嵐が来たら漁師は漁へ出るのをやめるだろうが、都会で働くひとたちはたとえ台風が来て電車が止まってもどうにか勤務先へ出向こうとする。前者は自然の脅威を前に日常の営みを休止せざるをえない状態であり、後者は自然の脅威にも怯むことなく多少のトラブルこそあれど日常を営みつづけることができる状態であるが、この場合、どちらが自然と共生しているといえるだろうか。不都合な事象を文明で乗り越えて、人間が抱える都合や欲望を満たしつづける人間中心主義的な世の中が、多様性を排除した息苦しいものになってしまっているのだとしたら、人間の意思や欲望とは異なる論理で動く生命(のようなものも含めて)が住環境に介入できるよう社会を開こうとすることは、人間の営みの風通しをよくするためのひとつの手ではないかとかつて考えたことがある。
たとえば、猫。犬は従順、猫は気まぐれとはよくいうが、その実態はともかくとして、そうした他種別の生物を飼う者は生物の気ままさに自身の生活を振り回される。ヒトと他種別の生物とでは温度感などの快適に感じる環境は異なるだろう。また、じぶん以外の、それも自立していない命を身の周りにおくのだから、飼い主にはエサを与える責務がある。よって、エサを与える時間帯には猫の近くにいなければならない。つまり、猫の習慣に飼い主は時間や環境を合わせる必要があり、そこでは飼い主自身に帯びる社会的な事情は後回しとなる。いまどきは一定の時間になると自動でエサを供給するアイテムなどもあるようだが、その利便性は自己都合を高める要因になる。
たとえば、エイリアン。もし地球外知性体が地球に到来したとすれば、おそらく人類は、人類とは何か、と自己批判せずにはいられないだろう。地球人と同等、あるいはそれ以上の知能をもつ生命体(と地球人が呼びうる何か)は、きっと地球人とは異なる論理によって生態系を育み、みずからの振る舞いを決定し、他の個体とのコミュニケーションを図るだろう。それは人類が自明としていた文化、理念、言動などを相対化し、その自明性を脅かし、問いを与えるに違いない。そもそもその地球外生命体が、論理や生態系や個体やコミュニケーションなどといった理念、理念という語が示そうとするものも含めて、それらに合致する何かを有しているのかも不明であるし、確かめようもない。ただそうした未知の生命体の導入によって、私たち自身を見つめなおすことを促す物語が複数あることは言うまでもない。私たちが私たちとは何かを考えるための手っ取り早い手段は、私たち以外の並列可能な対象を設定することだ。
人間が育んだ現代社会には、人間と並列可能な対象があまりに少ない。言い方をかえれば、人間以外の生命体が育む生態系が入り込む余地があまりに少ない。街を歩けば動物はいる。ハトやカラスは飛んでいる。スーパーに行けば食肉が売られている。犬を連れる散歩者が歩いている。しかし、ハトやカラスは街ぐるみの駆除の対象となり、食肉となる以前の牛や豚は家畜として人工的に管理され、飼育される犬や猫もペットとして飼い主の支配下におかれる。上記の通りペットを支配することは、他方でペットに支配されることでもあるが、少なくとも、ペットとして扱われる動物は独自の社会を築いていない。むろん、あしたエイリアンが訪れるなんてこともない。人間中心社会はどこまでも人間中心だ。その独我的共同体へ介入可能な数少ない希望として、たとえば人工知能があるとしたら。
シラスで配信されていた石田英敬、三宅陽一郎、東浩紀の対談イベントで、人間とまったく異なるロジックで動きながら(縦の主従関係ではなく)横のつながりをもつ人工生命の生態系への憧れについて熱く語る三宅氏を見て、そんなことを思った。クマノミとイソギンチャクが、各々が勝手に生存した結果、自然と共生しているみたいな他/多生物間の関係が、人間が築く社会にもあるといいなとたびたび思う。
日記210420
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