目を覚ましてだらっと身体を起こしたときにめずらしく空腹感を感じたから冷蔵庫のありものを使って焼きうどんをつくって食べた。昨晩の蕎麦よりはおいしく感じられたが、空腹を満たしたことによる満足感のせいかもしれない。朝食に一食として十分な量の食事を摂ることは久しぶりだったが、仮に朝にまともに食べるだけの食欲や体力があったとしても、そもそもゆっくり調理をしている時間がないから朝食の摂りようがないなと思った。十二時くらいから自宅で読書を始めたがあまり集中できなかった。頃合いを見ながら昼食の時間帯を避けて、午後はマクドナルドで本を読んだ。読んだといっても付箋を貼った箇所をパソコンに入力していただけだから、これを読書と呼ぶのかどうかはやや微妙ではある。
外出にあたって、最近買ったスニーカーをはじめて履いた。革靴を履く機会が多いから、なおさらスニーカーのやわらかさに驚いた。地面から受け取る衝撃が緩和されて伝わる足裏の感覚が新鮮で、歩く動作それ自体に気持ちよさを感じた。じぶんにとって外に出ることはとても億劫なことだ。外に出ると周囲のすべてが他者として迫ってくる。馴染みのものは何ひとつなく、すべてが他者として強烈な抵抗を与えてくる。その抵抗をこそ受け入れるためにひきこもりから抜け出そうとしているわけだが、じぶんにとって必要な抵抗を引き受けるために、まず足元から受ける抵抗を和らげる準備を整えることは大事なことのように思う。抑えるどころか気持ちのよいものとして転換させられたことは、普段は滅多に買うことのない靴という製品を購入してよかったという気にもなる。
場所をドトールに移して、べつの本を読む。本を読み、メモを取り、考えごとをする。じぶんにとって重要であると思える問題系を一貫した状態である程度把握できていることはひとつの幸福なのかもしれない。ここ二年くらいで考えていること(を実践するための考え)のひとつに、「私」や「あなた」や「彼/彼女」の身体を用いて、各々のアイデアを持ち寄りながら主体や意識や人格の在りようの操作を試みるある種のワークショップのような思考/試行的営みを継続的に行う共同制作の場のような集まりをどうにかつくれないだろうか、というものがある。見てわかるようにすごくぼんやりとしている。ただ、具体的なイメージがあるわけではないが、そうした場を、あるいは同志を欲している。それに際して概念的な背景を論理的に、具体的に構築できているわけではないが、生煮えの断片的な考えをひとに話したり文章に書いたりすることもある。大体はうまく言葉にできず、うまく伝えることができない。それに、かぎりなくぼんやりとした夢を人目に晒せば晒すほどに、あくまで自分の関心ごとでしかない事柄を発端に夢想する活動を、ひとを巻き込みながら実現に漕ぎ着けるなんてことは相当に難しいのだろうなと思う。これがたとえば本の制作であれば、その制作の意図がどれだけ独りよがりであろうと、いざ文を書くときは書き手の自由に委ねられるし、文を書いたら本になるという過程もいたってわかりやすい。じぶんが曖昧に考えていることは、むろんじぶんでもよくわかっていないから、そのじぶんでもよくわかっていないことに対して他人から関心を持ってもらうにはどうしたらよいのだろうか。たぶんだけど、よくわかっていないことを話し合えるひとがいればいいのかもしれない。
明日の午後は特に用事もないから、たとえばこうしたことを話すために誘えるひとがいればいいのだけど、あいにく誘えそうなひとも思い当たらない。誰にしても声をかければ話を聞いてくれるのかもしれないが、無意識に、なぜか、なんとなく、選べるはずの選択肢を減らしてしまっている。そういえばあのひとと一年くらい会ってないな、と思い出して、時間がつくりだしたありもしない距離に怖気づいたりする。その点、Discordサーバー上のボイスチャンネルは、いつもの部室や馴染みのバーみたいな、誰かいたらいいなあと期待しながら誰も来なければ来ないで気まずい思いをせずに済み、集まったら集まったで気軽に話せる、程よいハードルの低さがある。ひとと話すことに抵抗や負担を求めている最近の私にとって、ひとと話すための場を用意する抵抗はある程度和らいでいるとたいへん助かる。
昨晩につくって食べた蕎麦がいまいちだったから、スーパーでめんつゆを買った。市販のめんつゆでつくった蕎麦はかなり蕎麦らしさを帯びていて、思っていた以上に納得ができた。
日記210320
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