言されています。「私」にとって「私みたいなやつ」はかならずしも「私」ではなく、「みたいなやつ」である以上は場合によっては入れ替えも可能であるが、あえてこの「まま」を「私」として見立てようとするこの書名から、主体の二重性への意識を読み取ることは難しくありません。そしてこの主体の二重性への意識は本文からも見てとることができるのです。

 先ほど、『私みたいな』は生の感覚を記そうとした本である、と書きました。わたしが「生の感覚」とした性質は、本のなかでは「リアル」や「素」、「そのもの」や「そのまま」といった語で示されています。それがよくわかるのが「はじめに ─はい、わたしの感想です。」です。
 本の開幕を告げるこのテキストでは大きくつぎのことが確認されます。

  1. 言葉は対象をそのまま伝えないこと。
  2. 書き残された言葉は事物や出来事の一面でしかないこと。
  3. 一時的・一面的に記された言葉には還元されない「そのもの」や「リアル」があること。
  4. 「そのもの」や「リアル」でないからこそ言葉を書くことには意味が生じること。

 こうした感覚は「私」が「私みたいなやつ」でしかいられないことへの意識にそのまま通じるといってよいでしょう。
 「私」による恣意的な記述から生じた「私みたいなやつ」、を恣意的に読解することで生じる「私みたいなやつみたいなやつ」……と、「そのもの」からどんどん遠ざかってしまうスパイラルはときに言葉を書き記す意欲を阻害します。けれどもその渦の大元には「私」があるのだから、「私」は「私みたいなやつ」のままでやっていくのだ、と「私みたいなやつ」をも「私」で包含することで保持される主体性がある。こうした理念が書名やまえがきに顕現していることがわかります。(ここでは「私みたいなやつ」と「世の中」との対峙も書名に含まれている点が捨象されていますが、二次創作なのでよしとします。)

 「私みたいなやつ」は言葉がもたらす恣意的な記述や恣意的な読解から生じます。私から発された言葉が「私みたいなやつ」を象ります。言葉はひとつの道具であり、この道具の用い方によって「私みたいなやつ」はいくらでも変容します。そしてひとが言葉を用いようとするとき、どんな環境・どんな状況で道具を用いようとしているかという外的な要素も働きます。それがわかるのが「ありがとう g.o.a.t」です。
 「どんなエディタを使って書き、どんな場所に載るかが文章の内容や文体(中略)を大きく左右する」(p4)とあるように、言葉を用いる以前に、言葉という道具を使うために用いる道具によって「書く自分」(p4)はあるていど規定されます。タイプライターの誕生によって長文の執筆が容易に可能となったように、書く技術は書かれる文章の内容を変えます。書かれる文章が変わるということは言葉から見出される「私みたいなやつ」の姿も変わるということです。
 言葉以外の例で考えてみましょう。もし電車や自動車がなく移動手段が徒歩にかぎられていたら自宅と職場などの毎日通う先との距離は徒歩圏内に収束することでしょう。わたしたちは電車という道具があるからこそ職場から数十キロも離れた場所に住むことができます。ということは移動の技術は住環境を規定します。住環境が変わるということはそのひとの生活も変わります。生活が変わるということはそのひとの行動も変わります。行動が変われば考えも変わるでしょうし、いくら当人がじぶんがどこで暮らそうと私は私だと言い張っても、客観的に見える「そのひとみたいなやつ」は違ったものになるでしょう。
 言葉という道具や言葉を書くための道具が「私みたいなやつ」を表出する。『私みたいな』において日記が日付順に並べられているのではなく、まずは書いたWebサービス(g.o.a.t/note)で区分けがされていることはその象徴です。各Webサービスが用意するUIもまた「書く私」を基礎付けるのだから、こちらで書いた日記とあちらで書いた日記とでは「私」のありようも違うのです。どこで書いたかということは「私みたいなやつ」を条件づける重要な要素となる。これは『私みたいな』に短歌が収められていることの意味にもつながります。短歌というジャンルが書き手に強いる形式によってあらわれる「私みたいなやつ」の存在は、筆者が筆者の素を示そうとするときに欠かせないと考えられているのではないでしょうか。

 『私みたいな』は主体の二重性を主題とした本である、としたときにキーとなるテキストが「自分のために書くということ 2019/07/03」(p32)です。このテキストは2019年7月3日にnoteで書かれた日記ですが、文中で2016年4月10日に書かれたテキスト(日記?)がまるまる引用されています。そしてタイトルからもわかるとおり、2019年7月3日の日記は書くことについて書かれているのですが、2016年4月10日のテキストもまた書くことについて書かれています。つまり「過去の日記を引用しながら書かれた日記の内容が・書くことについて書くために書くことについて書いたテキストを参照したものになっている」という自己言及性に満ちたテキストになっているのです。ここに「私」と「私みたいなやつ」、あるいは「私みたいなやつ」を描き出す言葉やそれらを書く行為の関係への意識が露わになっています。
 そしてこうして本の要所要所で目立って見える私/私みたいなやつ・書かれた言葉/書く行為への意識を確認したうえで本全体を見通すと、なるほど心なしかこの意識は全体に散りばめられているように感じられる、それどころかあきらかに通底しているようにすら思える……とどんどん筆者みたいなやつ/この本みたいなやつの輪郭が色濃くなっていくようでもあります。
 また、『私みたいな』ではないですが、『生活の批評誌 no.5』という本で新原さんが書かれているエッセイ「「そのまま書く」をそのまま書く」でも同様の傾向が感じられます。タイトルからすでにここまで記したような要旨が伝わってくるだけでなく、『私みたいな』に収録されている「たとえばいま『構造と力』を読んでいること 2021/05/18」がそっくり引用されていたり、書かれた内容も私に帯びる多重性がひとつの主眼におかれていたりと、『私みたいな』と同等の意識が見てとれます。

 『私みたいな』に戻りましょう。
 たとえば「「わたしたちがもちうる”まじめさ”について」2013/11/03」(p16)では「「まじめさ」とは「言葉を重ねる」ということなのかもしれないとふと思った」(p16)とあります。言葉が「みたいなやつ」を表出するのだとすれば、言葉は重ねれば重ねるほどに「そのもの」から乖離してしまうはずです。けれども、それでもなお言葉を重ね、言葉と向き合うことが、何かとまじめに向き合うことであると筆者は書いています。
 ここで思い出したいのが「はじめに」で個人の感想が肯定されていた点です。個人の感想を肯定するうえで引き合いに出されていたのが、2ちゃんねるの開設者であるひろゆきこと西村博之氏の代表的な台詞「それって、あなたの感想ですよね?」です。反証可能な事実や数値ではなく「みたいなやつ」でしかない個人的感想を一蹴することは容易いでしょう。ただ、たやすく一蹴できてしまうからこそ、その個人的な感想がどのような場所や状況、その他列挙しきれないあらゆる諸条件から発されたものであるか、時間をかけて向き合い検証しようとする態度や根気さをまじめさと呼ぼうとすることは、『私みたいな』からみてとれる筆者の主張として一貫しています。
 ある意味、筆者自身が「私」がどの時期にどんな場所でどんな言葉を書いてきたかを検証すべく『私みたいな』という本が制作されているのだともいえるのかもしれません。そして言葉を重ねながら「私みたいなやつ」と向き合い、「私」を見通そうとする筆者の態度は、まさにまじめなものであると感じさせるだけの説得力があります。

 そろそろ本記事もまとめに向かっていきましょう。
 『私みたいな』の最後に収録されたテキスト「おわりに ─ねことプール」(p47)ではプールに通い始めたという筆者の近況が記されています。筆者は泳いでいるときの感覚を「陸上のことは全部遠くなって、水の生き物になる」(p47)と表現します。
 地上に二本の脚を立てたときと水中で浮かんでいるときとではとうぜんのことながら求められる筋肉の運動は異なります。それぞれでまるで違う生き物であるかのように身体は動きます。
 泳ぎの描写によってこうした身体運動のありようを想起するとき、言葉や言葉を用いる環境もまた「私」をあらわにする道具であるのだと本のなかで繰り返し示唆されていたことを思い出さざるをえません。いや、本記事では道具と表現しましたが、言葉とは陸上や水中と同様に「私」を包囲する場であるのかもしれません。いずれにせよ、陸上で走っている「私」は水中を泳ぐこともできるし、水中を泳いでいる「私」は陸上を走ることができます。その時々の「私」は「私みたいなやつ」という「私」の一面でしかなく、同時に「私みたいなやつ」である以上は「私」であり、集積しきれない無数の「私みたいなやつ」を少しずつ積み上げていくことをまじめにやっていく過程のひとつにこの『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』がある。
 わたしがみてとった『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』みたいなやつは、このような姿をしていたといえるでしょう。
 そして最後にこうした読解を経てあらためて本をみてみると、なんと表紙のイラスト部分が二重に貼り付けられているではありませんか。

表紙に印刷されたイラストの上に厚めの紙に印刷したイラストが貼られている。

 わたしは本記事の冒頭に強いコンセプトがある本ではないと書きましたが、あえて明示されてこそいないだけで、『私みたいな』はかなりコンセプチュアルに制作された本なのだろうなあと思い至るのでありました。

 さて、いうまでもなく本記事は言葉で表現されています。だとすれば、わたしがここに書いた文章もまた「みたいなやつ」として受け取られるに違いありません。『私みたいなやつ』の感想みたいなやつやそれを書いたわたしみたいなやつがどこかで姿をあらわすのでしょう。あるいはこうして無数の「みたいなやつ」を生み出しては絶えず確認しあう過程のことを、わたしたちはコミュニケーションと呼ぶのかもしれませんね。

(余談ですが、アイキャッチにしている画像はAI画家 Stable Diffusionを利用して画像を自動生成するサービス「お絵描きばりぐっどくん」に「mug」とだけ入力して生成された、実体をもたない観念としてのマグカップたちです。)

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【スライド】群れの一部であることとたったひとつの個体であることはいかにして両立されるのか

スライド資料「群れの一部であることとたったひとつの個体であることはいかにして両立されるのか」(上記画像は資料の一部。クリックすると全ページを閲覧いただけます。)

 先日、動画配信プラットフォーム・シラス内のゲンロン完全中継チャンネルで行われた配信イベント「吉見俊哉×大山顕 司会=速水健朗 まなざしと戦争 ── 空爆、ドローン、SNS」のレビューを投稿した。(https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20221025#review-mumu

 ここでわたしが書いたこと(イベント内の議論で特に気になった点)を要約するとつぎのとおりである。

 ライフル射撃には視点があり、そこには撃つ者と撃たれる者がいる(遠近法的ビュー)。
 空爆には視点がなく、撃たれる者はいるが撃つ者がいない。ここで撃つ者の代わりとなっているのは計算である(オルソ画像的ビュー)。
 主体的な視点をもたないオルソ画像的ビューの性質は、ビッグデータから「わたしのようなひと」を算出してユーザーにサービスをレコメンデーションする現代の一般的なウェブサービスとわたしたちとの関係と同等ではないか。空爆からわたしたちが置かれている現代の状況を考察できるのではないか。
 では「わたしのようなひと」とはなんだろうか。「ようなひと」である以上は「わたし」と相似的でこそあるが同一ではない。この個人が「わたしのようなひと」として扱われることに対し、一方ではひとりの個人としての感覚から受け入れがたさを感じてしまうひとも少なくないであろうが、他方で権威性を否定して中立を求める「正しさ」というのはわたしたちが民主的であることを望むときに求めるものではなかろうか。
 ……云々。

 レビューに書いたのはおおよそそんなところである。詳細についてはレビューを読んでいただくか、もしくは番組を観ていただくのがいちばんよい。
 ただしざんねんながら、わたしが書いたレビューではこうした問いが十分に整理されておらず、またどちらかといえば唯一無二の実存としての「わたし」に対するロマン主義的な憧憬が濃く現れすぎている感が否めない。
 しかしイベントを見てわたしが気になったことは、ロマン主義を保持するためにテクノロジーは否定すべし、などといった単純なものではない。

 そこでいまいちどイベントで議論されていた「視点の問題」を整理すべく、こんどはスライドの作成を行なってみた。こちらも十分な整理がなされているとは言いがたいが、テキストのみを材料とするよりはいくらか議論の見通しが立てられる資料となっているのではないだろうか。

[参考]当該番組のほか、レビューやスライドの作成には以下の配信イベントで行われていた議論を参照している。
「東浩紀突発#38 東浩紀がいま考えていること 6——全 シ ラ ス 最 速 仕事始め突発番組
「安達真×桂大介×東浩紀 シラスはウェブのなにをやりなおすのか──エンジニアが語る開発の舞台裏2」

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【動画】アニメ版「雪を食べたいの巻」から考えるちびまる子ちゃんにおける語りの階層──「ちびまる子ちゃん」について語るときに僕の語ること(4・編集版)

 アニメ『ちびまる子ちゃん』第1期から「雪を食べたいの巻」を扱って『ちびまる子ちゃん』に内在する視線や語りがどのように構成されているのか、またその語りの構成がお話にどんな効果を与えているのか考えてみました。
 さくらももこの短編エッセイとした描かれた『雪を食べたい』ですが、これをアニメ『ちびまる子ちゃん』に移行するうえで施された編集が『ちびまる子ちゃん』の視点をより顕著に表すものとなっていることは見逃せません。
 詳細は動画をご覧いただければと思います。

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【詩篇】二〇二一年五月各誌

黒い点と十字の謎と歴史の余白についての問い、その火を消さないために、僕に向かって雨が降る。クソみたいな言語の雨が。言葉の風鈴、詩の巣穴が、生物を進化させた「溶かす」メカニズム。33歳真犯人孤独なテロリストを生み出し続ける構図、政治におけるリアリズム、まっすぐな時代からの後ずさり、終末世界を旅するあなたを病気にする「常識」。学校クラスターを警戒せよ身体に関する宣言、無理になる。原神玲がいた日々、トマス・ピンチョン『ブリーディング・エッジ』を読む、長嶋茂雄と五輪の真実、フレドリック・ジェイムソンへのインタビュー、大島弓子がいるから、生きられる。「少年A」の犯行を確信したとき世界と存在を愛するメデューサはどこに消えたのか、吉村洋文大阪府知事はなぜ失墜しないのか。詩の地平ポストモダン以降のポストモダン。小室文書が晒した「眞子さまの危うさ」は能力主義信仰を問い直す。透明な夜の香り、エッセイを書くのには良いタイミングでした。ポストモダンの幼年期、こちら側の人たちはみなおかしさを見すえて、夢中に生きて、ゆめごとひめごと果ての音、次は惑星として出会おう。どんどんパワーアップする怨霊と呪い、ロードサイドの文化史、10年後の被災地、図書館、書店、古本屋、出版社をめぐる神々と仏のあいだに、肉体と哲学、青年期と中年期の交点に立ち、海辺のマンションと春の缶詰に欠かせない営みが欠けたとき闇雲に言葉を選ばないで。すべてが作り物のような熱海で、失われた〈女たちの連帯〉を求めてはるかかなたへ、令和に引きつがれた「闇」に鳥がぼくらは祈り、二十年後の告白を砂のかたちはフラット化する時代に思考する。笑いと解放の詩のオーバーヒート。99個の自由な証明、愛、ホンモノ、文学の周辺、ひとの骨と声をめぐるメモ、制限と余白、厚労省の大罪アナログなフルデジタル、ほんの私。書けば書くほど記憶が呼び起こされる。失業者カテゴリーが開く可視/不可視のなか、それが青春のテーマソングであると愛おしい世界を通してきみを詠う。ダブルフォルトの予言と崇高な環境の大きな物語に向けて、震えとしての言葉 いま、世界で。

※本作は『群像』『現代思想』『現代詩手帖』『思想』『小説すばる』『新潮』『すばる』『ダ・ヴィンチ』『文学界』『文藝春秋』『本の雑誌』『みすず』『ユリイカ』各二〇二一年五月発売号の目次からの引用により構成した。なお、各誌の目次は各誌のウェブサイトを参考している。

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