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  • 辿るほどに埋もれてしまう「私」の在り処──新原なりか『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』から読みとれること

     文章にまつわる自営業をなさっている新原なりかさんが自主制作された『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』(以下、『私みたいな』とします。)という本を読みました。本記事はこの『私みたいな』の感想を書くことを目的としています。
     しかし感想といってもなかなかむずかしい面もあります。まずは本の概要を紹介しながらそのむずかしさについて記していくとしましょう。

    新原なりか『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』 - 目次
    
    はじめに ―はい、わたしの感想です。
    ありがとう g.o.a.t
    niina’s blog 2019年12月〜2022年4月 奈良の鹿のよさ / 日記 / やっていけるのか、私 / ひとの日記を読んで泣く / ぬるっとフリーランス /たばこと母性 / 明日のごはんを用意する / クリスマスだ、いったん全部忘れよう / クリスマスはつづく / 自意識過剰、それでも / 年末年始、ライブ、インフルエンザ / 私のまま、仕事をしたい / 地獄に日が差す土曜日 /「わたしたちがもちうる “まじめさ” について」/ 筆をすべらせろ / 褒める作戦 / 立ち竦む / クリスマスにゆるされる / サインをしたことがある人生 / クセのない文章 / 花を口実に / たとえばいま『構造と力』を読んでいること / 嫌いなものがつくる輪郭 / 小さい歌集を作っています / my史観プロジェクト
    離婚しました
    noteより 自分のために書くということ / 「人間として当たり前」とは(遅刻魔の言い分) / 本質でないほうで呼ぶ / The World Will Tear Us Apart、夜中にひとりで街を歩かなければならない私たちのための / 本が読めない
    かつて「妻」だった私へ、そしてryuchellと、わたしたちへ
    短歌連作「 Loveless Yellow 」
    おわりに ―ねことプール

     『私みたいな』は日記、エッセイ、短歌が収められている本です。なかには書き下ろしの文章もありますが、まえがき(「はじめに ─はい、わたしの感想です。」)に「キラキラしたフリーランスのイメージとは程遠い私の仕事と生活と内省を綴ったブログの記事が本書の中心となっている」(p2)とあるように、主軸は筆者がかつてブログに書いた日記におかれています。つまり『私みたいな』はあるコンセプトや主張にしたがって構造的に書かれた本、というよりかは、時間的にも場所的にもばらばらに書かれたさまざまなテキストを無理に形を整えることなく一箇所に集めて生(なま)の感覚を記そうとした本、といった趣きがあります。
     ただし、「はじめに」の冒頭で宣言されたはずの「リアルを感じることができる」(p2)本であるというカテゴライズは筆者によって即座に留保されます。なぜならこうした大雑把な名付けは所詮売り文句に過ぎず、その時点でリアルからは遠ざかってしまっているからです。ましてや言葉なんてものはつねに限定的な表現でしかなく、受け手は限定的な表現から見出されるさらに限定的な観念を好き勝手に受け取ることしかできません。一個人の限定的な表現を客観的な視座から「データやロジックなどと無理矢理引き比べて貶め」(p3)ようとするなんてもってのほかです。
     ではわたしが本記事で行おうとしていることは何でしょうか。本記事の目的はこの本の感想を記すことであるとうえに書きました。それは言い換えれば、文章という限定的な表現を第三者の立場から恣意的に読み、恣意的に抽象化しながら強引に理念を仮構し、ありもしない理念と本の内容とを無理矢理引き比べようとすることにほかなりません。このようなやり方で述べられた感想は、本の内容や筆者の実感からは乖離したものにしかならず、本を素材にしただけの無責任な二次創作にしかならないでしょう。
     しかし、このまえがきは個人の感想を肯定するかたちで締め括られています。だとすれば、本の感想を好き勝手に述べることが許される可能性も残されていそうです。この先を書き進めるためにも、個人の感想はよしとされているという点をとりあえずの拠り所にしていくことにします。

     ではわたしがこの記事で試みることをもう一度確認します。
     この記事は『私みたいな』の紹介ではありません。どこそこに共感したなどの素朴な感想も書きません。ここで記す文章は、この本を乱暴に抽象化することでどのような構造や態度を取り出すことができるのか試みるという、ある種の二次創作です。実際の本が具体的にどうであるかは『私みたいな』を手にとって読んでくださいということ以外にわたしからいえることはありませんので、具体的にどうであるか気になる方は実際に読んでみてください。

     前置きもそこそこに、二次創作にとりかかっていきましょう。手がかりを掴むべくまずは本のタイトルに注目してみるとします。
     『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』という長々とした印象的な書名は、「ある夜コンビニの前でひとり缶チューハイを飲みながら」(p47)思いついた言葉であり「意味は特に解説するまでもな」(p47)くそのままであると、本には書かれています。しかし、本を読んでみるとこの書名には本に通底するテーマがはっきりと書かれていることがわかります。
     このタイトルには「私」と「私みたいなやつ」が登場しています。さらに「私」が「私みたいなやつのまま」であろうとすることが宣言されています。「私」にとって「私みたいなやつ」はかならずしも「私」ではなく、「みたいなやつ」である以上は場合によっては入れ替えも可能であるが、あえてこの「まま」を「私」として見立てようとするこの書名から、主体の二重性への意識を読み取ることは難しくありません。そしてこの主体の二重性への意識は本文からも見てとることができるのです。

     先ほど、『私みたいな』は生の感覚を記そうとした本である、と書きました。わたしが「生の感覚」とした性質は、本のなかでは「リアル」や「素」、「そのもの」や「そのまま」といった語で示されています。それがよくわかるのが「はじめに ─はい、わたしの感想です。」です。
     本の開幕を告げるこのテキストでは大きくつぎのことが確認されます。

    1. 言葉は対象をそのまま伝えないこと。
    2. 書き残された言葉は事物や出来事の一面でしかないこと。
    3. 一時的・一面的に記された言葉には還元されない「そのもの」や「リアル」があること。
    4. 「そのもの」や「リアル」でないからこそ言葉を書くことには意味が生じること。

     こうした感覚は「私」が「私みたいなやつ」でしかいられないことへの意識にそのまま通じるといってよいでしょう。
     「私」による恣意的な記述から生じた「私みたいなやつ」、を恣意的に読解することで生じる「私みたいなやつみたいなやつ」……と、「そのもの」からどんどん遠ざかってしまうスパイラルはときに言葉を書き記す意欲を阻害します。けれどもその渦の大元には「私」があるのだから、「私」は「私みたいなやつ」のままでやっていくのだ、と「私みたいなやつ」をも「私」で包含することで保持される主体性がある。こうした理念が書名やまえがきに顕現していることがわかります。(ここでは「私みたいなやつ」と「世の中」との対峙も書名に含まれている点が捨象されていますが、二次創作なのでよしとします。)

     「私みたいなやつ」は言葉がもたらす恣意的な記述や恣意的な読解から生じます。私から発された言葉が「私みたいなやつ」を象ります。言葉はひとつの道具であり、この道具の用い方によって「私みたいなやつ」はいくらでも変容します。そしてひとが言葉を用いようとするとき、どんな環境・どんな状況で道具を用いようとしているかという外的な要素も働きます。それがわかるのが「ありがとう g.o.a.t」です。
     「どんなエディタを使って書き、どんな場所に載るかが文章の内容や文体(中略)を大きく左右する」(p4)とあるように、言葉を用いる以前に、言葉という道具を使うために用いる道具によって「書く自分」(p4)はあるていど規定されます。タイプライターの誕生によって長文の執筆が容易に可能となったように、書く技術は書かれる文章の内容を変えます。書かれる文章が変わるということは言葉から見出される「私みたいなやつ」の姿も変わるということです。
     言葉以外の例で考えてみましょう。もし電車や自動車がなく移動手段が徒歩にかぎられていたら自宅と職場などの毎日通う先との距離は徒歩圏内に収束することでしょう。わたしたちは電車という道具があるからこそ職場から数十キロも離れた場所に住むことができます。ということは移動の技術は住環境を規定します。住環境が変わるということはそのひとの生活も変わります。生活が変わるということはそのひとの行動も変わります。行動が変われば考えも変わるでしょうし、いくら当人がじぶんがどこで暮らそうと私は私だと言い張っても、客観的に見える「そのひとみたいなやつ」は違ったものになるでしょう。
     言葉という道具や言葉を書くための道具が「私みたいなやつ」を表出する。『私みたいな』において日記が日付順に並べられているのではなく、まずは書いたWebサービス(g.o.a.t/note)で区分けがされていることはその象徴です。各Webサービスが用意するUIもまた「書く私」を基礎付けるのだから、こちらで書いた日記とあちらで書いた日記とでは「私」のありようも違うのです。どこで書いたかということは「私みたいなやつ」を条件づける重要な要素となる。これは『私みたいな』に短歌が収められていることの意味にもつながります。短歌というジャンルが書き手に強いる形式によってあらわれる「私みたいなやつ」の存在は、筆者が筆者の素を示そうとするときに欠かせないと考えられているのではないでしょうか。

     『私みたいな』は主体の二重性を主題とした本である、としたときにキーとなるテキストが「自分のために書くということ 2019/07/03」(p32)です。このテキストは2019年7月3日にnoteで書かれた日記ですが、文中で2016年4月10日に書かれたテキスト(日記?)がまるまる引用されています。そしてタイトルからもわかるとおり、2019年7月3日の日記は書くことについて書かれているのですが、2016年4月10日のテキストもまた書くことについて書かれています。つまり「過去の日記を引用しながら書かれた日記の内容が・書くことについて書くために書くことについて書いたテキストを参照したものになっている」という自己言及性に満ちたテキストになっているのです。ここに「私」と「私みたいなやつ」、あるいは「私みたいなやつ」を描き出す言葉やそれらを書く行為の関係への意識が露わになっています。
     そしてこうして本の要所要所で目立って見える私/私みたいなやつ・書かれた言葉/書く行為への意識を確認したうえで本全体を見通すと、なるほど心なしかこの意識は全体に散りばめられているように感じられる、それどころかあきらかに通底しているようにすら思える……とどんどん筆者みたいなやつ/この本みたいなやつの輪郭が色濃くなっていくようでもあります。
     また、『私みたいな』ではないですが、『生活の批評誌 no.5』という本で新原さんが書かれているエッセイ「「そのまま書く」をそのまま書く」でも同様の傾向が感じられます。タイトルからすでにここまで記したような要旨が伝わってくるだけでなく、『私みたいな』に収録されている「たとえばいま『構造と力』を読んでいること 2021/05/18」がそっくり引用されていたり、書かれた内容も私に帯びる多重性がひとつの主眼におかれていたりと、『私みたいな』と同等の意識が見てとれます。

     『私みたいな』に戻りましょう。
     たとえば「「わたしたちがもちうる”まじめさ”について」2013/11/03」(p16)では「「まじめさ」とは「言葉を重ねる」ということなのかもしれないとふと思った」(p16)とあります。言葉が「みたいなやつ」を表出するのだとすれば、言葉は重ねれば重ねるほどに「そのもの」から乖離してしまうはずです。けれども、それでもなお言葉を重ね、言葉と向き合うことが、何かとまじめに向き合うことであると筆者は書いています。
     ここで思い出したいのが「はじめに」で個人の感想が肯定されていた点です。個人の感想を肯定するうえで引き合いに出されていたのが、2ちゃんねるの開設者であるひろゆきこと西村博之氏の代表的な台詞「それって、あなたの感想ですよね?」です。反証可能な事実や数値ではなく「みたいなやつ」でしかない個人的感想を一蹴することは容易いでしょう。ただ、たやすく一蹴できてしまうからこそ、その個人的な感想がどのような場所や状況、その他列挙しきれないあらゆる諸条件から発されたものであるか、時間をかけて向き合い検証しようとする態度や根気さをまじめさと呼ぼうとすることは、『私みたいな』からみてとれる筆者の主張として一貫しています。
     ある意味、筆者自身が「私」がどの時期にどんな場所でどんな言葉を書いてきたかを検証すべく『私みたいな』という本が制作されているのだともいえるのかもしれません。そして言葉を重ねながら「私みたいなやつ」と向き合い、「私」を見通そうとする筆者の態度は、まさにまじめなものであると感じさせるだけの説得力があります。

     そろそろ本記事もまとめに向かっていきましょう。
     『私みたいな』の最後に収録されたテキスト「おわりに ─ねことプール」(p47)ではプールに通い始めたという筆者の近況が記されています。筆者は泳いでいるときの感覚を「陸上のことは全部遠くなって、水の生き物になる」(p47)と表現します。
     地上に二本の脚を立てたときと水中で浮かんでいるときとではとうぜんのことながら求められる筋肉の運動は異なります。それぞれでまるで違う生き物であるかのように身体は動きます。
     泳ぎの描写によってこうした身体運動のありようを想起するとき、言葉や言葉を用いる環境もまた「私」をあらわにする道具であるのだと本のなかで繰り返し示唆されていたことを思い出さざるをえません。いや、本記事では道具と表現しましたが、言葉とは陸上や水中と同様に「私」を包囲する場であるのかもしれません。いずれにせよ、陸上で走っている「私」は水中を泳ぐこともできるし、水中を泳いでいる「私」は陸上を走ることができます。その時々の「私」は「私みたいなやつ」という「私」の一面でしかなく、同時に「私みたいなやつ」である以上は「私」であり、集積しきれない無数の「私みたいなやつ」を少しずつ積み上げていくことをまじめにやっていく過程のひとつにこの『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』がある。
     わたしがみてとった『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままやっていくのだ!!』みたいなやつは、このような姿をしていたといえるでしょう。
     そして最後にこうした読解を経てあらためて本をみてみると、なんと表紙のイラスト部分が二重に貼り付けられているではありませんか。

     わたしは本記事の冒頭に強いコンセプトがある本ではないと書きましたが、あえて明示されてこそいないだけで、『私みたいな』はかなりコンセプチュアルに制作された本なのだろうなあと思い至るのでありました。

     さて、いうまでもなく本記事は言葉で表現されています。だとすれば、わたしがここに書いた文章もまた「みたいなやつ」として受け取られるに違いありません。『私みたいなやつ』の感想みたいなやつやそれを書いたわたしみたいなやつがどこかで姿をあらわすのでしょう。あるいはこうして無数の「みたいなやつ」を生み出しては絶えず確認しあう過程のことを、わたしたちはコミュニケーションと呼ぶのかもしれませんね。

    (余談ですが、アイキャッチにしている画像はAI画家 Stable Diffusionを利用して画像を自動生成するサービス「お絵描きばりぐっどくん」に「mug」とだけ入力して生成された、実体をもたない観念としてのマグカップたちです。)

  • 【スライド】群れの一部であることとたったひとつの個体であることはいかにして両立されるのか

    スライド資料「群れの一部であることとたったひとつの個体であることはいかにして両立されるのか」(上記画像は資料の一部。クリックすると全ページを閲覧いただけます。)

     先日、動画配信プラットフォーム・シラス内のゲンロン完全中継チャンネルで行われた配信イベント「吉見俊哉×大山顕 司会=速水健朗 まなざしと戦争 ── 空爆、ドローン、SNS」のレビューを投稿した。(https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20221025#review-mumu

     ここでわたしが書いたこと(イベント内の議論で特に気になった点)を要約するとつぎのとおりである。

     ライフル射撃には視点があり、そこには撃つ者と撃たれる者がいる(遠近法的ビュー)。
     空爆には視点がなく、撃たれる者はいるが撃つ者がいない。ここで撃つ者の代わりとなっているのは計算である(オルソ画像的ビュー)。
     主体的な視点をもたないオルソ画像的ビューの性質は、ビッグデータから「わたしのようなひと」を算出してユーザーにサービスをレコメンデーションする現代の一般的なウェブサービスとわたしたちとの関係と同等ではないか。空爆からわたしたちが置かれている現代の状況を考察できるのではないか。
     では「わたしのようなひと」とはなんだろうか。「ようなひと」である以上は「わたし」と相似的でこそあるが同一ではない。この個人が「わたしのようなひと」として扱われることに対し、一方ではひとりの個人としての感覚から受け入れがたさを感じてしまうひとも少なくないであろうが、他方で権威性を否定して中立を求める「正しさ」というのはわたしたちが民主的であることを望むときに求めるものではなかろうか。
     ……云々。

     レビューに書いたのはおおよそそんなところである。詳細についてはレビューを読んでいただくか、もしくは番組を観ていただくのがいちばんよい。
     ただしざんねんながら、わたしが書いたレビューではこうした問いが十分に整理されておらず、またどちらかといえば唯一無二の実存としての「わたし」に対するロマン主義的な憧憬が濃く現れすぎている感が否めない。
     しかしイベントを見てわたしが気になったことは、ロマン主義を保持するためにテクノロジーは否定すべし、などといった単純なものではない。

     そこでいまいちどイベントで議論されていた「視点の問題」を整理すべく、こんどはスライドの作成を行なってみた。こちらも十分な整理がなされているとは言いがたいが、テキストのみを材料とするよりはいくらか議論の見通しが立てられる資料となっているのではないだろうか。

    [参考]当該番組のほか、レビューやスライドの作成には以下の配信イベントで行われていた議論を参照している。
    「東浩紀突発#38 東浩紀がいま考えていること 6——全 シ ラ ス 最 速 仕事始め突発番組
    「安達真×桂大介×東浩紀 シラスはウェブのなにをやりなおすのか──エンジニアが語る開発の舞台裏2」

  • 【動画】アニメ版「雪を食べたいの巻」から考えるちびまる子ちゃんにおける語りの階層──「ちびまる子ちゃん」について語るときに僕の語ること(4・編集版)

     アニメ『ちびまる子ちゃん』第1期から「雪を食べたいの巻」を扱って『ちびまる子ちゃん』に内在する視線や語りがどのように構成されているのか、またその語りの構成がお話にどんな効果を与えているのか考えてみました。
     さくらももこの短編エッセイとした描かれた『雪を食べたい』ですが、これをアニメ『ちびまる子ちゃん』に移行するうえで施された編集が『ちびまる子ちゃん』の視点をより顕著に表すものとなっていることは見逃せません。
     詳細は動画をご覧いただければと思います。

    なお、AIによる要約は以下のとおりです。

    お土産の雪はどこへ消えたか──『ちびまる子ちゃん』「雪を食べたいの巻」における記憶と語りの構造

    アニメ『ちびまる子ちゃん』の初期エピソード「雪を食べたいの巻」(1990年3月4日放送)は、さくらももこが『ちびまる子ちゃん』連載以前に描いた短編エッセイ漫画「雪を食べたい」(1986年『りぼん』掲載)を原作としている。この作品は、ちびまる子ちゃんの通時的なキャラクター設定(小学三年生)を越えて、幼稚園児だったころの「私=さくらももこ」の経験を語るものである。本稿では、アニメ版における再構成の手法に着目し、語りの構造とその感情的レイヤーの厚みに注目する。

    原作とアニメ──語りの主体と視点の差異

    原作「雪を食べたい」は、作者自身のエッセイ的漫画であり、一人称で語られる。静岡県清水市という雪のほとんど降らない土地で育った少女が、幼稚園の雪見遠足で初めて雪に触れ、その儚い感動と失敗(雪を母に持ち帰ろうとして溶かしてしまう)を描く。ここでは語り手・主人公・作者がほぼ一致しており、自己の記憶が直接語られている。

    一方アニメでは、小学三年生の「まる子」が主人公であり、原作のエピソードは「過去の記憶」として挿入される。アニメ版の特徴的な点は、通常ナレーターを務めるキートン山田ではなく、まる子本人(TARAKO)の声で物語が語られる点である。つまり、まる子=語り手=主人公となり、アニメにおいても一人称の構造が一時的に回復されている。

    階層化された記憶と“母のセリフ”の重層性

    アニメは、現在のまる子(小三)と過去のまる子(幼稚園児)の出来事を交互に描く。冒頭、まる子は母から「また前みたいに雪、持ってきてよ」と言われる。これは単なる冗談のようでいて、過去の記憶──娘が持ち帰ろうとした雪を夫に食べられてしまい、泣き崩れた記憶──を踏まえた、母の側の感情の回帰として読める。

    一方で、まる子はその記憶を忘れており、出発時にはイチゴ飴を忘れずに持参するが、雪を持ち帰る約束を忘れ、帰路でようやく「あっ」と思い出す。この「忘却」と「回帰」の非対称性が、アニメ版に独特の哀しさと厚みを与えている。

    語りの構造とアイロニー

    本来『ちびまる子ちゃん』は、さくらももこ自身の回想を核に据えた擬似的な”私小説”的構造をとっている。原作漫画では、語り手としての”さくらももこ”の視点がナレーションという形で挿入され、それが過去の”まる子”というキャラクターを媒介に描かれる。

    ところがアニメでは、その語りは集団制作において中継され、ナレーションはキートン山田が担う。だがこのエピソードにおいては、まる子自身が語り手となることで、原作の語り構造が再演され、物語に強い内在性が生まれている。

    と同時に、「母は変わった」とぼやく現在のまる子が、結局は雪を持ち帰ることすら忘れているというラストは、むしろ”変わってしまったのは娘のほうだ”というアイロニカルな視点を呼び込む。母の「また前みたいに」という何気ないひとことに込められた記憶の連なりが、視聴者には痛いほどに伝わる。

    結語──忘却のドラマとしての「雪を食べたい」

    『ちびまる子ちゃん』はしばしば「日常の可笑しみ」を描く作品と見なされがちだが、このエピソードは、記憶と語りの構造を意識的にずらしながら、「忘れること」「覚えていること」の意味を繊細に問うている。幼いころには一大事だった感情が、成長とともに消えてゆく。その過程を、母の静かなまなざしを通して描くこの一話は、むしろ“家族の記憶”の物語である。

    冬の澄んだ空気のなかで見返すのにふさわしい、静かな傑作である。

  • 【詩篇】二〇二一年五月各誌

    黒い点と十字の謎と歴史の余白についての問い、その火を消さないために、僕に向かって雨が降る。クソみたいな言語の雨が。言葉の風鈴、詩の巣穴が、生物を進化させた「溶かす」メカニズム。33歳真犯人孤独なテロリストを生み出し続ける構図、政治におけるリアリズム、まっすぐな時代からの後ずさり、終末世界を旅するあなたを病気にする「常識」。学校クラスターを警戒せよ身体に関する宣言、無理になる。原神玲がいた日々、トマス・ピンチョン『ブリーディング・エッジ』を読む、長嶋茂雄と五輪の真実、フレドリック・ジェイムソンへのインタビュー、大島弓子がいるから、生きられる。「少年A」の犯行を確信したとき世界と存在を愛するメデューサはどこに消えたのか、吉村洋文大阪府知事はなぜ失墜しないのか。詩の地平ポストモダン以降のポストモダン。小室文書が晒した「眞子さまの危うさ」は能力主義信仰を問い直す。透明な夜の香り、エッセイを書くのには良いタイミングでした。ポストモダンの幼年期、こちら側の人たちはみなおかしさを見すえて、夢中に生きて、ゆめごとひめごと果ての音、次は惑星として出会おう。どんどんパワーアップする怨霊と呪い、ロードサイドの文化史、10年後の被災地、図書館、書店、古本屋、出版社をめぐる神々と仏のあいだに、肉体と哲学、青年期と中年期の交点に立ち、海辺のマンションと春の缶詰に欠かせない営みが欠けたとき闇雲に言葉を選ばないで。すべてが作り物のような熱海で、失われた〈女たちの連帯〉を求めてはるかかなたへ、令和に引きつがれた「闇」に鳥がぼくらは祈り、二十年後の告白を砂のかたちはフラット化する時代に思考する。笑いと解放の詩のオーバーヒート。99個の自由な証明、愛、ホンモノ、文学の周辺、ひとの骨と声をめぐるメモ、制限と余白、厚労省の大罪アナログなフルデジタル、ほんの私。書けば書くほど記憶が呼び起こされる。失業者カテゴリーが開く可視/不可視のなか、それが青春のテーマソングであると愛おしい世界を通してきみを詠う。ダブルフォルトの予言と崇高な環境の大きな物語に向けて、震えとしての言葉 いま、世界で。

    ※本作は『群像』『現代思想』『現代詩手帖』『思想』『小説すばる』『新潮』『すばる』『ダ・ヴィンチ』『文学界』『文藝春秋』『本の雑誌』『みすず』『ユリイカ』各二〇二一年五月発売号の目次からの引用により構成した。なお、各誌の目次は各誌のウェブサイトを参考している。