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日記230116

吉増剛造は石巻市鮎川のホテルの一室で、金華山の見える窓ガラス上にペンで詩を書いた。紙面に詩を書く経験と、窓ガラスという透明の媒体に書く経験とではそれぞれ体感が異なると吉増はいう。紙面は文字(を残すインク)以外の存在を原則的に排するが、窓ガラスはその面の奥にある風景がそのまま見えるだけでなく、面の前に立つ者の姿をうっすらと浮かび上がらせ、透明な面がそこにあることをも意識させる。面を構成する素材の性質を比べるだけでたしかにそのありようは異なるはずであろうと、ガラスに文字を書いた経験がなくとも想像はつく。
吉増は窓ガラスに詩を書く経験を「カメラのなかに入ったようだ」と表現したが、この表現には素直に首肯しがたい点がある。というのも直観的にはどちらかといえば風景越しに字を書く経験はスマートフォンを指で操作するのに近いように思われるからだ。風景が映るのはレンズではなくスクリーンであり、窓越しの風景にペンで触れているのだからガラス面で行われているのは視覚イメージと触覚イメージの交差であるとひとまずいうことはできるはずだ。いうなれば吉増が行う窓ガラスに詩を書くというパフォーマンスはスマホのスクリーンショットと類似的である。空間現代が演奏するなか吉増が詩を朗読するライブ・パフォーマンスにおいて、ガラス面の両側に椅子を置き、場面場面でこちらとあちらを行き来する吉増の姿もさながらインカメラとアウトカメラを切り替えているかのようでもあり、あるいはガラスに萩原朔太郎の写真を貼ったりペンで線を描いたりハンマーで叩いたり録音テープを再生したり唸るように詩を読んだり……とガラスを起点に複数のレイヤーを重層的に配置する様子はマルチウインドウ的であるとも見立てられる。のだが、あえて吉増のいうことを鵜呑みにするとしたらどうだろう。金華山から反射した光の痕跡として詩を記す。光を取り込むレンズであった窓ガラスは同時に光を刻むフィルムとなる。そこで詩人は感光剤の役目を果たす。長大な露光時間を要するカメラで撮られた写真=詩、その鑑賞者もまたカメラのなかに侵入する。としたときに、詩の役割はいったいなんであろうか。ガラスに書くという行為と完成した詩を取り出し、彼の地を離れ、異なる地の室内でライブ・パフォーマンスをすることは何を現前・再現前しているのだろうか。そのライブ・パフォーマンスを撮影した映画『背』に映っていたものはなんだったのだろうか。これらの問いを整理し回答を出すことはむろん容易ではない。いまの時点でぱっと思いつくことといえば、スマートフォンのインカメラで自撮りはできるがインだろうとアウトだろうと自らの背面姿を自ら撮影はできないということくらいか。

カテゴリー: 日記