台湾のデカい塔を素手でクライミングした男がいまアツいのだ、と職場の同僚から聞き、調べてみるとどうやら命綱なしで508メートルを外壁から登りきったとのことだ。現地では地べたから見守るために多くの観覧者が集まったらしく、Netflixでも生配信されたようで(というかその盛り上がりをつくった立役者がNetflixなのだとはおもうが)、数十秒から数分程度に切り取られた短いハイライト動画がSNSの公式アカウントからいくつも公開されている。それらを視聴してみるとたしかに男は塔に手をかけ登っていて、男の周りに足を着けられる地などなく、手のひらサイズの映像を観ているこちらもひやひやした心持ちになる。しかしそのひやひやをもっとも感じるのは登っている最中よりも登りきったあとのほうで、タワーの突端で直立し手をかけられるものがひとつもない周囲をぐるりと見渡すその姿に強烈な風が吹きつける場面にこそ目を奪われる。あるいはそこでスマホを取り出し自撮りをする場面でもいい。どちらにせよここで抱くひやひやは落ちてしまうのではないかという予感にほかならない。むろん登頂に成功したことはすでに知っているのだし、録画映像が無邪気に出回っていることは落ちなかったことの証左であり、わたしがいまこの映像を観ているということがひやひやを消沈させうる最たる事実である。しかしそれでもなお落ちてしまうかもしれないとおもってしまうときの、既知の情報から得ている事実認識と現前する情報が呼び起こすフィクショナルな認識との乖離は、もともとたしかだったはずの既知の事実認識にどんな影響を及ぼすのだろう。
あるいは、落ちてしまうかもしれないという予感が情動を喚起させ、いままさに危険に身を投じる者を直視してしまうこの状態をエンターテイメントとして消費してしまう欲望は、落ちてしまうことへのわずかな期待を含んでいることだろうし、であるからこそ命綱をつけない状態で素手で登ることが賞賛される。視点を変えれば、このイベントの企画チームは落ちてしまうことの予感を残しながら、落ちてしまうリスクを防がなければならないことになる。ぜったいに落ちないことが保証され、あるいは落ちても特に問題がないことが自明な状態では観客は喜ばない。しかし最悪の事態は回避しなければならない。こうしたジレンマを生むこの企画に対しては、とうぜんことながら生中継することの倫理的な是非が問題視されていたようである。
落ちるか落ちないかは、究極的にはクライマーに委ねられるのだから、ディレクションする立場からはせいぜい天候予測だとか地上や上空、タワー内部の環境コントロールだとかしかできないのではないか。とすると、万が一落ちてしまった場合に想定されるトラブルをできるかぎり軽減するための措置が施されていたのではないかと勘繰ることもできるが、まあ現実的にはどう免責するかというのが精一杯だろう。もしくはこれほどのリスクを抱えるプロジェクトならば、成功するための万全の措置こそがなによりの免責になるはずだ。リスクを抱えていたからアツいのだろうし、じっさい成功したからなおアツいのだろうし、能天気に構えさえすればそれで万事OKということなのかもしれない。