日記251026

7時過ぎに目が覚めて、することもないから二度寝をして、9時過ぎにまた目を覚ます。横になったままツイッターをみる。いつもならそのまま1〜2時間が経過して、目が疲れてきてまた眠って、12時か13時過ぎに目を覚まして、そこからからだを起こすのにまた小一時間つかって、といつまでもベッドのうえで横たわっているのだが、きょうはなんだか午前からからだを起こす気になって10時ころには起床した。

朝食にバナナを食べて、昨晩途中まで観た映画『散歩する惑星』のつづきを観た。

映画を観ながらめずらしく活動的だなあなんておもっていたが、12時ころになるとからだにだるさを感じはじめる。まえの日に筋トレをしたことを思い出し、筋肉痛の予感を察しながらまた横になる。目が覚めると13時を過ぎていた。

Jazz in Fuchuという地域のジャズイベントが行われる日だったから、夕方から駅へ向かう。

府中のジャズイベントは毎年やっているがちゃんと観たことがなく、べつに今回もちゃんと観たわけではないのだが、おもっていたよりも近い距離のあちらこちらにステージがあり、ひとつのステージに演奏が終わってもそのへんを適当に歩けばすぐにべつの演奏を観ることができるという状況で、ふらっと観にきても愉快にたのしめる環境がうまくつくられているように感じた。

では、ふらっと観に行ったじぶんはたのしめたのかといえば、演奏しているひとらを観て、これだけのパフォーマンスをつくりあげるために費やされた時間やその時間で営まれたサークル内でのコミュニケーション、時間の厚みに対する信頼から披露される眼前の演奏とそれを観る多数の聴衆の拍手といった諸々に対する羨望、嫉妬、疎外感をおぼえ、ただただ不快だった。イベントや演奏自体が不快だったわけではない。むしろそれらはたのしいものだったのだろう。たのしいものを、たのしんでいる姿を見せつけられ、それをすなおに受容できないみずからの陰湿さをおもいだすと同時に、陰湿さの発露として不快感がからだを満たした。

あらゆるものに警戒していて、あらゆるものを嫌悪していて、あらゆるものに不快を感じる。じぶんがそんな人間であることをどこか忘れていたような気がする。社会生活を営むなかでいつからか、たとえば公共性とかおおよそじぶんとは相容れないことを気にするようになった。けれど公共性のあるものなんてきらいだったはずだ。だいじなのは私秘的なことで、私秘的な領域を守ることであったはずだ。しかしいまでは私秘的なことがなんなのかさえわからなくなっている。

他者を毛嫌い、じぶんだけを守りつづけようとすることの幼さはわかる。社会生活を送る全員がそんな様子では社会生活は成立しない。地域のジャズイベントだってボランティアで関わる多数の裏方がいて成り立っていて、独りよがりな演奏家がいるだけでは晴れ舞台は用意されない。独りよがりでいられるのは独りよがりでいられるだけの余剰を生み出すひとらがいるおかげなのだ。余剰を受けとっている以上、いつまでも私秘的な領域だけにとどまってはいられず、人並みの社会性が培われた段階で裏方にまわるというのはある程度しぜんな流れだろう。

ただその過程で私秘的な領域がまったく失われているというのはどういうことか。人並みに雇用労働を継続できるていどに人並みの社会性をまとったとはいえど、あきらかに他者とのかかわりに難があるわたしは、いまだ理由もなくひとに嫌悪感を抱いたり嫌悪を露骨に態度に出したりする。そんなみずからにも嫌気は刺すが、いまだ発露可能な嫌悪感や不快感はじぶんに残された数少ない私秘的な領域の現れとして守っていくべきなのだろうか。

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