しばらくゴミを捨てにいけてなく、捨てにいけていないというか面倒で溜め込んでしまっていただけではあるのだが、そのせいで廊下を歩くことが困難になってきたため、ようやっと重い腰を上げてゴミを集積所まで持ち込んだ。自宅と外のゴミ集積所を往復しているあいだに、細かった雨は大粒になり、時間あたりに降る量も増えているようだった。ゴミを捨て終え、ぼんやりしながらインターネットで動画を見ていると雨や風はますます強くなり、本を持ってカフェでも行こうかという思いを断念した。気圧も急落しているようでなんとなく身体がだるかった。
夜にひとと通話をする予定があり、それに向けてkeynoteで作成していたスライドを微調整する。スライドを用意するとどうしても作成者が一方的に話すという構図に陥りやすい。会話とは語り手と聞き手が絶えず交代されるものであり、一方的にしゃべりたいだけなら壁にでも向かって話せばいい。もしくは、インターネットを使えばおしゃべりを配信する手段などいくらでもある。自己言及するようにそのような旨を書いたスライドを見せ、考えを述べたところ、会話は一方的ではなく聞き手も非言語的な反応によって話を聞きながらにして情報を送ってもいると指摘を受け、それは確かにその通りだと思った。
スライドを用意したおかげでこの頃に考えていたことを十分な時間をかけながら話すことができ、いくつかの鋭い指摘を受け、そこから脱線し、どんどん遠退きながら展開された会話の内容も興味深く、じぶんは相当に満足しているのだが、相手の満足度如何については知る由もない。そのことにいつも不安を感じるが、でも、そんなものなのかもしれない。ある劇を観ておもしろいと思ったならまたその劇団による公演を観に行くことがあるだろうし、おもしろいと思わなかったならまあ観に行かないだろう。おもしろいと思っても縁がなくて観に行かないこともあるかもしれず、おもしろいと思わなかったけど縁があって観に行くこともあるかもしれない。たまたま観た劇が以前観た公演と同じ演出家によるものだということもあるかもしれず、そのことに気づいたり気づかなかったりする。瞬間的な「満足度」など気にしても仕方がない。というかそもそも、ひとはそのときに話した内容などあまり気にしていないらしい。
ぼくはじぶんにできることしかできず、できることを愚直にやることしかできない。じゃあぼくにできることってなんなのかといえば、ひとと話す場に合わせてスライドを用意するとかになるわけだが、珍妙な劇を好むひともどこかにはいるだろう。ぼくが珍妙な劇を見たらおもしろいと思うから、ぼくも珍妙な劇を用意しようとする。なるほど、そんなにおかしな話ではない。
週一くらいで考えごとや関心ごとについてひとと自由に話す機会を得られるとかなり救われる感じがある。週一くらいでひとと自由に話す機会が得られるだけで精神的に安定しそうな予感がある。そういうサイクルをどうにかつくりたいと思うし、たぶん、どうにかがんばってじぶんでつくっていくしかないのだろう。
日記210313
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